白(アキ)の境に舞う金烏 後篇

 

 イチの妹のルルチェは、わたしにとっても妹のようなものだった。小さな頃から優しくて、親がルルチェに何かを与えようとする時には必ず「レミアの分も一緒につくって」とルルチェは親にせがんだ。

 わたしの膝を枕にしてルルチェが昼寝をしている。わたしは伸びかけているルルチェの短い髪を撫でる。衣もくつも髪飾りも何でもお揃いだったから本当の姉妹のようだと云われてわたしたちは育った。わたしがこの邑で生きてこれたのはルルチェのお蔭だ。

 太陽が金色の翼をはばたかせて天頂に上がり、また地平に落ちていった。何かがおかしかった。洪水が引いた後、いつもなら、しばらくすると翼が落ちていつもの太陽に戻るのだ。

 ところが、今年はいつまで待っても太陽は西へと向かわなかった。

 それはわたしのせいだと云われはじめた。ルルチェが庇ってくれたが、次第に高まっていく邑人たちの非難は止められなかった。

 太陽から羽根が落ちないのはレミアのせいだ。一日が元通りにならないのはレミアのせいだ。レミアのあの腹。あの女は、神へ捧げる人柱を穢したのだ。

 膨らみが隠せなくなってきたわたしのお腹を指して邑人たちはわめいた。証拠もある。

「人柱のいた洞穴に、レミアの足飾りの貝とおなじ貝殻が落ちていた」

「俺の子だ」

 デパが両腕を広げてわたしを背中に庇った。

「レミアの腹にいるのは俺の子だ。レミアとの結婚は俺の親もゆるしていることだ。腹の子は俺の子だ。レミアも認めるさ。なあ、レミア」

 血走った眼と強い口調でデパがわたしに首肯を促していたが、わたしは黙ってデパからも邑人たちから背を向けて、乾いた道を海に向かって歩きはじめた。一匹の白蛇がわたしの後をついてきた。


 

 ほら、レミア。

 星が揺れているだろう。

 イチが或る時、わたしを海崖に連れて行ってくれた。雨上がりの夜だった。海崖に群生している草花にたくさんの雨の雫がついていて、それが月の光に照らされて一面に煌めいていた。すべて星にみえた。

 洞穴にいるイチの世話は邑の女たちが交替でおこなった。わたしも行くように云われたが、わたしは頑として行かなかった。イチが人柱に決まった時から二度と逢わないと決めていた。もしイチに逢ったらわたしは取り乱して、世話になってきた邑のためにならないことを仕出かしそうだった。

 しかし夏のはじめ、イチが人柱になる日が近づいてくるにつれて、ついにわたしもイチの閉じ込められている洞穴を訪れた。最後に一目逢いたかった。

 そこにいたのはわたしの知るイチではなかった。

 閂を外して洞穴の中に入ると、中は岩盤の隙間から差し込む外の光で存外に明るかった。

 わたしを抱いている間だけはそんな顔をしないで。

 糸状に落ちてくるおぼろな光は洞穴を海の底のようにみせていた。わたしはイチを少し懲らしめるようなことをしたが、イチは何度振り払ってもにこにこと薄く笑い、またわたしに抱きついてきた。潮風に晒されていたイチの身体は、一年の幽閉の間に女の胸から出る乳で磨いたように、すべすべしたものに変わっていた。

「わたしの知るイチじゃない」

 わたしは泣きながら両腕でイチを突き放し、突き放してはかき抱いた。

「イチは日に焼けていた。小さな頃から大人の男のように独りで舟を漕いで魚を獲っていた。透きとおる青い海に潜ってわたしとルルチェにきれいな貝を取って来てくれた。わたしのイチは熱い身体をしていて、日なたの匂いがするの」

