<<第一章 ~無愛想な少女がデレ始めた日~ 23>>

「ほら、起きなさい・・・」

 朝早く、ベッドで眠る男に抑揚のない声をかける少女。

 寒さが厳しくなってきた12月初め。澄んだ空気には夏のような淀んだものはなく、実に清々しい朝だ。その反面、寒さを携えた空気の中は容赦なくその身を冷ましていく

「ん~・・・はいはい。って、さむ・・・っ! 急に布団剥がすなよ?!」

「こうでもしないと、貴方は二度寝するから・・・ここまで一緒にいた経験でわかる。遅刻・・・してもいいの・・・・?」

「・・・よくないな」

 遅刻という言葉に反応して、男はすぐに服を着替える。カッターシャツを着て。ズボンをはき、ネクタイを締め、スーツ姿の一歩手前と衣を変える。冷たい服がさらに体温を奪うかと思いきや・・・

「あれ・・・? 温い?」

「貴方が冷たい冷たい言うから、コタツを使って温めておいたの」

 そっけなく、平淡に言い切る。そこに特別な感情はないと、暗に滲み出ている。

「そっか・・・ありがとうな」

 それでも男は少女がしてくれた行為にお礼を言う。むしろ、何の感情もこもっていないからこそ、そう言いたかったのかもしれない。

「コーヒー入れるから、コタツにでも入って待ってて」

「なんというか悪いな・・・すっかり嫁さんみたいなことしてもらって・・・・あ~、やっぱコタツは温いな・・・」

 コタツの中へと全身を滑らせ、そのままうつぶせになって頭だけをだす。寒さを最大限に避けるための姿勢、俗にいうコタツムリである。

「・・・別に、ほかにやることもないからだし・・・お礼なんて言わなくていいのよ。それに、わたしは貴方の『恋人』だから、これくらいは別に・・・・」

 話しながら少女は手際よくコーヒーを注ぎ、温めておいたミルクと、それを少し別に取り分けたものを盆へとのせる。

「むしろ『恋人』だからこそ、心からお礼をいうんだがな・・・」

「わたしには分からないわ・・・はい、コーヒー」

 話している間にもコーヒーをもってこられる。置くとすぐに少女もコタツへと入ってくる。それをみて、男はコタツムリから這い出て人の姿へと戻る。

「あ~・・・コタツムリしてたら、また少し眠くなってきたかも・・・?」

 そういってコーヒーに手を伸ばそうとしたところで、少女が口をはさむ。

「だめよ。ブラックで飲むのはお腹によくないと聞いたことがあるわ。少しはミルクを入れなさい」

 お盆を引き、男の手からコーヒーを遠ざける。

「俺はブラックが好きなんだが・・・」

「だったら何か食べる? トーストに目玉焼きくらいならすぐにできるけど?」

「いや、俺朝は食べない派だから・・・」

「だったら、なおさらミルクを入れないとお腹に良くないでしょう?」

 相も変わらず、淡々とした口調で話されると、真実味が薄い。

 本当に少女は男を心配しているのか? ただ単に、嫌がらせをしているのではないか?

 そう思われても仕方のない―――いや、そうとしか思えない声音だった。

「・・・やれやれ、毎朝『恋人』に心配されるツケということにしておくか」

 恋は盲目とでもいうのか、男は素直に少女の言葉に従うことにした。

 諦めて少しだけ入れて飲むことを決めたところで、また少女が口を開く。

「あと、少しじゃなく、できれば半分くらいは入れてね」

 できれば入れてという、命令ではなくお願いの言葉に男は―――

「・・・分かっているさ。せっかく、入れてくれたんだからな」

 そう返事を返して―――全部入れることにした。

 それを見て、少女の目が微かに・・・本当の僅かにだが驚きに開かれる。

「どう、して・・・・? あまり・・・ミルク好きじゃないんでしょ?」

 珍しく少女が質問をしていた。

「できれば入れたくはないな」

「だったら、なぜ?」

 少女の疑問に、かき混ぜながら答える。

「・・・お前が手間をかけて用意してくれたって、そう思ったら残せなくなっただけだ」

 混ぜたところで一口飲む。

「うーん・・・やっぱ苦味が弱くなるな・・・・」

「貴方は変な人ね・・・」

「んっ?」

「普通の人には、わたしの言い方をずっと続けていると『嫌がらせ』とか、『本当は心配していないくせに』と、いつも怒られてしまうから・・・きっと、貴方もそう思っているんじゃないかと考えていたの。でも、違うのね」

「そんなの思考が停止しているような奴らだろ? 少し考えたらわかることなのに、奴らはそれすら放棄する・・・生粋の馬鹿だ。救いようがない」

「え・・・っ?」

「悪い、お前が悪く言われていることを考えたら・・・正直ムカついた」

「別にいいのよ? わたしが悪いのだから・・・」

「だからと言って、お前が人の嫌がることをするような女じゃないことは、考えたら分かるはずだ。こんな寒い中でわざわざ手間のかかるドリップコーヒーを入れ、それが冷えないように保温できる容器に移し替える。さらにミルクは温めて、コーヒーがぬるくならないように気をつかっている。後、俺がミルクを入れるのを渋っているから、本当は全部入れて欲しいのに、譲歩してできれば半分くらいとか言ういじらしい女が嫌がらせ? 有り得ないな」

 そこまで言い切り、また一口コーヒーを飲む。

「仮に、お前の言い方が悪いとしても、それはあくまでも半分だけだ。残りの半分はお前の行動を理解できない奴が悪い。だから、お前は必要以上に悪いと思う必要はないんだよ」

