風が吹く

 ひと気のない廃病院は泥のような夜闇の中にひっそりと蹲っている。

 真っ暗な玄関の低い段差にべったりと座って、作業服杖原白スーツ横部の二人組──先程でかいバケモノに吹っ飛ばされていた人たちだ──は堂々と煙草をふかしていた。


「俺の勝ちですよね、善川さん」

「俺は……ちゃんとできた、はずです。何人か楽しくなって放りましたが」


 善川は口々に自身の成果を報告する二人組を一瞥してから、


「大物であの体たらくじゃないですか。二人とも失格ですよ」


 君もそう思いますよねと突然にこちらに話を振られて、俺は息を飲む。宮田はまだぶっ倒れているので、俺だけに声をかけるのは正しいのだが困る。

 杖原が三白眼でこちらを睨め上げながら、


「善川さん、そいつら何しに来たんですか。一般の方だったら尚更でしょう、こんな夜中に」

「そいつらって言うのを止めなさい杖原さん。肝試しに来てたんだって。せっかくだからね、保護がてら観戦しててもらったんですよ」

「肝試しったら馬鹿のすることじゃねえか。馬鹿か」

「横部さん」


 横部が煙と一緒に吐いた罵倒に反論のしようがなくて、俺は黙って項垂れた。


 中庭の赤子を善川が投げ飛ばした。それだけで、中庭どころか廃墟全体が静かになったのが俺にさえ分かった。相変わらず辺りは暗いというのに、庭を取り囲む建物からも最初のような異様な気配は消え失せて、ただ人肌じみて生温い夏の闇が溜まっているだけだった。

 赤子に払いのけられ植込みの周辺に突っ伏していた二人──横部と杖原──をごく自然に蹴り起こして、善川は澄まし顔のままで口を開いた。


「とりあえずね、閉会式反省会やりますから。玄関に戻りましょうか」


 そうして軽やかでさえある足取りで玄関に向かって歩き始めたので、俺は慌てて宮田を担いでその背を追った。


 目が慣れてきたとはいえ戻ってきた玄関はやはり薄暗いままで、夜明けにはまだ遠いのがよく分かる。遅れて現れた二人組はふらつきながら大儀そうに座り込み、躊躇なく煙草に火を点けてから、俺を正しく罵倒したのだ。


「馬鹿ですけどね、肝試しなんて。でも、若いうちにそういうことしとくの、僕はいいと思いますよお。失うものが少ないから」


 フォローのようでいて一番痛いところを庇わない一言を吐いて、善川はにこやかな笑みをこちらに向ける。恐らくこの人は今の言葉に敵意も悪意も込めたつもりはないのだと空恐ろしくなって目を逸らせば、眉間に深々と皺を寄せてこめかみを揉んでいる山下と視線がぶつかった。

 黙って一度だけ頷かれたのは、つまりそういうことなのだろう。


「なあ。お前はどう思うよ一般人」

「は」


 恐らく自分のことを呼んだのであろう声の方へと視線を向ける。

 横部は口の端に煙草を咥えたまま、まっすぐ俺を見た。


「見てたんだろ。どっちが良かったとか勝ちだとか強かったとか、そういうのねえのか。一般人の視点で」

「強かった、というか、あの……視点も何も、大きいやつのしか見てないんですけど、俺」

「じゃあなおさらだ。脳天に入れたの見てたろ」

「その後殴り倒されたろ。俺も、お前も」


 隣で金属バットを杖代わりのように立てたまま、目も合わさずに杖原が呟く。 横部が刃物のような目を閃かせて、苛立たしげに煙を吐いた。

 険悪な雰囲気が辛くて山下の方に視線を向けるが、善川とタブレットを見つめて何やら話し込んでいる。助け舟は期待できないと悟って、俺はともかく安全な方へと話題を逸らそうと必死に考えた。


「あの──どうやってるんですか」

「あ?」

「お二人とも、その、バケモノをぶん殴ってるって善川さんから聞きました。どうやってるかっていうのだけ、不思議で」


 しどろもどろの問いだったが、二人は咥え煙草のまましばらく黙ってから、


「術式。あとは気合」

「道具。それと──殺意」

「まともに答えろよ。殺意ってなんだよ山賊か?」

「いないだろ現代社会に山賊……」


 またしても罵り合いが始まる。どちらに加担する勇気も持てずに、俺は玄関側の壁に立てかけたままの宮田を見る。巨大な赤子が弾け散ったのを見てぶっ倒れたのを引きずってきたのだが、一向に起きる気配がない。寝ているのかもしれないが、そうだとしたら無理に起こしてやることもないだろう。またぶっ倒れられても困る。


