<<第七章 ~涙が灯した希望~ ∞>>

 あれから月日は流れ、何度か隙を見ては下に降りていたが、やがてそれもしなくなった。長すぎる時の流れが、二人の思い出の場所を失くしていったからだ。もう、あの部屋もなければ、デートをした場所もなく、最後の地も形を変えていた。地上で作った思い出の場所は、どこにもなかった。だから、少女はもう地上へと降りることはしなかった。男との思い出を失くした地にいることが、辛くて苦しくて悲しくて・・・・地上でも涙を流してしまうからだ。唯一涙が止まった世界でさえ、気づけば消え去っていた。

 今、少女は自分の部屋から直接繋がっている祈祷所で、毎日祈りを捧げていた。愛する男の魂が、無事にいてくれることを願って・・・・どうか消えずに、幸せな世界へと辿りついてくれることを願っていた。人間である限りそれが不可能であると知りながら、それでも少女は祈りを欠かすことはなかった。

「・・・・アナタ」

 あの日から毎日涙を流して、膝をつき、手を組んで祈り続けている。

「ごめんなさい・・・・わたしのせいで・・・・・結局、苦しめてしまって・・・・・・・・見守ると言ったのに・・・・・・それすらもできなくて・・・・・・嘘をついて・・・・・ごめんなさい・・・・・」

 毎日涙を流しながら、懺悔をする。上を向けば、差し込まれる光でステンドグラスが輝いていた。でも、少女にはその輝きが黒ずんで見えてしまう。かつて自分を照らしてくれた光は、もうどこにもなかった。

 あの日、男の魂を連れて帰ってきたことを思い出す。忘れられるわけがなかった。地獄へと叩き落された、あの日の出来事を。

「・・・・っ! ぐす・・・ふっ・・・ううっ!」

 毎日あの日を思い出す。忘れたくても、忘れられない。何度も何度も繰り返し、少女が絶望で狂うまでか、終わることなく何度も叩き落された感覚が与えられる。

「・・・アナタっ! おねがい・・・・! 消えないでっっ!」

 何度繰り返したか分からない。終わることなく繰り返すことで、男がどこかで救われるというのであれば、喜んで永遠と言い続ける。

「おねがい・・・・おねがいよぉっ・・・・・どうか・・・どうか・・・・・・・誰か・・あの人を・・・・・すくってぇ・・・・っ!」

 涙が止まることはなかった。寝ても覚めても、ずっと少女は涙を流し続けていた。

 悲しみが途切れることはなかった。

 痛みが覚めることはなかった。

 傷が癒えることはなかった。

 管理者の読み通り、少女はあれからずっと独りで泣いて、心を痛め、死を超える苦痛の中、悲しみと苦しみを上へと提供し続けていた。人間では抱えきれないものでも、人間でない少女であればこその、苦しみに苦しみを、悲しみに悲しみを重ねて熟成された・・・・極上の感情だった。いつ壊れてもおかしくないほどの激情に、独り耐え続けていた。

 なぜなら、少女を支える最後のモノがあった。地上での場所は失くしたが、男のくれたモノだけは今も在り続けた。男との思い出が詰まった白き服、左手にはめられた指輪に、左だけに蘇った翼、それを展開させてそっと触れる。

「・・・そろそろ部屋に帰らないと・・・・・」

 祈祷所から出る間際、いつもの言葉を残していく。

「明日も来るわね・・・・だから・・・おねがい・・・・消えないで・・・・・っ!」

 少女に許された場所は強制的に住むようにと言われた部屋だけだった。しかし、男の魂に祈るための祈祷所を少女が希望し、それが少女の感情を高ぶらせる道具として使えると思ったからこそ、新たに作られ、許された場所だった。

「ただいま・・・・」

 帰ってきた独りの部屋へと言葉をかける。そこは地上で男と過ごした部屋と、生活感からなにまでまったく同じだった。家具から私物にいたるまで、全てが男の部屋と同一であり、それが少女の心を錯覚させる。