「・・・貴方って、本当に変わった人ね」

 少女が共に持ってきていた温かいミルクに口をつける。

「何をいまさら念を押してるんだ? そんなの初めて会った時から知ってることだろ?」

「そうね・・・でも、その・・・」

 言いにくく、歯切れが悪い。思わずミルクに口をつけて間をとる。

 男は少女の言いたいことを黙って待っていた。

 そして、改めて言葉の続きを告げる。

「あり・・・が・・とう・・・・っ」

 忘れ去った言葉を思い出すかのようにたどたどしい・・・けれど、確かにそれは紡がれた。

「『恋人』のことを普通に見ていただけのことだ。だから、このくらいで礼を言われることはない」

「む・・・さっきの、わたしの・・仕返し・・・・?」

「いや、別にそういうわけじゃ・・・」

「ふふ・・・っ! 冗談・・・よ?」

 少し緩んだ顔が、くすぐったいような感情を見せる。

「・・・・・・」

「・・・どうしたの?」

「いや、柔らかい表情を初めて見たなと思ってな」

「!!」

「可愛くて綺麗だと思っていたが、やっぱ穏やかな表情はさらに映えるな」

「・・・ごめんなさい」

「なんで謝るんだ?」

「だって、わたしはもう少ししたら―――」

「そこからは言わなくていい。俺は『先』のことよりも『今』のほうが大切なんだ。お前といられる『今』がな・・・それに、それはお前が謝ることじゃない」

 少女の言わんとしていることが分かった男が、そこから先の言葉を制す。

「お前が感情を抑えられないならそれでいいし、むしろそうして欲しい。俺はそういう風に日々を過ごしたいと思っている」

「どうして・・・? だってわたしは―――」

「だから、そういうのはいいって言っているだろ? 単純に『恋人』の喜んだ顔を見たいって思うのが男ってもんだ。それが美少女ならなおさらな」

「わたし、少女っていう年齢じゃないわよ・・・・?」

「とはいえ、外見は本当に少女な訳だし・・・俺からしたら、かわいけりゃそんなもんどうでもいい」

「・・・わかった。わたしもあなたの『恋人』として善処してみる」

「ああ、頑張ってかわいいところをガンガン見せてくれ・・・・って、なんだその可哀想な人を見る目は・・・」

「わたしは、そんなにかわいいものじゃないわ・・・・」

「そんなもんは他人が決めることで、お前が決めることじゃない。もちろん俺はお前をこの世で一番かわいいと思っているぞ? ・・・って、だからなんだその頭悪い人間を見る目は・・・」

「別に? ただ・・・・本当の本当に、貴方って変で変わった人なのね」

「まあな。ただ、連呼されるとへこむから勘弁してくれ・・・」

「・・・ごめんなさい」

 目の前で覇気を無くした男に、少女はさすがに謝る。

「ところで・・・もう一杯飲む?」

 みれば男のカップは空になっていた。

 少女は空気を変えるきっかけとしてそこに目を付けた。

「ん? そうだな・・・時間もまだあるし、もらえるか?」

「うんっ」

 カップを受け取りすぐに新しいコーヒーを持ってくる。

「はい・・・どうぞ」

「あれ? ミルクがないけどいいのか?」

「さっき・・・一緒に飲んだでしょ? だから二杯目は、なくてもいいかな・・・・って」

「・・・そうか、ありがとうな」

「ずいぶん嬉しそうに飲むのね・・・」

「そりゃ『恋人』の愛情が身に染みるからな」

「べ、別に・・・そんなんじゃないわ・・・・ただ・・・その、そう・・・・えらそうな貴方に、身体の悪いことをしてやろうって思っただけよ・・・・」

 男の視線に痒みを感じ、視線をそらしながら、とってつけたかのような言葉を紡ぐ。

 なんとなく目元近くまでお盆で顔を隠す。それでも居心地が悪くて、身体をもじもじとさせてしまう。

「・・・今、お前すごくかわいいって自覚してるか?」

「な、なにを言って―――」

 心がざわつく隙間に、よく分からない言葉をかけられて混乱する。だから、それを否定しようと男に視線を戻して「そんなことはない」と言おうとするが・・・

「あ・・・あう・・・・っ」

 男の穏やかで、愛おしそうなものを見る表情に言葉が詰まる。

 思考はがんじがらめとなり、胸が動悸を起こしていて苦しかった。得たいの知れない感情だけが胸から湧き上がってくる。だけど、それはどこか心地よくもあって・・・・どう扱ったらいいのか分からず、遂には何も言えずに顔をまたそらして逃げてしまった。それでも、消え去るような声で最後に一言だけは絞り出す。

「ばかぁ・・・っ」

「ああ、知ってる」

 それきり会話は途絶える。

 少女は居心地が悪そうであっても、時が来るまで男の側からは離れようとはしなかった。

 一方、男は黙って優しく少女を見守るのであった。

 そんな何とも言えない、かけがえのない時間を二人は過ごしていった。




 出勤の時間が来ると二人はすぐに動いた。

「やれやれ、今日も資本主義の奴隷として生きてくるか・・・」

「まって、ネクタイが曲がってるわ。なおすからじっとして・・・んっ・・と・・・・よし。あと、鞄を持っていかずにどうするつもりなの? それと携帯電話は持ったの? また前みたいに忘れていない?」

