<<第六章 ~終わる楽園~ 70>>

「ふふっ、うふふっ!」

「そんなに嬉しいのか?」

「当然でしょ? だって、貴方からの贈り物なんだもの・・・嬉しくないわけないわ」

 道を歩きながら、男の腕へと強く抱きつく。その柔らかな感触に慣れることができず、男はどうしてもそういうことを考えてしまう。それを少しでも紛らわすために、少女の指をみる。抱きつく少女の左手に、その指に輝く物があった。男から送られたエンゲージリングだった。初めて身に着けられて有頂天のようだった。

「しかし・・・」

 それを手に入れた流れを思い返す。あれから男は会社で作った人脈を使って、信頼できるそういった店を紹介してもらった。幸いというべきか、あの時家へと上り込んできた二人がそういった噂をしてくれたおかげで、説明の手間が省けた。むしろ、ようやっと身を固める覚悟をしたのかと言われてしまい、早く買いに行ってやれとまで言われてしまう始末だった。

 因みに、婚約者として少女の画像を見せたところ、全員から『ロリコン』と言われてしまった。本当の年齢では、男よりも遥かに年上なのだが、そこは絶対に言えなかった。なので、それほど離れた歳ではないとだけ伝えたが、それでもやはり『ロリコン』が撤回されることはなかった。

 そして、昨日その紹介先に行き、少女に見合う物を選んでもらった。ありがたいことに話しが通っていたのか、ある程度なら融通をきかせてくれた。ダイヤの大きさ、指輪のサイズ、店の在庫状況、刻印は不要、金銭面も問題がないなどなど、本来簡単に手に入るわけがないのに、運よく形としての婚約指輪は確保できた。本当ならもう少し時間をかけたいところだったが、少女の希望もあって当日購入という流れになった。なにせ少女が『結婚指輪には時間をかけるから、今は形としての指輪がほしいの』と、切なげに訴えかけたからだ。そうなると今度は式がいつになるかとか、そういったややこしい逆算の話になったが・・・そこはまた後日年明けにということにして、申し訳ないと思いながらも、絶対にやってこない未来へとぶん投げた。

 それでも、限られた中で選択されたことを考えれば(それ相応の金額も払っているので)、決して悪くはないものだということはなんとなくわかった。

「本当に運が良かったな。俺、これで一生の運を使い果たしたかもしれん。とはいえ・・・・急ごしらえで悪い」

「どうして謝るの? できる限りのことをしてくれたのだから、私はとっても嬉しいわ」

 天使のような顔で微笑まれると、それに見惚れて何も言えなくなってしまう。

「貴方・・・? どうしたの? ぼーっとして・・・・」

 見上げてくる少女の視線で我に返る。

「すまん・・・お前が綺麗で見惚れていた」

「・・・ここ数日から、かわいいって言ってくれなくなったわね・・・・もしかして、かわいく無くなっちゃった?」

「いや、かわいいぞ? だからそんな顔しないでくれ。ただ・・・・」

「ただ?」

「最近のお前は・・・かわいいのに綺麗だ。いや、綺麗でかわいいって言った方がいいのか?」

 契りを交わしたあの日から、少女は女としての魅力が急激に研磨されていた。容姿がどう変わったとかそういうのではなく、少女の持つ雰囲気がどことなく魅惑的な色を帯びてきた。おかげで夜が来るたびに男は・・・・

「・・・どうもよく分からん。だが、お前が魅力的になっていることは間違いないぞ?」

「そう・・・? ふふっ、だったらいいわ」

 ぴったりとくっついて歩いていく。もうすぐクリスマスということもあり、こういう行為にも、あまり問題がなさそうだったのが救いだった。

 喜びが絶えない笑みで、少女の視線は左手にはめられた指輪にあった。本当に、心から嬉しそうに見ていた。少女にとってそれは、男の女であることの証だった。

 ただでさえ可愛い少女が、より魅力を増した状態でそんな姿を見せているのだから、他の男が振り返らないわけがなかった。今の少女を放っておいたら、間違いなく男が群がってくるのは目に見えていた。

(指輪つけとけば虫よけにはなるよな・・・?)

 なので、この指輪は男にとっても有難かった。

 そんなこんなで、いちゃいちゃしながら歩いていくと、男が働いている職場に近づく。指輪を買ったらその相手を見せてくれといわれていたので、わざわざ婚約者(実際は妻)である少女を連れてきたのだった。助けてもらった以上、筋は通しておきたかった。

 時刻は昼間。ちょうど休みに入って一番暇な時だ。

 いつものように裏口から入っていき、階段を昇って休憩所までと歩いていく。案の定、そこから漏れてくるいつもの声や雰囲気から、だいたい全員が集まっており、男が連れてくる婚約者を待っていた。

「・・・大丈夫か?」

「・・・ええっ」

 どことなく緊張したような面持ちの少女に声をかける。極力、人との接触を避けていたので、人前が苦手だった。それでも、今回の件に関しては出てくることを選択した。指輪を探してもらったことへの感謝もあるが、もしかしたら男の女であることを知られたかったのかもしれない。

「無理そうなら今から引き返しても・・・」

「それだと、貴方が約束を守れない人になってしまうわ。そんなのはいやよ。わたしならだいじょうぶよ? ただ・・・」

 組んでいた腕が解かれ、そのかわり手を強く握りしめられる。

「この手だけは離さないでね・・・?」

「ああ。じゃあ、いくぞ?」

 頷いたことを確認して、休憩所の扉を開ける。それに気づいた人物が誰よりも早く声を上げる。

「あっ! やっと来た!」

 そうなると視線が男へと集まった。全員がテーブルの席についており、昼食をとりながら待ち構えていた。

「・・・こんにちは。わざわざ休みなのに、ちゃんと連れてきましたよ?」

 そういうと口々に野郎連中から声が上がる。早く見せろだの、このロリコンがだの、昨日からクリスマス超えるまで有休取っているリア充のことなんざ知るかなどと、好き勝手に言われる。もちろんネタである・・・そのはずだ。

「分かってますよ。ほら、来ても大丈夫だぞ?」

 その声を聞いて、婚約者である少女も姿をみせる。長い純白の髪に、見目麗しい容姿。その眼は闇夜に浮かぶ満月のように静かに輝き、儚くて美しい金色を滲ませていた。

 息を呑むような、可憐さと美しさを備えていた少女の出現に、部屋の時間が止まる。

「あの、この度は・・・ありがとうございました」

 ぎこちないお辞儀をする。不慣れなそれは微笑ましいものであったが、実際にみた少女の存在感に圧倒されていたため、誰も感情を現すことができないでいた。

「えっと・・・どうしたらいいの?」

 無反応に困り、男へと助けを求める。そんな少女の頭を男が撫でてやると、ようやっと反応が返ってきた。

「・・・・人前でいちゃつくなよ」

「頑張ったから頭撫でることの、なにがいちゃつきなんだ?」

 男がそれに返事をすると、それが合図であったかのように周囲からも声が上がる。

「うわ、無自覚とか・・・これは重症なパカップルだ」

「というよりも、写真で見た時よりも可愛いとか反則だろ?!」

「逆にかわいすぎて現実味がないわー」

「えっ? どっちかというと・・・雰囲気は美人じゃない?」

 そんな感じで口ぐちに言いだす。

「はい、じゃあ・・・質問っ! プロポーズの言葉は何でした?」

「えっ? あっ・・・その・・っ?」

「落ち着けって」

 急に話を振られて慌ててしまった少女。それに男は抱きしめて、頭を撫でてやることで対処した。途端に全員から様々な声が上がる。その言葉に少女だけが顔を赤くしていく。

「も、もうだいじょうだから・・・離れましょう?」

「そうか? だったら適当に質問にでも答えてやってくれ。俺は最近根掘り葉掘り聞かれたんでな」

 言いながらあいている席を見つけ、そこに移動して少女と共に座る。そうして、質問に答えていくことになった。

「じゃあ、落ち着いたところでもう一回。プロポーズの言葉は?」

「・・・結婚・・してくれ・・・だったわ」

「あ~、なに? この可愛い生き物! これくらいで赤くなるとかピュアすぎでしょっ!」

「他に何か言われなかったの?」

「えっ? 他は・・・俺の命はお前にやる。だから、俺はお前をもらうって、言われたわ・・・・」

「「「ええっ?!」」」

 全員が男を驚きの目で見る。

「なんだ? それくらいは普通だろ?」

「「「絶対普通じゃない!」」」

 どこか人とずれている、おかしい、私だったら引くわ、そういった言葉に少女は胸が苦しくなる。男が否定されていることが辛かった。なのに、男はそんなことを気にするそぶりもなく、会話をこなしていく。元々の流れが普通ではないので、そういわれるのは仕方がなかったが、それでも好きな人を否定されていい気分になるものではなかった。

「ねえねえ、キスってあいさつ代わりにしたりしているの?」

「えっ? 別にあいさつじゃなくてもするわよ? 例えば・・・」

 隣に座っている男の頬へと唇でそっとふれる。それを見て上がる甲高い声。

「したいときに、こんな風にするわ・・・・」

 本当は口にするが、注目されている中でそれは流石に恥ずかしいので、今は頬で我慢しておいた。

「アツアツね~! なんというか羨ましい!」

「でも、それも初めだけだからね? 慣れてきたらすぐにマンネリ化するわよ」

 この言葉には抵抗したくて、男の腕を見せつけるように抱きしめて返事をする。

「だいじょうぶよ? わたし、ずっと彼を愛しているから・・・マンネリ化なんてさせないわ。そうでしょ?」

 最近身についてきた艶やかな笑みを浮かべた後、愛する男へと視線を送る。それに心を奪われない男などはいなかった。この瞬間、男性陣から羨望と嫉妬の混じった視線を受けることとなった。綺麗、可愛い、美しいと三拍子がそろった異性を娶れるなど、男目線としては最高レベルの勝ち組だったからだ。

「・・・と、未来の奥様は言っていますが、旦那としてどうなんですか?」

「あ? ああ・・・それは・・・・」

 豊麗な胸部に腕を挟まれ・・・いやでも意識がそちらに残ってしまう。少女はそれを天然にやってしまう。計算のない色仕掛けに、日々男は手玉に取られている気分だった。

「毎日が刺激的だよ・・・慣れないと俺の身が持たなさそうなくらいにな・・・・・」

「えーと、つまり奥さんの方が積極的ということ?」

「そうだな」

「何言っているの? 貴方だってそうじゃないの。この間なんて・・・」

「それは言わなくていいっ! むしろそういう恥ずいことは言うなっ!」

 このやりとりで全員は察した。この二人は完全にバカップルなのだと。あまり下手な質問はすると、アテられて火傷してしまうと。

 そこから日常生活、デート、指輪の話しになって、婚約指輪は形的になってしまったから、結婚指輪はいいものを買ってもらった方がいいという話になった。それに対して

「彼がくれたんだから、それだけでもう十分に良いものよ? それ以上の指輪なんて、わたしにはないわ」

 幸せがこれまでないほど詰まった微笑みでの回答に、全員がアテられてしまった。これ以上はもう何も聞かないほうがいいとうことで、二人はご退場を願われた。他人のラブイチャ幸せほど、独身者には辛いものはなかった。


 なお、この間ネット上で騒ぎになっていた『遊園地、美少女お姫様抱っこ事件!!』の少女であることに、二人が部屋から去って遅まきながら気付いた者がいた。それは、少女だけが知らないところで盛り上がっていた話題であった。その当人が自分たちのすぐ近くにいたことに皆が驚愕すると同時に、やはり二人はバカップルもバカップル、超弩級のバカップルだと結論づけられた。その心中(男性陣)は『爆発しろ!!』である。




