無敵のシロウちゃん

染谷市太郎

無敵のシロウちゃん

「その子を、ですか……」

「まあだまされたと思って、一日預かってみなさい」

 どこにでもあるファミレスのボックス席で、伊藤明太は疑わしい声音でうなった。真向かいに座る老人は自信ありげに、伊藤に勧める。

 伊藤は何もこの老人、多田豊が疑わしいわけではない。

 多田は伊藤が幼少期から通っていた絵画教室の先生であり、いわゆる恩師だ。多田との出会いがなければ、伊藤の漫画家人生は始まらなかっただろう。

 しかし、今回はわけが違う。

「心配してくださるのは、ありがたいんですが……あの、さすがに、その、心霊対策に子供を預かるっていうのは……」

 伊藤は多田の横をちらりを見る。そこには、お子様セットをほおばる少女がいる。少女、もとい水野シロウは伊藤の視線などまったく気づかず、口の周りをべたべたにしてハンバーグに夢中になっている。

「子供を預かるのも責任がいりますし」

「ああ、それなら大丈夫だよ」

 伊藤の遠回しの拒否を、多田は跳ね返す。

「この子は元気な子で怪我をしたくらいじゃ泣かないし、こうやって何か食べ物を与えておけばおとなしいからね」

 多田はシロウの口周りをぬぐってやりながら答えた。どうやら世話好きの性分は変わらないようだ。

 おそらくその世話の対象に、伊藤も入っているのだろう。

「私が教え子が悩んでいればどうにかしたいと思うのは、伊藤くんもよーくわかるだろう?」

「ええ、まあ……」

「老人の酔狂だと思ってくれてもかまわないから、一度、この子を預かってみてなよ?なに、悪いことにはならないさ」

 いいことにもならないのではないか。と思いながらも、伊藤は首を縦に振るしかなかった。


 伊藤は、「明太子」というペンネームで漫画家を営んでいる。大学卒業後、少年漫画雑誌でデビューを果たし、現在は複数の連載を抱える、いわゆる売れっ子漫画家の一人だ。

 連載を保つためにはアシスタントが必要となり、そのアシスタントを働かせる作業場も用意しなければならない。そのための物件を借りたのは、懐かしむほど昔ではない。借りた物件は駅からほど近く、周辺にはコンビニ、スーパー、薬局などがそろう最高の立地のビルの一室。少々古いが、家賃は良心的という物件だった。

 よりよい環境で、よりよい作品を、と意気込んだ伊藤は、しかし予定通りにはならなかった。

 

「先生、なんですか?その子」

「あー、その、知り合いの子でさ。ちょっと預かることになったんだ」

 作業場に戻った伊藤。

 やはりシロウはアシスタントの注目の的だ。

 比較的年齢層も若く、既婚者などいないこの作業場は、子供など縁遠い。皆、興味は持ちつつも接し方が分からないため距離を取って眺めていた。

 一方のシロウは、通りのパン屋で買った顔と同じ大きさのクリームパンを食べることに夢中だ。

「とりあえずシロウちゃんの席はここね。今日はこの机のもの、好きにしてもらっていいから」

 伊藤に一番近い席に通す。机は伊藤の物を含めて6つあるが、うち3つは空席となっている。机には作業に使う道具がむき出しのままだが、机の主がいないのでかまわなかった。他にも、室内には同様の作業机が複数あり、すべて仕事を放棄してしまったアシスタントの席だ。

 アシスタントが急に連絡が取れなくなったり、突然やめたりする、なんてことは漫画家歴の長い伊藤にとってはざらだ。しかし、この作業場から去っていったアシスタントたちは少々事情が異なった。

 残った二名のアシスタントたちは、机に向かい集中しきれずにそわそわとしている。

 まるで何かを恐れるように。


 カッカッカッカッ


 上階から足音が響いた。

「先生……」

 アシスタントの震えた声の呼びかけに、伊藤は首を横に振る。皆まで言うな、ということだ。


 カッカッカッカッ


 規則正しいハイヒールの足音。

 この作業場は5階建てビルの2階に入っている。エレベーターはなく、一つしかない階段を上がらなければならない。


 カッカッカッカッ


 足音は作業場の真上を往復している。

 階段を上がる、ハイヒールの足音を、誰一人として聞いてはいない。


 カッカッカッカッ

 