 先ほどまでの戸惑いが嘘のように、少女が甲斐甲斐しく男の世話を焼く。

「大丈夫だ・・・・なんというか、毎度ベタベタなシチュエーションだな」

「そんなことはどうでもいいの。ほら、マフラーもして、身体をなるべく冷やさないようにしないと・・・今年は寒いのよ?」

 背伸びをして男の首にマフラーをかけて巻いていく。すると男の手が素肌であることに気付く。

「ああ、もうっ! 手袋までしていないじゃない! ちょっと待ってなさい。今持ってくるから!」

「・・・なんというか、できの悪い子に手をやく母親みたいだな」

 少女の背を見ながら、ふと漏らした言葉に一人苦笑する。

「こういうのも、いいもんだな・・・・昔も―――」

 色あせた思い出に耽(ふけ)そうになったところで少女が戻ってくる。

「はい、ちゃんと着けなさいよ?」

「おう、ありがとうな」

「・・・なにをそんなに笑っているの?」

「時間が迫っている時のお前って、普段と違って声に張りがでるよな? そういうお前もいいなって思ってるだけだよ」

「・・・馬鹿なこといってないで、早くいかないと遅刻するわよ?」

「あ、ホントだ。また走って飛ばすか。んじゃまあ、行ってくる」

「・・・いってらっしゃい」




 男を見送った後は朝の片づけや、洗濯物、掃除などをこなしていく。その作業を黙々とこなしながらも、少女の頭は雑念にとらわれていた。

(今日で彼と同棲して七日目・・・)

 洗濯機を回して、コーヒーの残りかすを生ごみの消臭用(男が教えてくれた)に分けて、濾したフィルターはごみへと捨てる。

(いたって平穏・・・)

 その後は食器を洗っていく。二人分のモノだけなのですぐに終わる。

(彼は変な人だけど、一緒にいるとなんだか・・・・そう、とても暖かい)

 コタツの上にあるものを一度どかし、その後全体を拭いていく。

(それに、凄くいい人・・・おかしなわたしへ普通に接するだけでなく、優しくしてくれる。それだけでなく、わたしのしていたことを理解してくれた。わたしを・・・理解しようとしてくれる・・・・・)

 変化の乏しい表情とは裏腹に―――少女自身は気づいていないが―――その内は人知れず綻んでいた。

(・・・・こういうの、なんていうんだっけ・・・?)

 ふと自分の感情を思い出そうとして、拭いていた手が止まる。そこから数分してようやっと思い浮かぶ言葉があった。

「うれ・・・し・・い・・・・?」

 呪いの言葉のように、恐る恐る口にする。

声にして、耳で聞いて、頭で考えて分からない。分からなくて首をかしげる。

(・・・・やっぱりわからない)

 分からないのなら誰かに聞けばいい。そうなるとおのずと浮かぶ人物は一人しかいなかった。

(・・・彼に聞いたら―――何を甘えているのわたしは? そんなことを尋ねる資格、わたしにはないわ・・・・だから、わかる必要なんてないのよ・・・温もりだって・・・・本当は・・・・・)

 芽吹こうとしていた懐かしい感情を潰す。その瞬間、溶けかけていた少女の内はまた凍りつくのであった。

(そうよ、掃除が終わったら荷物の整理をしないといけないんだから・・・考え事をしていないで作業に集中しないと・・・・集中すれば何も考えなくてすむの)

 逃げるように作業をこなしていく。掃除も毎日少しずつ行うようにしているから、大して時間はかからない。けれど男の荷物の整理に関しては時間がかかるので、そこに時間を取られるわけにはいかなかった。そもそも、なぜ時間がかかるかというと・・・

(文章だけのものはとても読み切れないから、せめて漫画くらいは・・・)

 文章がぎっちりと書かれ、分厚くてとても読む気になれない本を優先的にまとめて整理していき、読みやすい漫画を少女は読んでいく。別に読みたいから読んでいるわけではない。初めはただ、男がどういった物語を好むのかに興味があった。でも、今はそれだけではなかった。

(・・・彼のことを理解したい・・・・こんなわたしだけど・・・それでも・・・・・いい・・・よ・・・・ね・・?)

 ページを読み進めていく少女の手は決して早くはなかった。むしろ、読むのに慣れている者からみたら遅いくらいだ。

 一ページ、一ページ。そこに男の心のかけらがないか探るように、丁寧にゆっくりと読んでいく。内容はファンタジーの長編だった。今読んでいるのは第一部の最終章。大地を駆け回り、ヒトを守るために戦い続けてきた主人公達が、五つ目の大地にて最後の戦いを迎えていた。

(・・・この戦いに勝ったところで、この二人が報われるわけじゃない。主人公はヒロインの願いで彼女を殺めることになったけど、そこを悲しみとしていないからいいのだけど・・・こっちの黒髪の彼は、仲間であり、添い遂げた女性をヒトの裏切りによって殺され、敵の考えに共鳴さえしている。なのに、どうして戦うの?)