「なんか部屋から出た瞬間騒がしくなっていたが・・・俺たち何かイチャついていたか?」

「そうよね? 一体に何が、ちょう・・ど・・・きゅう・・・ばっかぷる? なのかしら?」

 仲良く腕を組みながらの帰り道。去り際に聞こえてきた、超弩級バカップルについて話し合っていた。

「キスだって頬にしただけだし・・・腕に抱きついたことかしら?」

「別にお前がやる分には普通だろ? やっぱり、お前が言った指輪のことじゃないのか?」

「それこそ普通でしょ? むしろ貴方がプロポーズとともに言った言葉じゃないのかしら?」

「それはちょっと違うんじゃないか?」

 どっちもどっちだ!という心の声は、この二人には届かない。

「・・・まあ、そんなことはどうでもいいか」

「そうね。むしろ、これからはずっと一緒なのよね?」

「ああ、最期は身辺整理も必要だと思ったから有休を取ったが・・・・まさか、お前が荷物全部整理してくれているとは思わなかった」

「ふふっ! 毎日少しずつしていたのよ? わたし、いい奥さんかしら?」

「ああ・・・最高の奥さんだよ」

「えへへっ・・・褒められちゃった!」

 素直に褒められ、童女のように笑う。そのまま少女が身を寄せてきて、周囲を素早く見渡して人の目がないことを確認すると、男へと口づけた。さきほどの頬だけで満足できるわけがなかった。

「・・・そのうち人に見られるぞ?」

「そういうスリルがあるのも・・・いいでしょ?」

「お前・・・・本当にころころ顔を変えるな」

「そんなのわからないわ。わたしにわかるのは・・・貴方を愛してる、それだけよ?」

「・・・なんというか、愛が重いな~」

「そんなに気負わないでいいのよ? 貴方はすぐに難しく考えるんだから・・・もう少し感情的になればいいと思うわよ?」

「ああ、残りの時間はなるべくそうするよ。お前を愛したいからな」

 今度は男から口づける。もう、人前だとかはどうでもよかった。



 こうして、二人は共にいられる、最後の一週間を過ごしていくことになった。



 朝からずっと二人きりで過ごし、残っている簡単な処理を行いながら、したいときに好きなだけイチャついていく。少女が読み終わった作品の感想を聞きながら、自分もそれを読み流して話しあう。

 買い物にも二人で一緒に行き、少女から食養生の大切さを説かれる。おばちゃんズはもう二人に話しかけてはいけないことを悟り、普通の店員としての仕事をこなしていく。その時でさえ二人の会話は惚気に近く、精神的サイドからの影響を与えられてしまう。

 食事も時間を気にせずゆっくりと食べていちゃつき、いちゃついては食べさせていく。お風呂もなんだかんだありながら二人で入った。そして、寝るとき・・・・なぜかベビードールを着ていて、その姿で誘われてしまう。先に上がっていた少女が、男を誘惑する服装をして布団の上で座って待っていた。後から上がってきた男を見ると、微笑みながら両手を広げて言う。

「来て・・・今夜も一杯、かわいがってくれる?」

「・・・なんでこんなものを持っていたんだ?」

 その姿と表情、話される声全てに誘われるが、そこは理性で抑えつける。ここで襲うようならばただの獣でしかない。

「ネグリジェを買った時にサービスしてもらったの。それで、これは彼氏さんに見せる服と言われたわ」

「あの女店員・・・」

 言葉でこそ悪態をついているが、本心は件の人物に感謝していた。着飾ることをしない少女の新たな姿を見られ、有難いことこの上なかった。

「・・・あの、男の人って・・・・本当にこういうのが好きなの?」

 ひらひらしている服をつまみながら問いかける。似合っている自信がなかった。

「お前だから好きだ」

「はぅ・・・っ」

 照れている少女を抱きしめる。風呂上り後の石鹸の匂いと、少女の甘い香りが頭を痺れさせる。そのまま唇を重ね合わせ、いつも以上に互いを求めあっていく。

「んぁ・・・はあ・・・っ! 続きは、水分をちゃんと摂ってからよ?」

 口が離れれば、少女の小言が耳へと入る。それは至極ご尤もな意見であり、大人しく少女が用意してくれていた湯冷ましを・・・一気に呑んでいく。

「・・・少しずつ飲むんじゃなかったの?」

「こんなお前を前にして、一秒でもゆっくりできると思うか?」

 手が身体に触れてきて、そのまま弄られていく。

「ん・・・っ! 飽きたり・・・しないの?」

「飽きるには毎晩時間が足りないくらいだ。それと、悪いが今夜は加減できそうにない」

「うん・・・貴方のすきに・・・して?」

 はにかみながら、熱く濡れた瞳で愛する男を見つめる。こうやって少女は意識せずとも、毎晩容易く男を陥落させていく。だから、男は毎晩少女を求めずにはいられなかった。

 それは、少女の身体だけではなく、心にまで自分を刻み付けたいからかもしれなかった。

 それとも、ただ本当に少女を抱きたいだけの、欲望なのかもしれなかった。

 本当のところは男にも分からない。分かる訳がなかった。こんな欲深い人間である自分に、そんな考えが本当にできているかなど。それでも、少女と混じり合いたいということだけは事実だった。身体だけではなく、心まで合わさりたいと思っていた。少女の中に、自分の存在を残したかった。

 そして、それは少女の方も同じだった。少しでも多く求めて欲しかった。身体だけではなく、心にまで男の存在を刻み付けて欲しかった。そうすればずっと男を感じていられる。例え別れたとしても、刻み付けられてさえいれば、自分の中に男の存在を感じていられるはずだと思った。だから、溶かされたかった。溶けあって、欠片でもいいから男の心と混じり合いたかった。少しでもいいから、心の中へと男の存在を入れたかった。これから終わることなく続く悲しみに、打ちひしがれないようにと、男の心が欲しかった。


 終わりに抗う、二人の夜はまだ終わらない。




「んっ・・・こんや・・は・・・・はぁっ・・・・すご・・・・ふうっ・・・・・かったわ・・・・・はあ・・・っ」

 余韻冷め止まぬ中、息も絶え絶えに言う。

「悪い・・・」

「もう・・・どうして、あやまるの・・・・? 貴方に・・・それだけ求められて・・・・・うれしいわ・・・・・だから、あやまらないで・・・・ね?」

「・・・すまん」

「・・・もう、いってるそばから・・・・・」

 困ったような顔をして少女が笑う。そして、男の頭を胸へと抱き寄せる。

「めっ、でしょ?」

 理解の悪い子供に優しく諭す母親のような、慈愛に満ちた表情だった。

 少女のこういった行為に、男の心は癒される。

 優しく受容されることの有難みを噛みしめる。

「お前は・・・本当に優しいよな」

「貴方だってそうよ?」

 男の頭を撫でながら少女が言う。

「貴方の優しさが、今のわたしを作ってくれたのよ? もし、貴方と出会わなければ・・・・わたしは今も、感情を壊しながら過ごしていたわ。こんな風に・・・・誰かを愛することもなく、ただ壊れながら・・・・時を流れて行くしかなかったわ。だから、ありがとう。壊れていたわたしに、優しさを教えてくれて・・・好きに、させてくれて・・・・」

 ぎゅっと男を胸に抱きしめ、その存在を感じる。胸から溢れ出す感情が止まることは、片時もなかった。だから何度だって、繰り返して言ってしまう。

「愛してるわ。ずっと、貴方のこと・・・・これからもずぅーっと・・・・・」

「・・・ありがとうな」

 嘘偽りのない言葉に心を打たれ、男は目頭が熱くなってしまう。何も信じられなかった世界に、少女の言葉が・・・・だた一人少女だけが、心の底から信じられる存在だった。救いようのない世界から、すくい上げてくれた存在に殺されると言うのなら、何も文句などなかった。

 けれど、諦められるわけもなかった。こんな少女をまた孤独にさせることを・・・・認められるわけがなかった。

 男は考える。例え自分の物語がここで終えようとも、別の物語があるはずだと。少女がまた自分と出会う、そんな物語が・・・・・・必ずあるはずだと。もし、その物語に届くのであれば、少女以外の全てを捨てても構わない。全てを失ってでもその道を選び、必ず少女へと辿り着いてみせると。そんな、都合のいい未来を思い描きながら、男は少女の優しさに包まれて眠りに落ちていく。

「ふふっ、こうすると本当にすぐに眠りにつくのね。貴方に・・・安眠を届けられて嬉しいわ」

 思った以上に疲れていたようで、それを見届けると少女もまた意識を沈めていった。




 こうした当たり前でありながら、二人にとってかけがえのない日々を過ごしていく。それはこれまで過ごした時の中で、宝石のように輝いていた時間だった。誰かを愛し、甘えて・甘えさせて、涙を流しながら幸せを味わう。そんな日常が、これ以上もないほどに貴かった。けれども時は無常。命あるものに対し、等しく終わりへと押し流していく。

 いよいよ男の最期日・・・二人のラスト・デートの日が来た。

「やっぱ、お前がその服着ると半端じゃないほどに綺麗だよな」

 恒例の天使降臨の瞬間だった。何度か見たが、やはり純白に身を包んだ少女は、吐息が漏れるほどの美しさだった。美人も三日見れば飽きると、そういう言葉があるが、あれは嘘だと思った。見る度に魅力的になっていく少女という世界に、男の心はもう完全に絡め捕られていた。

「もう、この服を着るたびにそんなこと言って・・・・」

 男からの変わることのない賛辞に、呆れながらもその頬は赤くなっていた。

「聞き飽きたか?」

「いいえ、もっと・・・・言って欲しいわ。だって、貴方の女なんですもの。貴方から褒められることが・・・一番うれしいに決まっているじゃない」

 いつものように少女が男へと唇を重ねる。この一週間・・・・いや、初めて重ねた日から、何度しても足りることなどはなかった。触れあえる喜びを、もっと味わいたいという想いが強くなっていく。

「だいすき」

 甘えるように抱きつく。その状態で優しく包み込まれ、頭を撫でられる。そのうち髪に指を絡められ、愛でられていく。少女の髪が傷まないように配慮しながら、優しく丁寧にゆっくりと梳かれていく。淀みのない流水の如く、指が動くたびにさらさらと髪が流れて行く。揺れる髪を感じながら、男がしたいように弄ってもらう。

「ふふ・・・わたしの髪、好き?」

 その質問は当たり前だった。ふわふわとして柔らかく、指に馴染んでくる心地のよい感触に夢中になってしまう。それに、少女の白髪は、新雪のような気持ち良さがあった。心が洗われるような・・・始まりの色とでもいうべきか、何モノにも染まっていなかった時を思い出せそうな気がした。

「お前には・・・好きなとこしかないさ」

 今度は男から少女へと口づける。そんなやり取りがもはや日常的であった。

 外出する前に、たっぷりといちゃついて充電しておく。外ではできない行為までしてしまうからだ。それに、もうこの部屋に戻ってくることはなかった。いま部屋を見渡せば、そこには必要最低限の物以外は何もなかった。男が所持していた個人的な物は、遺族に利用できそうなものを残して全て処分していた。それすらも処分されるだろうとは思っていたが、一応残しておくことにした。ただ一つの例外として、少女が読んだ漫画だけは処分しなかった。彼女が欲しがったからだ。

「・・・本当に漫画だけでいいのか? 俺の持ち物で欲しいものは全部やるぞ?」

「何を言っているの? わたし、もう指輪まで貰ったのよ? これ以上なんて言ったら・・・・」

 そこから先は言えなくて、顔を悲しみに歪ませてしまう。何を望んでいるのか考えるまでもなかった。男も同じ気持ちだったからだ。だが、それはどうしようもなかった。『今は』なにをしてもダメだった。けれど、もしも――――

