手を出す

 暖房の利いた部屋に生肉を放置したことを忘れて出かけた、そうしてのこのこ戻ったときの異臭を思い出す。それをより濃密にしたような臭いが、夏の生温い闇に溶け出し肌にまとわりつく。

 鼻を刺し頭を殴りつけるような暴力的な臭いの中心に、腐った陽炎のような澱みが見える。


 大きな頭、重たげに肉の付いた二の腕。頼りなげな背中。

 巨大な赤子だ。そうとしかいいようのない、異様なものが、荒れ果てた中庭を這い回っている。

 くしゃくしゃの皺に塗れた顔。地に突かれた腕は赤子特有のぷくぷくとした肉づきのまま、路地裏の水たまりのような色をしている。

 黴びたわらび餅のように濁った肌は悍ましく夏の闇を透かしていた。


 一目でまともな状況ではないということが分かって、俺は意志に反して緩みそうになる頬を押さえる。泣いても叫んでもどうにもならないと諦めて、その上であまりにも対応のしようがわからないと人間は笑い出しそうになるのだなと思った。ここで笑ったりしたらそのまま気が狂うだろうことがなんとなく予想できて、俺は必死で気を逸らそうと自身の呼吸を数える。羽目ならともかくタガを外すと助からない──少なくとも心霊スポット怪談の後日譚でよくある、帰ってきたが気が触れていたなんてオチを体現するのは絶対に嫌だった。

 宮田は最早うろたえたり泣き叫んだりするほどの余裕が残っていないのだろう。入学当初から二年ほど付き合っていた彼女の二股が発覚したときのような悲しげな目をしたまま、まっすぐに異形の赤子を見据えて、薄い唇を力いっぱい噛んでいる。

 深夜の廃病院の中庭に赤子、要素としてはそれだけならまだ何とかなるのだ。アホが子連れで心霊スポット探検に来たとかそういうありえない説明がまだぎりぎりで成立する。子連れのアホも心霊スポット探検に来るアホも赤子も現実に存在するからだ。


 けれども赤子の肌色が闇や背後の病棟を透かすような色合いな上にサイズが小さめの象ぐらいある──こうなるともう無理だ。屁理屈でもどうにもできない。


「聞いてましたっけこういうの、山下さん。ここ産婦人科なかった気がしますけど」

「ないですね。ただ──平成後期の噂で、望まない妊娠をした少女が中庭に侵入して自殺したというやつがありますね」

「嫌な種類の噂だなあ。心霊スポットらしいですけど……」


 善川は短く溜息をついて、


「まあ、いいや。どうせそれのせいでしょうし」


 あっさりと出された結論に、宮田が目を剥く。それに気づいたらしく、善川は少しだけ考えるように首を傾げてから、


「実際の有無はともかくとして、そういう話があるってのが大事なんですよね。有象無象が化けるんですよ、そういう噂を型にしてね。だからこれは──建物から追い出された連中が寄り集まったみたいなもんです。多分」


 窮鼠の一撃みたいなもんですかねと気軽な調子で続けてから、


 しかし馬鹿どもは何やってんですかね。これ見逃すほどの馬鹿じゃないとは思ってますけど。


 善川が呟くと同時に赤子の前足──左腕に駆け寄り殴りかかる真っ白なものが現れて、よく見るとどうやらそれは白いスーツの人間に見えたのでまた俺は気が遠くなった。


「杖原! ご自慢の得物でなんとかしろよタコが!」


 大音量の罵声に答えるように葉の茂り放題になった植込みから作業服が凄まじい勢いで飛び出してきて、手近な位置にあったであろう右腕を何やら長物──どうやら金属バットのようだったので俺はまた気が遠くなった──で力いっぱいどついてから跳ね返るように間合いを取り、振り回された左腕を躱しつつ叫んだ。


「テメエ横部勝手言ってんじゃねえ! 割るぞ!」


 ずんと鈍い音を立てて近寄ってくる赤子から作業服は一定の距離を保っている。注意が逸れたと見るや白スーツが肘のあたりに蹴りを叩き込むが、赤子は気にする素振りも見せない。それでも臆することなく関節のあたりに打ち込めば、赤子がのろりと目玉を白スーツに向けた。

