第二章「一日目」
未来へ
十二月“二十五日”
僕らの放り出されたその先は、風に舞い上がる程に細かな砂の荒野だった。
夜の闇から世界へ飛び出し、いまこの視界を埋め尽くすのは――雲一つとない夕暮れの空と砂丘。風に波打ち、草木の一つも、命の一つさえも見当たらない枯れた大地だった。
「なんで、どうしてなの……村から見えてた山や緑は? こんな光景何処にも……ねぇレインっ?」
「僕らが村の中から見ていた
――そこには僕らの辿った結末があった。
見渡す限りの砂の地平線。緑はおろか村を囲んでいたあの山岳も、大地の隆起さえもがもう見当たらない。化学の業火、魔術の暴虐……干上がった大地……歯止めを失ったの闘争の果てには、
――『時に少年よ。その結末にさしたる問題は生じない事だが、私の嘘は二つでなく
僕らの村にイルベルト以外の来訪者が無かったのは――この広い大地に、もう命が残っていないからだったとその時知った。
……イルベルトの嘘はたった一つだった。つまりアルスーン王国へと徴兵された父さんも、村の男たちももう……
こんな世界にみんなを連れ出しても、きっとまともに生きていく事は叶わないだろう。その事がわかっていたから霧の魔女は僕らをあの魔法の中に留めようとしたんだ。……もしかしたら僕らは、見知らぬ魔女に幸せな世界に匿われていた最後の人類なのかも知れない
「それでも……この世界の片隅には、まだ生きてる人がいる」顔を上げて僕は言った。
日没後、数十分だけ訪れる薄明の時間。淡い金色に染まるマジックアワーの空の下に立ち尽くしていると、先程までの喧騒が全て夢であったかの様に思えた。この絶望的な気持ちと裏腹に、目前に広がる地平一杯の光景は、幻想的で美しいと思えて、なんだかチグハグだった。
「レイン……なんだよね?」
――僕の瞳に失われた八年の歳月を取り戻したリズの姿が映る。
見違える程に美しくなった一人の女性は、腰程までに伸び切った黒い髪を揺らして青の瞳を艶っぽく輝かせている。
「時間が……僕らの中で蓄積されていた時間が、巻き戻って……」
――彼女の瞳に大人になった僕が映る。
リズの頭を胸程までの高さに見下ろした青年は、サラサラとそよぐ白銀の髪の下で、濡れた灰色の瞳を瞬いていた。
見違えるように大きくなった掌を伸び切った髪の隙間から見下ろしながら、あの時壁の向こうで朽ち果てた鶏も、今僕らの身に起きた現象と同じ理屈で風化したのだとその時わかった。
……一生見る筈の無かった快晴の下で、大人になった僕らは立ち尽くしていた。見果てぬ視界のその先は無限大で、何処にも僕らを遮る壁なんてありはしなかった。
「……」
「……」
風が耳を撫でて、澄んだ空気が鼻腔より流れ込む。この肺一杯に冷たい空気が満ちて、心臓からの血流が全身に行き届いていくのがわかった。
彼方の向こうで、赤く燃える太陽がまだ少しだけ頭を覗かせている……その手前、触れる程の近くで彼女が僕を見つめていた。
――僕らの周囲には何も無かった。僕らの世界にも何も無かった。僕ら自身にもまた何も無かった。……だけど孤独と虚無のこの先には、僕らの知らないすべてがあると感じた。
「背……抜かれちゃったね」
えくぼの出来たあの面影を微かに、満面の笑みを浮かべた彼女。その目尻から溢れた涙は、細く顔の輪郭を伝って砂に落ちる。
「夢が叶ったんだ」
「夢……?」
可憐に言った彼女の言葉を、僕は繰り返す。
白い歯を見せた彼女の周囲を、風に乗った砂が夕焼けにキラキラと輝いていた。黒く美しく風になびいた髪。そこに落ちた表情はまるで、大人と子どものとの狭間に居るみたいな、人生の内の僅かな一瞬を切り取った奇跡みたいだった。
リズは嬉しそうにはにかんで、耳に手を添えながらくるりと回った。彼女のドレスはふわりと風に浮かんで、白くきめの細かい足からは光の粒子が漏れているみたいに見えた。
「キラキラ言ってる……私たちの未来を祝福してくれているみたいに」
上下したエルフの尖った耳には一体何が聞こえているのだろう。僕の世界には風が砂を擦る微かな音しか聞こえない。するとリズが言った。
