14.捜査一課のアイルトン・セナ

「……そうか。そうだったんだな」


 あれから数日後。ここは横須賀刑務所の面会室。

 ガラスの衝立を前に翠は少し俯いた。その表情にはさまざまな感情が混ざっていて、一概にどうとは言えない。

 小弦が生きていたという安堵に、彼女が罪を犯してしまった悲しみ。

 そして


「はい。蒼さんは、しっかり約束を守ってくださいましたよ」


 自分との約束のために命まで投げ出した姉への、言葉にできない思い。

 絡まったそれらは、一つ一つ解いていけばどのようなものか分かるのかもしれない。

 しかし、


 こればっかりは、未解決でいいんだろうな……


 衝立を挟んで翠の向かい、高千穂は表情を読むのをやめた。

 今は『蒼は約束を果たし、その事実を翠が受け取った。彼女の名誉は回復されたのだ』それだけでいい。

 翠がその事実を噛み締めるためにしばらく黙っていてやると。

 彼はゆっくり顔を上げて相手を見据えた。


「それで、小弦はちゃんと逮捕されたのか?」


 その表情や声に、恨むような色は少しもない。

 が、彼女もそれに軽く乗っかるほど、陽気でも無神経でもない。わざと一段低い声が選ばれる。


「えぇ。先輩には悪いですが、さすがに見逃すわけにはいかないので。あと重黒木さんも逮捕しました。もう前回のように偽証を見逃すほど、私も甘くはなくなったのです」

「そうか」

「私も警察官ですから。お恨みなきよう」

「そうだな……」


 翠は高千穂から少し目を逸らした。両手を組み、軽く揉み合うように動かしている。

 何か思案しているような。自分の思いをうまく伝えるには、なんと言うべきか。言葉を探しているような様子。

 しかし彼女が急かさず、けれども目を逸らさずに見守っていると。

 彼は意を決して高千穂を見つめ直した。

 彼女も目を逸らさない。いや、逸らす資格がないと思った。


 なんとしても小弦さんを守りたかった先輩だ。姉を失ったうえで彼女まで奪われては、恨み節の一つもあるだろう。

 それを受け止めるのが警察官としての義務であり。

 彼が言っていいのか迷った末に、やはりどうしても言わずにいられなかった悲しみ。

 流さないのが人としての義務だろう。


 そう思った。


 だからこそ、相手が気兼ねなく怒りや悲しみをぶつけられるよう。そのことに罪悪感を感じないよう。

 私はいつもどおり余裕ぶって、挑発的な雰囲気で真正面から向き合おう。


 そう思った。だからこそ



「辛い、思いをさせたな」



「は?」



 何を言われているのか、高千穂には理解できなかった。

 しかし翠は翠で、彼女の状態を分かっていない様子で続ける。


「おまえだって蒼姉ぇのこと慕ってたし、小弦とも仲良くやってた。それを逮捕したり、命を使ってまでやろうとしたことを覆さなきゃいけなかったり。辛いことだったよな。すまなかった」


 深く頭を下げる翠に対して、高千穂は完全に脳が処理能力を失いかけた。頭の中が熱い。


 ダメだ、このまま熱に飲まれてはいけない。

 なんだかよく分からないけど、私はそれを

 なんて言い方も似合わない。


 もっと子供のように、


 彼女はありったけの理性と論理、信念を総動員する。


「そんなことはありません。私は先輩を逮捕した時、蒼さんを見逃した。しかしそれは意味のない行為でした。一人見逃せばその分悲劇が薄れる、なんてことも。その分誰かが何かが救われるなんてこともなかった。引き裂いてしまった家庭が美しいまま保たれるわけでも。悲しみで崩れた小弦さんの支えになるでもなかった。私の行いはただただ、法に、警察の信念に。今まで逮捕してきた人たちに不誠実なだけだった」


 高千穂が精一杯悪辣に語るのを。しかし努めて低くしていた声が、少しずつ温度を持ち始めるのを。

 翠は静かに頷きながら聴いている。

 真正面から聴いている。

 受け止めようとしてくれる相手がいれば、人の心は止まらない。


「だから私は誓いました! もう二度と同じことはしない! 犯人が誰だろうと、どんな事情があろうと! 必ず犯行を暴く! そして逮捕し、法の下に裁きを受けさせる! それが唯一、救いにはならなくとも誠実な行為であると信じて!」