『ああ、これまでは全部が悪い夢で・・・彼が帰ってくるんだ』

 そう思わせるように、地上から回収した男のモノを用意しておいた。わざわざ物質的なものを精神体へと置き換える手間をかけてまで用意された、孤独と失望の部屋だった。

 少女もそれは理解していた。これはただ自分から感情を搾り取るための道具なのだと。

 幻だと分かっているのに、男が決して帰ってくることがないと知っているのに、少女はかつてしていた行動をしてしまう。感情を持つが故に、ここに残る男の温もりが少女にそうさせる。


 ―――早く晩御飯作らなきゃ・・・・あの人が、お腹を空かせて帰ってくるんですもの。


 食べる存在の居ない料理を作る。作ったそれを捨てる時になって、また味わわされる。男がいない事実に胸を締め付けられ、涙を搾り取られる。


 ―――寒がりのあの人ために、布団を温めておかなきゃ。


 けれど、男が布団へと入ってくることはなく、そのまま独りで眠りに落ちる。朝、寂しく目を覚まし、独りだということに涙がこぼれる。かつて抱いてもらえた、あの腕の温もりが狂おしいまでに恋しかった。


 ―――・・・・・朝の準備で早く起きてるだけ。だから、早くコーヒーを用意しなきゃ・・・・あの人の好きなブラックで入れるから、きっと喜んで飲んでくれるわ。


 もちろん、用意しても飲まれることはない。空しく独りで温めたミルクを飲む。二人で飲んでいた時はほんのりと甘くて、あれほど暖かかったというのに、今は涙の味しかしなかった。温もりなど・・・・存在していなかった。


 ―――違う・・・きっと早く行ってしまったの。急なことで早く行くことだってあるわ。だって、あの人が昨日着ていた服が置かれているもの。お風呂で使ったタオルだって・・・・


 着用された服に、使用されたタオルとその他の洗濯物を洗濯機にかけていく。洗いおわれば、それをいつものように干していく。とても気持ちよく晴れた青空は、眩しいまでに明るかった。よく乾く、洗濯日和の日光だった。


 ―――光が弱いわね・・・ちゃんと乾くかしら?


 いつものように、少女は好きになった歌を歌いながら干していく。『わたし』と、繰り返し寄り添うように使われるフレーズが、今の少女には滑稽だった。寄り添う対象がいないというのに、どこに『わたし』がいるというのであろうか? 


 ―――どうしてわたし・・・・泣いているのかしら? あの人との生活を過ごしているのに・・・・・どうして?


 他に掃除などやることを終えると、いつものように漫画を読み進めていく。男と話をするための材料として、そして・・・・最近どこかそんなものを好きになってきている。物語のもつ、ご都合主義というものがあっても良いのではないかと思ってきている。現実にはそんなものがないからこそ、せめて物語の中でくらいはあってもいいのではないかと。


 ―――『Blessing~懐かしい未来のその先へ~』。この作品が一番好きだわ。最後に救われるところが大好き。でも、どうして結末を知っているのかしら? まるで、何度も読んでいたかのように感じるけど・・・・・そんなはずないわ。だって、あの人との生活をまだ一ヶ月も過ごしていないもの。


 『Blessing~カミアガリ~』からの続編である本編。その内容は、生きた人間である男が狭間の世界に迷い込み、主とくろみに引っ付いてその世界を見ていくというものだった。

 主人公はいつしかくろみに惹かれ、彼女の抱える苦しみや悲しみを知る。そして、それをどうにかしたくて強くなることを決意した。

 主になることでしか彼女を救えないと知った時、迷うことなく主人公はそれを目指した。そして、見事試練をのり越え、三代目の主となってくろみの心を救う。

 受け入れられることがなかった初代主の魂。それを宿した子供をくろみが産み、二人の子として、かつての主は生まれ変わった。くろみからの惜しみない愛情を注がれ、前世では得られなかったものを・・・・今度こそ幸せな命を送るのであった。


 ―――作り物の話しで泣くことになるなんて思わなかったわ。こうやって救われる・・・・・魂があってもいいわよね?


 それは誰に対する魂か。


 ―――そろそろ夕ご飯を作らないといけないから、お買いものに行かないと・・・・


 涙を拭いて、少女が買い物用のカバンを持って部屋を出る。そして、逃げることができない現実を思い知らされ、泣き崩れる。出た先は自分が住む地獄だったからだ。

「あ・・・ぐぅ・・・・ぐすっ・・・・ひっく・・・・・」

 男はもういなくて、その魂ももう消滅しているのかもしれなくて、救いなどはなく・・・・それを部屋から出るたびに突きつけられ、心を傷つけられ、絶望に金色の瞳から涙が押し出される。


 ―――どうして、わたしはずっとこんなことに翻弄されるのっ?! もう・・・あの人は!