「ねぇレイン、そこに何かが埋まってるみたい」
一歩踏み出した砂の先、その足下に硬い感触を覚えて砂を払うと、焦げた石碑の残骸が埋まっていた。僕らを見守る様に埋没していた
「やっぱりそうだ、キミが助けてくれたんだね……」
風になびいた砂の波状。何処までも何も無い大地と、巨大に落ちる太陽の赤を遠景に眺めていると、ひうらりと柔らかい風が吹いて、伸び切った僕の髪をかき混ぜた。
「あれ、なんで……?」
ポケットをまさぐると、あの時捨てた筈のスノウの紙紐がポケットに入っていた。僕はそれを取り出して、顔に纏わりつく長髪を後ろに纏める。
「スノウが大人になったみたいだよ」リズがそう言った。
彼女の澄んだ瞳に
焼けた空はいよいよ地平の向こうへ消えていった。――すると次に、燃えるような赤色を地平に残して、濃紺の空が天上を染め始める。薄い星屑の下、僕らは昼とも夜ともしれない曖昧な世界の境界に立っていた。
彼女は何者も無い荒野から視線を村の方角へと戻し、その手に握った赤い指輪を僕に見せる。
心に思い描いた
けれど彼女は躊躇う僕の手を取りながら、指輪を握り締めた拳を包み込ませた。
「大丈夫。出来ない事なんてきっと無いから」
――次の瞬間、リズの瞳が瞬いて、赤い光の粒子が僕らの髪を逆巻かせた。
「それにこの指輪の使い時はきっと今で、私たちが心に思い描くモノもきっと一緒だから」
――掌の中で赤い宝石が砕けたかと思うと、
鳥籠に囚われ続けた八年間。知らずの内に僕らの心を支え続けていた……あの月光の下のグランドピアノが――
「村のみんなに……お父さんに、届けばいいな」
耳元で言ったリズの元を離れて歩み始める。僕らにとっての原点であり、サヨナラのスタートラインへと向かって。
「……
この無機質な砂の荒野に、一筋の道筋を残して進む……僅かにしか無い世界の一瞬――闇と炎のグラデーションに見下ろされて、一瞬の夢にまどろんでいるみたいだ。
緩く舞った砂はオレンジに輝き、砂丘は風に揺すられ波打つ痕跡を残した。百八十度に見渡せる地平。振り返った村の方角には灼熱が覗き、そこから視線を上げていくに連れて、色彩は薄い青から濃紺へと変わっていく。……やがて世界の天上に、雲一つのない星の砂漠が広がっていった――
「ねぇリズ、さっき夢が叶ったなんて言っていたけど」
ピアノの前に腰掛けた僕は瞳を閉じて、これまでにあった記憶を走馬灯の様に感じ取った。本当に様々な事が……夢幻の様な記憶の全てを今では思い出す事ができる。この複雑に絡まった気持ちを、到底言語化する事は出来ないだろう。
――
深く息を吸って見開いた瞳。僕はこの手を宵の空へと向かって振り上げる。
「僕らの夢は
あの頃とは比べようも無い、大人になったこの大きな手を――
フレデリック・ショパンより――『バラード第四番』
砂に混じり、金色に包まれながら風に揺れる。
凪いだ風音の中、厳かなピアノの余韻はじっくりと世界に浸透し、終末の大地に文明を思い起こさせていく……
この曲こそが、スノウがあの日夢見ていた偉大なる楽曲――
――この目を瞑ると、天窓から注ぐ月光のスポットライトに照らされている様に感じた。
魔法で出来たグランドピアノは、僕が酒場で弾き続けたあの質感を見事に再現している。
……不思議だ。もうこの体の感覚が馴染んでいる。
指先まで満ちる血流。変貌したこの指が何処まで届くかが僕にはわかる。
まるでずっとこの体で生きて来たみたいに。
――僕はあの酒場の壇上に座って、村のみんなに囲まれながら演奏している。
……次の鍵盤へと届かずに、あの日懸命に伸ばした指先。
この身を呪い、成長を願った記憶……大人になればと、あの渦の中で願い続けた。
何も知らず、何にも気付かずに……悪魔に嘲笑われ続けていたとも知らずに。
じっくりと、丁寧に……頭の中に暗譜した譜面と、この旋律の流麗とに意識を研ぎ澄ます。
この荒廃した世界で、次にピアノが弾ける事なんてもう来ないかも知れない。
一度しか無い念願の答え合わせ。思い描いた