 足音が階段に移動した。3階には事務所も店舗も入っていない。

 伊藤はかき消すようにペンを走らせるが、紙を擦る音をかき消すように足音は大きくなる。


 カッカッカッカッ

  カッカッカッカッ


 二重の足音が作業場へと近づいた。


 カッカッカッカッ

  カッカッカッカッ

   カッカッカッカッ


 足音が重なって廊下に響く。

 ドアのすりガラス向こうに、人影は、ない。


 カッカッカッカッ

  カッカッカッカッ

   カッカッカッカッ

    カッカッカッカッ


「……あの、俺!」


 ガツンッ


 アシスタントの一人が立ち上がった瞬間。大きな音がして足音が止まった。


「げふっ」

 大きなげっぷが出た。ゆるゆると音の主を見ると、シロウが空の袋を持ち、もぐもぐと最後の一口を飲み込んでいた。

 足音は気配ごと消えていた。

 伊藤やアシスタントたちは気が抜けたように椅子に身を預け脱力する。

「な、なんだったんですかね……」

 アシスタントの疑問に、伊藤は答える気力はなかった。

 なんだった、とは足音に関してではない。

 あれは日常茶飯事の出来事だった。こちらに近づくほど大きく、たくさんの足音が廊下にこだまする。それは確実に廊下に収まりきらない量で。

 しかし、今日は違った。足音はパタリ、と消えた。

 伊藤はおそるおそるとシロウを見やるが、シロウは机に置いてある画材で遊んでいるだけだ。何かをしたようには見えない。

 ため息を吐いて、悩んだ末に伊藤は顔を上げた。

「とりあえず、作業を進めようか」

「は、はい」

 今やるべきは仕事なのだ。



 シロウを連れて駅まで歩く。シロウはコンビニで買った肉まんを二つ、両手で持ってほおばっている。最近の肉まんは小さいため二つ買ったが、ちょうどよかったようだ。

「あの、水野さんですか?」

「おう」

 駅前に立っていた着物姿の老人に声をかけた。多田と同じぐらいの年齢だが、水野はしゃっきりと背筋が伸び、どことなく迫力がある。

「いやあ、娘がせわんなったなぁ」

 水野はシロウの頭をがしりと掴み、がしがしと乱暴に撫でた。シロウは肉まんに夢中だ。

 娘といったが、水野とシロウは祖父と孫ほどの年齢差に見える。多田と同じであれば確か60近いはずだ。疑問には思ったが、伊藤は無粋な真似はよそう、と口をつぐんだ。

「今日はありがとうございました」

「こちらこそ、子供の世話は老骨に耐えるからな」

 かかかっ、と水野は笑い飛ばす。

「じゃ、先生も頑張って」

 水野は、両手が肉まんでふさがっているシロウの首根っこを持って駅へと消える。

 伊藤は深々と頭を下げた。







「お忙しい中すみません。多田先生……」

『あはは、なにちょうど暇していたところだよ』

 電話の向こうから、朗らかな声が響く。

 伊藤は自宅のマンションから電話していた。休業日、というわけではない。本来は今日も作業場で仕事をするはずだった。

 しかし、それができなかったこそこうして携帯を握りしめている。

「あの、また……」

『ああうんいいよ!』

 二つ返事での了承だった。


「シロウちゃん、来てもらえてうれしいよ」

 作業場にシロウを通した。シロウは作業机の上に置いてあったホールのチーズケーキに目を輝かせている。丸々シロウのために用意したものだ。

 伊藤がどうぞ、と差し出せばフォークを握りしめてほおばった。

 その様子を伊藤とアシスタントたちは嬉しそうに見ている。子供の様子をいつくしんでいるだけではない。

 彼らはシロウに来てもらってうれしいのだ。心霊現象が減るために。


 シロウが来た次の日、作業場の心霊現象はそれはそれはもうひどいことになっていた。廊下の足音は復活し、窓の外からは何かがのぞき、物が飛び、インクがこぼれ、挙句の果てに原稿データが消えるなどしたために緊急で解散。その後、伊藤は急いで多田に頼み込んだのだ。

 今日もシロウが来たとたんに心霊現象は鳴りを潜めている。伊藤たちはようやく落ち着いて仕事ができる、と安心する。何よりデータが消える心配がない。

 カリカリ、カチカチと各々が作業する音が響いた。シロウは人を駄目にするクッション上でお昼寝をしている。クッションもシロウのために買ったのもだ。

「ごおぉぉぉぉ……」

 うつ伏せで寝ているためか、地響きのような変ないびきをかいているシロウ。

 寝にくいだろうと伊藤はひっくり返しておく。会うのは二回目だが、伊藤はシロウの扱いに慣れてきていた。

「ちょっと何か買ってくるよ」

 短針は12時を回っていた。伊藤は遅めの昼のために席を立つ。

 近所のコンビニへはそう時間は要さない。

 自分とアシスタント、シロウの分を吟味してしまったため少し時間がかかった。ついでにレジ横に置いてあったアメリカンドッグをほおばる。

 つい買ってしまった。シロウの食いっぷりを見ていたからか、あるいは原稿に集中できたからか、温かいアメリカンドッグはおいしかった。ついつい腹回りの脂肪をはぐくんでしまう。