「・・・いやっ、そんなの認めたくないっ! あの人だったら・・・・あの人だったら・・・・・!」

 だから少女は諦めずに祈る。理屈の上では分かっていても、感情として認めたくなかったから、今日もまた祈りを繰り返すため、祈祷所へと向かう。

 膝をつき、胸の前で手を組み、瞳を閉じて祈り続ける。男の存在を呼び続ける。


 ―――アナタ・・・


 今も暗闇の中で、独り耐え続けているだろう男の魂へと届くように。

 男を想うたびに涙が一粒落ちていく。


 ―――アナタ、アナタアナタアナタ・・・・・・・・・・・・


 男へと囁くように、胸の中小さな声で祈り続ける。

 『アナタ』と呼ぶほどに、涙が流れ落ちていく。祈祷所の光を受け、輝きながら落ちていく涙は、流れ星の様であった。

 ぽたぽたと下へと落ちていく涙が、どこかへと消えていく。物質的なものではなく、精神的なものであるそれは、少女から離れた瞬間溶けて消えていく。

 もう何百年以上も少女はそうしていた。

 気の遠くなるほどの時間、その身は孤独に震え、その心は絶望で傷だらけとなっても、それでも男の事だけは忘れずに想い続けた。一日として欠かすことなく、これからも男へと祈りを捧げ続けていく。

「・・・まだ祈るのか?」

 不意に声をかけられる。金髪赤目の男だった。

 声をかけられても少女はそちらを見ない。そんな暇があるのなら祈り続けていた。

「もういいだろ? いい加減忘れたらどうだ?」

「・・・いやよ」

 流石に、忘れろという言葉には反応してしまう。涙を流し続けながら男へと視線を向ける。その姿は痛々しいほどであった。

 今にも崩れ落ちて、消え去ってしまいそうだった。それでも、少女が立てるのは男との思い出があったから。男がくれた指輪が、翼が・・・・少女に力をくれていた。

「そうやっていても何も変わらない。心を壊していくだけだ。それを彼が望んでいると思うのか?」

「・・・あの人は望まないでしょうね」

「だったらそんなものは忘れてしまえばいい。私の力なら、君の記憶を消すことも―――」

「あの人がくれたココロを捨てるくらいなら、消滅するほうがましよ。悲しくてもいいの、どれほど苦しくてもいいの、あの人を感じて想えるのなら、どんな感情でもいいの。だから、あの人がくれたこのココロまで・・・・奪わないで」

 迷いなく言い切られる。涙を流して、苦しくて仕方がないはずなのに、辛くて狂いそうなのに、それでもそれを選び続ける。

「けれど、心配してくれて・・・・ありがとう」

 少女が泣きながら笑う。触れたら壊れてしまいそうな笑顔であったが、愛する男のことを話せる相手がいて、嬉しくて笑う。まだ、あの人の魂が消滅していないことを、話し相手の男が証明してくれているからだ。

「・・・・君は変わったな」

「そう? それなら貴方だってそうよ? わたしが地上に降りる手助けをしてくれたり、今だって・・・・わたしのことを心配してくれたでしょ? 貴方のおかげで、あの人の魂がまだ頑張っているのが分かったわ。きっと、あの人ならどこかにたどり着けるわよね?」

「・・・ここまで耐えた前例がない。だから上も慌てている。もしかしたら彼は・・・・至高天にまで上り詰めるかもしれないと」

「至高天っ?! すごいっ! すごいわっ! そうなったら、あの人は永遠の愛の中で過ごせるのよねっ?! もう、苦しまなくてもいいのねっ! 良かった・・・・本当に・・・・・良かった・・・・・」