……見ていてみんな。これが僕らの
静かに……静かに……ただこの時を喜んで。ただこの演奏を楽しんで。
この意識さえも、忘却の彼方へ押しやれる位に。
地平に見えるオレンジの炎が、空を淡く照らして暮れていく。頭上に見える星々は色を濃くして、闇と煌めきとが僕らを包み始めた。
この星の一つ一つが、村のみんなの声援に思える。お母さん、ティーダ、イルベルト、セレナ、グルタ……
この世界に希望を灯すまで、まだそこで待っていて。
僕は必ずみんなを迎えにいくから。
だから今は、幸せな夢の中で息をしていて……
何もない地平の果てまで、ピアノの旋律は風に乗っていく。今この世界を満たすのは、
ひたすらに全てを込めて、これまでに培った技術と知識と思いの全てを、一度限りの幻想ピアノに奏でる。
――『それは、僕の夢なんかじゃない』
……スノウの声が聞こえた。
けれど彼の姿は何処にも無かった。
「そうだね……これはキミの夢なんかじゃない」
そう答えた。そして、月明かりにこの表情を浮き上がらせながら空に捧げる。
「この曲は、
大丈夫だ。上手く弾けている。スノウの思い描いた憧れは、今しっかりとこのモノトーンに奏でられている。
問題ないよ、とても心地が良いんだ。いま僕はスノウと一つになっているんだから――
僕はスノウで、スノウは僕だった……
僕らは二人で一人なんじゃなくて。一人で二人だった。
そこに大きな差異は無い。どちらにしても僕らは一緒なんだから。
ずっと受け入れられないでいた現実を受け止める所から、この世界は変わり始めたんだ。
口元に手をやり、涙ぐんだリズは多分、影の落ちていくあの村の方角に、父の幻影を見ているんだとわかった。
彼女の顔を照らしていた陽の光は、足元まで伸びた長い影に消えていき、あとには砂の擦れる風の一迅だけが残った。
僕らのバラードは激しさを見せて、愛と少しの寂しさを音色に混ぜ込んだ。
濃紺の世界……巨大な月明かりに照らされて、ピアノを奏で続ける――
繰り返し続けた旋律を越えて、ドラマチックなメロディは流れる様に人生を走り出す。
止まらない。もうあの時には戻らない。
駆け上がっていくステージへの階段。あの輝かしい光の先には何が待っているの?
何が見える、どんな光景が、何が聞こえる?
僕はスノウの手を引いてそこに行こうとしていた。彼と一緒に未来へ歩み出したかった――
……そんな事など、もう叶わないとわかっていたのに。
彼の死を直視する事が出来ずに、全て忘れてしまったかの様に目を逸らし続けた。
リズが僕の姿を瞬きもせずに見守っているのが見えた。
彼女との未来を願ったからこそ、僕は今こうしていられるんだ。
彼女の心があったからこそ僕は、自分に掛かった“忘却の呪い”を解き放つ事が出来たんだから。
世界の在り方を知って、その見え方が変わった、
この世界を嘆いて、
明日へ旅立とうと心に決めた。
恐怖に目を背けるのでは無く、その正体を見極めて――……
……楽想は静かに、またあの頃のメロディを再現し始める。
これはまるで、僕の深層心理の中で、繰り返し続ける毎日を傍観していたスノウの情緒に似ていると感じた。
静かに、静かに……また繰り返しへと戻る。
――あの毎日へ。
代わり映えのしない毎日に、少しの変化と革命を待ち続けて……
何も知らずに笑い続ける。
同じ会話を同じ表情で、同じ様に相槌を打ちながら。
それが間違っている事だと思い続けていた。
この命の尊厳を何者かに奪い去られ、滑稽に踊り続ける舞台の上の
しばし、あの日々を思う……
スノードームのガラスがひび割れ――突如として静寂は破られる。未来は輝かしきか暗黒か、それはまだわからない。
だけれど僕らは歩み始めた。そこにまだ見ぬ世界を垣間見て――
……けれどそこから見えた世界は、僕らが思い描いたものでは無かった。
楽想と共に、転落していく未来の展望――
知らなければよかったと思った。
僕らは争いの果てに残されていた。
夢を思い描いていたあの頃の方が幸せだったと気付いた。
夢は夢のままであった方が良かったのだと思わされた……
