『四日目』(後半)

   *


 僕とリズが東南の壁に辿り着いた時、懐中時計は〇時を回った所だった。今冷静に思うと、あれだけ渇望した明日の景色を二十一分だけ感じる事が出来ている事が皮肉に思えた。……でももう、僕はこの瞬間を手放したりなんかはしない。繰り返し続けた八年前の十二月二十四日は、もう二度とは蘇らせない。あるべき姿の思い出へと形を変えるんだ。

 膝に手を着いたリズは苦しそうに顔をしかめながら、手元のランプをそちらに向けて村を包囲する絶壁を見上げていく。

「ここって、深夜に壁の崩壊音がある……どうしてここへ?」

「すぐにわかるさ。全部、もうじきに全ての謎が明白になる」

 リズの察した通り、この場所は〇時十一分に壁が崩壊するという例の場所で、その定刻まではまだ少しの時間がある。しかしこれは僕にとって予想通りの余白だった。

 反り立つ壁で巻き上がった豪風に身を縮める。いつか仰ぎ見たであろう絶望の壁を前に、僕は顔を上げていった――

「ねぇレイン、霧の魔女の正体が私にもわかったわ。ここに来る間にずっと考えていたの」

 下唇に指を添えたリズは上を向いて語り出した。

「この村では全ての人が同じルーティンを繰り返し続けるでしょう? でも私、一人例外が居る事を思い出したの。それはイルベルトよ。彼だけはこの村でのループから外れていたの。居るべき場所に居なかったり、突然現れたりして。だからきっと霧の魔女はイルベルトで、突然のリセットを引き起こしているのも彼だったのよ」

「すごいやリズ、合っているよ」

「え、半分……?」

 僕は引きつった顔のリズへと――いや……今もこの現場を監視しているのであろう、へと向けて語り始めた。突風と雨が打ち付ける物音の中で、暗澹あんたんとした背後の闇へと向き直りながら――

「イルベルトは霧の魔女本人では無く、彼女のだ。だから正解は半分」

 リズの語った通りイルベルトこの村のループから外れていた。彼だけがリセットされても普段とは違う行動を取る事があった。

「つまり彼はあたかも全てを忘却しているかの様に、僕らにんだ」

「なんで――!?」

 勢い良く身を乗り出してきたリズと額がぶつかって仰け反った。しかめっ面をして僕は続けていく。

「イテテ……理由はわからないけれど、彼は確かにリセットされても記憶を保持していた。根拠はキミも語った通り、彼だけ不規則な行動を起こす事があったからだよ。僕らがセーフティゾーンでリセットをやり過ごせるみたいに、イルベルトも何らかの手段を持っていたんだと思う」

「ぅうう〜」

「だけどイルベルトはみんなと同じ様に全て忘れている様に見せ掛けていた。それが彼のついた

「嘘……?」

 うん、と頷いた僕は指を一本立てて見せる。

「それとね、彼はいつか過去の僕らにこう言ったんだ。『スノードームの境界は透明だ。一度侵入してしまえば、ガラスに遮られて外には戻れない』って」

「うん……」

「僕は昨日、屋根裏でそのメモを見て不思議に思った。一人しかいない生き証人の言葉を信じて、疑う事を忘れていたんだ。すごくシンプルな言葉のトリックだったのに」

 リズは隣で訳がわからなそうに僕を見上げ続けていた。

「スノードームの中から外へは出られない。だけど当然……と思わないかい?」

「あっ……!」

「けれどイルベルトはこう言ったんだ。外の世界からこの村へ、壁に空いた風穴から容易に立ち入ったと。彼のついたそのこそが、この村の現象を複雑怪奇に見せていたんだ」

 目を見開いたリズは僕の前に踏み出して、必死の表情で訴え始めた。

「そうだわ、私たちの村が外の世界から八年も経過していて、イルベルトが言う程簡単に立ち入れるというのなら、やっぱり他にもこの村の繰り返しに巻き込まれている人が居ても不思議じゃないもの」

 リズの手を取った僕は、彼女の持ったランプの灯りに顔を橙色に染められながら口を開く。

「紆余曲折したけれど、やっぱりこの呪いの特性はすごく単純で、死という例外を除き、八年前の十二月二十四日をひたすら忠実に繰り返しているだけ。そこに途中から加わったモノがあったとすれば、それはリセットの時に排除されなくては変なんだ!」

「うん!」

「途中から加わるなんてありえない。だってイルベルトは僕らの知る昨日に居なかった。つまりこの村に潜んだこそが――不純物イレギュラー。霧の魔女と、その使者なんだ」

 胸に手を添えて喉を鳴らしたリズが、青い瞳を緊迫させながら僕に尋ねる。

「イルベルトが霧の魔女本人では無いと断言する理由は何なの?」

 薄く口元に笑みを刻んだ僕は続けた。この闇に紛れたを探し、視線を周囲に配らせながら……

「イルベルトがこの村に来たのはつい最近の事だ。つまり彼が現れるよりも以前に僕らを監視し、壁越えをしようとする僕らに突然のリセットを引き起こしていたのは、彼とは別の存在だと考えるのが普通だ」