 ページをめくると、ちょうど最後の敵が自分と同じことを彼に問いかけていた。そして、自分に手をかせば、確実にヒトを滅ぼすことができると、此の期に及んで黒髪の男を誘ってくる。けれど、男はそれを頑なに拒む。そして、感情的にセリフを言う。

『お前は彼女の安らかな眠りを妨げた! お前は彼女の魂を穢した! お前は・・・生きるということを侮辱したっ!!』

 一つ一つのセリフで攻撃をしかけ、言葉を際立たせるようにしていた。

(ただの私闘・・・・たぶん、彼はもう駄目ね・・・これから壊れていくか、狂っていくわ・・・・)

 そうしてなんだかんだ戦闘シーンがあって

『ヒトが道を間違えても、その間違えを正すのもまたヒトだっ!』

 もう一人の男である主人公が、青臭くて現実を知らない、理想論なセリフと共に最後の敵を打ち倒す。

 戦いが終わったあと、二人の英雄は動乱の終結を宣言し、荒れた大地を回復させた後、歴史の表舞台から姿を消した。

 読み終わって本を閉じ、これまでの巻数をそろえて整理していく。

(なんだか、気持ち悪い話だったわ。現実を無視した綺麗な理想論を吐く主人公が、ただただ凄いっていうだけのお話。これなら、現実を直視していた黒髪の彼のほうがずっと好ましいわ)

 他に何があったかを見ていく、これの続編が二つと、和風ファンタジーのようなもの―――これも三部構成―――と、恋愛と医療ものと思われるのが二つ、後は短編集があった。見た感じではだが・・・

(これ、全部書いている人同じなのね・・・・彼はこの作者の話が好きなのかしら?)

 少女は純粋な読み物として、和服姿の男と巫女装束を着た女の子が書かれている表紙のものをとった。タイトルは『Blessing ~カミアガリ~』。

(難しそうな話は疲れるし、恋愛ものは・・・変に意識しちゃいそうだから、最後にしましょう・・・・)

 今度はこの作品を読み進めていく。挫折した男の主人公が黒髪の巫女と出会い、彼女を守るために再び強くなろうとする物語であり、これまたありふれた話だった。ただ、この作品で少女の目を引いたところがあった。

(死んだ後の物語・・・? 生きている人間が、死後の世界を描くというの・・・? とんだ傲慢ね)

 心のどこかで呆れてはいたが、なんとなく目を通していく。

 主人公の男は生きていた時に夢が破れた敗北者だった。心を捨てるか、命を捨てるかを選択するとき、彼は後者を選択した。それは誇りを守るための死だった。

 それを目にとめた下級神の神様――女狐の神――が消滅するはずだった彼の魂をすくい上げ、死後の世界で修業を積ませ、男は見る見るうちに強く、そしてその世界の人々との絆を深めていった。血反吐を吐く努力は当たり前、一歩間違えれば死ぬのは当然、0か100かの両極端。それを全て、運と信頼と人の援助と想いの力で乗り越えていき、少しずつ報われていく姿はカタルシスを誘うのに十分だった。

(・・・こんなに意志の強い人間なんて、いるわけないじゃない・・・・)

 少女は物語の持つ、ご都合主義というものが好きではなかった。

 どんな極限的な状況下でも、信じていれば必ず助かる・報われるという偽りの希望を読む者に与えるからだ。けれど、現実はそうではない。現実は考えられないまでに救いが存在していない。


 ――運?

 この世は不運ばかりに満ちている。幸運のあとには必ず不運がやってくる。それは絶対的な真実。


 ――信頼?

 信じたら裏切られる。裏切られて捨てられておしまい。無くすことがあっても得るものは何一つない。


 ――人の手助け?

 利害関係の一致でしか手を組まない存在が? ただ、己をよく見せるための処世術にしか過ぎない。


 ――想いの力?

 気持ちだけで何ができる? 何を守り、何を成すことができる? 現実の理不尽に叩き潰されるだけだ。


 ――報い?

 報われたと思っていても、またすぐに落とされる。報われ続けるということは決してありえない。


(だから、この主人公は死を選んだわけよね。まあ『救いはこの世ではなく、あの世にある』という意味にしたいのかしら・・・?)

 時間をかけながらも、着実に数を読んでいく。

(・・・彼はどんな気持ちでこれらの本を読んでいるのかしら・・・? 少なくとも、わたしみたいに斜に構えてはいなさそう)

「やっぱり・・・わたしはこういうのは好きじゃないわ・・・・・でも、彼を知るためにも目を通さないと・・・・」

 ふと外を見てみると、思った以上に時間は経っていたようで、すっかり日は暮れていた。

 本を読んでいると、読みにくいと思っていてもつい電気をつけずに読んでしまう性分な少女は、男から昼間でも電気をつけて読むようにと言われていた。そのせいで時間を感じることを忘れてしまったようだ。とはいえ、時計を見れば時間的にはまだ夕方と言える。冬故の早い日暮れであった。

(あ、いけない・・・・買い物にいかないと・・・・)

(彼が帰ってくる時間を考えると・・・・うん、大丈夫。まだ十分間に合うわ)

 財布と買い物袋を持って外へと出る。

 寒い暗闇の中を、少女は一人歩いていった。




(今日はお野菜が安いのね・・・でも、彼にはお肉も必要だし・・・朝食べないのだから一日のカロリーが不足して・・・・でも、夜に食べ過ぎると朝が辛いって言うし・・・・どうしようかしら・・・・?)

 先に必要な野菜だけをカゴに入れ、要冷蔵の食品を前に考え込んでいた。

(ヒレ肉が以外と安い・・・? これだったらそんなに重たく・・・ないわよね? これでステーキをして、そこに温野菜を添えて、あとは野菜のスープね。彼はお米を食べないから、その分小さ目なステーキを二枚食べてもらわないとね)

 献立をまとめたところで、食材その他牛乳やコーヒーなども購入して、持ってきた袋に入れていく。重いものを下にして、軽いもの、つぶれては困るものを上に載せていく。基本はレジの人が購入時に入れて行ってくれた順番の通りにすればいいので、特に考える必要はなかった。

(んっ・・・帰ったら、すぐに作ってあげないと・・・ね)

 購入物を入れた袋を持とうとしたとき、暗闇のガラスに映った自分が目に入り、その姿を見てしまう。

 冬服をさらに上着で羽織っているので、正直おしゃれとは言えない。とはいえ、少女もおしゃれに気を使うつもりもない。ただ、感情をなくして平淡で無色な顔つきの・・・人形以上の人形のような顔がそこにはある。そのはずだった。

(どうして・・・っ?!)

