君だけのラストノート
藤咲 沙久
金木犀の君
「急に辛気臭い顔しないでよ、
人が思い耽っているというのに、情緒も何もない茶々が投げ入れられた。しんみりとか、切なげとか、他に言い方がなかったんだろうか。そんな抗議を込めて小さく咳払いをした。
そもそも先輩は、僕にコーヒーを奢るために休憩室まで来たことを思い出して欲しい。そしてそれは先輩がデータを吹っ飛ばしたことによって生じた巻き添え残業のお詫びだと、よく思い出して欲しい。けど、胸がキュッとなったのは何も残業が嫌だからではなかった。
「……
「こんな時間の割に、ちと暑いんだもの。もう秋だってのにね」
窓枠には定時を過ぎてすっかり暗くなった空が収まっている。あとは向かいのビルと、低木が並ぶ裏通り。そこから、風に乗ってふわりと秋の香りが漂ってきていた。優しく思い出を掠める甘い匂いだった。金木犀だ。
新卒で入社してから秋は三度目。そこに木が植わってることすら、僕は今まで認識していなかった。
(裏は普段通らないし、事務所の窓も反対側だし……。こんな近くで咲いてても気づけないものなんだな)
小さなオレンジの花は暗くて見えないけど、存在感は二階の高さにもほんのり届いている。これと同じ匂いをまとった思い出が不意に呼び起こされた、というのが「辛気臭」くなった理由だった。
僕が浸っている間に香りを感じたのか、先輩が小さな鼻をスンッとさせた。そのままこちらを向いて、またあちらを向く。
「ちょっと先輩。外と僕を交互に見るの止めてくれますか、しかも無言で」
動きに併せて、首元で茶色の毛先がゆらゆら揺れている。見比べ過ぎだ。そして先輩はニヤリと笑った。
「なあに青野君たら。もしかして金木犀? 金木犀の香りに思いを馳せちゃったの? あっは、乙女か~!」
「先輩の! そういうデリカシーのないところ、好きません!」
「いいよぉ、青野君は好き嫌いで仕事しない良い子だもの。可愛い後輩を持てて先輩は嬉しいぞ。で、なになに。笑わないからさ、どんなお話か聞かせてってば」
「先輩と違っておしとやかで、先輩と違って儚げな女性の話がそんなに聞きたいですか」
「あっは、青野君も中々言うよね! 構わん聞こう!」
聞くのかよ、と目だけで突っ込みを入れるが効くわけもなく。この先輩のペースにはいつも敵わないのだ。僕のため息も慣れたものだった。
「本っ当にあなたって人は……。あー、つまんない話ですよ。大学図書館で、決まって同じ席で本を読んでた方なんですけど。名前も学年も知りません。会話どころか、正面から顔を見たこともなかったから」
あの日、彼女の斜め向かいに座ったのは偶然だった。ふと季節外れの良い香りに気づき顔を上げた先、そこでようやく存在を気に留めたくらいだ。背中まである艶々の黒髪がとにかく綺麗で、ノンフレームの眼鏡がまた理知的だった。
何日か繰り返すことでわかったのは、どうやら彼女が香水をつけているようだということ。本に夢中になってフッと微笑む瞬間、より印象的に香ること。それが金木犀だった。
「もう、なんていうか、一目惚れです。清楚で優美で可憐。でも声かけるなんて出来なくて。その内来なくなったから、上級生だったか、僕がチラチラ見てるのがバレたかどっちかなんです……。ウッ、切なさでツラい」
恥ずかしさを誤魔化したくて最後に少しおどけたのに、先輩は約束通りというか、笑わなかった。ここはいっそ笑って欲しかった。
ともかく、以来僕にとって金木犀は失恋にも満たない“憧れの思い出”を連想させる香りとなったのだ。自宅周りや通勤路にはないものだから、最近ではすっかり忘れていたのだけど。やはり、匂いがすれば記憶は蘇るものらしい。紐付けられているということか。
「……青野君って大学どこだっけ」
先輩の問いは唐突だった。何に関係があるのかわからずきょとんとしてしまう。笑わないどころか、ちょっとだけ神妙な面持ちなのはなぜなのか。もしかして普通に引かれてますか僕。
「
「ううん。聞いただけ、聞いただけ。そっか、なるほど“金木犀の君”かぁ。おっしゃれじゃん、印象の残り方」