 余裕ぶっていよう、相手の思いを受け止めよう。

 そんな考えはもうどこにも残っていない。

 ただただ自分の感情より信念を宣言できるのが、唯一の理性。


「だから私はそれに従ったに過ぎません! 蒼さんがあなたとの約束を守ったように、私は私との約束を守った! 自分のために! それだけのことです! そこに辛いだとかなんだとか言われることはありません!」


 しかし翠は、それに納得するどころか。

 深く悲しむ顔を見せる。


「……そうか。オレの事件の時から。オレが『蒼姉ぇを見逃してくれ』って頼んで、本当にそうしてくれた時から。おまえはずっと苦しんでたんだな。蒼姉ぇに『小弦を守ってくれ』って頼んでこんなことになっちまったみたいに。オレは自分の頼みで、おまえの心まで深く長く縛り付けて……。本当に申し訳ない。ごめんなさい」

「そんな話をしてるんじゃありません」

「オレの罪を許してくれとは言わない。でも、『そんな急に勝手なことを』って思うかもしれないけど。もうお前を解放してやってくれ。もういいんだ」

「そんな話をしてるんじゃない!!」


 何がそんなに怖いのか。

 怯える高千穂の心は、堪らず揺れを吐き出した。


 自分の根幹にある誓いをつつき回されるのが怖いのか?

 また同じ過ちを繰り返すかもしれないのが怖いのか?

 迷い苦しんだ過去を突き付けられるのが怖いのか?

 素直になるのが怖いのか?

 人前で泣くのが怖いのか?


 彼女は知らずに息が切れ、肩を上下させている。

 翠はその姿を憐れむように、労わるように見つめる。


「おまえ、そんなに苦しそうな顔してるのに。ずっとずっと苦しんできたのに。今だってすごく苦しい事件に苦しい決断をしてきたのに。辛いとか悲しいとか言わないんだな。泣いたり、しないんだな」


 別に彼が何か悪いことをしているわけでも、言っているわけでもない。

 だが高千穂には、睨み付けるような視線を送ることしかできない。


「当たりまえです。いつだって殺人事件には残された遺族の方が、誰より悲しい思いをしている方がいる。だというのに私が、警察官が暢気に泣く権利なんてない! だから私はあなたの前で。自分より悲しい人の前で泣くような真似は、しません」