 ほどけて柔らかくなっていた顔が、驚きの表情へと変化する。それはおかしなほど、まるで人間のようであった。

 男と過ごした短い生活の中で、その心は気づかないうちにほぐされていたようだ。それが今朝の出来事が決定的となって、一気に顔へと現出したことに少女はいま気づく。

 

――――柔らかい表情を初めて見た。


(・・・・・っ!)

 唐突に今朝、男に言われた言葉を思い出す。

 見るからにガラスに映る少女が動揺していた。


――――可愛くて綺麗だと思っていたが、やっぱ穏やかな表情はさらに映えるな


(~~~~っ?!)

 あの時はこんな風に感じることはなかった。

 もしもこれが色の映る鏡であったならば、少女は間違いなく色づいている顔を見れた。


 ――――今、お前すごくかわいいって自覚してるか?

 (~~~~っっっ?!?!!???)

 こんな感情を男に見られていたことに今更ながら気づく。

 胸を手で押さえ、その衝動に耐えられず少女がガラスの枠外へと逃げ出した。

「・・・はぁはぁっ! ・・・どう、し・・・て・・・・・?」

 息が切れて足が止める。適当な壁に背を預け、胸を強く握りしめる。

 もうどうしようもないくらいに自覚していた。自覚してしまった。

(・・・・はず・・かしい・・・・ずっと、こんな顔を・・・見られていたの・・・・・? いつものように感情を消さないと・・・・きっと彼を怒らせて―――)

 熱く火照る顔を両手で覆い、感情という仮面を剥ぎ棄てようとするが・・・


 ――――お前が感情を抑えられないならそれでいいし、むしろそうして欲しい。俺はそういう風に日々を過ごしたいと思っている。

 ――――・・・わかった。わたしもあなたの『恋人』として善処してみる。

(~~~~っ!)

 今朝交わしたばかりの言葉を違えるわけにはいかない。そんなことをすれば、これまでの自分の言葉の全てに、嘘という落ちることのない色がこびり付いてしまう。そのことが少女の選択を無くす。

(彼に対して嘘をつくのは絶対にダメっ! そうしたら、彼は叶うことのない希望を持ってしまうかもしれない・・・これ以上、残酷で救いのない話はいらないっ!)

 気持ちが沈んでくるのが分かる。それと同時に、さっきまでの自分は、やはりどこか浮ついていたのだと理解できた。

(・・・わたしがきらわれるのはいつものことだし・・・・大丈夫。いつものことよ・・・・)

 自分が沈んだところで仕方がないので、どうにか明るくするようにと希望的観測をしてみる。

(それに・・・彼なら怒らないということも十分にあり得る。そもそも、そうするようにしたのは彼だから・・・・彼は律儀な人だし、きっと自分で言ったことは守るはずだもの・・・・だから彼に対しては大丈夫!)

 無理やりにでも明るく考える。

暗闇に思考が落ちないように、気丈にふるまえるようにと願いながら。

(・・・・わたし、なにやってるんだろ? ばかみたい・・・いいえ、ばかね。こんなことを心配しているなんて・・・)

 一回りしたのか、驚くほどに冷静になった自分がいた。そして、そもそもの目的を思い出す。

(そうよ・・・早く彼のご飯を作らないと・・・・って、あら?)

「買ったもの・・・置いてきちゃったわ・・・・・」




 部屋へと戻るとすぐに暖房を入れる。それとコタツの電源も入れる。男が帰ってきた時、少しでも寒くないようにとの配慮だ。

 忘れたものは幸いにもすぐに返してもらえた。それと、店員の人たちから‘白髪(しろかみ)の女の子’と呼ばれているということも初めて知った。

(・・・お客の前で、あまりそういうことは言わないほうがいいとは思うのだけれど・・・・今回に関してはわたしの容姿が役立ったみたいだからいいわ。それにしても・・・あの店員さん、凄くお話し好きなのね。おかげであれこれ聞かれてしまったわ)

 少女は『おばちゃん』という人種を知らなかった。つまり、今の今まで一方的に話に付き合わされていた。人付き合いの苦手な少女は話の切り時が分からず、ずるずると餌食になっていたのだった。いや、途中からはもう完全に遊ばれていた。


 ―――『彼氏さんのためにいつも料理を? いい彼女ね。あら、そんな照れなくてもいいのよ? もしかして、一緒に住んでる? あら、やだ。その若さで同棲なんて・・・最近の子たちは色々早いのね? で、どこまで行ったの? ABCでいうとどのあたり? と、いうよりも同棲していればもう全部したかしら? あらあら~、そんなに慌ててうぶね。こんなにかわいくて優しい彼女を持てて彼氏さんも幸せね~。だったら早く帰って、彼氏さんにご飯作ってあげないといけないわね』


「・・・・・・っ!」

 ふと、最後の部分を思い返してしまい、恥ずかしくて顔が熱くなってくる。けれど今はそんな場合ではなく、少女は気持ちを切り替える。

(もう彼が帰ってきた時、すぐにスープは用意できないわね・・・)

 そう思いながらも少女はてきぱきと調理を始めていく。

(お肉はすぐに焼きあがるからいいけど、スープは煮込む時間がかかるのよね。温野菜は電子レンジを使って時短ね)

 そうして流れるような作業の果てに、スープは煮込みという律速段階へと突入する。

 すると外から物音が近づき始めてきた。

(帰ってきた・・・!)