 その死角を狙うように作業服が飛び掛かり、肘に金属バットを叩き込んでから手早く構え直して緩んだ横腹を突き打った。耳障りな喚声を上げて赤子がよろめく。


 白スーツが走り跳ぶ。赤子が傾いて地面に近くなった顎を落下の勢いをつけた肘で撃ち抜く。


 ブレーキ音のような絶叫を上げて赤子が地に倒れた。


 地に伏したまま動かない、崩れたゼリーのような赤子を前に、男二人はこちらに聞こえるほどに盛大な溜息をついて座り込んだ。


 粘つく夜が束の間の静けさに満ちる。

 荒い息の合間、嗄れた声が小さく響いた。


「来るのも遅えし手間もかかるし、その金属バットは何だよ。霊も殴れねえなら野球やってろ」

「いい衣装べべ着といてあの様か。リーチが足りないなら骨伸ばせ。医者紹介してやろうか」

「何だと」

「何だよ」


 やりとりと格好からこの男二人が杖原と横部──この暴力的な除霊大会の当事者たちだろうことは予想がついた。本当に聞いていた通りの格好白スーツと作業服だったことに驚愕とも恐怖とも分からない感情がこみ上げて、俺は余計なことを言うまいと唇を噛んだ。視線はあからさまに逸らすと因縁をつけられそうだったので、言い訳ができる程度に方向だけ合わせた。


「杖原さん、横部さん。どうですか」


 手助けは要りますかと善川が声を掛ければ、作業服杖原白スーツ横部が一斉にこちらを向いた。


「俺は平気ですけど杖原がどうだか」

「自分はまだ行けます。ただ横部が」


 そのまま両者はあからさまに険悪な雰囲気のまま睨み合う。


「まだいけるに決まってんだろ。お前の方がノルマ残してきてんじゃねえのか」

「言いがかりはもう少し頭を使った方がいいぞ。気配も読めない無能だってバレたくないだろう」

「誰が無能だよ脳筋代表」

「術頼りの蛮族が」

「やめなさい。人前ですから」


 善川が上げた声に二人揃ってこちらを見て、そこで初めて一般市民俺と宮田の存在に気づいたような顔をした。


「誰ですかそいつら」

「見れば分かるだろ、一般市民の方だろう」

一般人パンピーなのは見りゃ分かるんだよお前みてえな馬鹿じゃねえから」

「誰が馬鹿だアホスーツ。撃ち込み浅いんだよ」

「黙れよモブ作業員。道具使ってあの程度かよ」


 不毛な言い争いがみるみるうちに加熱していく様に、俺は戸惑いながら善川の顔を見る。これで除霊大会が終わったのなら帰してもらえるだろう。

 善川は一度ため息のように長く息を吐いてから、


「山下さん。お願いします」


 冷え冷えとした声で紡がれた一言が終わる寸前、死にかけの水母じみてぶよぶよとした腐肉の柱が横薙ぎに二人を払い飛ばした。

 そのまま突進するように距離を詰めた赤子は一方の腕を持ち上げる。丸々とした掌を広げ、俺たちの真上にそれを掲げる。


 撃ち下ろされた掌は丁度中空で壁にでもぶち当たったように止まり、赤子は腕をそのまま地面に滑らせてから甲高い声を上げた。


 横たわっていたはずの身体はゆっくりと立ち上がり、蛙の卵じみた瞳が俺たちを捉えた。


「防ぎました。善川さん、一般の方は無事です」


 報告じみた口調で告げて、山下が一歩前に出た。険しい目で一瞥だけを俺に寄越して、すぐに前を向く。恐らくはそこを動くなとでも言いたいのだろう。俺は慌てて棒立ちになったまま無反応の宮田を引き寄せる。

 善川は山下と俺を順繰りに見てから、


「じゃあ下がっててください」


 そのまますたすたと赤子の方へと歩み寄り。巨体の目の前で立ち止まる。赤子は傷んだ葡萄のような目玉を善川に向けて、待てをする犬のようにじっとしている。


「失礼します」


 僅か憐れむような口調で一言だけ告げて、善川は胎児の手の甲を無造作に掴み、そのまま軽々と持ち上げてから紙屑でも放るように地面に叩きつけた。

 凄まじい絶叫の気配と猛烈な生臭さ、そして闇に紛れて何かがぬめるように体中に纏いつく感覚だけがあって、血濡れたような錯覚に襲われる。


 目の前には荒れ果てた中庭があるばかりだった。


「今──今、何を」

「投げました」


 平然と言い切って、善川は微かに口の端を持ち上げる。その様子になんとなく背筋が粟立って、俺は視線を逸らす。植込みの残骸の側には先程の二人が倒れている。何やらとんでもない動きでバケモノ相手に殴り掛かっていた明らかに真っ当ではないだろう二人が張り飛ばされた挙句にまだ動けずにいるのに、どうしてこの人は息一つ乱れていないのか。あの巨大なバケモノが一撃で消えたのはどうしてか。

 風が吹いた。夜の熱気に燻されて立ち上る、灼けた草の匂いがした。

 どれをどう口に出すべきかが分からなくなって、俺は口をぱくつかせながら善川を見つめる。


「道具だの術式だのね、そんなのはどうでも良くって……やれる人間がね、やろうと思えばできるんですよね、結局」


 何だかよく分からないことを言ってひらひらと手を振り、善川は晴れやかに笑った。

 俺は黙って頷いた。宮田はもう一度まっすぐにぶっ倒れた。山下が派手な溜息をついた。

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