「でも霧の魔女は確か、その姿形を霧で変異させられるんじゃなかったかしら? なんとなく、そんな記憶がある様な……だとしたら、目に見えている情報なんてあてにならないんじゃないのかな? 姿形が違っても、中身は同じ霧の魔女なのかもしれないわ」

「確かに僕も始めはそう思ったんだ……でもね、イルベルトとは別に、ずっと以前からこの村には、が潜んでいるって言ったら、どう思う?」

 その瞬間、リズの表情が凍り付いたのを僕は間近に見ていた。冷たい汗が伝うその鼻筋に、混乱のシワを刻み込みながら首を振り始める。

「で、でも……そんな人何処に? イルベルトを除けば、村に残された人たちはみんな認識のある人たちだわ。それに霧の魔女は、私たちの壁越えをずっと側で見ていた者なんだよね? そんな存在ありえないわ」

 ――この村に居る筈の無い者。けれど昨日までの僕らの記憶に居なかった存在はイルベルト以外には無く。残りの者は全員、見知った村の家族たちだった。

 唇を軽く舌で湿らせた僕はリズへと真剣に向き合いながら、眉間の間を指で叩いた。その厳粛なる気配を感じ取ったリズは、青い瞳にランプの炎を揺らめかせながら、冷たい雨の中で僕の声を待つようにしていた。

「居る筈が無いのに存在していた者、それはね――」

 ――思い起こすのは、今日掘り起こした僕と同じ位の大きさの子どもの白骨死体……あれが誰の者であったのか、僕のトラウマの中にある記憶と重ね合わせてみる……

「スノウ……?」リズが囁く。

 ――蓋をしていた記憶に手を掛け、僕は今しかとその中身を見下ろし……そして気付いた。

「違う。あれはスノウじゃない」

 スノウの死についてこの記憶にあるのは、だった。あれは村の外の共同墓地に埋葬する際に使用する正式の墓標だ。村の仮説墓地には木の簡易な墓標を使用する事になっていた……すなわち、、村の内部に眠っていたあの白骨遺体は、スノウでは無いと断定する事が出来る――

 ――であるならば、村の中に眠っていたあの白骨死体の正体は誰なのか……


 背後の茂み、そこに二つ灯った眼光を見付けてに手招きして見せた。理由を付け、僕らを側でずっと監視し続けて来た霧の魔女本人を、僕はただ平然と、いつものように友へと呼び掛ける様にして――


「こっちにおいでよ……


 ――次の瞬間、凍てつく程の冷気の霧が、手を繋ぎ合った僕とリズを包み込んだ。

 濃霧と殺気、曖昧な眼光の二つが灯って、僕らを見ている。


   *


「あーあ、狩人ごっこの途中だったのに」

「こんな真夜中にかい?」

 茂みから現れたは、ティーダの風貌をして、彼そのものの様にはにかみ、彼の如く振る舞いながら闇より踏み出して来た。その風体と雰囲気は記憶の中の彼と寸分違わず……けれど今、明らかに違う存在へと変異しようともしていた。

「よく解き明かしたねレイン、リズ」

 あの霧の魔女に直接呼び掛けられ、心臓がバクリと高鳴った。だけど同時に腹を決めて相対するしか無い事もわかっていた。幸いにしてその姿はまだ亡き友ティーダのままだ、覚悟を決めて僕は話し出す。

「スノウが死んだのはこの繰り返しの始まるよりも前の事だった。他に僕と同じ位の背格好の子どもはティーダだけさ。つまりあの白骨遺体はティーダのもので、僕の前でいま息をしているキミは、なんだよ。それにキミは、狩人ごっこと理由を付けて僕らの事を監視し続けていただろう?」

 ……記憶の中の彼と違うのは、目の奥に鈍く光る不透明な霧の揺らぎ、その得も言えぬプレッシャーだけだった。……するとティーダはその声音のまま、話し方のニュアンスを変え始めた。

「キミが心の闇に向き合いさえすれば、それはすぐにわかる問題だった。……キミは大人になったんだね、この淀んだ水の中で、リズと共に」

 明らかに口調と風格を変貌させ始めたティーダに、僕は静かに唸る事しか出来ずにいた。いま目前にあのエルドナの女王が姿を現し始めているという事実が、僕の全身を恐怖で覆い始める。