「そんなこと言ったっておまえ、今のおまえより……」


 翠は優しく手を伸ばす。その手はガラスに阻まれて届かないが。

 ペタリと張り付いた掌が、確かな温度を伝えてくる。



「泣きたいのに泣けないより、悲しいことってあるかよ」



「あ……」






 そうか。私はただ子どもで、たった一度間違えて深く傷付いているうちに、






 自分を許すのが怖くなっていただけなんだ。

 自分に『いいんだよ』と言ってあげるのが。






「あ、あぁ、あぁ……」


 高千穂は両手で鼻と口を、目を、顔全体を覆った。

 それでも隠せないほどの涙と嗚咽おえつが、止めどなく指の隙間から溢れた。

 しかし、



 それをあえて止めようとする者は、その場には高千穂も含めて、もう誰もいなかった。






 あれから一週間ほど経ったかどうかのある日。

 実は冬の季節というのは、晴れている方が寒い場合もあるらしく。それを肌に突き立ててくるような気温である。

 雲が少ないためよく見える、青空の抜けるような色合いも寒々しい。なんなら雲代わりに空へ、真っ白な吐息を浮かべてやりたいような光景。

 そんな空の下にある警察署から、一組の男女がゆっくりと歩み出てきた。

 女性は男性の腕をつかみ、移動を彼が導くのに預け切っている。

 おそらく目が見えていないのだろう。だから男性の方もゆっくり小股に歩き、丁寧なエスコートをしている。

 そのまま男性は彼女を駐車場まで連れていく。

 車の後部座席のドアを開けながら、一つ確認を取った。


「それでは、ご自宅ではなく湘南の方へお送りすればいいんですね?」

「はい。そちらでお願いします」


 女性は軽く頷くと、見えないはずの目で空を見上げた。

 見えない代わりに鋭敏な他の五感で、何かを感じ取っているのかもしれない。

 たとえば、春が訪れる予兆とか。


 しかし彼女が、特にそれが何だとか答えを宣言することはなく。

 後部座席へ体を滑り込ませた。

 すると男性がドアを閉めて運転席に入り、ほどなくして車は敷地を出ていってしまう。


 彼女を乗せた車が、冬独特のトゲがない日差しの中進んでいく。

 それを見送った高千穂は、壁から背中を離した。


「ん……」


 先ほどの女性の影響か、彼女もなんとなく視線を空へ向ける。

 そんなに強い日差しではないながら、今日はよく晴れているだけのことはある。曇天続きだったこの頃とは、感じ方が別物である。

 高千穂はヘルメットを目深まぶかにして目を細めた。


「いい日だ」


 本当にそう思っているのか、皮肉なのかよく分からないが。

 少なくとも機嫌は悪くなさそうな調子でうそぶく彼女。

 季節の雰囲気にあてられたか。した足取りで自分のベスパへと向かう。






 高千穂がベスパに跨りエンジンを掛けると。

 ちょうど玄関の自動ドアが開いて、中から松実が飛び出してきた。


「やぁ松実ちゃん」

「ちょっと千中さん! 探しましたよ!? どこ行くつもりなんですか!」

「小弦さんを見送ってたのさ」

「で、そのあとどこに行こうとしてたか聞いてるんです」

「別に? 報告書まとめなきゃだから、鹿賀先生に意見もらおうと思って」

「まだまとめてなかったんですか!?」


 驚愕の松実に対して、彼女は目を閉じ両耳の穴に小指を突っ込んでいる。

 聞く耳を持たなそうだし、「じゃあおまえが代わりにまとめろ」と言われてもめんどくさい。

 彼もこれ以上この話題を追求するのはにする。


「ところで。小弦さんと言えば彼女、どうなったんですか?


 松実の質問に高千穂は、ハンドルから手を離し腕を組んだ。

 無駄に難問ぶってみせるジェスチャーだが、本人の顔に特別思い悩む様子はない。


「そうさねぇ。この分だと、十中八九正当防衛を覆せないだろうってことでね。検察が不起訴処分にしたみたいだよ。だから今日で正式に勾留も終わり、宮沢くんが湘南に送ってった」

「それはよかったですね!」

「それにさ、今さっき見たんだけど変な話。本人も目に力があってね。うん、大丈夫そう」

「そうですか」


 一瞬はしゃぐような様子を見せた松実も、それを聞いて穏やかに笑った。

 が、そういう大人な感じが長続きしないのが彼という人間である。

 すぐに茶化すような笑顔を浮かべる。


「もしかして高千穂さん、最初からそれが分かってて小弦さんを逮捕しました?」


 対して彼女は首を左右へ振る。微笑んではいるので、咎める気があるわけではなさそうだ。


「うふふ。そんなんじゃないよ」


 首筋を嬲るような北風。見えないそれを目で追うように彼女は視線を動かす。


「ただ信念に従っただけ


 松実から表情は見えない。ただ風にそよぐ後ろ髪が見えるばかりである。

 それがなんだか優しいようにも切ないようにも見えて。

 彼は思わずセンチメンタルになった。


「でも、正当防衛を考えると、蒼さんと重黒木さんは……」


 高千穂もどこかを向いたまま頷く。


「うん。しなくていい偽装のために罪を犯したり、命を捨てたりしたことにもなる」


 相変わらず表情は見えないが、松実の位置からでも。

 彼女が目深に被ったヘルメットを、より目元を隠すように下げたのは分かった。


「でも、現実では正当防衛が認められるケースなのに。本人がそれを知らず、不利な証言を引き出されるケースも多い。今回は事件が複雑化したから、我々がしっかり捜査することになって……。より正当防衛がはっきり見えるようになった……のかもしれない。だとしたら無駄じゃなかったと……。うん。思うんだ」


 本当に高千穂がそう思っているのかは分からない。

 だが彼は、それを考えないことにした。

 せっかく彼女の表情が見えないのだから。


「確かに過剰だったり、先走ったりした愛情だったかもしれないけれど。それが小弦さんを守ってきたことに変わりはない。そのおかげで今までの彼女がある。そのぬくもりが、これからの彼女の心を支えるんだ」