「・・・デートの前にしんみりするのも良くないな。今日はクリスマスだし、最後の恋人らしいことでもするか」

「・・・夫婦じゃなくて?」

「一応、戸籍上は夫婦じゃないから、この世じゃまだ恋人だろ? だから恋人としての物語を終わらせて、そこから夫婦としての物語を始めるっていうのはどうだ?」

 まるで、今日から先があることのように男がいう。狂っているのでも、希望に縋るでもなく、ただ穏やかに悟ったような表情でそう言っていた。その表情を少女は何故か信じられた。根拠なんてものはなかった。でも、男がそう言ったのなら、恐らくそうなのだと感じてしまった。普通ではない、変な彼だからこそ、そこに辿り着けるのだと思えた。

「そう・・・ね。だったら、今日は最後の恋人記念日ね」

 男の腕へと抱きつく。そして例の如くキスをする。

 終わらせるために・・・・だけど、始めるために、二人は歩いていく。




 町へと出てみると、クリスマスなのでそういった雰囲気が当たり前のように出ていた。もしも恋人を望む独身者であれば、発狂しそうなほどの空気。その中を二人で歩いていく。注目の的である二人は、それはもう周囲に見せつけるようなバカップルぶり・・・・ではなく、静かに道を歩いていた。少女を見て、クリスマスに舞い降りた天使だと、周囲が勝手に騒いでいただけだ。電車の中でも、人々の視線は芸術的な少女へと向いていた。

「どうしてこんなにわたし達を見てくるのかしら?」

「そりゃ、お前が綺麗だからだ。それだけ魅力的だって、喜んでもいいんじゃないか?」

「見かけだけしか見ない人なんて、わたしの本性を知ったらどうせ逃げていくわ。だから、この視線も虚しいだけよ・・・」

「そうだからお前を手に入れられたわけで・・・俺としては有難かったりする。そうでなきゃ、お前はとっくの昔に誰かの女になっていただろうな。・・・・あ、悪い・・・決してお前が一人でいたことを喜んでいるわけじゃないんだ・・・。・・本当にすまない」

 受け入れられず、独りでいたことをよかったなどと受け取られる言い方に、すぐに男が謝る。

「うふふっ、別にいいのよ? だって、本当のことだもの。でもね? そのおかげでわたしは貴方を好きになれたわ。だから貴方を・・・愛せたの」

 二人だけの部屋で、男だけに見せる笑顔が、今は周囲にも見られてしまう。その笑顔はとても幸せそうで、満ち足りていて、喜びに溢れていた。見る側にもそんな感情を与えるような、かけがえのない輝きだった。

 満月のような瞳が細められ、射し込まれる光を一身に受ける男は、少女という月の恩寵を得る。それは、天から賜る星の祝福だった。

「愛してるわ・・・ずっと、永遠に・・・・・」

 曇ることも絶えることもない煌めきが、男の心へと注がれる。それは、深い深い空の下にまで注がれる。

「・・・ああ、ありがとうな」

 自分には不相応なまでの少女からの贈り物に、男はただ頭を撫でることしかできなかった。けれど、少女はそれで十分だった。受け入れてもらえて、男を受け入れられて・・・・もうそれだけで満足だった。これまで否定しかなかった時の中で、唯一男だけがそれを壊してくれた。それから救ってくれた。だから、今がかけがえのない時となった。

 少女だけが男の世界であるように、少女もまた男だけが自分の世界であった。

 結局のところ、二人は似ていた。同一と言っていいくらいに似ていた。だからこそ、男は少女を受け入れられたのかもしれなかった。

「で、昼飯までどうしたい?」

「そうね・・・適当に回ればいいんじゃないかしら?」

「じゃあ、ウインドウショッピングでもするか。欲しいのがあったら買ってやるぞ?」

「・・・その時はお願いするわ」

 幼女のような、少女みたいな、女性の様な・・・・色々な顔が混じり合った、そんな天使が微笑みを浮かべながら返事をした。




 適当に少女が合いそうな服を見ていくだけで大変だった。その容姿はもう嫌になるほどに人の視線を集め、その都度ざわつかれてしまう。店の店員もそんな少女を見る度に、似合う服を選んで見せると言っても、その全てが横一線のレベルで似合うので、全てを買って下さいとはとても言えなかった。転々と回っていっても全てがそれだった。

「そう考えると、その服を選んだ店員は凄かったのか?」

 少女が着ている服を見る。今日は上着を着ていても、首の所だけを止めて、前を閉じていないので服が良く見えた。少女が言うには、熱さ寒さで病気にならないから必要のないもので、羽織る必要もないらしい。この格好も、あくまでも人に合わせてそうしているだけとのことだった。

 けれど、今は別の意味もあった。男から買ってもらった服が、少しでも汚れないようにしたかった。

「どうなのかしら? むしろ、若かったからこそ、何も考えず目についた物を選んだだけかもしれないわ」

「そうなのか?」

「少なくとも迷うことなく『なかなか似合う方がいませんが、お客様でしたらきっとお似合いです』といって進めてきたわ」

「似合う人がいないって・・・それ店員が言っていいのか?」

 そう言いながら、ある意味それが正しいのかもしれないと男は思った。少女は人間とは次元が違っているのだから、普通の人間には似合わないものでも着こなせるのだと。そうなると、一般的な服などでは、この少女の魅力を真に引き出すことはできないと思う。

「恐らくダメでしょうね。でも、若いのだからそれでいいと思うわ」

 一見否定しているようでありながら、あるがままでいいと、少女は微笑みながら言う。

 否定するのではなく、それを受け入れる。少女のその考えが好きだ。だから自分は、この娘を好きになったのだと思えた。

「・・・そろそろ昼になるが、飯でも行くか?」

「その前にもう一ついい?」

「んっ? 珍しいな、お前が行きたいところがあるなんて。因みにどこだ?」

「前にも行った所よ? ほら、寝間着を買った・・・・」




「それで? バカップルに磨きをかけて? うちにそれを見せつけに来たわけ? んっ???」

「なんで、ふきげ・・・・あっ」

「? どうしたの?」

「はい、そこっ! 察しないの! ブッ飛ばすわよ?!」

「・・・すまん」

「???」

 入ってそうそう、コントのようなことを繰り広げてしまう。従業員は前の店員だけだった。そして今日はクリスマス。後は言わずもがな・・・・

「『昨日から彼とデートなの』ってやつらは、仕事を舐めてるわよね! 少しはバイト君の崇高さを見習うべきだと思うわ。この期間に限って」

「・・・なんだか来てはいけなかったのかしら?」

「あ、いえ・・・別に彼女さんだけならよかったんですが・・・・・・って」

 少女へと視線を転じて気づく。前と服が違うことに。

「随分と人を選ぶ服を着こなしてますね・・・・」

「そうなの? 貴女はこういったのは着ないの?」

「自分にはどう考えても合わないんですよ。そういったかわいい系の服は・・・・ところで、彼女さん・・・・ちょっとこっち来てください。あ、彼氏さんは聞いちゃだめですよ?」

「何となく察したがな・・・・」

「鋭い男は嫌われますよ?」

「こいつ以外の女にはどう思われても結構だ」

「うわ・・・うざっ!」

「褒め言葉として受け取っておく」

「・・・あまり彼を貶すと怒るわよ?」

「怒るな怒るな。お約束ってやつだ。別に悪気はない」

 少女の頭をぽんぽんとたたき、自然と頭を撫でていく。

 嬉しげに眼を細めて男を見上げると、そのままいつものように二人の・・・・

「・・・うわぁ・・・・あんたら、いつもこうやってるんだろ? 自然の動作で普通キスまで行く?」

「「あっ」」

 唇ではなく、声が重なった。つい、気が緩んでしまい、人様の目の前でまたそういうシーンをするところだった。

「はいはいはい。よ~~っく、分かりましたよ。あんたらが仲良し夫婦だってね。ちゃっかり指輪までつけちゃってさ」

「そう?」

 指摘をうけて少女が微笑む。それがどれほど嬉しいのか嫌でも感じ取れてしまう。

 どうやらこの二人は上手くいっているようだった。

「それより、話し戻して・・・ちょっとこっち来てください」

「・・・なに?」

 二人がこそこそと話し始める。男はそれをどこか安心した顔で見ていた。少女が自分以外の人間と、こういう会話をしているのを初めて見たからだ。これなら、今後も上手く人とやっていけるのではないかと思えた。

「・・・あの服使いました?」

「っ!?」

 顔を赤くして返事をする。それを見て女は使ったことを確信した。

「どうでした? 彼の反応は」

「えっと・・・その、すごかったわ・・・・」

「ほうほう、つまり彼氏さんに見事と・・・・」

「・・・・」

 黙ったまま頷いて返事をする。

「だったら何より。大切にされるのもいいですが、手を出されないのも、それはそれで女として傷つきますからね~。わたしの黒歴史が役に立ってよかったですよ」

「・・・そうね、あの時が一番すごかったわ」

「あの時? っていうことは・・・・別にいらなかったですかね・・・・・」

「そんなことないわよ? 彼が喜んでくれたし、それに凄く・・・・あうっ・・・・・」

「・・・ごちそう様です」

「? 何を食べたの?」

「お二方の思い出を少々ね」

「?」

「まあ、上手くいっているのなら何よりです。それで? そもそも何しに来たんですか? まさか、本当に見せつけに来ただけじゃないでしょうね?」

「えっと・・・ういんどうしょっぴんぐ? で、いい服が決まらないから、ここならと思って・・・」

「なんで外国の貴女が、横文字をそんな風にいいますかね? とはいえ、前回に試したのでもうないんですよね。すいません」

「そうなの? じゃあ・・・・」

「ただ、こんなこともあろうかと、昔自分が作った奴をアレンジしたので、そこから選びましょう」

「えっ?」

「あれから創作意欲が刺激されましてね。彼女さんに会う服を作ってみようかなと思ったわけですよ。ちょっと待ってくださいね。持ってきます」

 そういって少女を残して女は後ろへと下がっていく。それを見て、男が話しかけてくる。

「終わったのか?」

「いえ、どうやら彼女が作った服を――――」

「お待たせしましたーっ! じゃあ、はい。彼女さんこっちくる。彼氏さんは着替えるまでちょっと待つ!」

「えっ?!」

 手を引かれて着替える場所まで連れて行かれる。男を見ると手を横に振っており、自分では処理できないと言っていた。

「着せ替えタイムの始まりよっ!」

「え・・・っ? ええっ?!」

 こうして少女の着せ替えショーが始まったのであった。




 飲食店のテーブルに腰掛けた二人は、昼食を食べ終わって、後は限定デザートを待つだけとなっていた。

「正直言って眼福だった。お前は本当に何でも似合うな」

「わたしは少し疲れたのだけど・・・・貴方が喜んでくれたのならよかったわ」

 あれから少ないとはいえ、何着かの着替えをして二人に見てもらっていた。結論から言えば、結局は買うことはなかった。女店員がまだ改良の余地があるからと言って、売ってくれなかったのだ。服に対するその情熱は賞賛に値したが、少女としては男が一番じろじろと見てきた服が欲しかった。

「そういえば、いやらしい視線で見ていた服があったけど・・・・・ああいうのが好きなの?」

「仕方ないだろ。脚出したり、胸元露出したりしたら、そこに視線が行くのが男だ」

「・・・えっち」

「・・・・・」

 何も言えずに黙り込む。そもそも、エロいのは男の本能だから仕方がなかった。とはいえ、そこを理性で抑えるのが人間でもあるわけだ。そこだけははき違えないようにしていた。