 リズの手を引き一歩後退っていくと、ティーダは瞳を細くしながら微笑んだ。それは見た事も無い彼の表情だった。

 そこで上擦った声を上げたのは、恐ろしそうに顔をしかめたリズだった。前に突き出した腕をブンブンと振り回し、それ以上近付くなとティーダを威嚇しているみたいだった。

「また私たちの記憶を消すんでしょう? アナタはリセットで、私たちの意識を意のままに出来るものっ!」

 泣き始めたリズだったが、それが杞憂だという事は僕にもわかっていた。眉を曲げたティーダが少し困った様に笑って答える。

「僕にその様な害意があるのだとすれば、この世界に勘付いた時点でリセットしていると思わない?」

「で、でも、アナタは壁越えをしようとした私たちを何度もリセットしたんでしょう、違う!?」

「イルベルトに伝えさせただろう。僕にはがあり、これは呪いでは無いと」

 リズとアイコンタクトをした僕は、それでも恐々とティーダの様子を窺う様にした。霧の魔女による思惑……この現象を引き起こしたその真意……気になる事は沢山あるけれど先ずは――

「イルベルトはキミのなんなの? 使者って言ったけれど、一体どんな使命を持たせてこの村に遣わしたのか、それが僕にはどうしてもわからないんだ」

 夜と嵐を背景にしながら、絶望的にそびえた石の壁を前に、ティーダはその存在を不明瞭に揺り動かした。周囲で伸び切った草木が風に激しく揺れる中、まるで夜のさざなみのキャンバスに白い光が一つ浮かんでいるかの如く、彼の輪郭はゆったりと、陽炎の様に揺れる。

「彼はこの世界の謎を解く為のあらゆるキーをキミたちに提示した筈」

「確かにそうだわ、彼の話す情報や魔導具が無ければ、私たちは決してここまで辿り着けなかったと思う」

「すなわちイルベルトは、僕がキミたちへと提示した希望……このを越える為に用意した、駒の一つだよ」

 尖らせた唇を指先で叩きながら僕は思考し始める。散々壁越えを阻み続けて来た霧の魔女が、どうして僕らに希望などというものを与えるのかと……だけどそこで閃いた。

「そうか、僕らに課したというのはこの事だったのか!」

「え、え……っええ、なんなの試練って?」

 訳がわからず話しに置いていかれそうになっているリズに、僕は早急に解答を与える。

「霧の魔女が僕らに与えた試練、それはこの村に残された謎の真相――すなわち霧の魔女の正体を見極める事だったんだよ!」

「どうしてそんな事が試練になるって言うの? そんなのまるで、自分で作った迷宮を、早く解き明かして欲しいって言ってるみたいじゃない」

「わからない、だけど霧の魔女はイルベルトという助け舟を寄越してまで、僕らがその結論に辿り着くのを待っていた。だから真相に辿り着く事も無く、壁越えをしようとする僕らをリセットし続けたんだ」

 霧の魔女による思惑が未だ僕らには見えて来ない。けれど彼女がそれをと呼んだという事は、僕らに何かしらの能力を求めているのだという事だけはわかる。

 ――けれど一体何の義理があって、敵国であり憎き人類である筈の僕たちに霧の魔女は干渉を続けるのだろうか。……どんな目的があれば僕らを八年間もの間、この刻の牢獄に閉じ込める事になるというのか……。

 僕が思案しているその時だった。ティーダの背後、立ち込めた闇の向こう側から、聞き覚えのある声が発せられて来た事に気付く。

……いつか私がそう言った事を、キミは覚えているか少年よ」

 ランプの照らし出したオレンジの光の中へと、腕を組んだままの仮面の男が暗黒より歩み出して来るのを僕らを見ていた。爛々らんらんと瞳を光らせるティーダの後方で、イルベルトは立ち止まって黒い蝙蝠傘こうもりがさを広げた。不敵な男に軽い歯ぎしりをしながら、僕は眉をひそめる。

「やっぱりキミは記憶を持ち越しているんだね」

 そう問うとイルベルトは、頭の上の焦げ茶のハットを外し、指先で回転させながら語り出した。

「“保存のハット”。この帽子の中では、あらゆる物質のが維持される。亜空間へと通じるその効力は、何も茶葉だけに限った事では無い……」

 イルベルトがハットを深く被り直して斜めにしていくのを眺めて、僕は目を細めた。

「キミは眠る時もそのハットを被っていたとメモに書いてあった。リセットが起きてもその帽子の中に仕舞われたは保持されていたって訳だ……この現象を回避する僕らにとってのセーフティゾーンみたいなスペースが、キミの帽子の中にも合ったって事だよね」

