寝ているうちにそこへ着いてたってこと、あるでしょ?
冬寂ましろ
*****
そうして人類は永遠の眠りについた。
ぼんやりとした寝起きの頭で、昨日の現文でやってたその一文を反芻する。それはたぶん無理。私たちが夜の間、その裏側は昼になっている。誰かが起きていれば誰かが寝ている。だから人類全体としては絶対に眠りにつかない。
……あれ?
ようやく気がつく。
トンネルを走るゴーッという響きと単調な揺れで、私たちが電車の中にいることを思い出した。人気の少ない車内を見渡す。目的地の駅名がドアの上に表示されていた。
私の肩を枕にして寝ていた彼女を、そっと反対の手でやさしく揺する。
「あーちゃん。次だよ。そろそろ起きて」
「ん……。あ、もっちんだ……」
寝ぼけている。あーちゃんがぽやぽやとした笑顔で私を見つめる。左目のまわりにできたあざが痛々しいけれど、いまは恐怖にすくんで悲鳴をあげたり、泣き出す様子はなさそうだった。
あーちゃんの手が何かを探すようにさまよいだす。私はそっとその手を握ってあげた。
昨日は私たちにとって最悪の日だった。数IIの授業の最中、私はあまりに腹が立って仕方がなかった。泣き出しているあーちゃんを無視して、何事もなかったようにシャーペンを走らせているみんな。先生が微分係数の話を始めたとき、ついにがまんしきれなくなって机を蹴り飛ばした。めちゃくちゃな音が教室に響いたあと、私はあーちゃんの腕を引っ張って教室の外へと連れだした。走った。無我夢中ってこれだなって思った。息が上がるあーちゃんを公園のベンチで休ませたり、カラオケの部屋に連れ込んだ。あーちゃんはしばらく話すことができなくなってたけれど、体をさすってあげたり、安心させるように言葉をかけているうちに、「うん」とか簡単な返事はするようになった。
そんなとき、ふと、あーちゃんが言い出したんだ。「海が見たい」って。だから私たちは、夜中のコンビニでじりじりと時間をつぶしたあと、海辺の町に向かう早朝の電車へと飛び込んだんだ。
起き抜けのまま、暗いトンネルの中を走る電車に揺られていた。
あーちゃんはまだ私の肩に頭を預けて、そのまま手を握っていた。少しくせっ毛な黒髪が、私の頬をくすぐる。
制服のスカートが少しよれよれとしてたのを、私が指でいじって気にしていたときだった。
「わあ」
あーちゃんの声に私は前を向く。
真っ暗だった車窓は、トンネルを抜けて、朝日にきらめく海の風景に代わっていた。
繰り返す波に白い太陽の光が当たって、さわさわと輝いている。
海はそこに向かって深い青色を伸ばしていて、その輝きをつかもうとしているようだった。
空はどこまでも遠く澄んでいた。新緑の山々がそれをやさしく支えようとしていた。
あーちゃんの手が、私の手をゆっくりと強く握る。
何かで胸がいっぱいになり、私はぽつりとつぶやいた。
「きれいだね」
あーちゃんはこくりとうなづいた。
みんなにいじめられた原因。先生から「お前が悪い」と言われたもの。あーちゃんの頭の上にあるふさふさとした黒い猫耳が、光る朝日を浴びてぴくりと揺れていた。
高校に入りたての頃、あーちゃんがスーパーのフードコートで大好きなポテトをつまみながら、私にスマホの画面を見せに来たときのことをいまだに覚えている。
「ん? あーちゃん、これなに?」
「ジーンサージェリーって言うんだって」
「なにそれ」
「私にもよくわかんないんだけど」
「ええ……」
「とにかく、こんな感じで猫耳とか尻尾とかを自分の体に生やすことができるみたい」
「やってみたいの?」
「うん。だって、かわいいし。ほら、どう?」
あーちゃんが自分の手を猫耳に見立てて頭にかがげる。ああ、もう。かわいいも何も、わかりきったことなのに。
「あーちゃんはずっとかわいいよ。鼻水垂らしてもかわいいんだから。だから、そんなことしなくても……」
