第15話 朝雨

 雨の音が一定のリズムで窓を叩く中、漆輝は小さくあくびをしながら玄関で傘を手に取った。外は冷たい雨が降り続き、薄い灰色の空が広がっている。


「じゃ、行ってくるわ。出るとき鍵かけとけよー」


 玄関先で父に声をかけるも、聞こえてなかったのか返事は特になく、テレビの音だけが聞こえてきた。苦笑しながら傘をさし、雨粒を避けるように道へ出る。

 しばらく歩くと、前方に弥生の姿が見えた。彼も同じように傘をさしていたが、どこか不機嫌そうな足取りをしている。俺が近付くと、彼は軽くため息をついてこちらを見た。


「遅いぞ、漆輝。待ち合わせしたわけじゃないけど、雨の日は少し早めに出るもんだろ」


「いや、いつも通りだろ。お前が早すぎるんだって」


 口論する気もなく、俺は肩をすくめた。その間にも雨は降り続き、会話を遮るように傘に音を立てる。弥生は小声でぼやきながらも、結局俺の隣に並んで歩き出した。


「毎回言い訳だけは一人前だな」


「屁理屈の方は一丁前だぞ」


「ああ言えばこう言いやがって」


 軽口を叩き合いながら、二人は雨に濡れた道を歩き始めた。


「にしても、雨が降ると道がやたら長く感じるよな」


 俺がぼやくと、弥生が横目でこちらを見た。


「それ、お前の歩き方が遅いだけじゃないか?」


「雨の日は水たまり注意してんだよ。足元気にして慎重に行くのが大事なんだよ」


「お前の場合、慎重って言うよりダラダラだろ」


「靴下を濡らしたくないじゃん。厚いから水をよく吸うんだよなぁ」


「お前は知識の吸収力悪いのにな」


 軽い皮肉を返されながらも、俺は「うるせー」と鼻で笑った。


 学校まであと五百メートルくらいというところで、前方に膤が歩いているのが見えた。紺色の傘をさし、濡れないように慎重な足取りで歩いているその姿は、どこか品のある雰囲気を醸し出している。


