エピローグ

「という事にございます」


「そうか、よくやってくれた」


 歓喜寺での戦いを終えた千寿は、吉宗に報告をしていた。


 江戸の近傍で大筒を放つなどという、将軍の威光を恐れぬ作戦を実行したのだが、それに対して吉宗からは特段叱責は無かった。


 囚われた娘達に被害が無く救出出来たからなのか。

 

 元々その様な事に関心が無いのか。

 

 娘の命を助けられた稲生や、復讐を果たした北条新蔵から何か嘆願でもあったのか。


 それとも千寿に甘いのか。


 吉宗が何を考えているのかは分からない。


 元々感情を表に出す人物ではなく、怒りなどを家臣に見せる事は無かったと後年歴史書に記される人物である。何事にも鷹揚なのかもしれない。


「それで、まつの事なのですが」


「うむ。構わん。言い交した相手がいるというのなら、例え将軍から側室にと望まれようと元の相手と添い遂げるのが貞女の鑑である。許そうではないか。それに今回の事では迷惑をかけてしまった。婚礼の支度金を下賜するつもりだ。お前から届けてやってくれ」


「はい」


 千寿は恭しくうなずいた。


 この様な場合、別の人物が将軍であったならまつを諦めたりしなかっただろう。また、諦めるにしてもこれ程までに快く送り出す事はあるまい。


 何しろ、家臣の妻に手を出す主君すらいるのである。もちろん暴君の類であるが、その暴君は意外と多い。


 間違いなく吉宗は名君である。


「ところで、何故ここに呼び出したのだ? いつも通り内密の話なら御用之間でも良いし、今回の話はお前達の勲功を報告する場である。皆の前で報告しても良かったではないか」


 そう、いつも内密の話をする御用之間ではなく、今回は別の場所にいる。


 いま二人がいるのは、富士見櫓である。天守が焼失した今となっては、江戸城で最も高い建物である。


 櫓とはいっても立派な作りであり、天守無き今、江戸城の象徴の様な場所である。


 富士見櫓の管理を担当している者は、千寿の父の支配下だ。そのため、色々と手をまわして人払いをし、吉宗に来てもらったのである。


「話は変わりますが上様、絵島生島事件の事を覚えていますか?」


 千寿は窓の外を見ながらそう言った。富士見櫓の名が示す通り、遠く富士山の美しい姿が見える。


「ああ、覚えている。紀州徳川家の当主として、あの事件の後始末にも関わったものだ」


 絵島生島事件は、単なる大奥の醜聞ではなく幕政に大きな影響を及ぼした。絵島が失脚する事でその主である月光院が力を弱め、その事が、吉宗の将軍就任に繋がったのである。


「稲生様から聞いたのですが、あの日絵島様は確かに帰還が遅れましたが、普通なら御年寄の権力で問題なく戻る事が出来たのに、あの日に限ってその様な慣例を知らぬ者が番に就いていたそうですね」


「そういえば、稲生はあの時目付として事件を取り調べたのであったな。しかしそれが何か問題でもあるのか? それは、慣例が間違っていたのではないのか?」


 今の話は、稲生の娘を無事助け出した後に稲生が礼を言いに来た時に聞き出した話であった。稲生は様々な役職で辣腕を振るったのだが、特にこの絵島生島事件での活躍が今の地位を安泰なものにしたと言われている。


「問題があるとは言いません。ただ、どの様な経緯で都合よく絵島様の権威に服さぬ者が役に就いていたのか気になっただけです。話しは変わりますが、あの後月光院様に毒が盛られそうになったという話はご存じで?」


「それも知っている。未だに真相は分からず仕舞いだそうだな」


「そうですね。一体大奥に入り込み、その様な事をしでかすのはどの様な力が必要なのでしょうね」


 その事件の時、千寿は月光院に代わって毒を食らい、その結果取り返しのつかぬ後遺症を体に受けた。


「何が言いたいのだ?」


「いえ、ただこれらの事件で月光院様の力は弱まり、大奥は吉宗様を推す者でまとまりました。そして将軍に就任された吉宗様は天下万民のために力を発揮していると思います」


「ならば、良いではないか」


「果たしてそうとばかり言えましょうか?」


 千寿の口調が強くなる。


「例え千人を殺す事になったとしても、千五百人を助けるのが天下を統べる者の役目でしょう。それは分かります。しかし、だからといってその千人の者の事を考えぬのはいかがなものでしょう。結果は同じかもしれませんが、その様な心を持つのも上に立つ者の資質なのではないでしょうか?」