 どうにも胸が落ち着かない。

(だ、大丈夫よね・・・? 恥ずかしい表情に・・・なってないわよね?)

 意味もなく顔を触ったりする。気持ち、暖かくなっているように感じるのは、きっと火の前で調理をしているからだと思うことにする。

 カギの差し込む音がして、すぐに開いた音が聞こえる。そして、ゆっくりと扉が開く音がする。足音が迷うことなくまっすぐにこちらへと向かってくる。

「ただいまーっと」

「・・・おかえりなさい」

「いや~、今日も疲れたな・・・・」

「ごめんなさい・・・ご飯もう少し待って・・くれる?」

「ああ、大丈夫だ。しかし、初めてじゃないか・・・? お前が準備できていないのって?」

「それは・・・その、うっかり買ったものを忘れてきてしまって・・・・」

「その感じだと・・・さてはおばちゃんズにでも捕まったか?」

「う・・んっ? おばちゃんず・・・?」

「あそこにいる、かつては乙女だった人らのことだ」

「・・・・? どうしてそんな遠まわしに言うの? 普通におばさんじゃダメなの・・・?」

「俺がそれをすると社会的に終わりかねないのさ・・・・」

「・・・よくわからないけど、大変そうなのは分かったわ」

「それだけ分かれば十分だ」

 話しながら男はスーツ姿を解いていき、少女が準備していた服に着替えていく。

「何から何までありがとうな」

「・・・・?」

「お前が来てくれてから、俺の生活は随分楽になったよ。だから、ありがとうだ」

「べ、別に・・・・それがわたしの役割だから・・・・」

「・・・今朝からどうしたんだ? やけに可愛らしさに磨きがかかっているが」

「だ、だから・・・っ! わたしはかわいくなんて・・・!」

「俺が勝手にそういう風に思っているだけだから、お前の言葉は否定しないよ。だけど、肯定もしないけどな」

「~~~~っ! ・・・わたしなんかをそういう風に感じるのは、頭がおかしくなっているからよっ!」

 普段なら押さえている感情をさらけ出す。それは男との約束を守るため。

 これまでの人間であったらこの瞬間に逆切れを起こすなり、少女にそんな権利はないと発狂して誹謗中傷の嵐だ。少なくとも、不快感をあらわにされることは確実だ。だから、少女としてはこれまで受け入れてくれた男が、そんな風にならないかという恐怖心を持っていた。なまじ、男はこれまでのどんな人間よりも少女を受け入れてくれた。そんな存在にそういった言葉を浴びせられる・・・少女にとってこれ以上に辛いことはなかった。だけど、例えそうなったとしても、少女は男との約束は破りたくなかった。その結果は―――

「ははっ。やっと感情を見せてくれるようになったな。お前はそれでいいんだよ」

「!!」

 笑っている男に少女が驚いた。

 なんとも肩すかしな結末に、思い悩んでいた少し前の自分を酷く滑稽だと思った。

「・・・なんだか釈然としないけど、それで・・・いいの?」

「ああ」

「・・・そう。わかったわ。このままのわたしでいいのね・・・・」

「そうそう、そのままのお前の方が、感情を押し殺しているよりよっぽど魅力的だ」

「だから、どうしてそう平然とそんな言葉が吐けるの?」

「お前も案外・・・馬鹿だな~」

「・・・どうして?」

「そんなの、事実だからに決まっているだろ?」

「・・・あなた、そこの本の黒髪の彼みたいなこというのね。ひょっとして、影響受けたの・・・・?」

「お? ソウハ読んだのか? 第一部までか?」

 男がコタツに入って少女のエプロン姿を後ろから眺める。

「ええ、読ませてもらったわ」

「そうか・・・で、どうだった?」

「主人公の完璧さには気味が悪かったわ」

「そこかっ?! 二次元的なキャラクターの設定に、突っ込みいれていたらきりがないぞ?!」

「じゃあ、頭の悪い設定が多い・・・かしら? なんで、力のある人間とない人間なんて出てくるの・・・? なんで大地ごとに季節を分けるのよ?」

 男のために入れたコーヒーを出す。もちろんミルク入りである。

「それがファンタジー系の醍醐味だろ。って、すでにミルク入り?!」

「ミルク無しは食後までお預け・・・」

「まさか自由にブラックで飲む権利を奪われるだけでなく、ミルクを調節する権利まで奪われるとはな・・・・」

「やっぱり、いや・・・?」

「お前、自分のかわいさを無意識的に理解してるよな・・・・」

「???」

「ありがたく飲ませてもらうよ」

「・・・・っ! ど、どうぞ・・・ご飯、もうすぐできるから・・・・待っててね?」

「おう。ゆっくりでいいぞ」

 コーヒーという名のカフェオレもどきを飲みながら、少女の料理姿を満喫する。

肉に塩コショウを適量かけていき、熱したフライパンへと入れる。肉の焼ける臭いがこちらにも少し届くが、これくらいならあまり気にならない。旨みが逃げ出したり、固くなったりしないようにと、焼きすぎないように素早く少女は肉を返していく。そして、少しして火を切って肉を皿に並べてソースをかけていく。そこにいつの間にか出来上がっていた温野菜を添えて、色合いを整えていく。