「・・・嬉しそうにいうお前もどうかと思うぞ?」

「そう? ふふっ!」

 誤魔化すわけでもなく、素直な笑顔で男の言葉に返事をしていた。恥ずかしいけど、男にそういう目で見られて嬉しいと。

「・・・お前って、本当に男にとって都合のいい女だよな」

「それは貴方にとっていいこと?」

「良すぎて困る。もうお前以外の女とはやっていけない」

「あら、だったらずっとわたしの虜なの?」

「当たり前だろ?」

「よかった・・・浮気とかされなさそうで・・・・・」

「お前以上の女なんていないから、浮気をする必要もない」

「・・・貴方」

 男の横に席を移し、手を握り、指を絡め合う。握り返してくる感覚に笑みがこぼれた。ここが部屋だったら、また口づけをしていたところだった。

「・・・むしろ、俺の方が浮気されるんじゃないかと不安だ。なにせ、お前は全ての世界の中で一番かわいいからな」

「・・・前はこの世って言っていなかったかしら?」

「あれから世界が広がった。で、その中でもやっぱり、お前が一番かわいいと結論づけた」

「もう・・・ばかなんだから・・・・でも、そんなこと言ったら貴方だって――――」

 こんなバカップル丸出しな会話をしていると、限定デザートがやってきた。店員などは二人のいちゃつき具合を見て、どこか営業スマイルが引きつっているような気がした。

「お待たせしました。カップル限定デザートの『いちゃ♡(ラブ)おやCHU☆タイム!』になります」

 店員としての矜持か、こんな頭の悪い名前を恥ずかしがることなく、自然に言い切る。が、その顔はやはりどこか引きつっているかのように見えてしまう。

 机の上に置かれたその姿を見て、本当にあったのかと思わせる。グラスのようなパフェの容器にジュースを注ぎ、その上にアイスを浮かべ、果物は容器の淵へと差し込んでいる物体。ストローはもちろん二本入っているのだが、それは曲げられてハート型へと変形させられていた。しかもそれは、同時に飲もうとしたら身を寄せ合ってしか飲むことができないようになっており、仲良く引っ付いてチューチューする必要があった。

 もちろん、アイスを食べるさじは一本。互いに食べさせあうもよし、一人で食べるもよしだった。周囲の視線が集まる中、少女は気にせずにさじでアイスを取る。そして、男へと向け・・・

「あむっ。んっ・・・甘くておいしい・・・・」

 ることもなく、自らが食べてしまった。周囲の目は期待違いにがっかりとしてしまう。

「お前、わざと・・・・」

「ふふっ、はい。あーんして?」

 甘い声音にとろけた笑顔で、今度こそアイスをとったさじが男に向けられる。それに男だけでなく周囲も理解した。今、男がこれを食べた瞬間、間接キスになると。

「どうしたの?」

「・・・いや、なんでもない」

 今さら何も気にする必要などなかった。せいぜい、周りへとあてつけていけばいいと思って、差し出されたさじを口にする。

「おいしい?」

「んっ・・・そうだな。じゃあ、次は俺からな。ほれ」

 そういって交互に食べさせていく。そうする度に二人は間接キスを交わしていく。

 アイスを半分ほど食べ終えると、少女が男へと尋ねる。

「ねえ・・・わたしのキスと、どっちがおいしい・・・・?」

「・・・お前に決まってるだろ?」

 この言葉が聞こえた人達が、この会話に顔を赤くする。そして、男の行動に店内の全ての人間が恥ずかしい思いをする。

「んっ!」

 これまで少女にされるがままだった男が、その少女を強引に抱き寄せて、見せつけるようにしてその唇を奪ったのだ。それも、濃厚な口づけだった。見ているだけでも恥ずかしいのに、何故かその行為から誰も目を逸らせなかった。店員の誰かがトレイを落とした音がしたが、それを誰も気には留めなかった。

「やっぱり、お前の方が甘いな」

「はぁっ・・・んっ、もぉ・・・ばかぁっ」

 息を荒くしながら、少女は熱くなった瞳で男を見つめる。二人の空間に甘いものが漂っていた。流石に周囲も、もう二人を見るのは恥ずかしくなっていたようで、視線はほとんど消えていた。

「そろそろジュースでも飲まないか?」

「そ、そうね」

 ぴったりとくっついて飲むため、男は少女の肩を抱きよせ、グラスに注がれた炭酸飲料を二人で飲んでいく。喉を鳴らしあい、仲良く飲んでいく。ストローで作られたハートは、吸い上げられる液体で満たされていた。

 身を寄せ合い、肩を抱かれ、顔と顔を触れあわせながら、それは行われる。液体の中で舞い上がる炭酸の泡のように、少女の気持ちもどこか浮ついていく。今、男と漫画のような恥ずかしいことをして、ヒロインになったような気持ちだった。胸が勝手に高鳴っていく。顔が熱く、赤くなって、胸もどきどきと鼓動を強めてくる。そんな状態になって、ストローから口を一度離す。

「? なんで顔赤くしてるんだ?」

「し、しらない・・・わ。はぅっ・・・」

 吐く息まで熱くなっていた。

「まあ、アイスでも食って落ち着けって」

 男から出されたさじを咥える。間接キスから甘い味が口内に広がる。だが、それよりももっと欲しいものがあった。

「んっ? もう一口―――」

 感情のままに男へと口づけた。どうしようもなく、男が欲しかった。

「わたしも・・・貴方が好き・・・・だから、もっと・・・・・」

「・・・お前、雰囲気に飲まれてるぞ? 少し落ち着け、ここは部屋じゃないんだからな」

 少女を抱きしめて、頭を撫でてやる。

「貴方から先にしてきたのに・・・・」

「悪いな。ああでもしないと、視線が気になってお前といちゃつけないからな。ここではデザート名通りにいちゃラブするだけだ」

「・・・もう、後でちゃんと責任とってよね?」

「ああ。だから、今はこいつを恋人らしく食べて行こうぜ?」

「・・・分かったわ。じゃあ、はい。あーんして?」

 気持ちを切り替えて、少女がまた食べさせる方へとシフトした。少し仕返しとして、胸やけする直前まで食べさせてしまう。

 頭の悪いデザートを食べ終えるまで、その名の通りに時間を過ごしていった。二人が去っても、しばらく店員たちの顔にあてられた熱が冷めることはなかった。




 二時間ほど休憩して、二人は女店員に教えてもらった場所へと目指していた。

「バスもあるけど、どうする? 長いけど歩くか?」

「わたしは平気よ? でも、貴方はだいじょうぶなの?」

「んー、まあ大丈夫だ。問題ない」

「そう? 無茶しないでね? 貴方はいつもそうなんだから」

「ありがとうな」

 優しい心遣いに、もう何も考えずに少女を抱きしめる。

「もう、うれしいけど・・・・歩けないわよ?」

 はにかんだ表情が、最初から変わることなくかわいらしい。

「そうだな。また、目的地に着いてからするよ」

「そうね・・・その時は、一杯抱きしめてね?」

 互いに笑い合って、腕を組んで歩いていく。

 道中は町の景色を楽しみながら、意味もない会話をしていく。

「ここに初めて来た時は、まだ『恋人』の頃よね・・・・」

「そうだな。そういや、俺たちが恋人になったのってあそこからか?」

「そうでしょ?」

「だよな? あの日からお前が凄いデレたんだよな。可愛すぎて、ヤバかったことを覚えている」

「・・・過去形なの?」

「現在進行形に決まっているだろ? 今の方がもっとヤバい。綺麗でかわいすぎるとか、もう犯罪レベルだ」

「ふふっ、ありがとう。貴方からそういわれるのが一番うれしいわ。でも貴方だって、人間としてとても優しいし、とても強い人よ?」

「・・・そうか?」

「そうよ? だって、わたしにまで優しくするんですもの。普通なら拒絶されるわ。それに、取り乱すこともなく結末を受け入れている精神力は、とても強いわ」

「今まで諦めてきたからな。今さら生きることに固執するつもりはなかった」

「・・・やっぱり、まだ生きたい?」

「そうだな・・・」

 言葉を待つ少女の顔が強張っていた。だから安心させるために、優しく微笑みながら続きを話す。

「叶うなら・・・お前と共にずっと生きたいな。それだけが心残りだ。お前を独りにするのかと思うと、死んでも死にきれない」

 だからと言って、仮に自分が天寿まで生きたとしても、『今は』これまでという状況だった。結局のところ、ずっと一緒にいることなどできないのだ。肉体に縛られた自分と、本来は肉体から解放されて、精神体の様な少女とでは生きる次元が違っていた。

「・・・なあ、お前の世界と俺たちの世界は繋がっているんだよな?」

「え? ええっ・・・だからこそわたし達はこの世に来られるわけよ」

「だったらさ・・・・俺がお前の世界に行くことはできないのか?」

「っ?!」

 この言葉に思わず息を呑んでしまう。それは言うのが憚(はばか)れることだった。

 様々な感情が混じった表情を浮かべるのを見て、男は確信した。

「・・・どうやらできそうだな」

「だめよっ! そんなことをしようとしてはだめっ!」

 少女の大声に周囲の人間が振り返る。それを見て男が声を抑えるようにと手で示す。

「・・・ごめんなさい」

「お前がそれだけ慌てふためくってことは、そんなにやばいのか?」

「・・・消滅するわよ?」

「つまり・・・『Blessing』で言われているのと、同じことと思っていいのか?」

「・・・・」

 少女が静かに頭を下げて頷く。下を向く顔からは表情を読み取れないが、雰囲気でそれとなく察した。

「そうか・・・」

「・・・魂さえあれば、貴方はまた生まれ変われるわ。でも、消滅してしまったら、そこで本当におしまいなのよ? 完全な無なの」

「『肉体を殺すのは恐れる者ではない、魂を殺せる者こそを恐れろ』・・・だったか? つまり、そういうことだな」

「・・・そんな言葉、良く知っているわね」

 思ってもいなかった言葉に顔をあげる。幸いなことに、驚きが少女の感情を埋めてくれたのか、そこに悲壮感はなかった。それだけで、この言葉に価値があると思えた。

「昔色々と読んでな・・・・俺の大嫌いなモノだ」

「そういう本も持っていたのね・・・でも、貴方ならわかったでしょ?」

「どうでもいいさ、そんなもん。俺はお前の側にいられる可能性がある方を選ぶ」

 平然と言ってのけてしまう男に、少女が見るからに慌ててしまう。あの試練は人間が耐えられるようにはできていないことを知っているからこそ、ここで男に思いとどまってもらわないといけなかった。

「おねがいよ! おねがいだからそんなことはしないで!」

 縋りつき、男を見上げながら懇願する。また周囲が見てくるが、そんなことはどうでもよかった。在るか無いかが決まるかもしれない話しに、周りなどは関係なかった。

「魂が消えない限り、わたしはまた貴方と出会える。わたしはその希望だけあれば時を過ごせるわ。それでいいの。だから・・・」

 目尻に涙が浮かんでくる。根源的な別れまでされたら、もうココロが壊れてしまう。ただでさえ男を失うというのに、その魂までもが消えてしまったら、受け入れてくれた存在が完全にいなくなってしまう。そうなったら、少女はもう終わることのない地獄の時を、永遠に孤独で過ごさなければならなかった。