「やだ」
「え?」
「だって、私。もっちんにもっとかわいいって言われたいし」
少しむすっとそう言うあーちゃんに、私は少し苦笑いしたっけ。
「もう。わかったよ」
私は折れた。あのとき、そう言ってしまったことをいまでは後悔していた。
それからあーちゃんは施術費用を稼ぐためにバイトに精を出し、親たちを説得して、そんなこんなを1年続けたあと、ジーンサージェリーとやらを受けてきた。それはあーちゃんが学校を休んだ日にやるって聞いていたから、あくる日の朝にかぶっていた帽子を取って「じゃーん」とあーちゃんが言っても、あまり感動なく「おお」とだけ言葉を返した。
「ねえ、もっちん、どう? 変じゃない?」
「うん、かわいいよ」
「やった。触ってみる?」
私はそれに手を伸ばす。ふにふにとしていた。少しひんやりとした薄い膜に、高い洋服のような滑らかな毛が生えていた。つまんだり毛を撫でてやっていたら、あーちゃんが「んっ」と変な声を出した。
「もう。もっちんは、手つきがやらしいんだから」
「あーちゃんから触らせたんでしょうに」
「あはは」
楽しそうにくるりとまわると、あーちゃんは自分の席に着いた。すぐにクラスの女子たちに囲まれた。「どうしたのそれ?」「かわいい!」「触っていい?」と立て続けに言われる。
あーあ。やだな……。
たぶんこれが嫉妬って言うものなんだろう。あーちゃんを抱えて誰もいないところに連れて行きたくなった。そんな気持ちを必死に抑えながら、私は少し離れたところからあーちゃんとそれに群がる女子たちを眺めていた。
予鈴が鳴り、先生が教室に入ったとき、すぐに「お前、何やってるんだ」とあーちゃんを指さした。それからくどくどと校則違反だの、風紀がどうのと先生に言われ続けた。このクラスの奴はみんな腐ってる、とまで言われた。それでも生えてしまったものは取りようがない。結局、先生はぷんすか怒るだけで、少し遅れて授業を始めた。
悪意はクラスの中へすぐ伝わった。いったん「悪」のレッテルが張られると、みんなの目が変わる。正義に駆られて最初に手を出したのは、腕力がある女子のクラスメイトだった。
翌日、私が遅れて朝に教室へ着いたときは、それはもう始まっていた。椅子や机が倒され、あーちゃんは殴られて教室の片隅に追い詰められていた。震えていた。何回殴ればこんなにも怯えさせられるのだろう。私はとっさだった。あーちゃんを殴っていたそいつの制服を後ろからつかんで引き倒した。
「てめえ、何しやがる!」
体格のいい女子が尻餅をついてそう吠える。私はそれへ吐き捨てるように言った。
「何してるのか、わかるのかよ。このゴリラブスが」
すぐにそいつはカッとなって私をつかみに来た。殴られたらあーちゃんとお揃いになれるな、と思ったときだった。教室の扉が開いた。先生は私たちをじろりと見て、たった一言だけ言った。
「お前が悪いんだぞ」
それは私の後ろで怯えていたあーちゃんに投げつけた言葉だった。
電車から降りたあと、ひなびた小さな駅から海に向かってふたりで歩き出した。手をつなぐと、少しじんわりとしたあーちゃんの体温を感じた。のどかな砂混じりの道を進むと、ほどなくして海に出た。砂浜に向かう灰色の階段を降りていく。その脇には、紫色の小さな花がたくさん風に揺れていた。
「もっちん、海だよ」
「うん、来ちゃったね」
波の音がふたりを包む。潮の香がふたりをやさしくする。
学校も友達もみんな置いて、ここまでやって来た。達成感とか、満足感とか? よくわからないけれど、とにかくうれしさがこみあげてきた。
それから砂浜を海沿いにふたりで歩いていった。まだ夏の前なので、陽射しはやわらかく、風は涼しく感じられた。
