実る。熟す。繰り返し、巡り合う。

冬寂ましろ

*****

 むせかえるほどの緑の匂いがした。この日のために伸ばした黒髪が、草原の心地よい風にそよいでいく。

 歩くたびに土がふわりと私を押し返す。その感触を楽しんでいたら、触れる草の先が私の足をくすぐった。

 ほころびが目立つ肩掛けかばんから、少ししわくちゃになった手紙を取り出すと、それを頭の上に掲げてみた。


 「見えてる、おじいちゃん? やっと来たよ」


 道の先に人影が見えた。近づいてくる。手を振ってくれているようだ。少し恥ずかしくなって手紙をかばんにしまうと、私はあわてて駆け寄った。

 そこには私とは違うがっちりとした男の人がいた。着古した白いTシャツをまとった肌が、少し日に焼けている。その人は自分の頭に手にやりながら、申し訳なさそうに話す。


 「ええと……、フジシロさんですよね?」

 「え、あ、はい。はじめまして……。ミノリ・フジシロです」

 「僕はイクヤ・ミズガセです……。すみません、こちらから迎えに来ました。ミツセさんが早く来てしまってて……」

 「ごめんなさい。私ものんびりしちゃって」

 「……始めてな感じがしませんね。はは……」

 「ミズガセさんもおじいちゃんから聞かされてました?」

 「ええ、はい。良い人だったって」

 「私もです。なんだか不思議な気持ちです」

 「わかります」


 私たちは笑い合う。

 ふいに彼が私の手を握る。彼の耳は真っ赤になっていた。


 「これは、その……。ここから先は足元が悪いから……。い、行きましょうか!」


 この人は私を意識してくれている。こんな私を。嬉しい。うん、嬉しい……。彼の手のひらの熱をやさしく感じる。

 そして、どうにもならない罪悪感が私の体を満たしていった。






 木の根が這いまわる森の中を慎重に歩く。しばらくすると空気に甘い匂いが混じり出した。


 「ミズガセさん、ここが果樹園なのですか?」

 「ええ、もうその入口です。ほら」

 「わあ……」


 その先には極彩色が広がっていた。

 艶やかな桃が実る木に、赤紫色のイチジクが迫り、洋梨が淡い姿をのぞかしている。そこにはぶどうの蔦が絡まって重そうな実を下げていた。パパイヤとマンゴーが黄色い姿をこちらにちらりと見せ、メロンやスイカの緑がその下で熟れていた。足元にはコケモモやいちごが赤い色を点々とつけている。赤、青、紫、緑、黄色。たくさんの色が私の瞳に踊る。