「お前は吸わねえのか一般人」


 またしても唐突に投げつけられた会話に反応が遅れて、俺は声も出せずに視線だけをきょろきょろと動かす。

 すると杖原が一瞬だけ眉を顰めた。


「悪いな。苦手だったか、もしかしたら」

「大丈夫です。俺も吸うんですけど、切らしてて」

「そっちのやつは」


 杖原は宮田を顎で指した。


「あいつも吸うんで大丈夫です」


 横部が鼻を鳴らす音が聞こえた。俺はどう答えるべきだったかを掴み切れない居心地の悪さを抱えたまま、ゆっくりと視線を下に向けようとした。


「はいとりあえずね、お疲れさまでした!」


 飲み会の締めの挨拶じみた明るさで張り上げられた声に心臓が跳ね上がった。


「ご歓談中に申し訳ありませんけど、今山下と確認が済みまして。取りこぼしもおおむね見当たらないんで、つまり幽霊病院の幽霊退治は終了しました」


 お疲れさまですと善川がもう一度言葉を重ねれば、奇天烈な格好の二人横部と杖原は座ったまま一礼した。


「結局どっちの勝ちなんですか、善川さん」

「さっきも言ったじゃないですか、横部さん。引き分けです」


 しいて言うなら僕の勝ちでしょうという善川の言葉に、一瞬だけ杖原が険しい目をした。それでも何か言うでもなく、黙ってバットで数度地面を突いてから口を開いた。


「終わったってことは、帰れるんですか」

「はい。細かい後始末なんかはね、専門業者にまた任せるから……僕らはこれで撤収です」

「そこのやつらは、」

「帰れますよ。もうここ、ただの廃墟ですから」


 杖原の質問に山下の陰鬱な声がかぶさるように答えた。

 どうやら帰っていいらしい。その上に幽霊やバケモノも出ないらしい──そう理解した途端、じわじわと広がる安堵に力が抜けそうになる。座り込むのも倒れるのも今更だとどうにかこらえて溜息をつけば、肩口に手が置かれた。


「い──」

「とりあえずね、お疲れさまでした。そっちの彼はともかく、君まで倒れたら本当に面倒だったんでね。頑張ってもらってありがとうございます」


 いつの間にか肩に触れるような位置にまで近づいていた善川が、こちらを覗き込むように首を傾げた。


「一応お願いするんですけど、今日のことは他言無用にしてくれると助かります」

「言いませんよ。誰が信じるんですか」


 心霊スポットに行ったら幽霊が出て、そいつの首が飛んで、金属バットでバケモノをぶちのめすやつと素手で殴り倒すやつがいて、巨大な赤子に遭遇して──どう話しても正気を疑われることは間違いないだろう。信じる信じない以前に、俺と宮田の社会的な立場が危ない。

 俺の苦悩など知りもしないだろう善川は満足そうに数度頷いて、


「賢い友達が多いようで何よりです」


 これに懲りたら心霊スポット探検なんかやめなさいという穏やかな言葉と共に手が差し出される。とりあえず握ったら、ひどく嫌そうな顔をされた。


「違いますよ。離してください。スマホ貸してほしいんですよ」

「え――嫌です」

「悪いようにはしませんから」


 反射的に抑えてしまった胸ポケットを強引にまさぐられ、スマホを奪われた。かけてあったはずのロックはどうしてあっさりと突破されてしまったようで、するすると画面を撫でてから幾つかの操作を行って、善川はあっさりとこちらに端末を返した。


「電話番号ね、登録しておきましたから。何もないとは思いますけど、今日の関係でね。何かあったら連絡寄越してください」


 戻ってきた端末、その画面に表示された除霊屋・善川の文字を見てくらりとした。


「なんで……?」

「営業活動が半分。それから親切心──さっきお話したじゃないですか、一般市民の方々はね、大事にしないといけないので」


 アフターフォローも万全なんですよ僕らと愉快そうな声が、耳をただ通り抜けた。呆然としたままの俺の前でもう一度、善川は晴れやかに笑い、綺麗に一礼した。


「それじゃあ失礼します。お気をつけて」



 善川が背を向けて歩き出せば、山下がその後ろに続く。座り込んでいた横部と杖原が立ち上がる気配がした。本当にここから立ち去るのだろう。

 見送った方がいいのかそれとも目を逸らしておくべきなのか分からずに、俺はとりあえず地面を見つめている。


「なあ」


 ぞんざいに掛けられた声に顔を上げた途端、何かが勢いよく顔目がけて飛んできた。

 慌てて掴んでから恐る恐る掌の中を見れば、口の開いた煙草のパッケージが収まっていた。


「かわいそうだからよ。やるよ」


 横部が手をひらひらと振る。ぽかんとしていると目の前に大きな影が立って、


「渡しておいてくれ。巻き込んで悪かった」


 煙草の箱を差し出して、杖原はちらりと玄関の方へと目を向けた。眠っているのか気絶しているのかも分からない宮田の確認をしたのだろう。そのまま俺のことをじっと見ているので、受け取って頷けば、仏頂面の中で微かに口元が緩んだような気がした。


「真似すんなよ」

「真似じゃない。持ち合わせがないんだ」


 気をつけて帰れよと学校の先生のような一言を残して、杖原は背を向けた。

 俺はせめて見送ろうかと考えて踏み止まる。あの人たちがどこに行くのかを見たりしたら、それこそ余計なものを見てしまいそうだと思った。


 夜風が強く吹いた。べたつく熱帯夜の闇を冷やかに吹き過ぎていく風を飲み込んで、廃病棟は静まり返っている。


 とりあえず宮田が起きるまでは待っていようと思った。

 バケモノどもがいなくなったここはただの廃墟だ。がらんどうの遺骸に夜が満ちただけ──そんなものを怖がれるほど、俺は繊細ではない。それから、成人男子を担いで歩くのは嫌だった。成人男性の身体は嫌になるほど重たい。

 俺は受け取ったばかりの煙草を一本探り出して、咥えて夜空を仰ぐ。


 空を穿つような月の光はただ青く、病棟を照らしている。

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幽霊病院乱闘除霊録 目々 @meme2mason

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