このスノードームの中でしか生きられない事を知った。
依存する事でしか前を向いていられないと気付かされた。
怒りのやり場を失って……また僕らは繰り返し続ける。
――激しき閃光が思考に射し込んで来る。
これで良いのだろうか。
でもこうするしか他が無かった。
僕は誰かに依存する事でしか生きていられないんだから。
未来には選択肢さえ残されていないんだ。
このまま何かに縋っていたいのなら、この世界に残留するしか術がなかった。
この渦に呑まれている事が、全ての救いだとさえ思って身を任せた――
地平に見えた日の明かりが消えた。
――空に掛かった魔法が消えて、世界に闇が満ちていった。
繰り返す、ただひたすらに、この日々を……
曇天ばかりの空と、この灰色の毎日を。
――――
――
……消え掛かったメロディに煌めきが帯びたのを感じ取った。
ループし続けるだけの退屈な旋律に、微かの輝きが……
それはきっと、ここで生きる人々が放つ瞬き。
この繰り返しの舞台の上でも、みんなは間違い無くここで息をして、一生懸命に生きていた。
この毎日が間違っている訳じゃない。
この毎日を必要としている人もいる。
渦に呑まれている方が、幸せな人が、
渦の中でしか、この日々を守れない人が――
僕はただ、みんなの毎日に彩りを添えただけ。繰り返しの毎日に色を添えて、ただ楽しんでもらいたいと……
――幸せなんてのはもしかして、この繰り返しだらけの人生に、ほんの些細な彩りを添える事を言うのかも知れない。
人生を生きる目的なんてものはきっと、それだけの方が幸せなんだ。
空に浮かんだ星々に、村で繰り返した日々を思い起こしながら、僕は体を揺らして笑っていた。
――流れを変え始めた音の水流。水面に混じった星屑が、情熱的な怒涛となってスノードームの世界に星を降らせる。
震撼し、反転したクリスタルの世界で、僕らは幻惑的な光景に魅了される。
なだれ込んだ星の川は宙に逆巻いて、空に投げ出されたままあの村を見下ろす――
牡丹雪の様な星が柔らかに注ぎ。揺れて、歪んで、世界がたわむ。その見え方が、情景が変わっていく……
波が次第に大きくなって、誰にも止める事が出来ない
世界の形は一つじゃない。
人の在り方も一つじゃない。
どう生きるかだけは、自分で決める。
――――だから……っ!
「届く……届くよ……っ」
旋律はあの美しき日々を思い振り返る。
静かに、当たり前のように、少し退屈に……されど何よりもかけがえの無いものはそこにあったのだと思う。
涙で鍵盤が見えなくなるのに抗いながら、僕は奏で続ける――
――見て、スノウ。キミの弾きたかったあの曲が……
――届かなかったあの指が、
――今はしっかりとあの鍵盤に届く!
――子どものままの小さな手のひらでは、決して奏でられなかったあのメロディが、いま――!
僕の手で……奏でられている。
燃え出すような激しき盛り上がりに、眼下の鍵盤に激しく指を打ち付ける。
この星屑みたいにキラキラした楽想……目前の鍵盤蓋に
この常識を打ち破って。世界の壁を打ち壊して。知りたいと願う魂は、生きたいと躍動する魂は――
……あの霧の魔女でさえも、抑え付けておく事なんて出来はしない。
明日を願い、明日を行く。たとえその道がどれ程困難でも、
大人が僕らを留め様としても、
忘れがたい物をその世界に置いて来たのだとしても、
ふつふつと煮え立っていた熱情は星に昇華する。
壮大なるこの夜空のキャンバスに、どんな絵を描こうか。
この手を限界まで開き、届くギリギリの音を拾って鍵盤の上を駆け回る。
流星を想わせる位に美麗な音が、途切れる事なく夜空を映す。
何百、何千回、何万回と頭に思い描き続けた音の流星群が、濃紺の空に光の線を伸ばしていた――
――楽想はそして力強くかき鳴らされる――!
一音一音に体は深く沈み込み、鍵盤にこの指を叩き付ける。
腰を跳ね上げ、この全体重を掛ける位に強く!
僕らの悲願の全てを乗せて、
八年間の思いの丈をこの手に宿し、僕らの未来を阻んだあの石の壁へと叩き付けるかの様に――!
…………
ラストのコーダ――最大の難関部を残して、幻想は静寂に包まれた。仄かに光を放つ魔法のピアノを前にして、満天の星空を仰ぎながらこの手をだらりと下げる。
垂れた夥しい量の汗が鍵盤に落ちる――
息つく間もない過激な楽想。狂気と呼んでも差し支えが無い幻夢をここまで奏でて肩が上下する。極度に張り詰めた神経からか、呼吸の仕方が分からなくなって指先まで痺れ始めていた。
「バラードは……愛と別れの詩だから」
……それでも僕はこの曲を奏でる。
「キミに
彼の死を受け入れて以来、姿も見えなくなったスノウへ向けて、手向けのバラードを。
深い闇の中に意識が堕ちる。深泥に落ちたかの様な閉塞感の中で、僕がこの手を振り上げたその時、不安気にこちらを覗く彼女の青い視線に気付いた――
霞がかった視界の中で、僕はリズへと少し振り返り、疲弊しきったひどい顔で微笑んだ。
息も絶え絶えに振り下ろされていったこの手に、リズは顔を掌で覆う。
僕もまたこにんな状態で、この先に待っているクラシック界屈指の超絶技巧を奏であげる事など、出来るとは思っていなかった……
夜の海の中で、ピアノから黄金の光が立ち上る。リミットが近付き、輪郭の方から徐々にと形を失っていくのが見える。
……それでも時間は止まらないから、限られた時間の中で、精一杯にやってみようと思った。
闇に渡った黄金の波紋が、その足取りで一段一段、
――一瞬訪れた夜のしじま……それが嵐の前の静けさであったと……
――――音が爆発した、次の瞬間に知る――!!
……僕は微睡みの中にいるかの様な半覚醒の意識の中で、夢を見た。
「――――っ!!」
――そこに、
「――ぁ――――っ」
光の風に包まれて、右手と左手が別々の生き物かの様に這い回る。その一端をスノウが、僕に代わって――
「ぁぁ……ッ……ぁ、ああぁああ……っぅ!!」
――それはまるで、幼き頃に並んでこのピアノを演奏した、あの日の記憶を見ている様だった。
「ああぁああああああっ……!!」
そこにハッキリとある彼の存在……弾ける汗と彼の息遣いまでが、すぐ側に感じられる。
とても夢とは思えないリアルな感覚。
薄ぼやけた意識は覚醒し、ピアノ・デュオは鳴り響く。
リズもスノウの姿を認めて絶句しているのが見える――
「ねぇレイン。わかった気でいても……伝わらないね、言葉にしなくちゃ」
椅子に半分ずつ腰掛けて、僕らはあの日の子どもの姿で、白黒の世界を駆け回る――
消えない。スノウの幻影が、彼の姿が……夢の筈なのに、今ハッキリと僕の前で笑っているんだ。
すると彼は、しかと僕へと振り返って言った。
「僕は成長する事を望んでたんじゃない。キミとこうして、またデュエットする事を夢に見ていただけなんだ」
「スノウ――っ!!」
彼の香りが、彼の視線が……僅かな肌の紅潮と、波打つ絹のその髪に、どうしたって生命を感じる……
でもそれが幻影であるという事を……
妖精石が叶えてくれた、僅かな夢の刹那である事を、僕は理解していた。
「僕に届かない音をキミが、キミに届かない音を僕が……そうして奏でられるのなら、それで良かったんだ」
――嬉しそうにスノウは奏で続ける。僕と一人に重なり合っていきながら……
クライマックスの旋律を世界に、
夜空に一つのほうき星を掛けて、
……光になっていく。
僕の中に溶けていったスノウ。
激しきメロディにかき消される僕の嗚咽。
溢れ出すこの心情は、あとはピアノが届けてくれるだろう。
ここから先は、どんな言葉も無粋になった。
闇になった壮大な世界の中心で、僕は立ち尽くしていた。
ピアノの奏でた魔法の余韻に聞こえるのは、僕一人だけの涙では無かった。
「一人じゃない。僕も、きっと誰もが」
大号泣したリズが僕の手を握り、モゴモゴ何かを言おうとしているけど……とてもじゃないけどしばらくは聞き取れそうにない。
乾いた砂が渦を巻いて、空の星々の無限が僕らを見下ろしていた。世界は完全に闇に包まれて、そこに今しがたまでピアノがあった事なんて嘘みたいに思えた。
笑った僕はリズの手を引いて、東を目指し、月明かりを頼りに荒野をゆく。
頭上に見える満月と、星の砂漠。この道を歩み出した痕跡は、周囲を見渡しても一つと存在しなかった。
汚染された大地、生命が生きられなくなった土壌……
だけど不可能なんて無い。僕らには――
「行くよ、スノウ」
星が一つ、流れていくのが見えた――――
これからリズに、好きだと伝えよう。
忘却の呪い~霧と双子のピアニスト~ 渦目のらりく @riku0924
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