吸血鬼とショコラティエ
満月の夜はあっという間にやってきた。
アルフレッドのような理の内側にいる人間は、時の流れに逆らえない。それでも必死に食らいつき、自分の納得に足るだけのものは用意できた。チョコレートを入れた小さな箱を抱える彼の表情を見て、シンもまた期待に満ちた笑みを浮かべた。お互い黒のスーツに身を包み、厳かな式典に参加するときのように向かいあっている。
「そのチョコレートで私を殺せるかい?」
「やってみなけりゃわからんとしか言えないな。錬金術ってのはいつもそうだ」
夜の海から流れてくる風が、ふたりの髪をなびかせる。今いるところは屋敷の中庭で、このときのためにシンがわざわざテーブルと燭台を設置した。空にはぽっかりと丸い月が浮かんでいて、ことの行く末を静かに見守っている。
「では、宝箱を開けてみよう。中から出てくるのは金塊か、はたまた怪物か」
「お前が驚くことだけは、間違いないさ」
吸血鬼は眉をひそめる。そのあとで、うやうやしく箱を開けた。中に入っていたものを見て、アルフレッドの予想どおりに感嘆の声を漏らす。
「まさか……いや、そう来るとは思わなかったな」
金塊でも怪物でもない。中身は当然のように、チョコレートだ。
ただし、一粒ではなかった。
色やかたちも様々な甘い宝石が、箱の中を彩るように並べられている。
「数の指定はなかったからな、厳選して五種類ほど用意させてもらった。俺はお前やレオナルドほど一途じゃないもんで、ひとりの女に縛られたくないんだよ」
「しかし究極とは、玉座とはひとつであるべきでは」
「今のお前みたいにか? 絶対君主制なんて今どき流行らないし、セーブル王国だってずいぶんと前から議会制だぞ。これだから時代遅れの吸血鬼は困る」
シンはむっとしたような顔をする。反応がよろしくない、というよりあからさまに難色を示している。求められていたのは知恵と技術を結集させた最高傑作であり、味のバリエーションなどではなかったのだ。
だとしてもアルフレッドは、これが正しい答えだと確信している。
「いいから食ってみろ。チョコレートの奥深さを教えてやる」
「……君にそんなことを言われる日が来るとは思わなかったな」
不満げではあるものの、シンは最初の一粒を口に含んだ。それはゴツゴツとしたかたちで、アルフレッドは『トリュフ』と名づけていた。性格の悪い吸血鬼は、箱の中でもっとも見栄えが悪いものを選び、難癖をつけるつもりでいたのだろう。
「外は固く、中は柔らかく、二層にすることで食感の違いを楽しめるようにしたのか。味そのものはレオナルドのものと変わらないけど、これはこれで新鮮だね」
殺してやることはできなかったが、シンは当初の印象をあらためたようだ。次はどれを楽しもうかと悩むような手つきで、次の一粒を選ぶ。
吸血鬼が牙を立てて口に放りこんだ直後、アルフレッドのところまでふわっとラム酒の香りが漂ってくる。表情を見るかぎり、あえて感想を求めるまでもなさそうだった。
「レオナルドのレシピを忠実に再現できたとき、俺はこれで究極のチョコレートに近づけるのだと思った。だがそれは……とんだ勘違いだった」
チョコレートについての知識を深め、画期的な技法の数々を習得したにもかかわらず――最初に作ったときよりもずっと、その先にあるゴールが遠くなったように感じた。知れば知るほどカカオは新たな一面を見せ、試せば試すほど選択肢が増えていく。まるで広大な宇宙をさまよっているような、そんな感覚。
迷い、焦り、そのあとで足を止め、目の前に広がっている景色を眺めた。わからないことばかりで、知らないことばかりで、だから何度も何度も、試行錯誤を繰り返していく。
「今となっちゃお前に感謝するよ。どれだけやっても新たな発見があるんだから、こんなに退屈しない研究対象はねえ。そのうち究極とはなにか、なんて考えるのが馬鹿らしくなってきた。だってそんなもん、星の数ほど転がっている」
チョコレートは可能性の塊だ。新たな出会い、思いもしなかった体験の連続だ。だからアルフレッドは、そのときの感情を中にこめることにした。
「そうだね。確かにこれはひとつに絞ることなんて出来やしない。なぜなら私自身が感謝している。君が作った一粒一粒の、チョコレートとの出会いに」
「ご満足いただけたか、吸血鬼」
「もちろんだとも! 私は今まで、これほどの生きがいを感じたことはない!」
シンは手が止まらないというように、箱の中の宝石を次々と口に入れていく。オレンジピールをチョコレートでコーティングしたもの、ローストしたナッツやアーモンドをすり潰して練りあわせたプラリネ、フランボワーズを混ぜて鮮やかなピンクに染めたものまで、一粒一粒の遊び心を心ゆくまで堪能した。
そうしているうちに吸血鬼の瞳は輝き、全身もまたほのかな燐光を帯びていく。しかしそれは狼男たちを焼きつくしたおどろおどろしい色ではなく、さながら月光に包まれているかのような黄金色の輝きだった。
アルフレッドは理解する。吸血鬼は満足したのだと。千年を越す長い長い生涯に終止符を打ち、数多の生物がそうであるように、灰となって散っていく。その表情に後悔の色は微塵もなく、あるのは甘い甘いチョコレートを味わい恍惚とする、甘美な幸福。このまま死んでもいいと思わせる、生の実感だ。