「おはよう、二人とも」


 こちらに気付いた膤が落ち着いた声で挨拶すると、俺は軽く手を挙げた。


「おはよう。傘が水を滴りすぎていい女に見えた」


「褒めてる? それとも何か含みがあるのかしら?」


 膤がわずかに首を傾げる。言葉そのものは柔らかいが、表情にほんのり冷静さが宿っている。


「皮肉だなんて恐れ多いこと、俺がするわけないですよ」


 冗談っぽく返すと、弥生が横から突っ込むように言った。


「膤さんは綺麗に傘さして歩くけど、それに比べて漆輝はただの濡れネズミだな」


「失敬だな、ドブネズミは美しいらしいぞ」


 肩をすくめて答えると、膤が微かに笑みを浮かべた。


「流石にドブネズミとまでは言われてないわよ」


 どこか冷静さを保ちながらも、気遣いを忘れない膤のツッコミに、俺たちは声を上げて笑った。

 三人で並んで歩きながら学校へ到着すると、他の生徒たちも次々と登校してきていた。校舎前でそれぞれ傘を畳み、雨に濡れた傘を傘立てに差し込み教室へ向かう。

 廊下の窓から外を見ると、雨はまだ降り続いている。


「この雨、帰りまでに上がるかな」


 膤が呟く。俺は窓の向こうに広がる雨空を見上げ、曖昧に頷いた。

 三人で教室に入ると、荷物を置きに席へと向かった。朝のざわめきは相変わらずで、教室内は湿気を含んだ空気が漂っている。


「この雨、もし止まなかったら帰りはどうする?」


「どうするって、別に普通に帰るだけだろ」


 俺が軽く答えると、弥生は若干呆れた表情を浮かべた。


「そうじゃなくて……いや、雨の中またお前と歩くのかと思うと疲れるって話だ」


「体力なさすぎだろ。ちゃんと運動しな?」


 返答に、弥生は思わず苦笑していた。


「気疲れするって言ってんだ」


 一方、膤はこちらに目を向けた。


「でも、雨の日の帰り道って悪くないと思うわよ。特に小降りになれば匂いも変わるし」


「えー、ただの田舎特有の匂いにげんなりするわ」


「それな。ごま油の匂いがするところもあるらしいぞ」


「それはきっと、雨の楽しみ方を知らないだけよ」


 膤が穏やかな声で返す。その言葉に、俺と弥生がやれやれと言わんばかりに顔を見合わせた。


「楽しみ方とか、そんな趣のある話を漆輝に言っても無駄だろ」


「おい、そういうのを偏見って言うんだぞ」


「偏見じゃなくて事実だろうが」


「てめーもだろうが」


 膤はそのやり取りを見ながら、小さく笑みを浮かべるだけだった。

 ホームルームが始まり、担任の小池先生が教室に入ってきた。短い髪が少し湿気で乱れているのが印象的だ。いつもより少し早口で話し始めたのは、きっとこの雨のせいで機嫌が悪いからだろう。


「おはようございます。朝から雨で大変だったと思うけど、気を引き締めて今日も一日頑張りましょう」


 教室全体から「はーい」と気の抜けた返事が返る。

 雨は確かに小降りになりつつあるが、完全に止む気配はなかった。

 ホームルームが終わり、先生が教室を出ていくと、待ってましたと言わんばかりに教室内のざわめきが戻ってきた。


「なぁ、雨止まなかったら、帰りにどっか寄り道していかね?」


 俺が何気なく提案すると、弥生が顔を上げた。


「どっかってどこだよ?」


「うーん……本屋とか?」


「なんで急に本屋なんだよ。お前、本読まないだろ」


「読むスピードが遅いだけでそこそこ読むんだぜ。意外と知的だろ?」


 弥生は半分呆れた顔をしながらも肩をすくめた。


「そもそも本屋で雨宿りできるか怪しいけどな。それに、お前が知的ぶっても説得力ないだろ」


「いやいや、黙っていれば勝手に勘違いしてくれるんだよな、これが」


 軽口を叩き合っていると、膤が一限目の準備をしながら、少し首をかしげてこちらを見た。


「雨宿りするなら、何か甘いものがある場所がいいんじゃない? ドーナツ屋さんとか」


「それだ! 甘いもの食べて雨宿りとか、最高じゃん」


 俺がすぐに乗っかると、膤は楽しげに続けた。


「でも、ドーナツ屋って帰り道にないわよね。ちょっと遠回りしなきゃいけないんじゃない?」


「あー、確かに。雨の中遠回りは面倒だな」


 弥生があっさり降参すると、俺は笑いながら膤に話を振った。


「膤ちゃん、他にいいとこある?」


 膤は少し目を細めて考えるふりをした後、軽く微笑んで答えた。


「うーん……そう言われるとプレッシャーね。適当でいいなら、帰り道の途中で喫茶店に寄るとかどう?」


「あ、それいいかも。コーヒー飲みながらのんびり雨を眺めるとか、ちょっと余裕ある感じしない?」


 俺が調子よく同意すると、弥生がすかさずツッコミを入れた。


「お前、どうせジュースしか飲まないだろ」


「ところがどっこい、紳士の嗜みを見せてやるって。紅茶とか頼んじゃうから」


「コーヒーはどうした?」


 弥生の冷静な指摘に、俺は少し肩をすぼめた。

 膤はそんなやり取りを横目で見ながら、口元にほんのり笑みを浮かべる。


「でも、あの喫茶店ならコーヒー以外にも結構いろいろあるわよね。紅茶やココア、それにスイーツも美味しいって聞いたわ」


「スイーツねぇ……アリだな」


「結局お前、何か食べられるところがよければどこでもいいんだろ」


「俺の胃袋を侮るな。脂っぽいものはそんなに食えないぞ」


「年寄りみたいなこと言うなよ」


「こればっかりは若い頃からそうだったんだよなぁ」


 脂っぽいステーキが、何故少量で提供されるのかを理解してしまった少年期を思い出す。


「じゃあ、大人しくコーヒーゼリーでも食っとけよ」


 弥生が呆れたように言うと、膤が静かに笑い声を漏らした。

 窓の外では、相変わらず雨が降り続いていた。雨粒が窓を叩く音が、教室内のざわめきに交じり響いていた。


「ま、帰りまでに止む可能性もあるけどな」


 弥生がそう言いながら鞄から水筒を取り出しお茶を飲んでいる。教室のざわめきが少しずつ落ち着き始める中、教師の足音が廊下に響いた。

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