くらげの足跡は瑠璃色の空へと続く。 第6話
息を吸うと肺の中が乾いた空気で満たされていく。鼓膜に触れると疎ましくさえ思っていた蝉時雨が、今日はやけに静かに聴こえた。
あれから三ヶ月が経ち、ついに私の心が限界に達したらしい。
朝、目が覚めた瞬間に、もう今日で終わりにしようという考えが頭の中で芽を出した。もう、ずっと疲弊しきっていた私の心は我ながらよく耐えた方だと思う。
だから、せめてもの償いの意味も込めて心の声に従うことにした。いつものように母には「行ってきます。」と言って家をあとにした。制服に身を包んだ私の行き先が学校ではないことを、今日を最期に私の時が止まるということを、母は知らない。
幾つもの夜を超えてる内に、何度か自分の死に関する未来をみた。
何故、私が死ぬのか。
そして、いつ死ぬのかという日付けまではっきりと分かった。
どうやら私は膵臓癌という病気に侵されており9月3日にステージ4だと宣告され、年を越すことすら出来ずに、私の心臓は動きを止めるらしい。
もう十分だと思った。
わざわざ自分の寿命が尽きるその瞬間まで待つ必要はない。私は今日、自分の人生を終わらせる。
あの未来をみてからというもの、私の人生は暗闇の中を手探りで泳いでいるかのようだった。
死ぬ未来は決まっているうえに、あれだけ胸を踊らせ夢にまでみた高校生活だったが、私はクラスの中で一番の嫌われ者になってしまった。
入学式の日、まっさらな制服を身に纏い、希望に満ち溢れた生徒たちに囲まれて、私は吐き気がした。
私の人生は途中で途絶えてしまうのに、この子たちには長い人生が続いてる。これは嫉妬なのだろうか、それとも憎しみなのだろうか。どちらかは分からない。
でも、そのどちらかの感情が私の心の中に黒い靄を生み出した。
どうせ自分は死ぬのに、友達なんて作る意味ない。
最期に死ぬ瞬間はみんな一人なんだ。
私と同じだ。
心の中で溢れた黒い靄に身を任せ、入学式当日からどの生徒に話しかけられても無視をしている内に、三ヶ月後には誰も私に話し掛けてこなくなった。まるで空気かのように。存在していないものだと、私は思われている。
事実、私は今日を最期にそうなるのだ。
この世から消えてあげる。
心の中で溢れる黒い感情をもう抑えることが出来なかった。
改札を抜けると、お世辞にも綺麗とは言えない古びた階段が視界に広がる。
私は、一歩ずつ踏みしめるようにその階段を登った。ホームから吹き抜ける乾いた風が私の髪の毛をなびていく。隣を歩くサラリーマンは、それにも関わらず服の袖で滲む汗を何度も拭い、今にも暑さで倒れそうだ。
不思議と私は暑さを感じなかった。
これから死を迎える私の細胞や神経は既に動きを止め始めているのかもしれない。
ホームに辿り着くと、見馴れた景色が目の前に広がる。化粧を直す女の人、汗を拭うサラリーマン、そして私と同じように制服に身を包んだ学生たち。
みんな暑さで辛そうな顔をしているが、きっと幸せな人生を送っているのだろう。
私はその中を颯爽と歩いていく。
「間もなく電車が参ります。黄色の点字ブロックまでお下がり下さい。」
けたたましく鳴き続ける蝉の鳴き声を掻き消す程の機械的なアナウンスがホームに響き渡った。
私はその音声が聴こえたと同時に、線路の方向へと足を早めた。
もう疲れた。
自分が死ぬ日付けまで分かってる上に、学校では空気のように扱われる。
こんな人生もう終わりにしよう。
足を動かしながら、今までの人生が走馬灯のように流れた。そう、過去はいつだって私の好きな時にみれる。今まで歩んできた人生は私のものだ。
自分で言うのも何だが、以前の私は人当たりが良く明るい性格だった。中学までは友達だって沢山いた。
あの頃は、今思えば毎日が楽しかった。
未来が、明日が、輝いてみえた。
今とは全く違う。
もう、私は疲れたんだ。
この暗闇から早く抜け出せるなら。
私はどんなことでもする。
鼓膜に触れる電車の音が次第に大きくなってきた。
心做しか肌に触れる風も強くなった気がする。
足の裏から凹凸を踏み抜いた感触が伝わった。
あと、二、三歩。
お母さん、お父さん、本当にごめんなさい。私は、先に逝きます。
心の中で両親への想いをぽつりと呟いた時、身体が斜めに傾いた。
あぁ、これで私は死ぬんだ。
やっと、暗闇から抜け出すことが出来る。
ゆっくりと瞼を閉じた、その瞬間。
左手が何かに掴まれた。
それと同時に線路へと吸い込まれていた私の身体は反動でホームの方へと身体が向いた。
私の左手の先では、学生の男の子が必死な形相で私の手を掴んでいる。その男の子の髪の毛から弾かれた汗が宙を舞い、小さな球体が空へと浮かび上がっていくようにみえた。
私はその球体の行き先へと視線を送ろうとしたその刹那、今までみたこともない未来がみえた。それは、暗闇に堕ちた私の人生を途端に輝かせる程の美しい日々だった。
意味が分からなかった。
私が死ぬ日付けは決まっているはずだ。
死に関する未来は変わらない為、その日以降の未来をみることは出来ない。
だとしたら、今みた未来はそれまでの日々なの?