あーちゃんが立ち止まる。その場で靴と靴下を脱いだ。「おいでよ」と言われて、私は悩んだけれど、結局同じようにした。あーちゃんが私の手を取って、押し寄せる波間に導く。すぐに波がやってきて、私の足首まで水でさらっていく。だいぶひんやりとしていた。流れていく砂がくすぐったい。あーちゃんが私に声をかける。
「ほら、気持ちいいでしょ」
「うん」
素直にうなづいた私を見て、ようやくあーちゃんは笑ってくれた。よかった。人生でいちばん安堵した。
私たちは知らない風景が好きだった。小学生で初めてあーちゃんと友達になったとき、「ご近所探検隊結成!」とあーちゃんが言い出して、道がない団地の裏山を登ったり、知らない商店街の路地裏をふたりで歩いていた。人見知りで怖がりな私の手を引いてくれていたのは、いつもあーちゃんだった。一度も来たことがない海辺の街を、そうして探検したのは、昔に戻ったようで楽しかった。
見た目では開いているかどうかわからない商店できれいな飴を買ってみた。道で寝そべっている猫を見ていたら、その猫が起きて歩き出したので、一緒についってった。猫が海辺の小さな定食屋さんの前でごろんと横になる。なんとなくその店へ入って、大きくてふわふわとしたアジフライをふたりで笑いながら食べた。そんなことをしていたら、お金が無くなった。
仕方なく、夜遅くに私たちはお互いの家に帰った。大事になっていたらしく、私は自分の母親にこっぴどく怒られた。それから事情を話すと、泣きながら抱きしめられた。
あーちゃんの家は、どこかに連絡していたらしく、その団体が学校へ抗議の声をあげたとトレンドになっていた。ひどくぼやかされていたけれど、見慣れた校舎の写真を見て、私たちのことだとすぐわかった。
「人類進化連盟」というその団体は、科学と宗教が結びついたような、とてもうさんくさい集まりに思えた。「容姿差別を止めろ。性差別を止めろ。ジーンサージェリーなど遺伝子工学による人体改造が、こうした差別から人類を解放できる唯一の道である。変身願望に素直になった者こそが、人類進化の正しい礎となれる」。そんな主張を繰り返し、そして暴れていた。みんなはそれを冷ややかに見ているだけだった。うっかり当事者になってしまえば、臭いものを嗅がされたように鼻をつまんでそこから逃げ出した。
だから私たちは捨てられた。ないものとして扱われた。あの日から、誰にも怒られることが無くなってしまい、学校には行かずいろいろな街へ散歩に出るようになった。猫耳が生えたあーちゃんと手をつないで。
その日は、あーちゃんと枯葉が舞う大きな公園で待ち合わせをしていた。姿を見つけて小さく手を振ると、私に気づいたあーちゃんが大きく手を振り返してくれた。今日もあーちゃんはかわいい。ベレー帽に猫耳はよく似合うね。私が見つめていたら、あーちゃんが「じゃーん」と言いだした。それからくるりと後ろを振り向くと、私にそれを突き出すように見せつけた。
「尻尾が生えました。実は私は猫の子だったのです」
黒いなめらかな毛で覆われた細い尻尾を揺らしながら、あーちゃんはうれしそうに言う。
「それはそれは。では、これからのご飯には猫缶をあげよう」
「ええ、それはいやだな。もっちんと一緒においしいもの食べたい」
「あはは。じゃ、今日は何食べようか」
あーちゃんが制服ではなくなった私の袖を引く。
「ねえ、もっちんはやらないの?」
「うーん。どうしようかな」
「また、そうやって悩んでるふりする」
「だって、よくわかんないし」
嘘だった。ネットや本で情報を集めては何度も勉強した。そして悲観に暮れた。
あーちゃんの遺伝子は、施術の結果、70%だけ人間のものになった。法律で定まった数値を下回っているので、あーちゃんはもう子供が作れない。純粋な人間としては社会から扱われなくなっていた。あーちゃんは人ではなくなったのだ。
私はどうしたらいいのか探し続けた。人として、あーちゃんのそばに居るのは、社会的なメリットがありそうだった。何しろあーちゃんひとりでは、家すら借りられない。
