白の境に舞う金烏。
朝吹
白(アキ)の境に舞う金烏 前篇
太陽が舞っている。三年ごと、この季節になると太陽が舞うのだ。
洪水が引いた後の浜辺をルルチェが走ってきた。髪の毛がほとんどないルルチェの頭はまるで食べつくした後の果物の芯のようだ。
「レミア、水が引いた。太陽の舞いが終わる」
「分かってる」
洪水となって押し寄せた海水が海岸の岩場の窪みに水たまりとなって残っている。青くかがやいて、空の破片が落ちてきたようだ。水の中に踊る太陽が映っている。
「お空に太陽は一つなのにね」
ルルチェがあたりに散らばる水たまりの中の太陽の数をかぞえた。
わたしとルルチェは手を繋ぎ、空を仰いだ。
燃える翼のように放射状の光を左右に長く伸ばし、金色の太陽が空を舞っている。舞い上がっているとしか云いようがない。巨大なからすのように太陽は東の空から天頂めがけて羽ばたいては落ち、羽ばたいてはまた落ちるのだ。そのたびに視界は暗くなったり明るくなったりする。
時々、光の翼をもった太陽はぐるぐると高いところで踊り始める。あれは日輪が、愛人の月に求愛をしている踊りなのだという。そしてまた東に落ちていく。完全には落ち切らない。だから闇には閉ざされない。空は夜明けの薄明になったかと思えばまた舞い上がる太陽によって明るくひらけていく。何度もそれは繰り返される。
いったい一日に何度、翼を広げた太陽は東の地平から高みを目掛けて上がったり下がったりしているのだろう。数えようと試みた者がいたとしても、数えきるのは不可能だ。天頂より向こうには太陽は動かず、日が暮れることがないために、どこからどこまでが一日なのか、境目が分からないからだ。
太陽が翼をもって踊るこの期間、わたしたちはたとえ夜であっても明るい中で暮らさなければならない。眠くなるので今が夜だと分かるが、本当は昼かもしれない。夜と昼がわからない。
薄い紗をかけられるようにして、眼の前がまた暗くなった。
翼をもった太陽は東から昇り、南から西には弧を描かない。東の地平に沈みもしない。夕暮れもない。しかし太陽が舞いを始める兆しはわかる。
三年に一度、
今年がその三年に一度の秋だった。収穫の直前に洪水はやってくる。
「レミア。ルルチェ。人柱となる男が決まったよ。お前たちにゆかりの深い男になった」
太陽が舞う一年前に人柱となる生贄は
陸に打ち上げられて死んだ魚は腐る前に海鳥の餌になる。洪水の過ぎたあとに海鳥のたべない石や貝が浜辺一面に散らばって遺されていた。ルルチェが薄桃色の貝を拾い上げた。
「兄さんを捧げたお蔭で、邑が無事でよかったね」
人柱にされたのはルルチェの兄のイチだった。頭が溶けて楽しい夢をみる草の実を一年かけて少しずつ食事に盛られたルルチェの兄は、夢をみながら小舟で離岸流に流された。イチは神さまの国に往くのだから誰も哀しんではいなかった。
邑人の中でもっとも美しく強いものが人柱に選ばれる。だから人柱はイチになった。
白い衣をまとわされたイチは舟と一緒に何処かへ行ってしまった。わたしもルルチェと共に海崖からそれを見送った。それなのに、わたしを見つめるイチの笑顔がまだ近くにあるようだ。わたしの髪を湿らせて揺らす海風はイチの指のようだし、森の葉ずれの囁きはイチの声だ。太陽の熱に温まって潮の香を立てるぬるい水たまり。わたしの身体の内にいたイチが、想い出となってわたしの深いところから呼んでいる。舟と一緒に消えてしまったイチ。
今すぐ海の底から戻ってきて。
わたしはあなたの処になんとしても走っていくから。
ルルチェの髪は生まれたての赤子のように短くなっている。長くのばしてきた髪を生贄の儀式のために切ったからだ。切り落とされたルルチェの髪は長い三つ編みにされてこれも神への供物となり、イチと一緒に小舟にのせられた。
わたしとルルチェは三日月型の鎌を使って実った作物を畠で刈り取っていた。
「レミアの刃、欠けてるね」
「まだ使える」
ルルチェだけでなくわたしもイチの妹のようなものだった。幼い頃、木陰でわたしとルルチェが藁で作ったお人形を抱いてままごと遊びをしていると、通りがかったイチはわたしたちの人形のお椀の中に、海辺にしか咲かない花を一つずつ入れてくれた。大人の男たちに混じって漁から帰ってくるイチの足の脛にはよく魚のうろこが付いていて、きらりと光る薄いうろこからわたしは眼が離せなかった。本当はイチの顔をまともに見るのが恥ずかしかったのだ。