 肯定する代わりに鼻を鳴らしたイルベルトは、立てた二本の指の一本を折り曲げながらこう言った。

「時に少年よ。その結末にさしたる問題は生じない事だが、私の嘘は二つでなく一つだ」

「……?」

 下げた眉毛をリズと突き合わせていると、次にティーダが「リミットまで、もう間もない」と口火を切って話し始めていた。

「試練を乗り越えたキミたちには知る権利がある。これより未来にこの村が、世界が、どのような混沌に投げ出されるか……僕が蓋をし続けた、あのの真相を」

「“天災の日”……っ?」

 ティーダからの視線を受けて二の句を継いでいったイルベルトは、おまけに華麗なお辞儀を披露しながら、胸に当てていたハットを被り直す。

「お待たせしたね少年少女諸君。これから話す内容は、キミらが何故八年前の十二月二十四日をループし続けているのか、その後の未来にどのような結末が待っているのか、その点に触れた言及となる」

「楽しみだよ、僕がどれだけ尋ねてもはぐらかされ続けて来た事の真相を、ついにキミの口から語らせる事が出来るのだからね」

 するとそこで頭上に広げた黒い傘を閉じて、豪雨に濡れるままになったイルベルトは、仮面を抑え込みながら突風に耐え忍び始める。

「以前キミに、人類の造った恐ろしい科学兵器の話しをした事は?」

「覚えてるよ。人と魔族のDNAが完全解読されて、人が魔族だけを殺す非人道的な生物兵器を戦争に用いて……魔族もまた、人から科学を奪おうと目論み始めた。今度は人だけを殺す生物兵器を自分たちが使用する為に……」

「なんだか私、怖いわレイン」

 震え上がったリズの肩に手を置いていると、イルベルトがその重厚な声を僅かに震わせながら、ハットを斜めにして表情を隠していくところだった。

「ならば話しは早い。全てはの事だった。それはキミらにとってのであり、歴史にとっての……人類があのおぞましき生物兵器を使用したあの日、あの瞬間、人と魔族の中にさえあった僅かな秩序、その倫理観の全てが崩壊したのだ」

「…………は?」

 突如胸を杭で刺し貫かれたみたいな衝撃に、僕は背骨でも引っこ抜かれたみたいに脱力して、膝を震わせる事しか出来無くなっていた。視線を彷徨わせ、流れ始めたリズの髪を目で追いかけ、魚が酸素を求めて水面に口を出してるみたいに喘ぎながら、瀕死の様相で言葉を紡ぎ出していく。

「……僕らにとっての“昨日”……生物兵器が初めて使用された? その日は、僕らが終戦の知らせを受けた日の筈じゃ……」

「そうよ、私たちはアルスーン王国からの使者からそう伝え聞いたのよ!? 東の果てで霧の魔女が死んで、長い戦争が終わって、死の霧が大地を覆い始めた日だって、私たちは……っ!」

 猛回転を始めた思考の中で、僕は情緒も無く首を振った白い仮面を見つける。

「話してイルベルト、僕らにとっての“昨日”の認識とキミの……いや、歴史の認識がのなら、そこにこの謎の真相が隠されていると思うから」

「ズラされている……ふぅむ。その表現が適切であるのだと、私もまた確信している」

「なに、どういう事なの? 私を置いて話しを進めていかないでよ〜」

 ランプの火が揺らめいて、僕らの影をぐにゃりと曲げた……


 ――一度、混線した情報を整理しよう……

 僕らの村にアルスーン王国からの使者が来て、終戦を告げていった“昨日”――つまり八年前の十二月二十三日。アルスーン王国からの使者は、東の果てで霧の魔女が死んで、死の霧が大地を侵し始めたと伝えた。

 けれど過去のイルベルトはこう言っていた。霧の魔女は酷く弱ってはいるが未だ存命で、終戦の歴史はもっとずっと後だったと。

 つまり――僕らの信じ込まされていたていた認識と、いまイルベルトの口から伝えられている真実に齟齬そごが生じている。

 ティーダは苦い顔をした僕に察しを付けたか「情報操作は旧世界からの政治的定石だよ」と言ってから、少し天を見上げる仕草をしてパチンと指を鳴らし、怪しい目で僕らを見渡して言った。

「霧掛かったその歴史を解き明かそう」

 自らの喉が鳴る音をしかと聞き届けた僕は、イルベルトの話し始めた歴史の真実へと想いを馳せていった――

「天災の日……その日はキミらの思う祝日などとは対極の、歴史上最低最悪の一日となる」

 思いの外静かな語り口で、彼は強い雨に紛れて話し始めた。僕らが信じ込まされていた平和なんて、何処にも無いのだと。

「事が起こったのは大陸の東の果て、コエルンと呼ばれた化学の王国で起こった」

「コエルン……? 生物兵器が使用されたのは魔族国家のエルドナじゃないの? コエルンって、この戦争の中立国になる化学に秀でた人間文明の国じゃないか!」

 人類は魔族だけを滅ぼす生物兵器を作ったんじゃなかったのか、どうしてそれがコエルンの王国で使用されるに至ったのか……混乱した僕へと、イルベルトは即座に答えを提示した。