 計算通りに完成したスープを入れようとしたときに、湯気の熱さにあたふたしている姿を申し訳なく思いながらも、かわいいと男は思っていた。

 それらを盆に載せて持ってきてくれた。

「お待たせ・・・」

「じゃあ、一緒に食うか!」

「はい・・・こっちが貴方の分・・・・」

「って、あれ? 肉多くないか?」

「多くない・・・・貴方は二枚で、わたしは一枚」

「いや、だからおれ夜もあまり食べな―――」

「わたしのごはん・・・・いやぁ?」

「・・・お前、それは演技だろ?」

「・・・若い男はこうすればイチコロだって、店員さんが言ってたのに・・・・」

「あのおばさん連中め・・・っ!」

「それより、貴方意外と女との付き合いあったのね・・・・」

「リア充と呼べるほどじゃないがな・・・・後、俺はもう三十も半ばのおっさんだ。少なくとも若くはない」

「じゃあ、ダメね・・・・何の意味もなかったわ・・・・」

「いやまあ、いいものは見れたがな・・・・」

「どんな・・・?」

「抱きしめたくなるくらいかわいいお前を見れた」

「・・・作り物なのに?」

「関係ない。俺がかわいいと思ったら、それが俺の本物だ」

「よくわからないわ・・・」

「まあ、そんなことより食べようか。ありがたく頂くよ」

「んっ、召し上がれ。残しちゃいや・・・よ?」

「・・・・ああ、ちゃんと食べるからそんな顔するなよ」

「そんな顔といわれても・・・・私にはわからないわ」

 そうして二人は静かに食事を食べていく。




「はい。コーヒー・・・今度はミルク無しよ」

 食事の後片付けを終えた少女が、今度こそ男の望みのものを出す。

「あ~、やっと一日が終わった気がする・・・・」

 鼻腔をくすぐる香ばしさに癒される。

「しかし、お前本当に料理がうまいな」

「別に、レシピ通り作っているだけ」

 少女も朝のように男の斜め向かいでコタツに入り、ミルクをちびちびと飲んでいた。

「そうだとしても、それをちゃんとやりきるのが大したもんだ。俺は面倒過ぎて無理だ」

「貴方の場合、元々食事に対する興味がないからじゃないの・・・?」

「・・・否定できないな」

「わたしが来るまでの貴方の食生活は、カロリー以外はサプリメントでの摂取だったわね・・・」

「文明の利器ってやつだな。まあ、おかげで栄養失調にはならずにいけていたさ」

「でも、それは自然じゃないわ。歪な生活よ」

「ぐうの音も出ない」

「・・・ねえ」

「んっ?」

「わたしは・・・・貴方の役にたっている?」

「ああ、十分な」

「・・・本当に?」

「お前も変に疑り深いな」

「ごめんなさい・・・・」

「お前がこうしてそばに居てくれている。それだけで俺がどれだけ救われていることか・・・」

「どうして・・・? わたしは貴方を―――」

「何度でも言うが、それはお前のせいじゃない。そういう流れが悪いだけだ。そこにお前が気を病む必要はない」

「・・・・貴方の優しさが時々わたしには痛いわ」

「お前の悪いところがあるとしたら、すぐに暗くなることだな」

「わたしだって、なりたくてなっているわけじゃないのよ・・・?」

「だから俺は無理やりにでも明るい話題に変える。で、俺の本読んでて面白いのか?」

「えっと・・・ごめんなさい・・・・わからない・・・わ」

「はい?」

「だ、だって・・・・どこをどう楽しめばいいのか・・わからないもの・・・・」

「えーっと、じゃあ何か一話ごとの感想でも教えてくれないか?」

「感想・・・? だったら、どうしてあんな作品を考えたのかしら?」

「ああ、やっぱりお前作者のあとがきとか見ていないんだな」

「どうして? 作品の中に書き手の考えがあるのなら、それ以上読む必要はないと思うのだけれど・・・」

「だいたいそういったところに、書ききれない考えや、裏話があったりするんだよ。例えばソウハ・・・創破神世でいけば、あれは作者が大学時代の講義で着想を得たものだ」

「そうなの?」

「ああ。能力や敵あたりはその時に考えたって書いてたよ」

「あの頭の悪い四文字タイトルも?」

「そこは言ってやるな。作者は慢性中二病だからな」

「中二?」

「中学二年生が考えるようなことを、ずっと引きずっているっていう意味だったはずだ」

 一度、互いに飲み物に口をつける。

「子供のような考え方・・・・だから読んでいて気持ち悪いのね・・・・・」

「酷い感想だな・・・まあ、それも一つの考えだがな」

「むしろ、貴方はどう思ったの?」

「俺か? 俺はまあ読んでて普通に楽しかったよ」

「どういったところが楽しいの・・・・?」

「そうだな・・・黒髪男と赤髪女の掛け合いとか好きだな。少し、俺たちと似てないか?」

「えっ?」

「男が女をほめても、女は最初頑なに否定するところとかな」

「・・・・それよりも男が女に対して軽々しくほめ好きじゃないかしら? あまりよく思っていないとしたら、それは苦痛にしかならないわ」

「あれっ? もしかして、俺がそういったことを言うたびに嫌だったりするのか?」

「な、なんでそうなるの・・・っ?! わたしは・・・・その、自分はそうじゃないって思っているだけで・・・・・別に、いやとか・・・そんなんじゃないから・・・・・!」

 少女は慌てて否定する。なぜだか男に勘違いされるのが嫌だった。