 それだけはどうしても嫌だった。それが自分勝手で、男の意志を無視しているとしても、絶対に嫌だった。

「・・・おねがいっ! 消えちゃ・・・いやなのっ!」

 捨てられた子供の様な顔で、涙声で、涙をとめどなく溢れさせながら、必死に言われてしまう。そんな姿をさせて、抱きしめられずにはいられなかった。

「ごめんな」

 こんな顔をさせてまで、そんな行動をしようとはもう思わなかった。少女の望みこそが、男の望みでもあるからだ。

 周囲の人間は、頭の痛いカップルの妄言として聞き流し、興味を失くして散っていく。

「お前が嫌なのならそれはしない。だから安心してくれ」

「・・・ごめんなさい。わたしのことを考えて言ってくれた言葉なのに、それを否定してしまって・・・・・」

 すすり泣く声が痛い。

自分がしたいのは少女を泣かせることではなかった。望みがないのなら、せめて少女に幸せな思い出だけでもあげたかった。

 少女が泣き止むと、男はもうこの話題をふることはなかった。ただ、少女に笑って欲しくて、二人の思い出話しや、自分の過去などを話しながら、笑ってもらうことに専念した。そして、少女も男のその気遣いを有難く思いながら、心のどこかで申し訳なく思ってしまう。それでも、少女は嬉しかった。男が自分を優先してくれることに。受け入れてくれた存在が、消えることなく在り続けてくれる道を選んだことが、とても嬉しかった。

 長いと思っていた距離も、話しをしながらだとあっという間に感じられた。日は暮れ始めており、もうすぐ闇が訪れる時間だった。

 女店員に教えられた高台へと登り、指定された場所へと目指していく。普通は通らない道を行き、木々を掻き分けていくとやがて開かれた空間へと出た。そこは周囲から隔離された、二人だけの空間であった。

「ある程度踏み均(なら)された道であったことと、完全に暗くなる前で助かったな」

「そうね」

「・・・帰りは一人で大丈夫か?」

「ええ、終わったら・・・その時はこの受肉も終わるから・・・・・」

 自身が放った言葉に暗くなってしまう。終わりの時は、もうそこまで近づいていた。

「う、ううっ・・・・」

 別れを意識してしまうと、涙が勝手に出てきてしまう。止めることなどできるわけがなかった。

「・・・先にたくさん泣いておけ」

 持ってきた荷物から用意しておいたビニールシートを広げ、泣きだした少女を座らせるとすぐに抱きしめる。

 電池式の照明道具も取り出して、スイッチを入れて辺りを照らす。その光は少女を抱きしめ、頭を撫でている男と、その少女の二人を照らし出すことが精一杯だった。

「こうやってやれるのも・・・・生きている間だけだからな」

「っ!!」

 残酷な未来を告げられ、堰(せき)を切ったように少女が泣きはじめる。感情のまま涙を流していき、声を上げる。男は黙ってそれを聞きながら、彼女を抱きしめて優しく背中を撫でていく。

 この一ヶ月間が楽しかったからこそ、幸せだったからこそ、その悲しみは深かった。それでも少女は男と過ごした日々に後悔はなかったし、本当に心から嬉しかった。だけど、別れを意識するとどうしても泣いてしまうのだった。

 肩を震わせてしゃくり上げながら、男からの温もりを感じていた。それは、初めてもらった時から変わることのない、優しい暖かさだった。

 男から、たくさんの初めてを貰っていたことを思い出す。


 初めて誰かに理解された。

 初めて誰かを理解したいと思った。

 初めて感情をすくい上げてもらえた。

 初めて本当に優しくされた。

 初めて甘えさせてくれた。

 初めて慰めてくれた。

 初めて誰かを好きになった。

 初めて愛することを知った。

 初めてキスをした。

 初めてデートをした。

 初めて恋人になった。

 初めて信じてもらえた。

 初めて拒絶されず、心から受け入れてもらえた。

 初めて抱いてもらえた。

 初めて家族になってくれた。


 初めて、これほどまでに誰かを殺したくない感情をくれた。

 初めて、深い悲しみという感情を知った。

 初めて、別れたくないと言う感情を覚えた。


「ひっく、ひく・・・っ! うぐっ・・・すきぃ・・だい、すきぃっ!!」

「無理して言わなくてもいいんだぞ?」

 男の言葉に首を横に振り、言葉を伝えることに拘る。

「はあっ・・・だ、からっ! ぜ、ったい・・・! んぐっ、だれに・・・・も・・・・貴方を殺させない・・・・っ! ごほっ!」

「もういいから、無理して話すな」

 それでも少女は嫌だと首を振る。

「貴方の・・・・ぐすっ! 命は・・・はあっ・・わたしがもらうのっ!」

 もしも少女がここで男を殺さなければ、これから男は生きていることを後悔させられながら、徐々に苦しめて殺されていくことになる。かつて、自分が殺すことを止めた時に起きた、無慈悲なまでの結末を思い出す。

 理から外れた命が迎える末路は悲惨に尽きた。それを知っているからこそ、少女は絶対に嫌であっても、男を殺さなければならなかった。愛しているからこそ、ここで苦痛を与えずに殺さないといけなかった。あんな悲劇だけはさせるわけにはいかなかった。何よりも、愛した命を誰かに奪われることが嫌だった。

「・・・誰にも、わたさないんだからぁあああっっ!!」

 泣きながら嫌だと訴えているのに、それでも少女がした決断へと優しく声をかける。

「ありがとうな」

「あ・・・っ?」

「それが、一番俺にとっていいことなんだろ?」

「う、あ・・・っ」

「最後の最後に、お前に辛いことをさせて・・・・ごめんな」

「あ、うう・・・っ!」

「俺はお前だけが大切だ。だからお前が嫌なら、それで残酷な最期にあってもいいと思っていた」

「やだっ! そんなこと、ぐす・・・っ! ぜったいに、やだあああああっっ!!」

「・・・お前の気持ちが分からない男で、ごめんな」

「そんな・・・ことないっ! そんなこと・・・ないわっ!」

 健気に鳴き声を抑え、頑張って言葉を紡ぐ少女が愛おしかった。

 顎に手をかけて顔を上げさせる。涙で濡れた顔を確認したら、そのまま頬を撫でていき・・・・

「あ・・・んっ」

 いつものように唇を重ねた。優しい触れあいに、少女は慰められていった。




 それから数時間ほど流れて、少女がようやっと少しだけ落ち着いた。日は暮れて、世界は夜の帳(とばり)に包まれていた。

「・・・ありがとう。いっぱい泣かせてくれて・・・・・」

「足りなかったらまだ泣けばいいぞ?」

「それは終わった後にするわ・・・今はもう泣くよりも・・・・・貴方に抱きついて、感じていたいわ」

「それもありだが・・・上を見てみろよ?」

「上?」

 言われるがままに顔を上げる。すると、そこには

「・・・星が、綺麗ね」

 満天の星空とまではいかなくとも、闇夜に浮かぶ明るい輝きが無数にあった。

 強く輝く星から、僅かな点でしか光らない星まで、限りない夜空へと雄大に鎮座していた。

「空気のいいところには勝てないけど、近場ではここが一番星を見ることができるらしい。で、ここは隠れたスポットで、二人になるのにはぴったりだと、あの女店員が教えてくれた通りだな」

 互いに抱き合い、吐く息を白く染めながら夜空を見上げる。

 世界に等しく輝く星々の輝き。けれど、決して誰もそれを手に入れることはできない。ただ、見ることだけが許されている悠久の輝きだった。

「・・・貴方は星のことも知っているの?」

「いや、流石にそこまでは・・・・興味はあったがな」

「ふふっ、貴方でも知らないことがあるのね?」

「当たり前だろ? 俺は人間で、不完全な存在だ。天才でもなければ賢者にもなれない、ただの愚者だ」

 明るく言いながら、暗さを感じさせる言葉が闇夜へと溶けていく。

 もうすぐ一生を終える男の顔が、どんな表情をしているのか少女にはよく分からなかった。闇を照らす光は、そこまで届かなかったからだ。

「・・・でも、そんな貴方だからこそ、わたしは愛したのかもしれないわ」

「・・・そうなのか?」

「ええ、手間のかかる子ほどかわいいって、言うんでしょ?」

「ははっ、そうなると俺もまだまだ子供ってところか・・・・」

 男はどことなく嬉しそうだったが、どんな顔をしているのかが見たかった。

「ねえ、顔を見せて・・・暗くて良く貴方が見えないの」

「んっ? どうした・・・?」

 顔が降ろされ、その表情を確認すると、今度は少女から唇を重ねた。言いようもない感情から、そうしたかった。

「・・・星空の下でキスをするのも、どこかロマンチックじゃないかしら?」

「おま・・・っ」

 適当な言葉を言いながら、もう一度重ねる。男の返事を聞く必要はなかった。その表情でもう理解できた。

 これまで散々されてきたことを、今度は自分が行っていく。男の心に自分を刻み付け、それすらも超え、魂にまで届けたかった。確認させるために・・・・なによりも、忘れさせないように、たくさんのキスを送りたかった。

 角度を変え、深さを変えられ、顔を離して暫く見つめ合ってはまた交わっていく。別れを惜しむように何度も何度も繰り返していく。

「はあっ、はあっ・・・うっん・・・・っ!」

「まだ大丈夫か?」

「う、んっ・・・もっと・・しましょ・・・・?」

 大丈夫じゃなくても、止めることなどは有り得なかった。

 もうこれが最後だから。

 もう二人の明日はないから。

 もうすぐお別れだから。

 残り少ない今日しかないから、狂ったように求めあう。何も考えることなく、ただ互いを求めることだけで頭を満たしていたかった。互いの温もりだけで心を満たしていたかった。抱いている想いで、魂まで満たしたかった。


 ―――終わらないで欲しい。

 ―――ずっと触れあっていたい。

 ―――枯れることのない愛で、満たしてあげたい。


 天に輝く星空の下、地上で創り上げた二人の世界が、少女の甘くて切ない想いで満ちていく。男の魂を包み込むように・・・・・・。




「はい、どうぞ」

「最後の最後に飲むコーヒーがミルク入りか・・・・」

「だって、今夜は食べないのでしょ? それならブラックはお腹に良くないわ」

「まったく・・・良妻だよ、お前は」

「えへへ・・・っ!」

 呆れながらも頭を撫でてもらえ、少女は嬉しかった。こんな時でも男は自分に気を遣ってくれている。もうすぐ、本当に終わるのに・・・・なにも取り乱さずに普通にしていた。

「・・・静かね」

 男の肩に頭をのせて甘えると、肩を抱かれた。それが当たり前であるように、男はそうしてくれた。

「そうだな、まるで世界に二人だけになった気分だ」

「・・・二人だけだと、なんだか寂しいわね」

「じゃあ、子供でも産むか?」

「こど・・・っ?! えっ??!!」

 久しぶりに少女が耳まで赤く染める。考えていなかった言葉に、完全に慌ててしまう。

 相変わらずそんな反応がかわいいなと思いながら、男はコーヒーもどきカフェオレを飲んでいく。

「そういや・・・そもそも産めるのか?」

「そ、そそそそんなの・・・わか、わからないわよっ!!」

 面白いまでの慌てっぷりだった。

「まあ、冷静に考えれば無理だよな。肉体を持つのは一ヶ月だけなんだろ?」

「・・・あうっ」

「すまん、地雷踏んだな」

 残っているのを一気に飲みほして、すぐに少女を抱きしめて慰めていく。思った以上にへこんでいるようだった。

「悪い、そこまで落ち込むとは思っていなかった。できるできないは置いておいて、欲しいのか?」

「ええ、とても欲しいわ。だって、貴方に『家族』をあげられるんだもの。それに、わたしも貴方の子供をもらえるのよ。そうなったら、もうわたし達は独りじゃないわ。『家族』という世界になれるのよ。それは・・・とても幸せなことじゃないかしら?」