「その日は霧の魔女が率いるエルドナの大隊が、人間より科学の技術を奪わんと、コエルンへと進行を始めた日だった」

 嫌な予感を的中させた僕は、リズの瞳に映った青褪めた自己を認識していた。人類というものがこれ程までに非情になれるという事実に、人の持つ底知れぬ邪悪の罪深さに触れて、愕然とするしか無かったから。

 そこから話しを引き継いだのはティーダだった。彼は闇にぽつねんと浮かびながら、周囲に僅かな霧の粒子を発散しつつ、怒るとも悲しむとも無い表情で平坦に語る。

「人の創造せし脅威的な化学技術を奪わんとするエルドナ。そして自らたちより優れた技術を有した目障りな中立国……アルスーンの王はその時、悪魔の手を取ったのだ――」

 生物兵器の非人道的たる所以は、その殺傷性の高さと、使用者の特定が困難となる事だ――イルベルトはそう付け加えた。

「レイン!? どうしたの、気をしっかり持って!」

 ふらつく体をリズに抱き止められながら、吐き気を催して口に手をやっていた。四つん這いになった姿勢のまま、僕は獣の様な鋭い瞳で誰ともない虚空の闇を射抜いている。

「漁夫の利――纏めて吹き飛ばそうとしたんだね。アルスーン王国の人たちは、一塊になった目障りな魔族も人も、全部!」

 狼狽したリズの背中側で、ティーダは深く頷いて見せた。

「人と魔族を対象にした生物兵器。それは思いもよらぬ化学反応を引き起こして増幅し、やがて収集が付けられなくなった。思えばそれは偶然ではなく、禁断の果実に手を出した我々に、神が怒っているかの様にも思えた」

「それで……の日っ」

「そしては長く地上に残るとなって大陸中を汚染した……世界に取っての破滅の引き金となった一日。それがキミたちにとっての昨日、八年前の十二月二十三日に起きた事の全てだ」

 衝撃的な真実を知らされて愕然となりながら思う――死の風……大陸を汚染? それはまるで、僕らが霧の魔女が死に際に放ったと伝えられていたの話しに酷似していると。そこまで聞いたらいい加減に思い至る。卑劣な人間の情報工作――僕らに終戦を伝えた伝令が、全ての罪をエルドナの霧の魔女に被せようとするであったという事に。

 ――アルスーン王国は未知なる生物兵器を用いて世界に毒をばら撒いた。哀れにもその結末は彼らの予想を超えて、人も魔族も殺傷する無差別のとなってこの大陸を侵したんだ……。

 僕はだらりと首を下げて虚な目になった。信じていたアルスーン王国存在が、信じたかった僕らの正義が、こうもことごとく塗り替えられているのだと言う真実に放心するしか他が無かったから。僕は今にも消え入りそうな声で瞼を押さえ込む。

「人は……どうしてそんな兵器を作ったの?」

 震える声でそう尋ねると、イルベルトの声が間髪入れずにピシャリと言い放ってきた。

「敵国の文明の全てを、資源を、そっくりそのまま奪い取る為だ」

 僕らが世界と隔絶されていた八年間に、いやそれよりもずっと以前から、人と魔族との間でこんなにも凄惨な起こっていただなんて知らなかった。……いや、恐らくは意図的に知らされていなかったんだ。自国の非道徳的な行為をひた隠すが為に、僕らの元に届く情報は統制されていた。

 イルベルトが腰を曲げてエメラルドグリーンの双眸を光らせる。

「醜悪なのは人類だけでは無い。我々魔族の中にもまた、醜き思想は渦巻いている。どちらが悪いとも無く、それは物事をどちらから見たのかと言うだけの些末な問題だ」

 挫けかけた僕を横目にしながら、リズは果敢に口を開き始めた。サファイアの瞳とイルベルトの緑色の眼光が、妙な調和を見せながら照り輝いている。

「村の外に満ちていると言われていた死の霧が、本当は人の作り出しただって言う事はわかったわ。その事と村の人が死んでしまった事にはやっぱり関係があるの?」

 猛々しい彼女の視線を正面から受けて立ったのはティーダだった。彼は怪しく口元を微笑ませたが、次の瞬間には強く咳き込んで口を抑えた。案じたイルベルトが駆け寄ると、ティーダは手で彼の歩みを制した。その掌に赤い鮮血が付着しているのを僕とリズは見逃さなかった。片目を僅かに震わせながら、霧を纏った少年はリズへと語り出す。