 その光景に、ついはしゃいでしまった。


 「この桃、アカツキですよね。すごい大きい。これはシャインマスカット? あ、あれは……」

 「果物、お好きなんですね」

 「おじいちゃんの受け売りで……。本当は図鑑でしか見たことが無いんです」

 「いくつか種を持ち帰ったっておじいちゃんに聞きましたけど?」

 「……なかなか育たなくて」


 私はうつむく。だって私ですら……。

 草むらをかき分ける音がした。ひょいと木々の間から出た人が、白いタンクトップの揺れる胸を彼に押し付けながら、少し怒ったように言う。


 「ミズガセ、遅いよ」

 「すみません。ちょっと案内を……」

 「いいじゃん、そんなの」


 彼の後ろから彼女が抱きつき、肩越しに私へ声をかける。


 「あなたがフジシロさん?」

 「はい……」

 「私、ルアニー・ミツセ。すごいでしょ、ここ。これをすごいと言わない人にはなりたくないんだよね、私」


 そう言って笑う彼女は、私には勝ち誇っているように見えた。






 丸い木のテーブルの前に、私と彼女が座っていた。

 彼が持っていたカゴからぶどうをひと粒つまむと、私の口に入れてくれた。噛むたびに濃い味と甘い匂いがじわりと広がっていく。


 「始めて食べました。想像より、すごくおいしいです」

 「それは良かった」


 彼が無邪気に微笑んだ。それに見惚れていたら、唇の端から甘い汁がしたたり落ちた。


 「じゃ、これも食べれるよね」


 そう言ってテーブルに身を乗り出して近づいた彼女は、私の口を開けさせて、そこに何か丸いものを入れた。

 噛みしめると、さっきのぶどうとは違う味だった。甘いけど、もっと喉が渇くような甘さだった。


 「ジャボチカバ。私のおみやげ。暑い国の果物。ほら、うちの船、南の国の人が多くてさ。どう?」

 「ぶどうと違う感じで……」


 急に彼女が私の口を手でつまんで開けようとする。


 「ほら、種出して」


 彼女がもうひとつの手を私の胸元に差し出した。そこに唾液にまみれた種を口から出す。濡れたそれを見ながら、彼女がうっすらと微笑んだ。


 「フジシロさんは何を持ってきたの?」


 そう彼女に言われて、私は持ってたバッグの中へ手を入れた。そこから赤い果物を取り出す。


 「あ、これ、リンゴだよね?」

 「はい。ここにはないと聞いて……」

 「かっわーいい。もらっていい? 禁断の果実じゃん。確か唇を寄せるんだっけ?」


 手渡してあげると、彼女がリンゴにキスをした。そしてすぐにかじりついた。甘い香りがする汁が手を伝わっていく。それを舌で舐めとりながら彼女は言う。


 「これが罪の味か……。酸味と甘み、このさくさくとした食感。いいね、これ」


 ふと、彼女が動きを止め、不思議そうに言う。


 「でもさ、これ、ちょっと小さいかも? 図鑑に書かれてたのだと、もっと大きくてさ」


 え……。

 とまどっていたら、彼女が追い打ちをかける。


 「ああ、そうか。矮化だ。小さいままで成長しない、あれだ。ま、これは廃棄だろうね。お外にぽいだ」


 彼女が自分のカバンから紙袋を取り出すと、食べ残した芯と種をそこへ放り込んだ。そのまま外へ捨てるのだろう。


 どうして?

 おじいちゃんが遺したものなのに。

 なんで……。


 「なんでですか……」

 「味はいいんだけどさ。たぶんこれ、交配できないよね」

 「できないんですか?」

 「そうだけど? 交配って、よりよくしていくものでしょう? より甘く、より多くみたいな」

 「そうですけど……」

 「ほら、収穫量で考えてみなよ。多いほうがいいじゃん。不要なものを間引くのは仕方がないんだよ」

 「誰にとって不要なんでしょうか……」

 「うーん。それはそういうものだと思うよ? うちの船だって、あまり余力がなくてさ。土とか水とか」

 「でも、いつか必要になるかもしれないし……」

 「多様性とか? この果樹園は陽射しを求めて木々が争う環境なんだ。こんな弱っちいのじゃ、生きていけないと思うよ」

 「それでも……」

 「なーんか、やたらつっかかるじゃん。意味わかんないな。私は悪気があって言ってるわけじゃないの。これが普通で自然なんだよ」


 冷たく笑う彼女が私に紙袋をえいっと押し付けてきた。

 私は紙袋からリンゴの種をひとつ救い出すと、それをずっと握りしめていた。

 冷ややかにそれを見ていた彼女へ、彼がぽつりと言う。


 「だからこそ、同じ人として助け合いの結果なんです。この果樹園は」


 彼女は「そうだね」と笑った。それから私が吐き出したジャボチカバの種を地面に埋めた。背を伸ばしながら彼女が言う。


 「この子は芽が出たら生きていける。そしてまた実をつけ、人に食べられ、また芽を出すだろうさ」


 彼女は彼の腕を抱きしめ、そこへ頬を寄せると、寂しそうに言う。


 「地球があんなことになってしまって、もう何百年も経つのにね。こうしてまた種を置いてくなんて……」

 「そうですね……。小惑星を慌ただしく連結して作ったこの船には、時間がなくて限られたものしか載せられませんでした。いくつかのテクノロジーが他の船より載せられなかったのはわかりますけど、まさか種がないなんて」