 夢見る笑顔で話す少女はとても輝いていた。

 そんな未来がもしもあったのなら、そこはきっと楽園なのだと思わせる笑顔だった。

「お前なら・・・いい母親になれそうだな」

「そうかしら? それなら貴方だって―――」

 いつものように惚気あっていく。でも、今回は一つだけ違っていた。子供という存在を意識した会話であった。どっちに似るか、どっちが欲しいか、成長した時の反抗期がどうかなど、今はそんな時ではないのに当たり前のように会話をする。そんな未来がまるでこれから待っているかのように、二人で家族の物語を紡いでいく。

「で、俺としてはお前似のかわいい娘が欲しいわけだが」

「あら、わたしは貴方似の男の子が欲しいわ。小さな時の、かわいらしい貴方を見てみたいもの」

「勘弁してくれ・・・」

「ふふっ」

 そうして、笑顔で物語を終わらせる。

 会話が終わると脆弱に包まれる。何かなかったかと少女が考えていると、ふと思いだしたことがあった。

「ねえ・・・膝枕させて?」

「どうしたんだ急に?」

「だって、よく考えたらしたことなかった気がするから・・・・いつもコタツに入っていたばかりでしょ? 寒さは・・・」

 少女が着ていた上着を脱ぐと男へと渡す。

「これをかけて頂戴。少しはましになるはずよ?」

「・・・・」

「・・・貴方? どうしたの? まさか、また見惚れていたの?」

「・・・ああ。なにせ光を背にしたお前が綺麗すぎて、現実の世界とは思えなかった」

 男が見たのは夜空に浮かんだ月のように、少女が闇夜に在る星を天地に渡って従えているかのような光景だった。

 天には大いなる星が輝き、地上には遠くから見える、人間の知恵から生み出された星の輝きがあった。そして、その中で何よりも大きく輝く『月』。微かに照らされる光を反射するかの如く、白銀に輝く『月』があった。色褪せることがない永遠の瞳を持ち、身に纏うは何にも染まっていない天使の衣、そこに流れるようにかかるは衣よりも白き純白の川、そんな男だけの『月』があった。男が生きてきて掴まえることができた、たった一つの星だった。

 少女を中心とした幻想的な世界は、まさに天衣無縫の美と言ってよかった。

「もう・・・それで、膝枕はさせてもらえるの?」

「あ、ああ。むしろ喜んでしてもらうさ」

 男がそういうや、少女は正座をして早く頭をのせるようにと、膝を手でゆっくりとたたいていた。それに遠慮することなく、寝転がって頭を載せる。寒さはもうどうでもよかった。

「うふふっ。これで恋人らしいことは全部できたかしら?」

 自分の上着を男にかけると、膝にある男の頭を撫でていく。最後なので、そのままずっと撫でていく。

「なんだか今さら過ぎて、気恥ずかしくないか?」

「そう? ふふ、かわいい・・・・」

「お前の方がかわいいに決まっているだろ?」

「もう・・・照れるとすぐにそうやって話をずらすんだから・・・・ちょっとだけ身体を起こして?」

「んっ?」

 言われるがまま上半身だけを起こして身を返すと、少女から抱きしめられる。『ハグハグなでなでの刑』だった。

「ちょ、おまえ・・・!」

「ふふっ、こっちと膝枕だったら・・・どっちが恥ずかしくないのかしら?」

「まて、この姿勢は辛いから一度離してくれ!」

「あら、ごめんなさい」

 一旦離して、男がいつものように座るとまた抱きしめる。このまま逃げようとしていたのが分かったからだ。

「悪かったから離してくれ! 大人しく膝枕される方を選ぶ!」

「うふふ、慌てている貴方もかわいい。でも、逃げようとしたのだから、少しだけハグハグなでなで・・・ね?」

 少女の胸の中、頭を子供の様に撫でられていく。そんな間にも少女の匂いと柔らかさに興奮して、男の身体は熱を帯びてくる。もちろん、少女はそれを分かった上でそうしていた。寒さに対して熱を持てるようにと。

 そして、少女は男を十分に愛でると解放して、今度は膝枕をしていく。

「~~~~♪」

 鼻歌をしながら、膝にのせた男を見下ろして撫でていく。男は気恥ずかしさを隠しながら、少女のやりたいようにさせていた。

「・・・その歌、気に入ったのか?」

「ええ、時々洗濯物を干しながら歌っていたわ。もちろん小声よ?」

「そうか・・・おっ?」

「どうしたの?」

 男が見上げる空へと少女も顔を向ける。

「あら、雪ね・・・だいじょうぶ? 寒くない?」

 上着をかけているとはいえ、寒空の下では暖房器具などはなかった。熱さ、寒さに弱い人間に堪えるのではないかと心配になってしまう。

「・・・大丈夫だって。さっきあれだけ熱くさせられたから、むしろちょうどいい」

 雪は軽く降っているだけで、横目で見れば地面に落ちると積もることもなく消えていった。

「ゆっくりと降ってくる雪の中でみる、夜空の光景もいいものだな」

「そうなの?」

「ああ・・・なによりも雪を背景にしたお前という・・・・」

 自分を見下ろす少女と目が合う。丸くて愛らしい、金色の瞳が見つめ返してくる。そのまばゆいばかりの美しさに、勝手に口が開いて言葉を紡いでいく。

「月が綺麗だ」

「えっ?」

 少女にはこの言葉の意味が分からなかった。どうして自分を月に例えたのかが分からなかった。

「・・・お前の瞳や髪がさ、ずっと月みたいに綺麗だと思っていた。だから、月が綺麗だって言っちまったのさ。気障だったか?」

「いいえ、うれしいわ。わたし・・・貴方のお月様になれていたの?」

「ああ。夜に優しく世界を照らす月のように、俺を照らしてくれたよ。ありがとう、お前に出会えてよかった」

 少女へと手を伸ばしていき、その頬に触れて撫でていく。いつまでもその感触を忘れないようにと、この手に覚えさせるように触れていく。

「そんなこと言ったら、わたしだってそうよ・・・?」

「・・・俺達って、本当に似ているんだな」

「そうね・・・うれしいわ。貴方と同じ・・・心を持てて」

 浮かべる涙を拭っていく。それを少女はくすぐったそうにしながら笑う。本当はまだまだ泣きたいのに、それを隠してまで笑う。もう今日が終わるから、最後は笑顔を見せていたかった。

「ねえ、もう終わるころだけど・・・最後に二つおねがいしてもいい?」

「なんだ?」

「貴方の・・・名前を教えて? 初めて会った時は教えてくれなかったけど、今ならいいわよね?」

「ああ。それで、もう一つは?」

「わたしに・・・名前をつけて? 名前を・・・・ちょうだい?」

「・・・そんなことしていいのか? 名前と言えば、呪術的なことと関係あるだろ?」

「ふふっ! だいじょうぶ。そんなことないわ。わたし達に名前がないのは、そんなことをしなくても個人として認識できるからよ? 必要がないから、名前をつけないだけなの」

「そうか・・・じゃあ、先に俺の名前だけど」

 起き上がって少女を抱きしめ、そっと耳に囁く。自分の名前を彼女へと伝えた。

「それが・・・貴方の名前?」

「ああ。変な名前だろ?」

「そんなことないわ。いい名前よ? 名は体を表すというのなら、貴方はきっと・・・・ううんっ、こんなわたしを受け入れてくれたのだから、凄い人よ。凄く強くて優しくて、暖かい人よ」

「・・・・そんな風に言ってくれたのは、お前だけだ。やっぱり俺、お前を好きになれてよかったよ」

 大嫌いな名前を良く言われて、思わず少女を強く抱きしめてしまう。

 少し苦しいが、少女はそれだけ想われて抱かれることが嬉しかった。

「それで、お前の名前なんだけどな・・・・」

「ごめんなさい、急には思いつかないかしら?」

「いや、むしろそれしか思い浮かばないんだが・・・・それだと安直すぎるし・・・・・」

「シンプルなのはいいことよ?」

 どんな名前でも嬉しいから。そう、少女の微笑みは男に伝えていた。

「・・・言語を変えた言葉で悪いが・・・」

 また耳へと顔を寄せて囁く。今度は彼女のための名前を伝えた。

「・・・どうだ? 嫌なら今すぐにでも違うのを考える」

「・・・いいの? わたしがこんな名前をもらって? だって、わたしは貴方をこれから殺すのに・・・なのに、こんな名前を貰ってもいいの?」

「思ったんだが・・・お前は俺を殺さないよな?」

「えっ?」

「・・・俺を救うだけだ。殺すわけじゃない。そうだろ?」

 どこまでも穏やかに、どこかに辿り着いた存在のような悟った表情だった。

「!?」

「だから・・・って、泣かないでくれ。せめて、俺がこうしてやれる間に泣き止んでくれ」

「違うの・・・貴方がそう言ってくれたことが、どうしようもなくうれしくて・・・・それで・・・・・」

 それは、かつて少女が求めていた言葉だった。

 昔の少女は、自分の行為は人間を肉体の苦しみから解放するためにしているのだと思っていた。やがて朽ち果てる肉体ではなく、永遠に生きられる世界へと案内することが仕事だと思っていた。人間も楽園や永遠を望んでいるのだから、きっと喜んでくれると思っていた。でも、違っていた。人間はあれほど死後の楽園や永遠を望んでいながら、いざその時が来ると現世での生を終えるのが惜しいのだった。何かとつけて否定し、嫌がり、罵倒してきた。

 それでも、最後に報われて、救われるのならそれでいいと思っていた。例え忌み嫌われ、酷い言葉を言われ、突き放され、傷つけられても良かった。自分が否定されることで、彼らが救われるのならそれでよかった。だけど・・・当たり前だけど、現実はそんなに綺麗なものではなかった。

 少女の信じていた世界など、初めから存在しなかった。

「でも、わたし達は・・・貴方たちを家畜のように扱っているのよ? それなのに・・・・どうして? どうしてそんな風にいってくれるの?」

「俺たちだってこの世でそうしているからな。だったら、お前たちと一緒だろ? それを非難する気は俺にはない。それに、俺はもう生きることを諦めた人間だ・・・・・そんな人間にしたら、お前は『今の』この世から救ってくれる・・・・天使以外の何者でもないさ」

 微笑みを携えながら、男は少女を撫でていく。泣き止むように、抱え続けてきた苦しみが少しでも楽になるようにと祈りながら、その心まで慰めていく。

「・・・ありがとう。本当にありがとう・・・・その言葉をくれたのは・・・貴方だけよ・・・・」

 泣けるだけ泣いたと思ったのに、男の心に触れられて、また涙が流れてくる。それはとても暖かくて、胸の中から溢れてくるようだった。

 自分の言葉に反応した涙を見せられて、男は少女を労わらずにはいられなかった。

「・・・今までよく頑張ったな。ずっと、独りで苦しかっただろ?」

「・・・っ!」

 こうやって褒めてもらいたかった。慰めて欲しかった。

 頑張ってきて、結局はダメだったけど、それでもその頑張りを認めてもらいたかった。・・・・傷ついた心を慰めてもらいたかっただけの・・・・ただの甘えたがり屋だったのだ。

「う・・・ああっ・・・・わぁああああああああんんっっっ!!!」

 悲しみでも、喜びでもなく、最後に残されていた、苦しみから解放された涙を流す。

 あれほど男を信じていると言ってそう思い込んでいたのに、これまでの経験から最後になると、やっぱり拒絶されるのではないかという考えが、ほんの微かに浮かんでいた。そんな馬鹿で愚かで恥知らずな考えを、男はことごとく否定してくれた。初めから終わりまで、一貫して少女を受け入れ続けた。裏切り続けられた少女に、ただ一人裏切ることなく最後まで寄り添った。