あーちゃんを支えたい。私が手を引く番だ。そう思っていたから、やんわりとジーンサージェリーの勧めを断っていた。
「尻尾をからませると気持ちいいんだって。連盟の人が言ってたよ」
振り向きながらあーちゃんがそう言った。その微笑んだ顔はとても無邪気でかわいかった。
私は真っ青になった。
そっか、そうだよな。
人じゃないもの同士で恋をするのが幸せなんだろうな。
でも……。
「……そんなこと、他の誰にもさせないで」
いつのまにか私はひざまずき、あーちゃんの体にすがりついていた。
「わかってる」
あーちゃんは私の頭をやさしく撫でる。それから私の手をとって体を起こしてくれた。
「怖い?」
「うん……」
「私を教室から連れ出してくれた、あの勇気はどこに行ったの?」
「あれはとっさだったから」
「じゃ、いまとっさになってみない?」
あーちゃんがまるであの日、海に入るのを誘ってくれたように手を差し出した。私は悩んだけれど、またその手をつかむことにした。
あーちゃんによると「人類進化連盟」はかなり大きな組織になったらしい。拠点は近くのある地方都市をまるまる飲み込んでいた。奨学制度、仕事の優先的なあっせんなどで着実に「人ではないもの」を増やしていた。
それは結果的に生きる上で便利だったし、おしゃれだったのだ。
一方でこれは人体実験だという声が上がった。正義に駆られた人々によって、連盟が関与していた嘘の発表が暴かれた。そのうち人類種の純血主義を唱える人たちも出てきた。
こうしてゆるやかに人類へ亀裂が走っていった。
そんななか「人類進化連盟」が声明を出した。
宇宙へ行こう――。
みんな冷ややかな反応をした。何を言ってるのか。真実をみんなの目からそらそうとしている。そう思われた。
でも、それは人々の視点を目の前のことより、空へと向けるきっかけになった。
「人類進化連盟」が運営している病院。その白い病室の白いベットに座る私たち。ふたりとも病院から支給される白い患者服を着ていた。
白いシーツの上にはふたりの細い尻尾が、だらしなくからみついていた。
自分の手をずっと握り締めていたあーちゃんが、耳を澄まして私の声を聞いていた。
「京月道のメロンパン。あかとんぼの鳥からうどん。フードコートのポテト。お寿司はウニが好きで、音楽はフミンダイアリー推し。本を読むのは苦手だけど、それでも如月海羽の小説はよく読んでるよね」
「もっちん……」
「人でなくなっても、私があーちゃんの好きを知っているから。もしあーちゃんがあーちゃんでなくなったとしても、私が教えてあげる。だから大丈夫なんだよ」
「うん……。ごめん……」
間が悪かった。あーちゃんに誘われて私が施術した翌日、ジーンサージェリーの限界が連盟に反抗している組織から発表された。
あーちゃんはそのとき自分の運命を知らされた。最初はただ私に気に入られようと、かわいい猫耳を生やしただけなのに。尻尾、肉球、脂肪分解プラント、副脳、そして無茶な遺伝子改造がもたらす壮絶な痛みを軽減するための脳内麻薬インプラント……。もう取り返しのつかないことになっていたのに。時間が経つたびに体はきしみ、人から外れていく。それはやがて本人の意識すら変えていく。そんな未来。そして絶望。
私が人の社会との橋渡しをしようとしていたことを、あーちゃんは拒否した。それはあのとき私の手を引いてしまった謝罪の意味もあった。そんな想いを私は受け入れるほかなかった。
それでも私たちは一緒にいようと、あーちゃんを説得していた。「人ではないもの」にふたりでなったから。
「ごめん、ごめんなさい……」
「うん」
「ほんとうにごめんなさい……」
「あーちゃんが手を差し出したら、私はそれを握ってあげる。だからさ、またどっかいこ?」
あーちゃんが大きく泣き出した。その少し猫の毛が生えた手を私はやさしく握る。手のひらにふたりの涙がぽたりぽたりと落ちていった。
あーちゃんと一緒にそのニュースを見たとき、私はちょっと救われた気になった。
そこに至るまでに、いくつかブレイクスルーと言われる技術の発表があったのは覚えていた。
ミイデラゴミムシに見られる化学反応の生体器官化。
人体の腸内バクテリアの大規模プラント化。酸素の自動生成。
スケーリーフットに見られるバクテリア由来の流化鉄を使った過酷な環境からの生体保護。
ガラス海綿類の構造を利用した爪の超硬質化。
こうした技術を寄せ集めて、人類は自分の体を宇宙船へと改造することができるようになった。
最初に「人類進化連盟」が選んだのはアフガニスタンの少年だった。もはや人間であった部分はほとんどなくなっていたけれど、彼は未知の世界に心を踊らしていた。自身が生成するメタン系燃料のひどい匂いに困惑する人々を置き去りにし、生体器官でできたロケットエンジンから青白い炎をまき散らして、宇宙へと駆け上がっていった。
しばらくして、木星を背景に彼は地球へこうメッセージを送った。
「宇宙って、気持ちいいよ。みんなおいで。ここにはあらゆる境界線がないんだ」
それは人類が初めて地球以外の生存圏を得られた瞬間だった。
人々は熱狂した。
宇宙でも人は人でいられる。
映画や小説に登場していたさまざまな技術が、生体器官として実現していった。
熊を始めとする哺乳類の冬眠因子が解析され、それは深宇宙へ寝ながら行くこと、いわゆるコールドスリープに応用できると人類は知った。それは自らの体を宇宙船へ改造することを加速させた。少年がやがて木星から消息不明になったことには蓋をしながら。
その日は、人として原形を留めている最後の日だった。
あーちゃんは少しくせのある黒髪もそのままだったし、やさしくてきれいな顔も残っていた。手足から背中にかけて猫っぽい毛に覆われていても、足元はネコ科独特の俊敏な形に変わっていても、それでも、それはまぎれもなく私が大好きなあーちゃんだった。
一方の私は細い体に神経質そうな手羽先みたいな腕を二対増やしていて、邪魔くさそうにそれを折りたたんでいた。それは同時に複数の作業をこなす優れたエンジニアになるため、という言い訳をしていたけれど、あーちゃんをもっと強く深く抱きしめられるように、という単純な想いだった。
ふかふかした白いベットに横たわりながらふたりは抱きあった。
このしっとりとした温かさを忘れはしない。この白くてなめらかな肌を忘れはしない。
この感触を忘れないように、いつでも残るように、お互いの体をぎゅっと抱きしめた。何度もそうしていた。それがあーちゃんに甘くてせつない吐息を出させていたとしても、私が人に聞かせたことがないような声をあげていたとしても、私たちはずっとそうしていた。
陽の光が部屋に差し込む頃、私たちはまだお互いに抱きあったまままどろんでいた。予定していた時間になると生体インプラントから麻酔が流れ出し、ふたりで深い眠りについた。
それから少し時間が経ったいま、私たちは外に立っていた。風が体を撫でていく感触で、そう思えた。
複数の目を器用に使って、かつて私たちが学んでいた学校を見下ろしてみた。建物はツタや草に覆われ、クラスから生えた木が陽光を求めて窓から枝を広げているのが見えた。
何かを思い出せるかなと思ったけれど、もうそれは遠くにかすんだものになってしまった。あの日の悲しさも怒りさえも。
全長200メートル。体重は内緒。先は円錐形に尖りながら、何十本もの細い体を何重にも編み込んで垂直に立っている。ときおり肉色をした何かが震えていたり、膨らんではしぼんでいた。それが私たちの姿だった。