「ほう。余に説教するつもりか? 諫言を聞くのも主君の務めであるが、流石に言い過ぎではないか?」


「我が伊吹家はヤマトタケルにさえ弓を引いた伝統がありますので、無礼は承知の上です」


「で、聞けぬと言ったらどうするつもりだ?」


「簡単な事です」


 そう言った千寿は、床に落ちていた木刀を二本手に取り、片方を吉宗に差し出した。


「これで決着をつけましょう」


「構わぬが、余は女子相手とて手加減はせんぞ!」


 木刀を手にするなり、吉宗は千寿に打ちかかった。


 吉宗の振るう木刀を、千寿は何とか受け止める。その一撃は凄まじいばかりで、手が痺れそうになる。せんと稽古した時に同じような感覚になるが、吉宗はそれ以上かもしれない。


「どうぞ全力を出して下さい。吉宗様は強い者がお好きでしょう? ならば私も力を示しましょう」


「ああ、余は力のある者を求めている。そうでなければこの世を良い方向に導くことが出来ぬからな。お前は何か不満があるようだが、一体何なのだ? 能力を重視しているからこそ、お前を奉行にしたのだぞ?」


 千寿も反撃に転じ、幾度となく木刀を打ち交わしながら二人は言葉も交わし合う。


「そうでしょうとも。能力がある者は男女問わず適した役に就けることは重要です。しかし、能力のない者はどうします?」


「もちろん統治者として見捨てたりはしない。ただ、その者達を生かすためには能力のある者を重視せねば世の中が成り立たぬと言う事だ」


「それは正論です。しかし、学びの場が限られている今、能力の高い者と言えば男ばかりになるでしょう。学問は元より、武で私の様にあなたと渡り合える者がいるのは、単なる偶然に過ぎないでしょう。ならばやはり男ばかりが重用される世がお望みですか?」


「それは……」


 吉宗は切り結びながら言いよどんだ。


 吉宗は、武芸でも学問でもあらゆる分野で実力を発揮した。それは、生来の才能もあるのだが、向学心が旺盛な事が一番の要因だ。そのため、努力すれば誰もが自分の様に能力を高められると思っていた。


 だが、人はそればかりではない。


 才覚の無い者もいる。


 向上心の無い者もいる。


 貧困により学ぶ機会の無い者さえいる。


 もちろん女はその制限が大きい。


 吉宗は部屋住みとして育ち、元々父や兄、家中の者達にも期待されていなかった。それでも必死に努力して様々な能力を高め、最後には将軍にまで登りつめた。


 だがやはり大名の息子という立場であるため良い師、良い環境で学ぶことが出来たのが大きな要因であるし、将軍にまでなれたのは運の要素が大きい。


 そして、人とは弱いものだ。全ての人間が向上心を持って日々努力出来る訳ではない。


「だが、それでも自分に出来る範囲で努力すべきであろう。そしてそれを感化善導するのが上に立つ者の役目だ」


 これまでは御前試合で剣を披露する様に、美しい剣の捌きを見せていた二人だったが、この辺りから戦い方が変化した。互いに肘や膝をぶつけたり、足を踏んだりと荒っぽいものに変わっている。