「はい……」


 これは誰に言っているのか、独り言なのか。

 判別がつかないので、松実は相槌を小声に留めておく。


「それにこれからは、また違う人が小弦さんを守っていくさ。そしたらいつか、今度は彼女が誰かを守る人になる。それこそ、全てを投げ打ってでも」

「そうなったら、素敵だなぁ」


 小さく呟くと、高千穂は彼の方を振り返った。

 今度は明確な会話のようだ。

 彼女は明るく笑っている。


「なるさ。人間、有史以前からずっとそうして、ここまで命を紡いできたんだから」

「ですね!」


 松実も大きく頷いてみせる。

 が、こういう時。すぐ空気を読めないことが頭に浮かぶのが、彼という生き物である。

 松実は首を傾げて、余計な疑問を呟く。


「……でも、守ってくれる人がいない人は。どうしていけばいいんですかね」


 明らかなマイナス発言だが、高千穂は咎めることなく。

 代わりに彼の額を人差し指で軽く押す。


「そういう人のために、松実ちゃんがいて私がいる。そういう人のために我々警察官がいる。そういうことじゃないのかな?」


 めずらしく彼女の笑顔がニヤニヤではなく、どこまでも優しい。

 が、空気を読まないのが(以下略)。


「似合わないこと言ってるなぁ。そもそも殺人課は被害出てからが仕事だし」


 ここまで松実を咎めなかった高千穂だが。

 さすがに今度は無表情のノータイムで、松実の脛にローキックを飛ばす。


「あああいったあああああ!」


 愚か者が脛を抑えて悶えていると


『♪ポンポコポコポコポポポポポン』


 彼のスマホが軽快な音楽を奏でる。

 痛みが引いたわけではない松実だが、ここは素早く切り替えて電話に出た。


「はい、松実です。はい、はい、駐車場です。千中さんもいます。はい。……事件ですか!? 分かりました! 現場に急行します! はい! 失礼します!」


 松実は通話を切ると、


「千中さん!」

「はぁい」


 もうすっかり痛みを忘れたようだ。

 興奮気味で、たった今聞いた電話の内容をそのまま繰り返す。


「事件です! 現場は港区青山みなとくあおやま! 望月もちづきビル二十四階に入っている、株式会社なつめイノベーションのオフィス! 資料室で男性社員が頭から血を流して倒れている、と同僚の方から通報が!」

「それはまた大層な」


 彼女は大層だと思っていなさそうに肩をすくめる。


「我々も現場に急行せよ、と!」

「はいはい。じゃあ私は先に行ってるね。遅れないでよね」


 高千穂が跨っているベスパをそのまま発進させようと、ハンドルへ手を掛ける。

 松実は咄嗟にその手首をつかんだ。


「待ってください! 絶対パトカーで行った方が速いですから! 何よりベスパにナビ付いてないから、現場がどこか分からないでしょ! こっちが『遅れないで』どころか、千中さんがいつ到着するか分からないんだから! 今日こそはパトカー乗ってください!」

「えー?」

「えーじゃない!」

「うふふ」

「うふふでもない!」


 彼は「僕は呆れています」を全身でアピールするために腕組み。鼻から大きくため息を吐く。


「千中さん、本当パトカー嫌いですね。それともベスパが好きすぎるんですか?」


 対する高千穂は、ニヤニヤしながら両手で鼻と口を覆う。


「そりゃそうさ。なんたって私は……


 ドライブを楽しむか速く移動するのが一番かって言われたら。



『捜査一課のアイルトン・セナ』だからね」



「だからいつも意味が分かりませってあああああ!!??」


 松実が手を離している隙に。

 高千穂は一気にベスパのエンジンを噴かせ、走り出してしまった。



「ちょっと待って! 千中さん! 千中さあああああああん!!」

「うふははははは!」



 ぐんぐん逃げ去っていく黄色いベスパ プリマベーラを、松実はパトカーに乗るのも忘れて追い掛けていくのだった。






          ──白雪姫とシンデレラ 完──


        ──捜査一課のアイルトン・セナ 完──

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捜査一課のアイルトン・セナ 辺理可付加 @chitose1129

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