 わたしの中に入ってきたイチは土を掘る獣のように動いていた。その間もよく分からない声とよだれを口の端から垂らしながら、にこにこしたままだった。

 日焼けした腕でわたしを抱き、その熱い唇でわたしの身体を覆ってくれたイチは何処に行ってしまったのだろう。

 すると、イチがわたしの耳もとで囁いたのだ。昔のままのイチの声で。

 レミア、何処にいようとも必ずお前のもとに駆けつけるよ。



 わたしの幻聴だったのかも知れない。でもわたしは確かにイチの声を聴いたように想うのだ。



 海に向かって歩いて行くわたしを邑人たちが農具を手に持って追いかけてきた。あの女を殺せ。太陽を取り戻せ。

 分厚い雲が流れるようにして、海も野原も暗くなったり明るくなったりしていた。地を這う白い蛇はやがてわたしに追いついて、わたしの足首に巻き付いた。イチからもらった虹色の貝殻を飾ってある左側の足だ。

 あの女を殺せ。神に捧げる人柱を犯した女を殺せ。

 背後の声は大きくなっていく一方だった。ルルチェとデパが邑人たちの前に回って彼らの勢いを押し止めようとしては乱暴に押し退けられていた。

 わたしが死ねば、太陽が西に沈み、安らぎの夜が訪れるのだろうか。夕焼け空と月が甦るのだろうか。

 前方に海が見えてきた。

 

 誰が最初にそれに気づいたのかは分からない。みんな同じものを見ていた。海原に舟が浮かんでいた。小さな舟の中には死んだはずのイチがいた。

「イチ」

 イチが舟の縁に片足をかけて蹴り上がった。飛び石を跳んで渡るようにして雲を踏み越え、海の上の舟から太陽に向かって駆け上がっていた。イチの姿がはるか彼方の上空で宙返りする。イチは翼を広げて飛んでいる太陽の真上に降下した。

 燃える翼をはためかせて太陽は身をよじったが、イチはそのまま太陽の背に飛び乗っていた。イチはルルチェの捧げた三つ編みを太陽に巻き付けて、手綱のように強く引いた。

「イチ」

「兄さん」

 わたしとルルチェは太陽を乗りこなしているイチの姿を空に追った。太陽は黄金の水たまりのように空に浮かんでいた。イチは誇らしげに顔を輝かせ、金の球体を踏みしめているその両足は、荒れる波の上でも揺るがなかった船乗りのイチのものだった。太陽は空中を飛び回った。イチは手綱を操り、愉しげに笑っていた。

「イチ」

 わたしは太陽を追いかけて走った。どこまで走っても追いつけない虹のふもとを探すようにイチを追いかけた。草の波を踏んで野鹿のように崖のふちに沿って追いかけた。

「連れて行ってイチ」

 沖合の釣り舟から手を振っていた時のように、太陽に乗って天海を飛んでいるイチがわたしの姿を認めた。イチが空からわたしに笑顔を向けた。

「イチ」

 わたしも連れて行って。わたしもイチのところに行きたい。

「レミア」

 後ろでルルチェが叫んでいる。すぐに声が遠くなる。代わりに足音を立てて追い駆けてきたデパがわたしの腰に腕を回した。デパはわたしの身体を持ち上げて陸の方にふり向けた。わたしは腰帯から鎌を引き抜いた。振り上げた鎌の刃をデパの片腕に突き立てる。呻き声をあげてデパがわたしを手放した。転がったわたしは立ち上がり、また海に向かって走っていった。左足に絡みついている蛇のことは憶えていないが、多分、わたしと一緒に附いてきていた。

 邑に来たばかりの頃、木陰に腰をおろして傷んだ漁網の修繕をしている漁師たちの魔法のような指遣いが珍しくていつまでも見ていた。しゃがみ込んでじっと見ていると、まだ少年だったイチが「そんなに見つめられると、やりにくい」と笑い出した。

 レミア、この子は妹のルルチェだ。

 あっちでルルチェと遊んでおいで。夕方になったら迎えに行ってやるよ。 

「イチ」

 崖からわたしのつま先が離れた。わたしは空にいるイチに向かって真っ直ぐに跳んだ。



 雨上がりの大空に、レミアの貝殻を呑み込んだ蛇が現われていた。

 レミアは崖から海に落ちて死んだ。邑人はそう信じている。

 わたしの名はアカミア。

 父はイチ。母はレミア。

 わたしは海崖から落ちた母の胎内から飛び出して、空高くあがると、イチの妹であるルルチェの腕の中に雨粒のように降りてきたという。レミアは崖から落ちたのではなく、空に吸い上げられて消えていったとルルチェだけが語っている。どちらでも構わない。それを見たのはルルチェだけなのだ。

