私の描きたかったもの。

メイルストロム

Monochrome



 ──ごめん、僕にはこれがあれば良いんだ。


 絵描きらしい格好の男はそういって、くしゃりと笑いながら一本の鉛筆を掲げた。彼が掲げたのは何処にでもあるような無銘の鉛筆で、塗装も所々剥がれているちょっぴりくたびれたもの。

 その手の小指側は真っ黒になっていて、私がくすりと笑うと彼は恥ずかしそうに背を丸めてしまう。癖っ毛から覗いた耳は真っ赤になっていて、なんだか可愛らしかった。


 ──ねぇ、絵描きさんは何を描こうとしているの?


 ふと思った疑問を口にすると、彼は振り向き難しい表情を見せる。なにか不味いことを聞いてしまったのかと不安になった頃、彼は迷うような声で語り始めた。


 彼曰く、自分にも描きたいものがどんなものなのかよく解っていないのだと言う。ただ漠然と、誰もが安心できるような優しいなにかを描きたいと言う想いだけが胸にあるとの事だった。

 それは物心着いた頃からあるものであり、時間を見つけてはスケッチブックへと書きなぐっていたらしい。そんなわからないなにかを描き続けた軌跡スケッチブックは遂に四桁を越える事となったが、未だ描きたい何かの全容は掴めていないのだと言う。


 ──だからその……迷惑でなければ、君の思う優しいものを教えてくれないか。


 小さなため息の後、彼は迷いと諦めに似た何かを秘めた声で聞いてきた。私は少し考えてから、思い付く限りの優しい物を伝えてみる。例えば、子猫や子犬といった小さくてもふもふした可愛らしい生き物の感触。皆が幸せになるようなお伽噺とぎばなしや純愛をうたう喜劇について、私が経験したことのある優しいものを話してみた。

 彼はそれらをメモ帳に書き記しつつ、要所要所に相槌を挟みつつ質問を投げ掛けてくる。

 そんな彼の表情は、先程までの顔付きが嘘のように思える程明るく真剣なものになっていた。だから私も知らず知らずの内に熱くなっていたのだろう。気付けば日は落ち、空には星々が輝く時間になっていた。


 ──ありがとう、こんなに良い刺激を受けたのは久しぶりだ。


 彼はくしゃりと笑い、鉛筆の芯で汚れきった手を差し出してくる。その手を握り返して二、三言葉を交わした後に私達は別れた。帰り道、彼との会話を反芻しつつ考えていたのは真っ白なキャンバスにどんなものが描かれるのだろうと言う興味。会話の最中に見せてもらった下書きはどれも精巧で緻密、だけど繋がりきってはいない印象を受けた。それは恐らく、テーマの欠落もとい全容の不明瞭さから来るものだろうか?

 一体彼がどんなものを描くのかを私なりに考え、その日は眠りに落ちた。



 ──あの日から私は時間を見つけては彼の所へ赴き、他愛のない話をしたりするようになっていた。話をせずに彼が描く姿を見ることもあったし、近所の公園へ行くこともしたけれど……結局彼のアトリエに居た時間が一番多かったと思う。

 そんな日々が五年程続いたある日、彼は一枚のキャンバスを見せてくれた。M120(1940×970)サイズの巨大なそれに描かれていたのは、全てが白と黒で構成された1つの世界。

 一見すれば淡白で細く儚い印象を受けるが、暫く見続けていると味わい深く柔らかな温もりのようなものを感じさせてくれたのだ。そんな不可思議な絵に色が着いたのなら、一体どんなものになるのだろうかと想像した矢先に──


 ──この世界は、これで完成なんだ。


 と、満足気な声で彼がそう呟いた。

 この白黒の世界が、色のない世界が貴方の描きたい優しいものだっのか。その事実に一瞬だけ、本の一瞬だけ裏切られたような錯覚を覚えてしまった。


 ──僕はね、君と過ごして思ったんだ。

 優しいものなんて、人によって全く違うんだってね。だから誰もが安心できるような優しいなにかを描くのなら、色のない抽象的な世界を描くしかないと思った。

 ……人によってはこんな下書Kartonにも見えるものは作品じゃないって、怒られるかもしれないけどね。


 そういって、彼はまたいつもと同じようにくしゃりと笑う。

 色のない世界に、どうしたら優しいものを見出だせるのだろうか。彼の言うとおり、下書にも見えてしまう色のない世界を私はどういう風に受けとれば良いのだろう。


 ──この色のない世界に、色を付けるのは君達の仕事だよ。

 どうか君の思うまま、この世界に優しいものを見出だして色付けて欲しいんだ。



 彼はそう言うと、“下書 Karton ”の二文字が記された題標をキャンバスの下へと吊るしたのだった。




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私の描きたかったもの。 メイルストロム @siranui999

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