「僕の作り出した世界は、この体の弱体化に伴って崩れ始めた」

「その体……アナタまさかさっき言ってた毒に?」

「キミたちが繰り返しに気が付いた事、乖離かいりしていた筈の時間がゆっくりと動き始めた事……は段々と大きくなって、一日の内にキミたちの肉体に蓄積される化学の毒素を、完全には除去出来なくなり始めた。とても微量に……だけれど着実に、既にこの村に満ちている化学の毒は、キミたちの中に蓄積し始める様になったんだ」

「毒はこの壁の外じゃなくって、もうこの村に侵入しているの?!」

 ギョッとしたリズにティーダはこの毒は体内での蓄積が一定量を越えなければ発現しないという事を説明する。すると彼女はホッとため息を付いた。そして胡乱うろんな目をしたティーダは続けていく。

「キミたちが記憶を蓄積し始めたのと同じ様に、この毒もまたそれぞれの肉体に積み重なっていった。……つまり免疫の弱い老人や、体の弱い者から順に発症していった。それがこの村の中で死んでいった人たち……この瘴気と、この村のの真相だ」

 ――霧の魔女が僕らの体内に溜まる毒素をしていた……? それじゃあ僕らは、あの敵国の魔女に生かされていたという事になるじゃないか。

 僕の揺れた眼差しのせいか、その霧が歪み始めたからなのか、ブレたティーダの表情に憂いの色を見た僕は、こう問い掛けずにはいられなかった。

「教えてよ、……一体キミにどんな思惑があっこんな魔法をかけたのかを」

 ――するとそこでティーダは僕の言葉を遮って闇の方角へと指を差し示した。これがキミの問いへの返答だと言わんばかりに、顎を上げて息を吸い上げる。

「え……?」

 ……不意にリズの持っていたランプの火が消えた。

 僅かに震えるランプの金具……そこに漂い出した冷たく危険な気配に僕は気付いて、リズと本能的に手を握り合っていた。全身に纏う霧をささくれ立たせ始めたティーダは、迫る害意を待ち受ける魔女の迫力をその身に纏い上げながら言った――

「その真相はに聞くといい」

「は……?」

 イルベルトがぬらぬらと緑色の発光を帯びた曲刀を腰から抜き出し、危険な様相へと雰囲気を変えていきながら僕らに言う。

「諸君はこれより目撃するのだよ。喉から手が出る程に渇望した真実を。八年前の今日この時、その時のを――」

 ポケットから懐中時計を取り出して時間を確認すると、〇時十一分を示していた。そうして僕らが思い至るより先にティーダは言った。

「来るよ、が――」


 ――それは一瞬の内に巻き起こった事だった……

 闇に満たされていた世界が刹那に白み、次に肌を焼き焦がすかの様な熱波を感じたかと思うと、世界を揺るがすかと思うとてつもない衝撃が、切り立つ巨大な壁の一枚を爆散さていたのだ。


「な――ッ?!!!」

「イヤァアアアア、レイン!!」

 殺人的な豪風に乗って、肌に打ち付ける熱い雨粒。吹き荒ぶつぶてが僕の頬を掠めていって、一筋の赤の線を作った。さらにと注いで来る漆黒の岩壁が僕らの足元に影を落とす。

「さぁ、これがだレイン、リズ」

「最後の……試練っ?!」

 頭上に降り落ちて来た巨大な瓦礫は、ティーダの体より展開された質量を持つ霧のベールによって阻まれていた。寒気がする程の殺意を孕みながら、彼はを待ち望みながら僕らを背にしてこう言った。

「この謎を解き明かした今、キミたちを縛るものはもう――だけだ」

 降り注ぎ、大地に積もった壁の瓦礫。一瞬にして荒地に変わったその場から見える景色は、緩々と立ち上る白煙……いや、一面を包囲したと、崩壊した壁の向こうに望める、月明かりに佇む黒いシルエットの一人だけだった。

 おあつらえ向きに空いた風穴を前に、僕は外へと通じる闇へと声を投じていた。

「やっぱりそうか! 深夜の壁の崩壊音……そこから十分程度の後にリセットが起こる、因果関係があるのは明白だった……あれは僕らの記憶の終わりでは無く、だった。僕の考えは正しかったんだ!」

 慌てふためいたリズが僕の体に縋り付いて叫んでいた。

「なに、なんなの!? 全盛期の霧の魔女? 八年前の記憶ってナニ?! 何が起きているのレイン!」

「この村にかけられた呪いの本質は、八年前のその日の歴史をあの時のまま繰り返しているという事なんだよ! わかるかい、つまり霧の魔女は八年前の今日この時、ここを訪れて同じ様にここの壁を打ち砕いたんだ、それが深夜の壁の崩壊音の正体だったんだよ!」