 流れる涙の色が変わる。冷たい色ではなく、温かみを帯びた色へと変わっていく。

「まだ喜ぶのは早い。可能性の話しだ。それに、そうなったとしてももう君とは会えない。それでもいいのか?」

「あの人の幸せがわたしの幸せ。あの人が救われるのなら、わたしはそれで構わない。もう二度と会えなくても、あの人が永遠の愛を掴めるのなら、それ以上の喜びはないわ」

 射し込まれた希望に、少女の顔が明るくなる。

 それを見られて、男は無茶をしただけの甲斐があったと思った。

 少女との面会はもう禁じられていた。男の魂が想像以上に試練を耐え、踏破していく様に慌てた上が禁止した。当初であれば、いつ魂が消滅するかという絶望感を味わわせることができたが、ここまでくれば万が一も有り得た。そんな筈がないと思いながらも、このことが耳に入れば、少女が悲しみ苦しむことがなくなる可能性があった。

 そこを男はついた。巧みに話をしかけ、ここで持ち上げて落とせばより良い感情になるといった。これまで人間が試練を超えたことなどなかったから万が一などない、何も心配せずに伝え、結末で感情を取るだけ搾り取ればいいと。そうして、何の情報も知らない少女に、希望を伝えた。

「・・・とはいえ、人間が超えられたことがない以上、ただの糠喜びになると思いますが・・・・・」

 だから最後には落としておかないといけなかった。もしも何の成果もなければ自分は罰せられるからだ。けれど、それでもいいかと思えた。

「・・・多分、あの人ならだいじょうぶよ。だって、今までわたしがダメだと思ったことを全部受け入れてくれて、全部否定してくれたんだもの・・・・だから、だいじょうぶ」

 少女が蘇ったかのように明るい表情で、生き生きとしているからだ。大砂漠どころか、大海原に落ちた針を拾うような可能性でさえ、少女は諦めていなかった。

 男も、永すぎた負の感情に辟易していた。だから、明るい感情を見たかったのかもしれない。闇夜に静かに佇み、優しく光を降り注ぐ・・・・そんな月のような感情を見たかったのかもしれなかった。

「・・・まだまだ先は長い。それでもそれに縋るのかい?」

「ええ、縋れるだけありがたいわ。教えてくれてありがとう。貴方の事・・・・少しだけ好きになったわ」

「・・・・くだらない。それでは、そろそろ失礼する。今後は合うこともないと思うが、せいぜい頑張ることだ」

 少女の言葉に動揺してしまうが、どうにかそれを隠して逃げるように去っていく。

 男が去れば、少女はまた祈りを捧げる。変わらず涙を流しているが、その口元は優しく形を変えていた。





 あれからさらに数百年が過ぎた。その間も、少女は独り祈り続けていた。

 独りきりなので、男がどうなったのか、その結末を知ることもできない。けれど、少女は信じていた。きっと、あの人ならば辿り着いたと。だから、今は辿り着いた先で幸せな命を味わって欲しいと祈っていた。誰かのことよりも、自分の幸せを感じて欲しいと願っていた。

 例え、自分がもう二度と男に会えなくても・・・・

 例え、孤独に震えて泣き続けることになっても、それでいいと思っていた。

「・・・もう、泣きながらご飯作るのが癖になっているわね」

 長い時間をかけて、ようやく幻想から脱することができた。それでも、少女は幻想生活を止めていなかった。過ごした日々が染みついてしまっていた。

「最近春になってきたらしいけど、今日はあの人が好きなシチューにしましょう」

 食べ物に残る思い出。それを思い出すため、少女は涙を流しながら料理を作り続ける。それだけが、独りの寂しさを紛らわせる・・・・男との残された繋がりだったからだ。

「・・・あら? 随分久しぶりね」

 調理中だというのに、入口を開けられて誰かが入ってくる。きっとあの男だと思った。それ以外来る存在など少女にはいなかった。もしかしたら、あの人の結末を告げに来たのかもしれない。自然と少女の身体に緊張が走る。胸が動悸を起こして苦しくなる。