 人間に傷つけられてきた心を、同じ人間である男だけが慰め、癒してくれた。

「ごめんな。最後の最後まで泣かせて・・・本当はもっと早く言ってやりたかった・・・・」

「ぐすっ・・・いい・・・のっ! だって・・・・さいごじゃないと・・・・・ばかな・・・わたしは・・・・しんじられないから・・・・・っ! ほんとに・・・・ほんとに・・・・っ! わたしを・・・・・うけいれてくれたって・・・そう・・・・おもえるのは・・・・・・さいごのとき・・・・・だけだもの・・・・っ!」

「・・・打算的な人間で悪い」

 謝るような口調に、首を振って否定される。そこからはもう何も言わず、ただ少女を抱きしめ、胸の中で泣かせていく。これで全ての涙を流し尽くして欲しいと、そう祈りながら少女を慰めていく。

 もう少しだけ時間はあった。だから、その時間の限りは泣いて欲しかった。少女の涙を受け入れる存在として、最後はそう在りたかった。それが、人生から落第した自分が選んだ、最後の選択だった。


 そして、二人の時間は終わる


 涙で目を腫らした少女が、覚悟を決めた顔で男を見る。

「・・・いい?」

「いつでも構わない。で、どんな風にするんだ?」

 男はいつもと変わらない調子で話していた。それが、少女を気遣ってのものだというのはもう分かりきっていた。最後まで男はぶれることなく、人生という舞台を演じていく。

「その・・・初めてだけど、貴方となら上手くいくと思うわ」

「・・・初めて?」

「ええ。いつもは逃げる人間を無理やり肉体と魂に切りわけるから、この方法を使うことはなかったのよ」

「つまり・・・そっちのほうが俺には楽ってことだな?」

「聞くかぎりでは、とても強い快楽を味わって逝くらしいわ」

「・・・やばい薬じゃないだろうな? それなら苦しくても切られる方を・・・って、それだとお前が嫌な思いするか・・・・じゃあ、やっぱそれでいいや」

「ふふっ、最後まで気にしてくれてありがとう。でも大丈夫よ? だって、それは・・・・わたしにキスされることだから・・・・・」

 最後だというのに、指で唇に触れる少女の姿がどうにも男をそそる。逆に最後だからこそ、本能的に遺伝子を残そうとして、そう感じさせるのかもしれなかった。

「ああ・・・吸魂的なやつか・・・・・それなら喜んでされるし、これまでしていないことが有難い」

「脱力すると思うから、シートに仰向けになって。そうしたら、わたしが貴方の上に重なってキスするわね?」

「・・・抱くとかじゃないよな?」

「ち、違うわよっ! それは昼間の休憩でたくさんしたでしょっ?!」

「いや、なんというか・・・・すまん。最後に締まらなくしてしまって・・・・・」

「もう・・・確かにずっと抱かれていたいけど・・・・そういう訳にもいかない訳で・・・・・」

「えっと・・・・とりあえず横になるな」

 顔を真っ赤にしながらそんなことを言われると、そうしたくなってしまうので大人しく横になる。それを見て、少女もすぐに身体を重ねてくる。お互い、こんな時だと言うのに心音を高く鳴らせていた。照明器具に照らされる、至近距離からの見つめ合いは息もかかるほどで、もう少し明るければ互いの瞳の中に自分が映っているのが見えただろう。

「・・・最後に何か言い残したいことはある?」

「そうだな・・・・好きだ、――――」

 貰ったばかりの名前を呼ばれる。それが嬉しくて仕方がなかった。名前があって、呼ばれることがこんなにも嬉しいとは思わなかった。

 思わぬ言葉に綻んでしまう。

「生まれ変わっても、必ずお前に会ってみせる。だから、それまで悪いが待っててくれ」

 疑うことなく未来を信じる笑顔に、少女の胸が熱くなる。また出会える未来。男がそう言うのなら、そういう未来は必ず来るのだと、心からそう思えた。

「俺は言ったが、お前はいいのか?」

「・・・少し長くなるわよ?」

「時間があるのなら言っちまえ。俺に言葉を残せる最後だぞ?」

 ――最後。そう言われると、言わずにはいられなかった。

「・・・愛してる・・・・ずっと、―――だけを愛し続けていくわ・・・・生まれ変わっても・・・・永遠に・・・愛しているわ・・・・・・―――の魂は・・・・これからずっと、わたしが見守るわ・・・・・だから・・・『今は』さようなら・・・・・また、会いましょう?」

 男の名前を呼び、最後の言葉を伝えると、少女は泣きだしてしまう前に唇を重ねた。

 これまでと違い、男から命を奪う行為。

 少女の中に男の命が流れ込んでくる。愛しい存在の命が自分の中で満ちていく感覚に、言いようもない悦びを感じてしまう。甘美を超えた甘さに、少女は夢中になって男の命を受け入れていく。

 男も、少女の中へと包まれていく感覚に悦びを覚えていた。優しく、暖かく、慈愛に満ち溢れたその中は、この世では決して味わうことができない快楽を与えられる。少女の心の中は、蜜よりも甘い男への愛で、永遠に満たされていた。

 自然と涙が流れた。涙を流しながら、お互いを求めあい、溶けあっていく悦びに浸っていく。互いの名前だけを心の中で呼びあい、溶けあっていくほどにそれは強くなっていく。そこには悲しみも苦しみの感情もなく、一つになる悦びだけがあった。

 そのまま意識までも溶けていきそうになった時、男は少女の心を見てしまう。それは悠久の時を、独り涙を流して過ごしている少女の記憶だった。信じていた世界は壊れ、救いたかった者は救えず、どこにも居場所がなかった孤独の記憶だった。終わることを許されず、救われることもなく、孤独と絶望の中、独り泣き続けている少女の心だった。それは、男の想像を超えた世界だった。


 誰も、少女の涙を拭わなかった。

 誰も、少女の心に寄り添わなかった。

 誰も、少女を見ようとしなかった。

 誰も、少女を受け入れなかった。

 誰も、少女の側にはいなかった。

 何も、少女は持っていなかった。

 何一つ、少女は貰うことができなかった。

 ただの一つとして、傷だらけの少女を慰めるものなどはなかった。


 けれど、自分の存在がその少女の持つ孤独と絶望を壊した。少女の心を救いだした。そんな自分との思い出を、少女は宝石以上に輝かせていた。大切に、大事に、決して失くさないようにと、これからも独りで時を過ごせるようにと、自分との思い出だけを支えに、また・・・・孤独と絶望の世界へと戻ろうとしていた。


『もし私が1人の心を傷心から救ってやることが出来れば、私の生きることは無駄ではないだろう』


 ふと、昔目にした詩人の言葉が蘇る。


『もし私が一つの生命の悩みを慰めることが出来れば、あるいは一つの苦痛を覚ますことが出来れば・・・』


 あの時は感銘を受けた言葉だったが、今の男の心情は違っていた。


『私は無駄には生きていないであろう・・・』


(・・・ふざ・・・・けるな・・・・・っ! また同じ場所に戻すことが・・・また、独りにすることの何が救いだ! 再び与える痛みの・・・・何が覚ましただ! 何が・・・無駄には生きていないだ! 上げて落とすくらいなら、無駄であったほうが遥かにましだった!)

 このまま快楽に浸って、終わることなどできなかった。

 誰よりも傷ついて、誰よりも孤独で、誰よりも優しい少女を・・・・再び独りにさせることをしながら、のうのうと自分だけ気持ち良く死ねるわけがなかった。

 だから、男は誓った。遥か彼方、肉眼では見えない星の輝きのような可能性でも、もしもその道があるのならば、どれほどの時をかけてでも、必ず少女へと辿り着いてみせると。必ず・・・・その物語を完成させてみせると、心を超えて魂にまで刻み付ける。

 そう決意し、薄れ行く意識の中、男は心の中で何度も少女の名を呼び続けた。何度も何度も、孤独な彼女へと呼び続けた。




「・・・・ありがとう。最後まで、わたしを呼び続けてくれて・・・・想い続けてくれて、本当にありがとう・・・・アナタ」

 男の亡骸へと口づける。これを少女は最後のキスとした。

 悲しいけれど、不思議と涙は出なかった。男の命が、今は自分の中にあると感じられたからだ。でも、それも今だけで、魂のないこの命はやがて消えていく。それでも、今だけはまだ男と共にいられているようで、冷静に行動をすることができた。

「・・・まずは魂を出して」

 男の中にある魂を優しく、傷つけないように取り出していく。

「やっぱり・・・アナタの魂は、普通じゃないのね。こんなに・・・・」

 男の魂をみて、声が震えてしまう。そっと掌で包み、そのまま胸へ抱きしめる。

「傷だらけで・・・・・こんなに絶望していて・・・・・」

 思わず傷に手を当ててしまう。魂にまで傷が残れば、それを自分が治せることなどはないと知っているのに、そうせずにはいられなかった。

「なのに、どうしてアナタはあれほどまでに優しかったの・・・・? どうして・・・・誰よりも優しいアナタが、こんなになるまで・・・・酷い目に遭わなければならなかったの・・・・?」

 自分の痛みならば、どれほど辛くたって耐えられる。それだけの罪も犯している。だけど、好きな人を・・・・・愛する人を傷つけられることだけは耐えられなかった。それが、魂までというのなら、なおさら耐えられなかった。

 涙を流す少女に、男の魂がまるで慰めるように寄り添う。

「いい・・・のよ? もう、アナタはそんなことをしなくても・・・・いいの。向こうで傷を癒したら、来世こそは・・・・幸せな命を送って・・・・?」

 それでも男の魂は少女から離れなかった。

 元の世界へと帰れば、嫌でも引きはがされることになるので、少女は魂のさせるままにした。

「ふふっ、ありがとう。アナタは、こんなになってもわたしの側にいようとしてくれるのね。帰るまで、もう少し待っててね?」

 跳ねるように上下へと動いて返事をするのが、かわいらしかった。

 それから少女は最後の仕事を行っていく。

 元の姿へと完全に戻る間、受肉した身体で戻ってくる力を行使する。その瞬間、小さな身体に不釣り合いな、大きな白い翼がその背に展開される。それは遥か昔に失くしてしまった、ココロの翼だった。左だけとはいえ蘇った翼を、少女は驚きの目で見てしまう。自分が翼を持っていたことを、完全に忘れてしまっていたからだ。

「・・・アナタ」

 懐かしい翼へと、頬をすり寄せる。男が取り戻してくれた片翼を、少しだけ愛でる。まだ自分の仕事は終わっていないからだ。

「・・・おいで」

 呼びかけると、子供の様に少女の胸へと飛び込んでくる。小さなその魂を、少女は首元から服の中へといれる。これから飛ぶときに、振り払われないようにする必要があった。

「それじゃあ・・・行くわね」

 亡骸を抱き起こし、翼を力強く動かして空へと飛ぶ。今の少女であれば、それくらいの力は問題なくあった。

 気が付けば、雪はとっくのとうに止んでいた。夜空に輝く星へと近づいていく。

「月が綺麗ね・・・アナタ」

 上昇するときに視界に入った月をみて、思わず少女もそう男へと言ってしまう。返事がないのは分かっていた。でも、それでも何故か言いたくて仕方がなかった。

 天地の星々の間に挟まれ、闇夜を飛んでいく。変化の光を纏う少女は、闇夜を切り裂く流れ星のようであった。輝く片翼をはためかす度に、残光の羽根が地上へと舞い降りていく。受肉が終わりつつあるので、物質的な羽根が抜け落ちていく。徐々に本来の透き通るような、純白の翼へと姿を変えていく。

 急いで少女は男を部屋へと連れて帰る。上手く人払いもされていたようで、いつも洗濯物を干していたベランダへと降り立つ。鍵は開けておいたので、そこから部屋へと入っていく。

