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「まさか——」と、顔をあげる。棚橋さんは首を小さく振り「関係性は分かりません」と言った。


「ラブちゃんは言っていました。すでに公衆電話の太郎くんを試した者、生贄にと名前を言われた者は、もう逃れられないかもしれないと。もしもこの集団パニックが都市伝説のせいだったとしても、ラブちゃんの封じ込めが成功しているならばこれ以上は被害がないはず。自分はそう信じたい。とはいえ、公衆電話の都市伝説を試したせいで死んだのか、検証のしようがないのですけどね」


 S県の女子高生。真矢ちゃんが担当した女子高生の葬儀。それが多分この女子高の生徒なのだろう。だとすれば、時期的にも合う。それに、棚橋さんがいうように、これ以上被害がその学校で出ないのであれば——。


「僕も、そう、信じたいです……。もう、これ以上はないのだと」

「そうですね。ネット上に入り込んだ貓鬼びょうき、別名『公衆電話の太郎くん』は完全に消えたと思いたい」


 はぁー。大きなため息を吐き胸の奥がまたギュッと痛んだ。そうであって欲しい。もうこれで全て終わったんだと僕は信じたい。ぐっと腕に力を入れて身体を少し持ち上げると、骨が軋む音がした。でも大丈夫だ。身体は痛むけれど、歩けないことはない。


 僕は「ラブちゃんのところに連れてってもらえますか?」と、棚橋さんにお願いした。



 ラブちゃんの病室はすぐ隣の個室だった。部屋に入るなり見覚えのある顔が僕を出迎える。背の低い小太りなおばさん。ゲイバーシンデレラの皐月さつきママだ。時刻は昼過ぎ。店に出る前に寄ったのか、濃い化粧と栗色のショートウィッグが殺風景な病室で浮いている。


「カイ君。ささ、ここに座りなさい。あんたはまだ病人みたいなもんだから」


 皐月ママに勧められ、ベッドサイドのパイプ椅子に座る。ラブちゃんはベッドの上で目を閉じていた。僕の目覚めた時と同様、心電図の電子音が小さく聞こえる。ベッドの脇には点滴のぶらさがった銀色のスタンド。鼻には酸素を送るための小さくて透明なチューブがささっている。こんな姿を見られたらきっと嫌だろうな。そう思った瞬間、嗚咽が漏れた。


「ごめん……、ラブちゃん……、僕の、僕のせいで……」


 下を向く。ぎゅっと握った入院服の上に涙がぼろぼろ溢れた。隣に座る皐月ママが僕の背中をさすりながら、「大丈夫だよ」と声をかける。でも、僕は溢れる涙が抑え切れなかった。


「ごめんなさい、ラブちゃん……、僕のせいで、巻き込んで、こんなことになっちゃって……」


 どんどん言葉が口から漏れ出てくる。言葉を吐き出せば吐き出すほど肺の奥が痛い。皐月ママは僕の背中を撫で続けている。棚橋さんは立ったまま何も話さない。俯いて肩を震わせながらしばらく涙を流していると、皐月ママが背中をぽんぽんと叩いた。


「カイ君」と名前を呼ばれ、皐月ママの顔を見る。丸い狸のような顔。派手な化粧を施したママは、濃くて長い付け睫をパチリと動かすと、濁った低音ボイスで「ラブちゃんが目覚めるために、わたし、いろいろやったのよぉ」と言った。


「でも、どれもダメだったの。お店のみんなで大騒ぎしたら病院の人に怒られちゃったしねぇ。それでねカイ君。実はまだひとつ試してないことがあるのぉ」

「試していないこと?」


 棚橋さんの顔を見る。棚橋さんは壁にもたれ無言で腕を組んでいる。皐月ママは僕の手を握り、「王子様のキッスよ」と、真剣な眼差しで小首を捻る。


「おう、じ……?」

「そうよぉ、王子様のキッスよ、カイ君!」


 バシンと背中に衝撃が走り、「ふぇ」っと変な声が出た。皐月ママがニヤニヤと不敵な笑みを浮かべ、「ほらほら、はやく」と顎でラブちゃんの方を指す。状況が飲み込めず、棚橋さんの方を振り向くと、棚橋さんは切れ長の目を結び、無言で頷いている。


「僕が、ラブちゃんに、キスを……?」

「あったりまえじゃないっ! 王子様のキッス! これぞ、王道! これぞお姫様を目覚めさせる最高の魔法よ〜!」


 皐月ママが強引に僕の腕を引き上げて、立ち上がった僕はベッドに寝ているラブちゃんの顔を見下ろした。童話にでてくる眠り姫のように——年齢は置いておいて——髪の毛が美しくベッドに流れている。白い肌。整った顔立ち。皐月ママがしたのか、薄化粧をしている。皐月ママが僕の横に立ち、「綺麗な顔でしょう? まるで眠っているみたい」と意味不明なことを言い、鼻から酸素チューブを外した。


 王子様のキス。僕は王子様でもなければ、ラブちゃんの恋人でもないけれど。でも、それでも。もしもそんなことでラブちゃんの目が覚めるなら——。


 皐月ママがベットの脇にそれた。僕はベッドの手すりに手を乗せて、そっとラブちゃんの顔に近づき、目を閉じて、その額にキスをした。どうか、目覚めてくださいと祈りを込めて。優しくそっと——。


 ——カシャ!