頷きながら、またいつもの軽い調子に戻る先輩。まるで源氏物語にでも出てきそうな呼び名に、それこそお洒落だな……なんて妙に感心してしまった。僕には思い付かないセンスだ。
ただ、学生時代はギャルでしたと言われても違和感のない楠木先輩である。事実は知らないが、失礼ながらなんともアンバランスに感じられた。
「あ、でも。金木犀……のはずなんですけど。なんとなく物足りないんですよね、本物だと。微妙に違うというか」
「そりゃそうでしょ。あくまで香水なんだから、本物とまったく同じってわけじゃないし」
「や、金木犀自体は本当によく似てて。なんて言ったらいいかなぁ……後味、みたいに、最後に何か……」
どちらかと言えばスッキリとした、甘味の後を締める、他の何かがあったような。だけど強いわけじゃない。あれはなんだったんだろうと改めて首を捻った。正直、深く考えたことがなかったのだ。
いい匂いの人。憧れの女性。そして淡い恋心。僕に残っていたのは、そんな馬鹿みたいにシンプルなものばかりだった。
「うーん、ラストノートだったりとか?」
「ラス……なんですって?」
耳慣れない言葉を聞き返す。何か香りの名前なのかと思ったが、先輩曰くどうやら違うらしい。
「ラストノート。香水には時間の経過で香りが変化するものがあってね、最後に香るのがそれ。メインの金木犀が薄れて、次の成分が香り始めててもおかしくはないってとこかな」
「んん……細かいことはよくわからないです。すぐ傍で嗅いだわけじゃないですし」
「だよねぇ。私もそんなラストノートに覚えがない」
「いや先輩はそもそも知らないでしょ、その香水」
何を惚けたことを言っているんだこの人は。呆れる僕を余所に、先輩は下手くそな口笛を吹いた。なぜ出来ないのにやったというレベルで下手だった。
「でもまあ、そっかそっか。青野君は若い頃の私が好みか~。んふふふふふふ。やっぱり可愛い奴よの」
突然再開したニヤニヤ笑いに、僕は力一杯「はあ?」と返してやった。先輩が彼女みたいだったとは思えないし、逆に彼女が先輩みたいになるとも思えない。重ねて言おう、あの人は先輩よりおしとやかで儚げなのだ。声は聞いたこと、ないけど。きっと小鳥のさえずりみたいな話し方なんだろうな。
「好みとか一言も言ってませんし、だいたい若い頃の楠木先輩を知りません。知ってても惚れません」
「まあまあまあ。もうあんまり可愛いから、ご褒美に飴をあげようね。美味しいよミント味。私、昔から大好きなの」
さあお食べ! と楽しそうに促されるまま、受け取った包みをほどく。しかしそちらに気を取られてる間に、先輩はひらりと休憩室を出て行ってしまった。いや確かに残業があるからもう戻らないといけなかったけど。よく、よく思い出して欲しい。
「ま……まだコーヒー奢られてませんけど?!」
うっかり飴玉を溢さないように気を付けながら叫ぶ。本当になんでここへ来たと思っているのか、あの人は。
(……う?)
ため息の反動で吸った酸素が、薄荷を伴って爽やかに鼻を抜けていく。僕は咄嗟に窓へ近づいて甘い香りを確認した。そうっと深呼吸をする。金木犀へほのかに混じる、ミント。
──ラストノートだったりとか?
本当にそうだった可能性はある。でも、もしも。彼女の香水にアクセントを乗せていたのが薄荷だったなら。ページをめくる動きで揺れる金木犀と、微笑む口元で溶けるキャンディとの混ざり合いだったなら。お菓子を味わいながら読書に勤しむ“金木犀の君”を想像して、彼女が急に可愛らしく感じられた。
香水は、つける人によって個性が出るという。本来の香りへ添えられたミントが独特な魅力となって、彼女だけのラストノートを生み出していたのかもしれなかった。
(……あの人は今も、香水をつけているんだろうか)
考えたって仕方のないことだ。もう会えない人へ余計な想いを募らせてしまいそうになり、僕は慌てて窓を閉めた。
「待ってくださいよ、楠木先輩!」
今夜は長い残業になりそうだ。覚悟を決め、後ろ姿だけは可憐な先輩の背を急いで追いかけることにした。
君だけのラストノート 藤咲 沙久 @saku_fujisaki
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