 二人が心を曝け出して言葉をぶつけているのを示している様だ。


「そうでしょうか? あなたはあの日、自分は弱き者達を守ると言っていましたよ。忘れてしまったのでしょうが」


「……」


 その瞬間、吉宗の剣から力が消えた。千寿はそれを見逃さずに肩をぶつけ、態勢を崩した吉宗の頭を打ち据えた。


 本気の一撃ではなかったが、それを食らった吉宗はどうと音を立てて倒れた。


 激闘に勝利した千寿は、しばらく剣を打ち下ろした態勢のままであったが、少し息を整えた後静かに吉宗の傍に座った。


「忘れた訳ではない」


 吉宗は倒れたまま荒い息でそう言った。


「あの頃は単なる三男坊の部屋住みで、世に出る事が出来ないのならこの身一つで皆を守ってやろうと思っていた。それは本気だ。千寿、お前を助けたのもそんな頃だったよ」


「覚えていたんですか。てっきり忘れていたとばかり」


「この前隅田川の話を口にしたのに、俺が何も言わなかったからそう思ったのか? 今の俺は将軍だぞ。お前を特別扱いなど出来るものか」


 かつて幼き頃、千寿は危ういところを吉宗に助けられた。そしてその後何度となく顔を合わせ、江戸の町のあちこちで遊んだものだ。それは舟遊びであったり芝居小屋見物、時には賭博場にまで足を運んだものだ。これらの経験は今でも千寿に大きな影響を与えている。


「お前に言った事も今思い出したよ。千五百人を助けるのが政かもしれないが、自分はそこから零れ落ちる千人を助けてやるつもりだってな。お前の言っていた事は、俺の受け売りじゃないか?」


「まったくその通りですよ。あなたが忘れていた様なので、思い出させるかもう一度叩きこんで差し上げようと思いまして」


「ははっ、確かに叩き込まれたぞ。もう、忘れそうにない」


 そう笑った吉宗は、上半身を起こして千寿と向き合った。


「昔は確かにそう思っていたのだが、あれよあれよという間に紀州徳川家を継ぎ、必死でやってきたらいつの間にか将軍の座まで回って来た。その中では昔の青臭い気持ちなど忘れてしまっていた。いや、あえて忘れようとしていたのだろう」


「それは仕方の無い事です。大名や将軍はあくまで全体を考えるべきです。ただ、その時に零れ落ちる者がいる事をお忘れなく」


「ああ、分かった。そして、その零れ落ちた者達は、お前に任せたぞ」


「元よりそのつもりで女奉行所を申し出たのです。それに私の名前は「千の寿」です。零れ落ちた千人を寿ぐのが務めです」


 千寿は吉宗に肩を貸し起き上がらせた。そして二人並んで階段を下りていく。


「一つ言っておくぞ。確かに絵島の事件で番の者に手をまわしたのは俺だが、毒の件は知らん。月光院の力は絵島の失脚で十分弱まっていたからな」


「そうですか」


 もはやその件に関して、千寿はあまり気にしていない。素っ気ない返事をして櫓を降りていく。


「なあ、今からでも……」


「側室になどなりませんよ」


 吉宗が何か言おうとした瞬間、その内容を察して千寿はぴしゃりと言った。


「私は女奉行としての役目を果たすのが性に合ってます。今更変える気はありません」


「そうか」


 吉宗は残念そうな顔をしていたが、ふと悪戯っぽい顔になって言った。


「ところで、今回口で言えばいいのにわざわざ殴りつけたのは、まつを側室にしようとした事を嫉妬したのか?」


「馬鹿ですか? 言っても分からないから体で言い聞かせただけですよ。それに……」


「それに?」


「気晴らしになったでしょう? こんな事、側室になっては出来ませんから」


「違いない」


 今日の立ち合いは、男女の交わりよりも濃密で刺激的であった。多分自分達はこの様な関係の方があっているのだろうと二人は思ったのだった。





 富士見櫓での二人の戦いの後、まつは千寿を媒酌人として平蔵と結婚した。二人は協力して村の発展に尽力し、大勢の子や孫に囲まれながらその余生を過ごした。



 吉宗はその後も将軍として様々な改革を推進し、学問を奨励し新田開発などの農作物の増産に努め、幕府中興の祖と呼ばれる事となる。


 そして、その治世の陰で、人々の暮らし、とりわけ女達を守るために戦う、女奉行の姿があったという。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

女奉行 伊吹千寿 大澤伝兵衛 @McrEhH957UK9yW6

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