あまりにも魚のうろこばかりを見ているものだから、虹色にかがやく珍しい貝をイチはわたしのために海からとってきてくれた。
少し呆れてイチは笑っていた。
「光るものに眼がないなんて、まだ小さくてもさすがは女だ」
イチが、虹色の貝をわたしだけでなく妹のルルチェにも、邑の他の女たちにも渡していたと知った時は、畦道にイチを追いかけてイチをなじった。イチは困った顔に笑顔を浮かべて、身をかがめ、わたしの首に手をおいた。
「それでは、この次に取って来る貝殻はレミアだけにあげよう。穴をあけて長く繋げて、首飾りを作ってあげよう」
その首飾りは今、わたしの左の足首を飾っている。わたしが大きくなるにつれて糸が切れたり貝が割れたりして数が減り、それだけの長さしか残っていない。
わたしは臍のあたりに片手をおいた。わたしの腹にはイチの子が宿っている。いつも日に焼けていたイチの身体。人柱に選ばれてからは洞穴に閉じ込められていたせいで、肌が白く変わっていた。そこでイチは無垢な赤子に戻る薬草を少しずつ食事に混ぜられていったのだ。
いつまでも子どものような笑顔を残していたわたしのイチが、本当に子どもになってしまった。記憶を失くして赤子になってしまっていた。
「レミア。家まで送ってやるよ」
刈り取ったものを籠に入れて運んでいると、デパが寄って来た。イチがいなくなってから、わたしに対するデパの馴れ馴れしさが増していた。わたしは畦道の前方に見えている大樹との距離をはかった。
デパはわたしの持つ籠の中を覗き込んだ。わたしはデパから籠を隠すようにして速足で歩いた。
「鎌を見せてみろ。刃こぼれしているのではないか。切り口がいびつだ。貸してみろ、俺が砥いでやる」
「いらない」
「邑の連中や俺の親は、レミアと俺が一緒になればいいって云ってるよ」
「隣り邑の女の処に通ってるくせに」
「あんなの。あんなのは、みんながやることだ」
「デパと夫婦になるなんて、わたしは嫌」
「女はみんな最初はそう云うんだ」
わたしは笑い出した。体格だけは大きくなったが、デパはわたしよりも年下だ。女を知って一人前の男みたいな口を利くようになっているあたりがまだ半人前の証拠だ。
わたしは元々、戦の捕虜として山の方からこの邑に連れて来られた。山岳の邑の長のむすめだ。小さかったので邑の女たちに可愛がられて、邑の養女のようにして邑の子と変わらず育ててもらった。成長するにつれてなんだかんだと面白くないことを云ってくる同じ年頃の女たちも増えたが、逆に男たちはわたしに対して優しくなった。デパはそのうちの一人であり、邑の有力な家の子だ。
「レミア」
デパがわたしの前に回り込んでゆく手を塞いだ。女にその気がある時の男の眼は舟に釣り上げられた直後の魚の目玉のように光っている。ちょうど太陽が東に落ちて、辺りは大雨が降る直前のように薄暗かった。わたしはもう一度、大樹までの距離をはかった。荷を捨てて走れば逃げ切れる。
邑の大樹は神さまが植えた樹だと云い伝えられていた。幹の太さは大人が十人、手を繋いで回ってみても届かなかった。
「この樹の下には女しか来れぬのだ」
「男の人が来たらどうなるの」
「蛇に咬まれて死ぬのさ。それも世にも怖ろしい苦しみ方をしてな」
大樹には白い蛇がたくさん棲んでいて、蛇は枝から枝へと、巻き付く蔦のようにするすると移動していた。
デパの伸ばした腕がわたしの肘を掠めたが、デパに捕まる前にわたしは逃げ切った。大樹の根元をぐるりと囲う石を並べた聖域に駆け込んでいた。わたしの肌に触れてもいいのはイチだけだ。
「今度わたしに触れたらこの鎌でデパの腕を切り取ってやる」
わたしは刃こぼれした鎌を振り上げた。デパに応じるふりをして隙を見て逃げ出したわたしよりも、デパの方が荒い息を吐いていた。ふたたび舞い上がった太陽が辺りを麦の色に照らしつけ、大樹の影が色濃く変わった。デパは雄牛のように汗を流し息をついていた。わたしはデパの鼻先に鎌の先端を突き付けた。
「必ずその腕を切り落としてやる」
小さな白い小石に隔てられたデパは泣き出しそうな惨めな顔をして、わたしを見つめたまま大樹の根の這う斜面に傾いて立っていた。
》後篇
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます