第19話 思い出の鮮度
「どうした?」
スマホから声が響く。夜の静けさの中でやけに耳に残る声だった。
「……いや、ちょっとな」
歩道の隅で立ち止まったまま、俺は向かい側の歩道をじっと見つめる。さっきまでそこにいた女子の姿はもうない。
「今、友人とすれ違った気がした」
スマホの画面をちらりと見る。ディダルが音声とともに動いていた。
『ほぉ、そりゃよかったな。で、誰だ?』
「胡桜綾って奴」
『中国人か?』
「高校二年のときのクラスメイトだ。中国からの留学生……だっかな?」
『へぇ。どんな奴だった?』
「んー、アニメや漫画が好きで、作品によっては一緒に語ってたりしてたかな。日本語もほとんどネイティブ並みで話してて違和感はなかった」
『なるほど。日本語が流暢なのは、アニメの影響か?』
「どうだろう? 留学するくらいだし、結構金持ちの家庭なのかもな。それで小さい頃から日本に旅行して身に付いた、とか?」
『ほぉ、それだけ話してたならそこそこ仲良かったんだろ?』
「まぁな。ただ、別に休日遊ぶ関係ってわけじゃなかったけど、休み時間にはよく話してたよ」
『へぇ。どんな話してたんだ?』
「他愛もないことばっかだよ。授業の文句とか、アニメの話とか、学食のメニューが微妙だったとか。普通に友達として接してたって感じだな」
『じゃあ、日本人と接するのとほとんど変わらない感じだったわけだ』
「そうだな。向こうが日本語喋れたおかげで、言葉の壁なんてまるでなかったし」
『それでそいつがどうしたんだ?』
「いや、急にいなくなったんだよ。確か、夏休み前後にはもう帰国してたような……」
『急だな?』
「そうなんだよな。俺からしたら前触れもなく突然って感じだった。向こうの学校の都合か、留学の制度の都合か、それとも情勢の問題か……理由はよくわからなかったけどな」
もう十年以上前のことだ。思い出の鮮度が悪くて詳細を思い出せない。
『なるほど。で、本当にそいつだったのか?』
「さぁな。顔をちゃんと見たわけじゃないし、そもそもこの時間にこんな道を通るか?」
『確かにな。お前が通っていた高校からこの辺りまではかなり距離があるしな』
ディダルがククッと笑う。
『しかし、お前が気にするってことは、それなりに思い入れがあったってことか?』
「まぁ、そりゃ思い入れはあるけど」
弥生やムベと違って、二度と会えることがないと思っていた思い出の友人が目の前に現れたかもしれないのだ。そりゃ気にもなる。
そして、最近バタついていて忘れていたが、高校つながりで別の人物の名前も頭をよぎる。
「望……」
『ん? なんだ、また別の奴か?』
「高校時代からの親友だよ。向山望。向こうで初詣に俺と一緒に来てた奴いただろ。あれ」
桜綾とは違い、望とは深く付き合っていた。卒業後も長い時間を共にし、たわいもない話をしてくだらないことで笑い合っていた。
『あぁ、いたな』
「この前、記念館を見に行ったときに話したものぐさな親友が望ってわけ。でも、こっちの望はどうしてるんだろうなって思ってさ」
この世界では、俺は漆輝として生きている。けれど、並行世界の望がどうなっているのかは知らない。
『なるほど。確かめてみたらいいじゃないか』
ディダルが軽い調子で言う。
「それなー」
適当に流したものの、内心では明日動いてみるつもりだった。もしかしたら、この世界の望はどこか別の場所で生活しているのかもしれない。
夜の冷たい空気の中、家の前まで戻ると、窓から明かりが漏れていた。玄関のドアを開けると、家の中からいい香りが漂ってきた。出汁の効いた温かい匂い……鍋か? 思わず腹が鳴る。
「ただいま」
靴を脱いでリビングへ向かうと、ソファに寝転がっていた洸輝が顔を上げた。
「おかえりー」
「おう」
鞄を置き、肩にかけていた景品袋をテーブルにドサッと置いた瞬間、洸輝の目が輝いた。
「え、なにこれ?」
「クレーンゲームで取ったやつ。やるよ」
「まじ? 漆輝にしちゃ気前いいじゃん」
「俺はいつも優しいお兄様だろ」
「いや、それはない」
洸輝は即答しながら袋を漁る。
「うわ、なつっ! このチョコバー、昔めっちゃ食ってたやつじゃん」
「だろ? たまたま取れやすい台を見つけたから取ってきた」
「たまにはやるじゃん」