 ルルチェに育てられたわたしは生まれた時から音が聴こえなかった。その代わり異能をもっていた。母のレミアを追放した邑人たちはわたしが通ると身を伏せて額を泥土に擦りつける。

 近くの邑だけでなく、遠くの国の王の使者までわたしの許にやって来る。彼らはわたしに懇願する。雨を降らせてもらいたい。日光をもらいたい。

 わたしを巡って大きな国が邑に攻めてきた。異能のわたしを奪いに来たのだ。突如起こった大火事に王の兵は燃え尽くされ、逃げていく王の兵を太陽から放たれた火矢が射抜いてなぎ斃していった。わたしを奪おうとする者たちは二度と邑には来なかった。

 熱と光を放つ太陽をわたしは御せるのだ。わが厳父の為すことを見よ。いかなる王も軍勢も日輪を操るわたしの足許にひれ伏す。

 十四才になると、わたしと交わる男が選ばれて夜にやってきた。片腕のない男はわたしの肌を湿った唇で覆い、わたしの中で蠢きながら母レミアの名を呼んでいた。翌朝、男はわたしの命令で大樹の下に追いやられ、毒蛇に全身を咬まれて暁のなかで悶え苦しみながら死んだ。片腕のない男はわたしの耳が聴こえないと想いこんで打ち明けたのだ。

「イチのいた洞穴にレミアの虹色の貝殻を落としたのはこの俺だ」

 愚かな男。窮地に追い詰めればレミアがわがものになるとでも想ったか。

 片腕のない男の種はわたしの中に芽吹かなかった。また同じことを試してわたしは子を産むだろう。育ての母のルルチェが産んだ何人かの男子を使いまわして、それは果たされるだろう。まだ幼い彼らは毎朝わたしの篭る高床の宮の前を掃き清めて花を捧げにくる。たどたどしく彼らは膝を折ってわたしに祈る。

「アカミアさま。今年も豊穣となりますように」

 日光に眼を灼かれ盲となるひ弱で醜き者どもよ。わたしは彼らを軽蔑もし、慈しみもする。遠くの国の王がやって来て、やせ細った手から武器を手放し非力を羞じて地に倒れ息絶えた。邑を襲った王の国には干ばつを起こしておいたのだ。


 邑は王の国を吸収し、邑が国となった。わたしはこの国の女王となった。

「アカミアさま」

 国は大きくなった。邑の大樹の前でわたしの前にかしずく人々の列は地平にまで伸びて果てがない。

 わたしの手は作物を育てる熱と水を大地に広く落としもすれば、麦畑を一瞬で焼き焦がす火炎を立ち昇らせもする。

 空を仰げ。黎明を告げる円盤が今日もまた空を渡り西の空を燃え尽くすのを見るだろう。大風に揺れる星々と山河をめぐる孤狼の咆哮が凍てつく冬と嵐の訪れをわが前で唄っても、わたしは何にも脅されぬ。

 洪水の秋がこのさき何度こようとも、いまは人柱を捧げるかわりに、わたしの力が月を動かし渦巻く白波を畠の手前で押し戻すのだ。

 わが父は太陽のイチ。母は月のレミア。この地に降りそそぐ熱き陽炎は父イチに抱かれし母レミアが放つもの。唸りをあげる青い風がわたしの髪をかき乱し、わたしの背後に昇る陽がわたしの頭上に光輪の王冠をつくる。

 蒼ざめた死は実りの祝いの席を穢すことすら出来ぬのだ。

 幾度めかの秋がまたやってくる。白炎が翼のように左右に伸びていく。空を見よ。レミアに愛を求めてイチが踊る三年に一度の刻がきた。

 太陽が舞いはじめる。



[了]

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白の境に舞う金烏。 朝吹 @asabuki

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