「よかった・・・まだ余裕があるわね」

 靴を脱がせ、身なりを整えられる限り整えて、男を布団へと寝かせる。寒がりの男の為に、きちんと布団をかぶせていく。最後に前髪を整えると、その頭を撫でていく。頬を撫でていく。受肉が終わり、触れられなくなるその時まで丹念に撫でていく。男の感触を忘れないように、最後の触れあいだった。

 やがて、完全に受肉が終わる。もう男には触ることはできなかった。だというのに・・・

「服がそのまま・・・? 指輪も・・・どういうこと?」

 いつもの死神のような黒い服ではなく、男が買ってくれた服のままだった。

「・・・それだけ感情が込められていたんだよ」

 声をしたほうへと振り向けば、あの時二人を引き裂こうとした男がいた。

 人払いを頼んでいたので、少女は驚くことなく男をみる。むしろ、その声に反応して少女の服から魂が出てきて、二人の間に入り込む。それは、少女を守ろうとしているかのようだった。

「まったく、末恐ろしい男だよ。君が愛した彼は生まれ変わったら、もっと凄い人物になるだろうね」

 威圧感を出しながら漂う魂を一瞥する。殺されてもなお、少女を想い続ける愚直さには、流石にこの男であっても認めざるを得なかった。

「・・・そんなことよりも、次は幸せな命を過ごして欲しいわ」

 そんな魂を少女が抱きしめる。それだけで男が感じていた圧力は霧散した。

「・・・それは神のみぞ知ることだ。さあ、もどろうか」

「一人で・・・ううん、この子と一緒に戻るからだいじょうぶよ。むしろ先に帰ってもらえるかしら?」

「・・・君には振られ続けているな。寵愛を受けた・・・彼が羨ましいよ」

 男の呟きは少女には聞こえなかった。そのまま部屋をすり抜けて一足先に帰っていく。まだ死後の処理があるから、それをしないといけなかった。

「・・・・」

 部屋を見渡して色々なことを思い出していく。その全てが色づいていた。色褪せた世界に、再び光の景色を取り戻してくれた。

 暖かい世界を作ってくれた。壊れた世界を建てかえてくれた。他にも、たくさんのものを男からもらった。

「最後と思っていたけど、やっぱりもう一度・・・・・」

 男の寝ている布団の側へと座り込み、おやすみなさいの口づけを交わす。それは触れることのできない、形だけの交わり。それで十分だった。これで最後の言葉が言える。

「・・・おやすみなさい。アナタ」

 一ヶ月という短い時間、男とかけがえのない思い出を作った部屋へと、最後の別れを告げた。




 この日、とある町では天使の羽根が降ってきたと騒ぎになった。そして、その日その時間に亡くなったと診断された男は、天使に連れて行かれたという話が生まれた。

 男の死因が不明であったこと、男の死に顔があまりにも安らかであったこと、なによりも・・・・・男の寝ていた布団に、町で降ってきたのと同じ羽根があったことが決定的であった。

 それから人の間で、クリスマスになると天使が迎えに来る町と言われることとなった。

 その町では、その日に天使に夢の国へと連れて行かれ、そこで一生を過ごすだの。そのまま天国へと連れて行かれて人生が終わるだの。二次元嫁が迎えに来て、二次元の世界へ精神が行ったのだと、様々な憶測が飛び交っていたが・・・・・そこにある二人の物語を、誰も知ることはできない。




 元の世界へ戻ると、回収した魂をこの世界の管理者へと渡す。それが、最後の仕事だった。

「・・・これが彼の魂です。どうかこの傷を癒し、次は幸せな世界で過ごさせてあげてください」

 男の魂を世界の管理者へと差し出す。優しく少女の手に包まれていたそれを、管理者はどうでもいいように乱暴に掴み取る。

「っ! これ以上、この子に傷をつけるようなことはしないでくださいっ!」

 傷に傷を重ねるような扱いに、口調こそ丁寧だが少女は怒りを露わにする。

「黙れ。どうでもいい存在にそこまで熱を上げるな」

「・・・・っ!」

「コレのどこにそこまで入れ込んだ? それと、その中にある汚らわしいものも捨ててもらう。我々には必要のないものだ」

「あ・・・っ」

 身体の中から男の命が抜けていくのが分かった。管理者の力によって、温もりが抜かれていく。中から男の存在が・・・・薄れていく。

「やめてくださいっ! どうか・・・・どうか、無くなるまではわたしの中にいさせてくださいっ! お願いします!」

「ならん。汚れたものを宿すのは自然ではない」

 抵抗しようとする少女から、その繋がりを無理やり引きちぎる。

「あぐっ!?」

それは少女の心も傷つけた。心を裂かれる苦痛に、顔を歪めながらも少女は手を伸ばす。痛みよりも、震える腕で引き裂かれた欠片を掴もうと必死だった。

「・・・アナ・・タ・・・・・」

 手で包み込もうとした瞬間、目の前でそれが砕けちる。管理者が情け容赦なく、消滅させる。

「あ・・・ああっ・・・・」

 呆けたように消えゆく欠片を見てしまう。これまで平静を装う支えだった温もりが、目の前で一瞬にして消えてしまう。その瞬間、圧倒的なまでの孤独が少女を襲う。男によって引き上げられていた所から、これまで過ごしてきた奈落へと突き落とされる。

 覚悟を決める間もなく、一方的に引き裂かれた悲しみに、涙が流れて行く。

「・・・かえして、あの人の温もりを・・・・かえしてよぉっ! まだまだ一緒に居られたのに・・・・っ! まだ、寄り添ってくれていたのに・・・・・・どうしてっ?!」

「何を泣いている? 消えるものに想いを重ねたところで無駄だ。そんなもので、汚れることを選ぶ方がどうかしている」

 顔色も変えず、何の感情もない声が、追い打ちをかけて少女の心をさらに傷つける。それを見かねてか、魂が管理者の手から強引に・・・・傷ついてまでも抜け出す。少女を慰めるために。

「おねがい・・・もう傷つかないでっ! 傷を増やしてまで、わたしを慰めなくてもいいの・・・・っ! 少しは自分を大切にして・・・ね?」

 傷だらけの魂を抱きしめる。できたばかりの傷ならば少しは癒せると思って、泣きながら手当をする。

 それを観察しながら、管理者が思ったことを口にする。

「・・・対象物はお前と強く交わり過ぎて、魂に変質が起きてしまったようだな」

 近づき、手当をしている少女から魂を取り上げる。

「やめてっ! まだ手当は終わっていないわっ! かえして・・・返してっ!」

 管理者の手から奪い返そうと、懸命にその手を開こうとする。けれど、格の違い故に少女が管理者に勝てるわけがなかった。それでも、少女は止めない。諦めず、魂を癒そうと管理者に抗う。これまで、決して反抗することなく過ごしてきた少女からは、想像もできない姿だった。

「そこまで必死になるとは・・・・どうやら、コレにたぶらかされたようだな」

 鬱陶しい少女を突き飛ばす。移動するのに纏わりつかれると邪魔だった。

「今後、お前は地上に降りる必要はない。また人間の雄にたぶらかされると面倒だ」

「あの人のことをそんな風に言わないでっ! あの人は貴方たちなんかよりも、ずっと優れていたわっ! 貴方なんかより、ずっと高い存在だったんだからっ!!」

 起き上がり、また邪魔をしにくることが分かっていたので、周囲の存在に取り押さえるようにと、動作で指示を出す。

「離して! まだ手当が終わっていないの!」

「どうやら、コレの罪は重いな」

 その言葉に耳を疑った。誰が何の罪を犯したというのか? 自分ではなく、なぜ愛する男に罪があるのか理解できなかった。

「何の罪なのっ?! あの人は何も外れたことはしていないわっ! 過ちを知って、誰よりも正しくあろうとし続けていたあの人に、一体何の罪があると言うのよっ?!」

「そもそも、人間というだけで罪だ。その存在が、我々と人間を同じと言ったことは万死に値する。それだけで消滅させるのには十分な理由だが・・・・・」

 消滅、この言葉に少女の顔が青ざめる。そんなことをすれば、男はもう二度と・・・・・

「・・・やめてっ! そんなことしないでっ! それならわたしがされるからっ! だから、あの人の魂だけは見逃してください! どうか、あの人に・・・・幸せな命を送らせてくださいっ!!」

「お前がそこまで言うのなら、別の方法を取ろう。本当にコレが我々よりも優れていると言うのなら、見事『試練』を果たして高次元へと行くであろう。そうすれば、お前が言う幸せな命とやらも過ごせるだろう」

 試練。それはいまだかつて、人間の誰もが果たせず消滅していった場所のことだった。人間である限り、絶対に乗り越えられないモノだった。つまり、結末は消滅を意味していた。この場での消滅と違うことと言えば、最悪の苦痛を味わい、絶望を超えた絶望の果てに自己が少しずつ壊れていき、永遠に全ての世界から抹消されることだった。これまで存在していたこと自体すらも消えてしまう、究極の滅び。

「やめてぇええええええええええ――っ!!」

 狂ったように少女が叫ぶ。

「そんなことしないでっ! わたしがかわりに受けるから・・・・! だからあの人だけは見逃してっ! あの人だけは許してよぉおおおおおおおっっ!!」

「お前が言ったのだろう? 我々よりも優れていると。一度言ったことは撤回できぬ」

 どことなく、人間のような含んだ言い方だった。

「・・・あっ」

 この時になって少女はようやく気付く。管理者がわざと自分を焚き付け、男の魂を消滅させようとしていたことに・・・・それも、理由をつけて試練という地獄の墓場へと送ろうとしていたことに・・・・


 元々、男には来世などなかった。


「・・・・・」

 言ってしまったことの結果に、声が出なくなってしまう。

 放心状態の中、管理者の言葉が耳に入ってくる。

「なお、お前にはコレのことで永遠に苦しんでもらう。それが、地上に降りられなくなった罪に対する贖罪だ。刈り取れない分の感情はお前自身が供給しろ。消滅は許さん」

 管理者の言葉が理解できなかった。頭が理解を拒否していた。だから、馬鹿みたいに頭を傾げてしまう。

「なに、安心しろ。お前だけはコレのことは忘れないだろう。汚れた存在と深く繋がってしまった以上、お前とコレは似通ってしまったからな。コレが消えても、お前だけは忘れないだろうな。例え忘れたくても、二度と忘れられない」

 そういうと試練の扉が姿を現した。扉は開かれ、新たな生贄の存在に狂喜するかの如く、中から見える暗闇を輝かせていた。

 そして、管理者が男の魂をその永遠の闇へと放り込む。

 少女はゆっくりと、それを眺めることしかできなかった。

 投げられた魂が吸い込まれるように闇へと近づく。傷だらけの魂が抗うことなく扉へと向かっていく。その一瞬の間、不意に男の魂と目があったような気がした。飲み込まれる寸前に、僅かに優しく輝きを放ち、少女へと何かを伝えていた。


『大丈夫だから、待っていてくれ』


 不思議と、男のそう言った声が聞こえたと同時に、魂が闇へと消えて行った。

 扉は魂を飲み込むとすぐに消えた。残されたのは状況を理解できない少女と、残酷な世界へと叩き落した存在だけだった。

「これで今回の件は終了だ。各自解散して、次の回収に当たれ。それと、彼女を連れていけ。今後は上質な感情を提供するのだから、丁重に扱うようにしろ」

 徐々に状況を把握してくる。自分はもう地上に降りることはなく、愛する男の魂は・・・・・

「――――――――――――――――――――っ!!!!」

 言葉にならない声を上げ、少女は慟哭(どうこく)する。

そのココロを慰め癒してくれる、その涙を拭ってくれた存在は・・・・もういない。

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