洸輝がチョコバーを手に取りニヤリとする。
「いつもやるんだよなぁ」
「ならもっと乱獲してこいよ」
「うるせー、くれてやるんだからありがたく思え」
「消費してやってるんだからありがたく思え」
そんなやり取りをしていると、キッチンの方から母の声がした。
「もうすぐご飯できるから、手洗ってきなさいよー」
「うーい」
洗面所で手を洗いながら、鏡で右目を確認する。
「灰色のままか」
まぁ、考えても仕方ないか。なるようになるだろ。
食卓には湯気を立てる鍋が置かれていた。豚肉、豆腐、春菊、キノコ、そしてたっぷりの白菜。出汁の香りが食欲をそそる。
「やっぱ鍋はいいねぇ」
「寒いからね」
母がカセットコンロの火を調整しながら言う。
「いただきます」
「いただきまーす」
洸輝がさっそくおたまで出汁をすくい、器にいれる。そして勢いよくすすった。
「んまっ!」
「お前、猫舌なのにそんな熱いのいくなよ」
「だって美味そうだったんだもん」
俺も春菊を取って口に運ぶ。しっかり煮込まれた春菊は柔らかく、香味野菜特有の香りが口に広がる。
「うまっ」
「でしょ?」
母が満足そうに頷く。
「そういえば、洸輝。最近部活どうなの?」
母が聞くと、洸輝が箸を止める。
「あー……まあまあ?」
「まあまあってなんなの。楽しい?」
「うーん、楽しくないわけじゃないけど、最近ちょっと微妙」
「なんかあった?」
「いや、別に事件とかじゃないんだけどさ……」
洸輝は少し考えてから、ぽつりと続けた。
「最近、同級生がやたら俺に質問してくるんだよ。練習の仕方とか、コツとか」
「いいじゃん、頼られてるじゃん」
「まぁ、そうなんだけどさ……俺、そんな教えるの得意じゃないんだよなぁ」
「洸輝もそういう立場になれたのか」
俺が感慨深げに言う。
「そういうのって、慣れてくしかないね」
母が言うと、洸輝は微妙な顔をした。
「えー、めんどくさい」
「俺も昔、後輩に質問されたとき最初は困ったけど、俺より出来てたところ褒めたらなんとかなった」
「それ、参考にならないやつ」
「まぁ、なるようになる」
「うーん……まぁ、もうちょい気楽にやってみるわ」
そんな話をしていると、玄関のドアが開く音がした。父が帰ってきたらしい。
「ただいま」
「おかえりー。遅かったから先始めちゃった」
「お、鍋か。いいな」
父も食卓につき、食事を始める。洸輝の部活の話はまだ続いていて、気付けば父まで巻き込まれていた。
食事が進むにつれ、話題も変わっていく。
「そういえば、今度の週末、買い出し行くけど、一緒に来る?」
母がふと思い出したように言う。
「どこ行くの?」
「ちょっと遠いけど、ショッピングモール」
「あぁ、あそこか」
洸輝が箸を動かしながら興味を示す。
「漆輝は行く?」
「予定ある」
「予定ないやつじゃん」
洸輝が茶化してくる。
「いやいや、マジであるんだって」
そんな軽口を叩き合いながら、俺たちは鍋をつつき続けた。お腹が満たされ、部屋の中は温かく、外の寒さを忘れるくらいの団らんの時間が流れていた。
食事を終えると、俺は椅子の背もたれに寄りかかり、軽く伸びをした。温かい鍋のおかげで体の芯から温まり、今からでも横になりたくなる。ソファで横になっている洸輝がテレビのリモコンを手に取った。
「お、いいのやってるじゃん」
「何これ?」
「ロボアニメ。原作がゲームっぽいけど……あー、これ前に遊んだゲームの続編か。前作を貸してやったの覚えてるか?」
十年以上前にプレイした作品を覚えてるなんてたとえ名作でもなかなか難しいぞ。
「あー……なんか覚えてるような、覚えてないような」
適当に返しながら、俺は立ち上がった。風呂に入って、温まりたい気分だった。
「先に風呂入るわ」
「おー」
洸輝はテレビに集中しながら片手をひらひらと振った。母は一息ついてコーヒーを嗜みながら、「出るときちゃんと風呂に蓋して出てきなよ」といつものように言う。
「はいはい」
適当に返事をして、浴室へ向かった。
一通り流し終え湯船に浸かると、体の芯までじんわりと温まる感覚が広がる。肩まで湯に沈め、長く息を吐いた。
浴室の天井をぼんやりと見上げながら、今日の出来事を振り返る。
あの子、桜綾に似てる気がしたな。しっかりと見たわけではないし、ただのそっくりさんかもしれない。でも、どこかで引っかかっている自分がいる。
とはいえ、それ以上考えても答えが出るわけじゃない。
「……それよりも」
今は別のことを考えなければならない。向山望、俺の親友についてだ。
こっちの世界では会ったことがない。俺が尋徳に通っていてあいつがいないってことはおそらく面識はないだろう。気になり出したら、妙に落ち着かなくなった。
「……調べようにも、手がかりがなさすぎるな」
入浴前に一度、試しに向山望の名前で検索してみた。
しかし、出てくるのは同姓同名の赤の他人ばかり。それもそのはず、この頃はインターネットに個人情報を載せるのをやめましょうと学校の講習で教えられていたのだ。それでも当時からオープンな奴はいたが、十年後と価値観がまあまあ違う。当然、それらしい情報は見当たらない。履歴を見ても、この世界で望と繋がった記録はない。
じゃあ、どうするか。
「……家か」
望の実家を訪ねる、それしかない。
記憶が確かなら、望の実家はバイパスの近くだったはず。学校帰り、俺の家を通り越すから家に遊びに行ったことは数えるほどしかなかった。でも、家の場所はぼんやりとだが覚えている。
「よし……明日、行ってみるか」
放課後、直接訪ねる。それが一番確実だ。
そう決めると、少し気が楽になった。
風呂から上がり、部屋へ戻ると、ディダルがベッドの上に座っていた。
「湯上がりですっきりしたか?」
「まぁな」
適当に返しながら、タオルで髪を拭く。
ディダルは俺の動きをじっと見つめ、やがて興味深そうに尋ねた。
「何か考え事をしていたようだが、明日の行動は決まったのか?」
「お前、俺の思考まで読めるのか?」
「大体の察しはつく」
「凄いな。栄燈研究の第一人者の肩書きを贈呈してやるよ」
「いらない」
言葉とは裏腹に満更でもなさそうに返す。
「望に接触してみようかなって」
「ほう? それで、そいつに会いたいのか?」
「それもそうだけど、どうしているのかを知りたい」
「なるほど」
ディダルは興味深げにうなずいた。
「それで、どうするつもりだ?」
「明日、望の実家に行く」
ディダルは少し考え込むように目を細めた。
「会えたとして、何を話すつもりだ?」
「アドリブ」
ディダルが呆れる。
「知らん奴が急に家に来て、中身のない会話をさせられるなんてホラーだな」
「まぁ、あいつホラー動画好きって言ってたし、ちょうどいいだろ」
俺は肩をすくめ、ベッドに腰を下ろした。
「通報されそう」
「いざとなったらこっちにも考えがある」
「どういうことだ?」
ディダルは軽く傾いた。
「内緒」
「どうせくだらんことだろ」
「まぁ、そんな大げさなもんじゃないけど、きっと確実性はおそらくある。多分」
「結局、凸するのは確定なのか」
「凸って久しぶりに聞いたわ」
「時代に合わせてるんだ」
その言葉に「ワロタ」と俺は静かに呟いた。
ディダルは向きを変え、スマホの中へ戻っていく。画面の中から俺を見つめぼそりと呟いた。
『上手くいけばいいがな』
俺は軽く笑い、布団に潜り込んだ。
寝ようとした瞬間、ディダルが再び口を開いた。
『明日の昼飯はどうする?』
「は?」
思わず目を開け、スマホの中のディダルを覗く。
『教室で食べるのか、それとも食堂で食べるかだ』
「いや、どうするってお前食わないじゃん。完全に寝る流れだったじゃん。今話すことか?」
『重要なことだろう。昼飯をどこで食べるか、たったそれだけの事でもお前の未練解消の一助になるのかもしれない』
「お前、マジで何考えてんだ……」
布団をかぶり直しながら呆れるが、考えてみれば明日の四限目は体育だ。体育後にそのまま食堂に寄れば、まだチャイムが鳴っていないから良い席を確保できそうだ。
「明日も食堂にしようかな」
『なら、明日はそうしろ』
「何でお前に指図されなきゃいけないんだ」
『お前は優柔不断だからな。私が誘導してやってるんだ』
「うーん、ありがた寄りの有難迷惑」
『心の底から有り難がれ』
とりあえずディダルを無視して目を閉じる。ディダルの満足気な気配を感じつつ、俺は眠りについた。
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