「だからっ、どういう事なのー!!」

「彼女はこの日――僕らの繰り返し続けた八年前の十二月二十四日に実際にこの村の中に居たんだ! 僕らが今目撃しているのは、その日に実際にあった記憶の再現なんだ!」

「ええぇ〜っと、こっちは今の霧の魔女で、あっち過去の霧の魔女で……ぅぅぅ、彼女の実態は不明確だから、ここに二人存在出来ているって事?! ……でもそれがわかっていて、どうしてアナタはこんな危険な場所を訪れたの?!」

「それは――この忘却の呪いのがここだからだ」

「全ての源がここ?」

「そう、ティーダの体を借りた今の霧の魔女では駄目なんだ! 八年前のこの呪いが実行されるこの時、その原点を回避しない限り、僕らの未来は決して枝分かれしないんだ!」

 僕らの頭上に展開されていた霧のベールを掌握し、ティーダはイルベルトを連れて巨大な瓦礫が降り注いだ後を歩み始めた。怪しく光った曲刀、彼らの背中のその向こう側に、僅かな光を灯した風穴が映る。

 纏った霧を鋭利に変えながら、少年は僕に言った。

「その通りだレイン。魔族の保有する魔力は不可逆だ。だから魔力切れエンプティ目前の今の僕に、この術をどうこうする力はもう残っていない。精々がリセットを引き起こす程度の事。は、この超越的魔術を実現させる為の代償として自らの魔力のほとんどを捧げたんだ。……つまり膨大過ぎるこの術はもう、今の僕の意志ではどうする事も叶わない……存在が不明確な僕自身には、自死をする自由さえも無いんだ。――だからそう、原点を止めるんだ。八年前のあの頃の僕を。する。そうすればキミたちには明日が訪れる」

 ティーダのその声を後に、不気味に蠢動しゅんどうするシルエットが、その形を不安定に変貌させながら雨霧より出でたのに気付く。リズもまた僕と肩を並べて傍観し、そこに現れたの姿に息を呑んだ。

「あれが……霧の魔女の姿なのね?」

 一見するとそれは黒いドレスに身を包んだ美しい女性だった。けれどそこには確かな異質が混在している。後ろに纏めた黒の長髪、額からは曲がったツノが突き出して、肌は血の気の失せた白色で、輪郭は霧でボヤけて長く直視していると頭がくらくらと混乱してしまうみたいだった。霧の魔女はおぼつかない足取りで村へと立ち入ると、吐息荒ぶったままよろめきながら漆黒に灯る双眸を立ち上げた。

「……なんだ……お前たちは?」

 僕らの姿を見定め始めた霧の魔女。闇の様に黒い視線がギョロリとこちらを向くとそれだけでカチコチに固まって動けなくなった。その恐ろしさに震え上がり、一目に彼女と僕らとが、生命としての次元を違えているという事を自覚させられる。

「わた……し……?」

 流石の洞察力か、魔女の視線はティーダの元で立ち止まって、少しの動揺の色を見せたのがわかった。そしてティーダは霧に紛れながら僕らに囁く。背後に回したその手には、密かに霧で形作られた短剣の一本が握られていた。

「ここからは僕たちの領分だ……だが果たしてそれが出来るかどうか。自分で言うのもなんだが八年前の僕は……紛う事もなく史上最強の魔女だったのだから――」

 ――次の瞬間だった。ティーダの言葉が終わり切るよりも前に、強烈怒涛の白銀――否、霧を押し固めて中空に創造された極太の槍の一本が、鋭利なる穂先を少年に向けて解き放たれていた。

 ――あまりに刹那的過ぎた反撃に、誰もが反応を遅らせて呆気に取られている。霧のベールで鼻先スレスレに刃先を止めたティーダは、その強烈なる推進力に押されるまま吹き飛ばされていった。

「邪魔をするな……もうそこまで化学の火が迫っている! 私が例えお前のであろうとも、手を打たなければこの村が死に絶える事に変わりは無いのだっ!」

 自らがティーダというオリジナルの存在の生み出した記憶の産物である事を瞬時に理解してしまった様子の霧の魔女。その弱りきった鼻筋にも、気品と異才とが一緒くたになった、魔族連合王国女王の気配が遺憾無く発揮されている。

「魔族と人間とが愚かしい闘争を繰り返し続けたこの結末を、罪の無い生命に負わせる訳にはいかない……罪なき者が地獄の業火に焼かれる事など……あって良い筈が無いのだ!」

 半身となったイルベルトが、緑の風を纏った曲刀の切っ先を霧の魔女に向ける。土石舞い上げる迫力、凄まじい勢いで螺旋を描き始めた緑の渦が、突き出された刀身より打ち出されて魔女へと迫るが――