 「また来るよ。何度でも。きっと私たちの子孫たちが、果物の種をいっぱい抱えてさ。助け合うのが人類だから」

 「ありがとうございます」


 彼がそう言うと、彼女は満足そうに笑った。

 そのとき間延びしたサイレンがかすかに聞こえた。


 「やば。夜が来ちゃう。もう。嫌んなるな……」


 見上げると、澄んだ青空に黒い亀裂が走っていた。


 「ミズガセ、私はハンガーにいるよ。軌道計算上は、まだ2日ぐらいいられるはずだから」

 「はい、あとで行きます」


 彼女へ手を振る彼の横を通り過ぎ、私も歩き出した。

 彼はきっと彼女を選んだのだろう。

 それが自然。それが普通。


 なのに……。

 なんで泣くんだろう、私。


 彼の手が私の腕をつかむ。それから頬を伝わる滴を、指先でそっと拭ってくれた。


 「少しだけ、夜の果樹園を見ませんか?」






 彼にひっぱられて、ひらけたところに腰を下ろす。苔のクッションがひんやりと気持ちいい。

 天井のドームはすべて開かれ、無数の星々が赤、青、白と競うように光っていた。

 星の海を渡る船の上、そこにある果樹園の無数の葉たちがそんな星々を見つめていた。


 彼が私の身を引き寄せる。彼に触れたところがせつなくなっていく。


 「みんな夜を嫌います。その先には死があるから。でも、僕はきれいだと思うんです」

 「私も、よく星を見ていました」

 「32世代前のおじいちゃんは、こうして一緒に星を見たかったそうです」


 それは叶うことなく船へと還った。私のおじいちゃんもそうだった。

 どんな想いだったのだろう。子孫を残しても満たされないその想いは……。


 「最初に出会った99世代前から綴られたメモリーを全部読んだんです。それからフジシロさんはどんな人なんだろうって、ずっと思ってました」

 「何世代も船の中で過ごして、いい星を見つけるまではずっとそうやって。何度も繰り返して」

 「それでもこうして軌道が重なることがあって会えるんです。それは続けられるんです。僕はこの先も続けたいと思ってます」


 彼は私を選んだ。何世代も前の私達のおじいちゃん達がそうしたように。

 私を選んでくれたんだ……。

 そんな優越感と嬉しさは、すぐに罪悪感と苦しみに変わっていった。


 私は立ち上がった。

 静かに灯る星空を後ろにして、見下ろす彼にゆっくり告げる。


 「でも、それはもう終わりなんです」


 星明りに彼の驚いた顔が照らされた。

 少しだけ息を整えてから、私は本当のことを話した。


 「私のところの船は、もう人にも矮化が始まっているんです。男の人は160cm以上の背丈にはなれません。女の人が何年も生まれていません。もう終わりなんです。私達は」

 「……」

 「騙すつもりはなかったんです。でも、気持ち悪いですよね。同性ですし。ごめんなさい。最後にこうして会えただけでもうれしいです」


 これで終わり。この先はないのだから。

 私は振り返らずに歩き出した。星の向こうの死に向かって。


 彼が後ろから抱きついてきた。それでもなお歩き出そうとする私を、力任せに止めようとする。ふいにバランスを崩して、ふたりして苔の上に倒れ込んだ。

 体を起こして私は彼を見る。泣きそうなほどに真剣な顔がそこにあった。


 「私はあなたと一緒に居たいんです!」

 「だめです! だめなんです……。普通じゃないんです。子供も産めないし、ただ消費するだけです。この船では私は迷惑なんです。だから……」

 「それが罪だと言うなら、私もいっしょに堕ちます。手を離したらもう出会えないなんて、そんなのたまらなく嫌です」

 「その先は実らないんですよ……」


 彼が私の上に重なる。握り締めていた私の手をゆっくりと開いてリンゴの種を取ると、それをそっと地面に埋めた。


 「実りますよ、きっと」


 そういうと彼は、下にいる私をぎゅっと抱きしめた。すごく安堵したときのため息を耳元に感じた。

 何千という彼を説得する言葉が浮かんだけれど、それは熟したリンゴのようにぐずぐずと溶けていった。


 抱かれながら目を開くと、彼の背中越しに星の海が見えた。

 何万光年に広がる暗闇の世界。そこに何千万という星が生まれ、そして消えていく。

 その中で私たちは出会えた。軌跡の確率。何世代もの果て。

 そして、この先はもう実らない。


 おじいちゃん、これで良いの?

 一緒に星を見ながら、世代を超えて恋焦がれたその人に出会える日を、実を結ぶその日を待ってたのに。

 ごめん、ごめんね……。

 彼と私は選んだから。選んでしまったから。早熟な小さいリンゴをふたりで。


 私は考えるのを止めた。そっと目を閉じて、彼のやさしい指先を感じていく。


 大勢の果樹たちの甘くて乱れた香りがする。

 私達は抱き合いながら熟れていく。

 その味は甘くて豊潤でみずみずしく……。

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