 ――――もしも最悪の結末が告げられたら

「その・・・どうだったの?」

 入ってきた存在に向かって恐る恐る話しかける。そこにいたのは想像していた男ではなかった。

「・・・・・・」

 突然の来訪者に少女が黙り込み、驚きに目を大きく広げる。

 長く伸びた髪を後ろにまとめ、顔に傷を残した若い男が、涙を流しているそんな少女を見てくる。

「・・・・・」

「・・・・・」

 互いに黙り合う。何を言えばいいのか分からなかった。

「その・・・・どちらさまですか?」

 涙を拭って質問する。目の前にいる男が誰なのか分からなかった。

「あ・・・ごめんなさい・・・・その、ずっと止まらないの・・・・」

 拭ったものがすぐに溢れ出す。頬を伝い、床へと落ちていく。

 それを見て、聞いた男が少女を抱きしめる。泣き止むようにと、少女の背中を撫でていく。そして、耳元である言葉を囁く。

「――――」

「っ?!」

 その言葉に少女の涙が大きく溢れ出す。これまでの小さな涙ではなく、大粒の涙をこぼしていく。

「あ・・・あうっ・・・・うぁああ・・・っ!」

 言葉にならない声が上がる。そんな少女に、男は言葉を続けてくる。



「・・・愛している」



 それはかつて伝えられなかった言葉だった。

 言葉を伝えると、男は少女をまっすぐに見つめる。ずっと泣き続けていた少女に、もう一度耳元で囁いた言葉を言う。

「アンギル」

 それは少女の名だった。愛する男からもらった、ただ一人に呼ばれるだけの名前だった。

「・・・はっ、あ・・ううっ・・・・ぐすっ!」

 少女は幻覚を見ているのだと思った。だから、これはまた上が作った新たな道具なのだと思った。それを察したかのように、男が少女へといつもしていたことをする。

 その行為は、言葉を重ねるよりも簡単なことだ。簡単でありながら、言葉よりも遥かに雄弁に語るのであった。

「う、んっ?!」

 永い間貰えなかった感触。唇と唇が触れあう、懐かしい温もり。

 忘れることのなかったそれが、少女に現実を教えてくれる。

 今、自分は・・・・あの人と触れあっているのだと。あの人からの温もりを感じているのだと。

「・・・ごめんな。かなり待たせて・・・・ずっと独りにさせて、悪かった」

 顔に傷こそ負っているが、それは懐かしい男の表情だった。

「~~~~っ!」

 何度も思いだして、繰り返していた声が。

 何度も思いだして、繰り返して見た男の顔が。

 今、時空を超えて少女の目の前にあった。


 抱きしめられる腕の暖かさが


 撫でられる手の温もりが


 なによりも流れ込んでくる男からの愛情が


 少女に変わることのない現実を教えていた。


「・・・どうして・・・ここに・・・・いるの・・・・? アナタは・・・至高天に・・・・・」

 涙声ながら、必死に確認する。まだ、もしもこれが夢であったらと思うと、怖くて素直に喜べなかった。

「ああ、確かにそんなくだらないところに行っちまったな。あいつらが次から次へと試練なんざ押し付けてくるから、いらん回り道をしちまった。そうじゃなきゃ、お前の助けもあって、百年も経たずにここに来られたんだぜ?」

「どうして・・・そこにいなかったの?」

「お前がいないあんな所、どうでもいい」

 信じられないことを言う。至高天こそ全ての存在が望む世界であり、そのために試練を受ける存在がいるというのに、それを男は全否定した。

「俺が居たいのはお前の隣だ。俺が欲しいのは、お前からの愛だけだ。それ以外からの愛なんてものは、俺には不要だ。俺にとっての至高天は、お前と共にあるこの世界だ」

 至高の愛を、名誉を、富を、救いを得られたと言うのに・・・・男はその全てを捨ててでも、少女のいる底辺世界へと降りてきた。ただ一人、少女だけを求めていた。

 強く少女を抱きしめる。もう離さないようにと強く抱く。そして、感謝の言葉を続ける。

「・・・お前が毎日祈り続けてくれたから、俺は諦めずにあの暗闇を乗り越えられた。お前が常に背を押してくれたから、歩くことができた。決して、届いた奴だけに至高の愛とかを押し付ける存在のおかげじゃない。お前が俺を支えてくれたんだ。お前だけが・・・こんな俺を想い続けてくれた」

 そう、少女の祈りは決して無駄ではなかった。これまでの人間が試練を乗り越えられなかったのは、誰も祈る者がいなかったことにも理由があった。

 誰かから祈られることもなく、自分だけが救われることを願っていた者が・・・救われる道理などはなかった。

「お前の流した涙が、暗闇に駆ける星の光になって、行き先を示してくれた・・・・照らしてくれた。愛する女が涙を流しながら祈ってくれているのに、あんなところで終われるかよ」