 作業場が入っているビルに戻る。

 このビルには伊藤の作業場以外にテナントは入っていない。心霊現象から明らかに事故物件かなにかいわくつきなのは理解していた。思い返せば最初にここに来た担当の編集者も奇妙な顔をしていた。だからか現在は打ち合わせなど近所の喫茶店ですべて行っている。

 とはいえ、さすがに先日のデータ破損ほどの件はなかなかなかった。油断していた上に横着していたことを痛感した伊藤は新たな物件探しを精力的に進めるつもりだ。

 ん?と伊藤は振り返った。

 階段に向かうとき、空き部屋の前を通る。その中に小さな人影があったのだ。

 戻ってみると、奥の方にうずくまっているものが見える。

「シロウちゃん?」

 伊藤はうずくまる子供に、ここで何をしているのかと部屋の中に入った。

 アシスタントたちは目を離してしまったのだろうか。預かってからあまりいたずらの多い子ではなかったが、さすがに大人ばかりでは飽きてしまったのだろうか、いろいろと考えながらおそるおそる、伊藤は慣れたとはいえまだ距離の測りかねる子供に近づく。

「シロウちゃん、お部屋もどろっか?お菓子も買ってきたよ」

「お菓子」

 シロウの声だ。

 しかしそれは、伊藤の、真後ろから聞こえた。

「お菓子」

 部屋の入口に、シロウが立っている。

 え?とかあ?とかを言おうとした伊藤の喉を通ったのはかすれた息だった。

 シロウは手を伸ばしてお菓子をねだっている。部屋の入り口で。

 ではこの子供は?


 ぺたり、と手を握られた。


「キャアアアアアァァァァッッッ」


 自分の甲高い悲鳴を最後に、伊藤は目の前が真っ暗になった。







 ぺちぺち、と顔をひらたい何かで叩かれる。

「うう……」

 ぺちぺち、ともう一度叩かれた。

「はっ!」

 ばっと伊藤起き上がった。体中が痛い。隣でぼりぼりという音がする。

「ああ、シロウちゃん……」

 音の発生源はシロウだった。伊藤が自分用に買ってきたポテチを食べている。顔の周りがコンソメ臭い。どうやらポテチを食べた手で伊藤を叩いて起こしたようだ。

 周りを見渡せば、そこは先ほどの空き部屋だ。

 なんだか気持ち明るいな、と思い窓を見やれば、西日が差しこんでいた。

「夕方?!」

 急いで立ち上がる。コンクリートの上で長時間気絶していたらしく、道理で体が痛いわけだと伊藤は変な納得感を得る。

「あー食べちゃったか」

 お菓子あるよって言ったもんな。と伊藤はシロウの周りにあった菓子袋を拾い上げる。散乱した弁当類は手を付けられていないのだから、律儀なものだった。

「見張り代だと思えば安いもんか?」

 な、とシロウを見やれば、シロウは何も気にせず指に付いた粉をなめていた。

「またお菓子買ってあげるよ」

 伊藤の言葉ににこっ、とシロウは笑う。悪くない気分だった。

 原稿は進んでいないが、まあいいか、と伊藤は笑った。



 天井の大きなクレーターには気づかず。


 



 後日、作業場のビルが倒壊した。

 突然にも思えたが、伊藤は壁のひびや、奇妙な地震でおかしいとは思っていたため巻き込まれなくてよかった、程度にしか思わなかった。

 それらの異変がシロウが着た後なのは、おそらく偶然だろう、と伊藤は思うことにしている。

 作業場は不動産屋の紹介で新たに借りることとなった。

 今度はしっかりとリサーチを入れたためか、今のところおかしな現象は起きていない。担当の編集も今度は大丈夫ですね、と嬉しそうにしていた。

 何も変わらず、むしろ前よりも順調に伊藤は漫画家として仕事をこなす。

 しかし、ただ一つ、変わったことがある。


「あの、先生、ここ変更でいいんですか?」

「うん、変えちゃって」

 伊藤の返答に、アシスタントは少し納得いかないような顔をする。

 彼は伊藤のアシ歴は長い。心霊現象で逃げたというブランクはあるが、こうして戻ってくるくらいには熱心だ。

「路線、変えたんですか?」

 熱心ゆえに、ちょっとした意見もまっすぐに伝えてくる。

「うん、ちょっとね」

 伊藤は口ごもる。指摘されている点、たしかに描写的には変更前の方がよかったが、伊藤的には看過できなかった。

 おそらくこれはシロウとかかわったことによる唯一の弊害だろう。

「そのさ、子供の残虐描写、苦手になっちゃって」

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無敵のシロウちゃん 染谷市太郎 @someyaititarou

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