下の方には変貌を遂げた先生やクラスメイトたちが、私の体に食い込んで寄生していた。彼らは口や消化器官を持たない。私の血管に自分の循環器を繋げて栄養を得ている。宇宙空間へ出たときに隕石にぶつかったとか皮膚が壊死したとか、私の手が届かないトラブルが起きたら、意図的に繋がりを塞いで切り離してあげる。そうすると彼らは、命が尽きる前にそれを直してくれるはずだ。そうなるように栄養素に遺伝子改変因子を混ぜていた。そんな彼らをいまではかわいいとさえ思った。
カウントダウン的なものがいるかなと思ったけれど、なんだかちょっと面倒に感じていた。どうせ見送りをするような人は誰もいない。あーちゃんもそう思ったのだろう。勝手に足元から噴煙を上げ始めた。ああ、あーちゃんらしいな。いつもあーちゃんが先に行って、私がその手をつかむんだ。私も続けて同じように噴煙を上げ始めた。
多数の湿ったヒダに住まわせた微生物が作り出すメタンガスと酸素。それを混合して発火する128の生体ロケットエンジンは、重い私たちの体を容易に空へと押し上げた。青く尖った炎を吹き上げながら、私たちはくるくると踊るように成層圏を上がっていく。やがて空は黒くてどこまでも果てがない姿を見せてきた。流化鉄の黒いシャッターが体のあちこちに降りていく。それからふっと重力から解放された。
あーちゃんが自分の体より長い触覚を私に絡ませて震わせた。
「じゃーん」
あーちゃんの声だった。声が体に伝わってきた。
「これ声帯由来の触角なんだ。もっちんも作れる?」
私はひたすらがんばった。地球と月の間まで進んだ頃には、私の生体器官がちゃんと触角を生み出した。やれはできる。えらいぞ、私の体。
今度は私があーちゃんの体に触角をからませた。まるでお互いを薄いひもで縛り付けたような姿になった。
「あーちゃん、できたよ」
「うん、ちゃんと聞こえてる」
「気持ちいいね」
「そだね」
私たちは喜んだ。触角を震わせて笑い合った。
生体器官からの推力は光速には遠く及ばないものの、私たちの体にはベニクラゲ由来の不死が与えられたから、時間は意味を無くした。永遠に思える時間がかかっても、寝ていればやがてそこにたどり着く。
月の周回軌道をふたりで巡りながら、私たちは語り合う。
「これからは、あーちゃんとどこへでもずっと一緒に行けるんだね」
「嬉しい?」
「うん」
「かわいい?」
「うん。かわいい。大好きだよ、あーちゃん」
「そっか」
「え、反応薄くない? それだけ? がんばって告白したのに」
「うん。知ってたから。私がかわいい姿を見せたかったのは、あーちゃんにだけだったんだよ」
私たちは抱きしめる代わりに、長くて節くれだった生体マニピュレーターを何百本とからませた。こんどは私から触角を震わした。
「あーちゃんはどこ行きたい?」
「宇宙の果てが見たい」
「うん、行こう。きっときれいだよ」
私はあーちゃんの手を握り、後を追いかけていく。いままでもそうしてきたように、これからもそうするように。
あーちゃんがごきげんで腸壁由来のラムスクープを広げた。ごくまれにぶつかる星間物質が少し時間が経ったフードコートのポテトのようだとあーちゃんは言った。そんなわずかな栄養を取り、それを使って加速していく。地球はやがてちっぽけな点になっていった。
人類は皆そうした。目指すところは宇宙の果てになった。みんなそれを見たかったんだ。
カイパーベルトを出る頃、星の海をゆりかごにして私たちは目を閉じた。
眠りから覚めたら、あーちゃんと電車の中から見たあの朝の海のように、きっとふたりで一緒に感動するのだろう。ずっと時間がかかっても、それが見られるだろうって。そんな希望を胸に抱きながら。みんなでそんな気持ちになりながら。
そうして人類は永遠の眠りについた。
寝ているうちにそこへ着いてたってこと、あるでしょ? 冬寂ましろ @toujakumasiro
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