 そっと涙を拭う。優しく拭われていく手に、少女の永き悲しみの色が少しずつ落ちていく。

 男の執念はとにかく凄まじかった。今までの人間はただ救いを求め、それがあまりにも遠すぎると、あっけなく心は砕けて闇に飲まれたのに対して、男は違っていた。元々希望や救いなど求めてはいなかった。絶望を塗り替えようなどとは思っていなかった。絶望であることを受け入れ、その中で求めていたのは――――

「お前に・・・幸せになって欲しい。だから、俺はここにいる。お前を愛したい。伝えられなかった言葉を伝えたかった」

 ただ一人、孤独な少女の幸せだった。

 少女以外の全てを捨てた、狂気に染まった利他的な願いだった。だから、どれほど遠くても諦めることはなかった。なによりも大切な存在が傷つけられ、孤独に震えて泣いているというのに、自分だけが潰える訳にはいかなかった。

 どれほど絶望的でも、どんなに遠くても、そこに終わりがあるのなら、少女へと辿り着くという想いを貫き通した。ただ一言、絶対に伝えなければならないという、男の強き意志が時空を超え、神をも動かした。

「愛している、アンギル。これからずっと、終わることなく・・・お前を愛し続けていく」

「・・・わたしも」

 話している間、男から送り込まれた記憶と感情に、ようやく少女もこれが現実であると信じられた。

「わたしも・・・・アナタを愛しています・・・ずっと・・・・側で愛させてください・・・・・・」

 男の首へと手を回し、踵を浮かせて口づける。別れた日からずっと求めていた存在を味わう。

 少女の心が震える。強い喜びが、地上でもらえた幸せが、今度は自分の世界でもらえる。その嬉しさが心の中から弾け出る。その想いが、少女の背から翼となって再び現れる。それはこれまでの不完全な翼ではなく、左右から広がる大きく美しい、白銀の輝きを取り戻したココロだった。

 地において連理の枝であった二人が、天においても比翼の鳥となった瞬間だった。

 舞い散る羽根は、再び出会った二人を祝福するかのようだった。

「・・・うれしい・・・・うれしいっ! また、アナタと出会えるなんて・・・・・夢を見ているみたい・・・・・」

「夢は見るだけじゃなく、他に何があるとおもう?」

 舞い散る羽根を見ながら、最愛の女性へと問いかける。腕の中の彼女は分からないらしく、視線で男に解答を求める。そんな愛らしい天使の彼女へ、男は微笑みながら答えを言う。

「叶えるものさ。アンギル・・・左手を出してくれないか?」

 言われるがまま、少しだけ身体を離して、大人しく左手を上げる。

 男はどこかから出したモノを、その指に通していく。

「これって・・・」

 自身の薬指に通されたものを見てアンギルは驚いた。それは指輪だった。エンゲージリングの次に貰う指輪と言えば・・・・

「生きている時に渡せなくて悪かった」

「あ・・・」

 アンギルが求めていた夫婦としての証。創り上げたかった家族の種だった。

 訪れるはずがないと思っていた未来が

 断絶したはずの未来が、男によって再び繋がれた。

 ここから始まる、新たな二人の未来が。

「アナタは・・・どこまでわたしの願いを叶えてくれるの? もう、言葉じゃ言えないくらいにうれしいわ・・・・っ!」

 気づけば、悲しみの色から喜びの色へと涙は変わっていた。

「違うぞ? これはな・・・お前と俺で叶えたんだ。二人だからできたんだ・・・・・二人ならできるんだ」

 もう一度強く抱きしめ、離れていた距離を埋める。

「アナタ・・・」

「・・・アンギル」

 見つめ合う二人に、それ以上の言葉はもういらなかった。

「・・・んっ」

 互いに顔を近づけ、永く悠久の間できなかった口づけを重ねていく。別れていた時間を取り戻すかのように、二人はそうしていく。飽きることなく、何度も何度も・・・・・・





 終わりの季節で一度は消えた男の軌跡が、強引なまでの意志によって、再び彼女と交わり、新たな軌跡を生み出した。それは、始まりの季節となって、この世界を変える風となる。

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