シンが光に包まれていくのを眺めながら、錬金術師もまた探究の終わりを感じとった。呪われた宿命を背負った吸血鬼の望みを叶え、二百年前の天才がなし得なかった偉業を達成し、自身もまたようやく、自由の身となる。
明日からまた一からやり直し、根なし草の錬金術師としての再び歩みださなければならないが、チョコレート作りの経験はきっと、これからの探究にも役立つだろう。
心の中を満たすのは達成感――。
「待った! このまま逝くのは早いぞ、吸血鬼!」
「どうしたんだ急に。まさか今さらになって別れが惜しくなったのか? 君にそこまで想われていたなんて光栄だな。このチョコレートの中には愛情も……」
「違う! なんでもかんでも自分の都合のいいように考えるな! 俺が言いたいのはそういうことじゃなくて……くそ、どうしていつもこうなるんだ」
アルフレッドは苛だたしげに舌打ちする。このまま黙って見送って、吸血鬼を逝かせてしまえば大団円。すべてが丸く収まるのに、わざわざ余計な茶々を入れようとしている。
だとしても、錬金術師として黙っていられなかった。
なぜなら今、自分の心を支配しているのは――達成感ではなかったからだ。
「こんなところで満足するなよ、吸血鬼。次はもっとすごいものを作るぞ」
「……なんだと?」
ああ、言っちまった。いつだって思っていることをぜんぶ口にして、自分で窮地を招いてしまう。しらを切って見て見ぬふりをしていればいいのに、間違ったことに気づくと、訂正せずにはいられなくなってしまうのだ。
アルフレッドは夜風で乱れた髪を手ぐしで整え、眼鏡をかけなおす。そうして心を落ち着かせたところで、自分が感じていることを正直に打ち明けた。
「チョコレートの魅力が、そんな小さな箱ひとつに収まると思うか? 可能性に限界はない。探究に終わりはない。俺がこの手で作り続けるかぎり、明日には明日の究極があり、それが積み重なって想像を遥かに超えたものが生みだされていく。なのにお前は、これから先のチョコレートを味わうことができない」
「今を、満足してしまっているから、か?」
「そうだ。新しい夜明けを見ないで終わるなんて、もったいない」
シンはしばらく黙りこんだあと、いきなりおおきな声で笑い声をあげた。光に包まれて今にも灰になりそうな雰囲気なのに、アルフレッドの言葉を聞いてからはギリギリのところで踏みとどまっている。
このふざけた吸血鬼との別れが名残惜しいなんて、銀匙一杯ぶんも感じちゃいない。いや、それくらいならあるかもしれないが、いずれにせよたいした量にはならない。だからこれは、あくまで打算による提案なのだ。きっと。
「今後もお前のためにチョコレートを作ってやる。しかし当然、相応の対価は要求するぞ。……ルヴィリアの王として俺を支援しろ。お前は貴重な金ヅルだ。ゴルドック商会の連中がまた命を狙ってくるかもしれないし、今ここでうしろ盾を失ったら困るんだよ」
「まるでプロポーズみたいだね。君の愛情だけで逝ってしまいそうだ」
「勘違いするな。これはあくまで主従の逆転だ。俺がご主人様になり、お前は卑しい家畜になりさがる。わかったら地べたに這いつくばって、ワンと鳴け」
挑発的にそう言うと、吸血鬼の王はその場で跪いた。さすがに犬の真似こそしなかったが、誓いを立てる騎士のようにアルフレッドの手を取る。
慌てふためいたのはやられたほうである。まさか本当にそんな真似をするとは思っていなかったのだ。ぎょっとして手を引っこめようとするのだが、手錠をかけられたようにびくともしない。シンを包んでいた黄金色の光は消え、かわりに瞳がぎらぎらと赤く輝いている。
「誓いましょう、愛しの姫。私はチョコレートの、そしてあなたの下僕だ」
「姫じゃねえ! どっから出てきたその発想は!」
「嗚呼、さっき満たされすぎたせいで消耗してしまった。生き血をすすらないと存在を維持できなくなりそうだ。というわけで少しばかり、分けていただけないでしょうか?」
「待て待て待て。しかもそれじゃ俺の丸損じゃねえか!」
「大丈夫。日を空けておけば吸血鬼にはならない」
そういう問題じゃない! と言う前に、シンが組み伏せるようにして首筋に歯を立てた。この吸血鬼は呆れるほど強欲で、しかもとことん容赦がない。チョコレートもアルフレッドも愛おしすぎて、両方とも堪能しなければ気が済まなくなってしまったのだ。
アルフレッドは裏切られた屈辱と、それでもつい快感に身を委ねてしまい羞恥に顔を真っ赤に染め、中庭の地べたで泥まみれになりながら、必死にもがく。
しかし嫌がれば嫌がるほど興が乗るのか、シンの瞳はいっそうぎらぎらと輝いていく。身につけていたジュストコルもベストもブラウスも包み紙のように剥がされ、隠されていた胸板があらわになった。血を吸われるごとに四肢はびくびくと震え、アルフレッドはやがて――チョコレートのようにとろけていく。
すべてが終わったあと。
吸血鬼は、死ぬまでずっと一緒だよと、囁いた。
錬金術師は、殺してやると、呟いた。
吸血鬼とショコラティエ 〜天才錬金術師の甘美な探究〜 芹沢政信 @yurufuwa
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