 朝の時と同じように少女が居心地悪そうにしだした。けれど、今はちらちらと視線は向けてくれているので、話を続ける気はあるようだ。

「そうか・・・・それと他には―――」

 朝にはできなかった、まったりとした空気の中での話し合い。

 お互いが共通して話すことができる些細な、けれど大切な時間を満足するまで過ごしていく。カップの中身がなくなれば二人で入れに行き、その間にも話題を咲かせる。

 男は少年の様に笑いながら、少女と話をする。

 少女は男のように物語を楽しむことはできなくとも、共に過ごす穏やかな時間を心地よく感じていた。

 そうこうしていくうちに夜は深くなっていく。

「っと、話しすぎたかな? 大丈夫か? 途中で俺の話ばかりに付き合って退屈じゃなかったか?」

「・・・ううん。貴方と過ごす時間は退屈じゃない」

 少し眠そうに少女が話す。

「あ~、ごめんな。つい話ができるのが嬉しくて長くなりすぎた」

「え・・・っ? 『うれ・・・し・・い・・・・・』の?」

 それは男を見送った後で考えていた時にたどり着いた言葉だった。

 驚きと共に眠気が吹き飛ぶ。

「そりゃ、自分の話を理解してくれたり、受け入れてくれたりしたら嬉しいもんだろ?」

 この言葉に閃くものがあった。

「・・・・わかった。わかったわっ!」

 少女は男の言葉を聞いて、ようやっと記憶というつぼみから、感情という花を咲かせることができた。

 男が自分に向けてくれる好意的な感情が・・・

 理解して受け入れてくれることが―――

 あの時、分からなかった感情が胸の中から開かれていく。

「わたし―――」

 初めて聞く少女の大声にあっけにとられている男を見つめる。

「―――貴方と共にいられるのが、うれ・・・し・・い・・・っ! とってもうれしいのっ!!」

 言葉を告げると同時に、凍り付いていた感情が溶かされる。

 それは少女が初めて見せる、心からの笑みであった。

 普段の発言とは不釣り合いな彼女がみせる、相応の姿。本来の少女はこういった存在なのだと思い知らされる・・・・天使の笑顔。

「・・・・・」

 すっかり和らいだ少女の笑みに見惚れる。束縛も暗さも陰りもない、ただただ純粋で無垢な心が現れていた。

「・・・・きれいだ」

 呆けたような一言がもれる。

「もう、ばか・・・っ。そういった一言もうれしい・・のね・・・・」

 夜の魔力がなせる業か、いつもとは正反対の言葉をはにかみながら言ってくる。

 和らぎすぎて、無防備極まりない少女に対してよからぬことを考える前に男は動く。

「そろそろ風呂入って寝ようか? な?」

「え・・・っ? それって、一緒に入るの・・・・?」

 これまでと違って面白いくらい少女の顔が変わる。もちろん今は恥じらう乙女のようだ。それも、満更でもない表情である。

「ちがうちがうっ! 一人が入ってる間に歯磨きしておくんだよ! そもそも、うちの風呂は二人は無理だって!」

「・・・・そっか・・」

「予言するぞ。今は理解できた喜びと、夜のハイテンションでとんでもなく感情的になっているが・・・・翌朝、お前は枕に顔をうずめて脚をバタバタさせることになる」

 努めて冷静に告げる。ここで自分も少女の感情に引きずられると、間違いなく過ちを起こすことになると感じていた。

 二十代の頃であれば危なかったが、幸いにも伊達に歳を重ねてきたわけではなかった。

「・・・そう・・かもしれない・・・・」

「よし、じゃあ俺が歯を磨いている間に入ってきてくれ・・・って、なんで服の裾をつかんでいるんだ?」

「でも、貴方は言った『先』のことよりも『今』を大切にしたいと・・・・今、わたしが貴方と共にいたいという、この想いは・・・・ダメなの?」

「・・・いいか、今のお前は感情に酔っているんだよ。そういった気持ちになるのが久しぶりだから、それは仕方のないことだ。もし、明日になってもその気持ちが薄れていないなら、その時にはちゃんと向き合うさ」

「でも・・・・」

「あ~、じゃあ、今夜は一緒の布団で眠るでいいか? それで勘弁してくれ」

「え、あ・・・・うんっ!」

「それと明日―――」


 ドンッ! ドンッ! ドンッ!


 突如隣の壁から聞こえてくる重たい音―――いわゆる壁ドンである。

 お隣さんが誰かを思い出す。そして、先ほどからの自分たちの会話内容を振り返ると・・・・

「・・・本当にすいません。独身男性にバカップル丸出しの会話は残酷すぎだ・・・・」

 血涙を流しているであろう男に心の底からの謝罪をする。

「ねえ・・・早く準備して一緒に寝ましょう?」

「静かに準備しような」

「・・・うんっ?」

 嫉妬の壁ドンを避けながら二人は寝る準備を進め、いざ布団に入る段階になって男は気づいた。 

「おまえ・・・なんで寝間着買ってないんだよ・・・・」

「・・・わすれていたわ。でも、風邪はひかないのだから大丈夫よ・・・?」

「下着姿で寝られる俺の身にもなってくれよ・・・」

「大丈夫・・・わたし達『恋人』だから・・・・ほら、早く寝ましょう?」

「・・・・・・・ああっ」

 布団の中ですり寄ってくる少女の温もりと、感触に慣れるまでの間、男は無限に感じる時を過ごすのであった。

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