そう思った瞬間、途端に涙が溢れた。
あまりにも嬉しくて感情が爆発したかのようだった。一度潤んだ目から溢れた涙はもう私の意思では止めることが出来ず、次々と風に乗って流されていった。小さな球体となって。
私は彼の顔をみつめた。
丁寧に整えられた黒い髪は風で揺れ動き柔らかそうだった。そして、一切の汚れのない透き通るような瞳には、私が映っていた。
思わず彼に手を伸ばしたくなって右手を動かそうとした時、途端にものすごい力が左手に伝わり、私はホームの方へと引き寄せられた。その際に態勢を崩してしまい、気付けば仰向けになるような形で倒れ込んでいた。
「何考えてるんだよ!死ぬつもりだったのか?何があったか知らないけど自殺なんてしたら駄目だって!」
彼は、私に視線を向けると途端に眉間に皺を寄せ剣幕を立てている。
当然のことだろう。
私は、ついさっきまで死のうとしていたのだから。
でも、今の私にとっては彼のそんな表情ですら愛おしく感じて、思わず笑みを溢してしまった。
頭の中で、ついさっきみた未来が未だに鮮明に流れている。
「信じられない…。私に…まだ…あんな日々が残っていたなんて…。」
私がぽつりとぽつりとこの言葉を口にした瞬間、彼は口を半開きにし何か不思議な生き物をみるかのような眼差しを私に向けた。
当然のことだろうと思った。
私が、何を言っているのか、どんな心情で口にしているのかなんて分かるわけがないのだ。
でも、私はみたのだ。
美しい日々を、二度と差すことがないと思っていた私の人生に、光を差し込んでくれた瞬間を。
私がみた未来、それは。
目の前にいる彼、そしてその友達二人を加え、私を入れて四人で幸せを分かち合う日々だった。
目の前にいる彼のことを、未来の私は響と呼んでいた。友達二人は拓馬と静香という名前らしい。
心の中で彼らの名前を唱えてみる。
響。
拓馬。
静香。
すると、初めてとは思えない程に自分の中でしっくりときた。
響、拓馬、静香の三人は、いつものように教室で一人でいた私に、一緒に食堂に行こうと声を掛けてくれていた。私は、そんな三人の元へと、子供みたいな無邪気な笑顔を浮かべて駆けていった。
森のトンネルを抜けた先でひっそりと佇む家では、おばあちゃんと呼ばれる年配の女性と一緒に四人でおはぎを口にしていた。
波の音が鼓膜に触れたかと思えば、頭上から降り注ぐ陽の光の下で、四人で海辺にいた。潮風を身体で受け止め、星のように瞬く海を前にしてみんなが浮かべる表情は、この世界の何よりも光り輝いてみえた。
そして、花火大会の日。
私は目の前にいる彼。響とキスをしていた。
未来の私は響のことを心の底から好きになっていたのだと思う。響の横顔をみつめる私の眼差しは、恋をする女の子のそれだった。そして、何かを求めるかのように浴衣の袖から伸びた手が、宙を彷徨っては服の陰に隠れていた。
私は自分のことだからよく分かる。
きっと、響の肌に触れたくて仕方ないのだけれど、自分から手を握る勇気はない。
でも、触れたい。というもどかしさに駆られていたのだろう。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか彷徨っていた私の手を響はそっと包んでくれた。その時の私は、言葉には言い表せない程の幸せそうな笑みを浮かべていたのだ。
不思議な心地だった。
私の目の前で流れた未来の映像は、一瞬で消え去っていったのに、未来の私の感情だけが、心の中に取り残されていったような感覚がある。
私は、ほんの数分前に出会ったばかりの響のことを好きになっていたのだ。心から。
途端に恥ずかしさが込み上げてきて足元へと彷徨わせてしまった視線を、ゆっくりと響の瞳へと持ち上げた。
そして、声を発することなく、心の中で開いた
それまで大切に胸の中に仕舞っていられるように。
君はきっと、どれほど私が感謝しているのか分からないと思う。
今を生きる君にとって、私が抱えた絶望は
君には、感謝してもしきれないんだよ。
この気持ちを口にするのは、少しばかり勿体なく思ってしまう程に。今の私も、そしてきっと未来の私も、心の中は君への想いで溢れている。
暗闇の中を泳いでいるかのような心地で生きていた私に、終わるはずだった人生に、君は新しい命を吹き込んでくれた。
明日を、みせてくれた。
だから、残された時間はそんなに長くないけれど、君と生きる未来に、君たちと過ごす輝かしい日々に、手を伸ばしてみたくなった。
私は君のおかげで、あともう少しだけ生きてみたいって思えたんだ。
ねぇ響、本当にありがとう。
(了)
くらげの足跡は瑠璃色の空へと続く。 深海かや @kaya_hukami
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