 病室に響くシャッター音。何が起こったのか理解できない僕は、音のする方を見た。ベッドの脇で、皐月ママが「いいわぁ」と悶えている。こんな状況なのに一体何を考えているんだ。ラブちゃんはずっと眠ったままなのに——と、そこで僕はようやく気づいた。


「ラブちゃんっ!」


 ベッドの上。ラブちゃんはダブルピースを決めていた。




 翌日の昼過ぎ。僕は退院し、自宅に戻ってきた。鍵を開け久しぶりに入ったマンションは底冷えするほど寒く、そして、誰も居なかった。


 真矢ちゃんが用意してくれたという入院バッグを床に置き、ソファに崩れ落ちるように寝転んだ。全身の打撲はまだ痛い。ソファーサイドに手を伸ばしリモコンを掴むと、おもむろにテレビのスイッチを入れる。


 日付は年を跨いで一月五日になっていた。お正月特番の名残り混じる情報番組。男性コメンテーターが今年の漢字は——と、どうでもいい話をしている。でも、誰かの声を聞いていたい気分だった。


 ラブちゃんは僕より一日はやく目を覚ましたと棚橋さんから聞かされた。王子様は僕ではなく、どうやら棚橋さんだったようだ。強面の棚橋さんがまさかそんな手を試すだなんて、と思ったけれど、もしかしてそれもラブちゃんの作戦だったのかもしれない。


 ラブちゃんは明日、中国に旅立つ。


 中国の奥地、福建省古田という村へいき、そこでやることがあると言っていた。でも、それで解決するかは分からないとも言っていた。


 ——大体、あんたは普通の女の子なのに、子宮に魔物を取り込むだなんて発想がおかしいのよ!


 ラブちゃんは皐月ママに肩をパシパシ叩かれていた。「綺麗な身体にタツーなんて入れちゃって」と。タツー。多分、タトゥーのことだ。その様子を見て、僕は心底ほっとした。日常がそこにはあったからだ。皐月ママのエネルギーが充満した部屋は、僕の暗くて冷たい心を解いてくれたと思う。


 皐月ママが帰ったあと、ラブちゃんは真剣な顔になり僕に言った。「子供扱いされたくないなら、困った時は助けてと素直に言える大人になりなさい」と。棚橋さんはそれにこう付け加えた。「助けて欲しいと言われなければ、気づくこともできないですからね」と。


 でも。


 僕の家族は誰もいなくなってしまった。

 父さんも母さんも、姉さんも。

 家族に助けてと言えない場合は誰に助けを求めればいいのだろう。

 僕は、天涯孤独だというのに。


 また肺の奥がきゅっと痛み、はあーと溜息を吐きながら大きな窓ガラスに目を向けた。高層マンションの上層階。空しか見えない窓ガラス。昨日とは打って変わって青空が一面に広がっている。


 僕は、ひとり。

 家族はいない。


 でも、それでも。

 生きているならば前を向き、歩いていかなきゃいけない。


 ——離れていても、カイ君はわたしの大事な人なのよ! カイ君がさっき泣いたくらい、あたしもカイ君の事を思ってるんだから。忘れないで。カイ君は決して一人じゃない。


 ラブちゃんの言葉を思い出す。次いで真矢ちゃんのことを思い出した。

 

 ——真矢ちゃん……


 真矢ちゃんは今頃どうしているのだろうか。危険なことに巻き込み、迷惑をかけてしまった。僕からはもう、連絡することはない。それに怖くてラブちゃんに聞けなかった。真矢ちゃんの記憶はそのまま残ってるの? ——と。


 窓の外。澄み切った青空に白い雲がひとすじ走っていく。珈琲のCMが耳朶に流れ込み、僕は豆を挽こうと思いたった。感傷的に浸っていても何も変わらない。日常を取り戻し、未来に向かって歩き始めなくては。


 むくりと起き上がり、キッチンに向かう。コーヒーミルに豆をザラザラ入れていると、僕の部屋のインターファンが鳴った。

 

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