「だからせめて私はッ、いま運命に見放されようとしているこの村の時間を止める――!」

「くァ……!!」

 彼女が胸の前で手のひらを水平に切って見せると、その所作に合わせて緑の渦は断裂し、イルベルトの胸も切り裂かれた。霧散した緑の暴風は、周囲に漂う霧に強制的に呑み込まれていく。飛散した従者の鮮血を頬に付着させて、細く鋭い視線は僕とリズへと振り返った。

「逃れようの無い絶望に気付く事も無く、平和な日々を繰り返し続ける。私の目の前で消え去ろうとしているこの村だけはせめてッ……それが私のせめてもの“”なのだ」

 吹き荒れ始めた黒い風が、霧をかき乱して女王の背後の空に巨大な鬼の顔を形成していった。世界を見下ろし始めた猛威に本能的な畏怖を抱いていると、黒の渦巻きに瓦礫が流れ、地形が変わり、イルベルトの体がリズの側へと投げ出されて来た。胸に手を当て血を吐いた彼に、リズは走り寄っていた。

「イルベルトっ! 血がいっぱい出て……どうして私たちのためにそこまでっ」

「買い被るな……単に私は傀儡として、魔女に課された使命を遂行しているだけに過ぎない!」

「使命ってそんな……アナタにはアナタの人生がある。私たちの為に命を賭ける必要なんて無い! アナタは人形なんかじゃなくて、一人の人間なんだから!」

 仰向けになったイルベルトはリズの顔を見上げ、先の衝撃で亀裂の入った仮面を直しながら、彼らしくも無い穏やかな声を出して緩く首を振っていった。

「いいや……私は操り人形なのだよ。……ここに、私の意志などは介在しない」

「そんな……違う、違うわ、たとえ消え去ったと様に感じても、何に上塗りされようとも、アナタという存在は、必ず何処かに――」

 くすりと笑った柔らかい吐息が、仮面の端から漏れていた。そして道化は言う――

「……押し殺す事でしか生きられなかったのだよ」

「え?」

「だが……お前の言うと言うものが存在すると言うのなら……ふぅむ、私のこの本心の方でも、この使命を全うしたいと、そう感じている様に今は思うのだよ」

 震える体を引き起こし、イルベルト立ち上がっていった。曲刀を拾ったイルベルトのその向こうで、霧の魔女は周囲に取り巻く霧を一層と深くしながら身悶えしていた。けれど彼女の視線が覗いているのは、僕らでも、イルベルトでも無い様子だ。

「何故だ、どうしてが、私の決定を止めようとする! どうして村の子どもたちをに投げ出そうなどと考えるッ! 命に対して無責任な決断を下す位に、未来の私は心変わりをしてしまったとでも言うのか!」

「その時の決断を間違っているとは、今でも思ってはいない」

 完全に気配を消して溶け込んでいた闇より、突如と現れたティーダの存在に僕は驚いたけれど、霧の魔女は彼が姿を現すよりも先にそちらに視線を投じていた。

「お前が創造しようとしている世界は、この村の住人にとって必要な物だ……だがそれが、この村に生きる全員に当てあまるとは限らない」

「何を見た……何が私をそこまで変える」

 負傷した腕を苦悶の表情で抑え込む少年へと、霧の魔女は歯軋りをして見せた。彼女の強さは圧巻で、この場にいる誰よりも優っていたが、目の下にクマを作り、肩で息をして、その姿が満身創痍だという事にその時に気付かされる。これ程圧倒的な強さを誇る霧の魔女を一体誰が害したと言うのか……話しによると彼女は先日まで東の果ての国のコエルンを進軍していた筈であった。しかしその地でアルスーン王国による不道徳な横槍を受け、今は配下の一人も連れずに、遥かな遠くの僕らの村に居る。とても人類ではなし得ない移動距離と時間感覚ではあったけれど、彼女はおそらく彼の地より必死に逃走し続けて来たんだ、間も無くこの大地を満たすという、人類の用いた化学の毒より。

 ……過去の自らを見つめて何を思うか。ティーダは真っ直ぐな瞳でこう続けていった。

「僕が見たのは、人の幸せを決め付ける位に思い上がっていた、自分自身の傲慢とあさましさだ」

「傲慢だと? わたしの……私のせいでこんなにも多くの生命が死に絶えようとしているのだぞッ!? こんなに重い十字架が他にあろうか……これ程の罪の重さに堪えられる者などあり得ようかっ! お前も……お前も私なら分かっているだろう! この身を焼き尽くす、この懺悔の念をッ!!」

「……」

「いまの私に出来る償いは、せめて手の届く範囲に居る生命たちだけでも、死という結末よりすくい上げる事では無いのか! せめてこの手のうちに収まった者だけでも……何も知らず、何も疑わず、幸せな一日を繰り返させてやる事が最上の救いでなくてなんだっ。彼らにとってこれより先の世界に、希望など一つもありはしないのだから!」

 魔女の魂の激情を前にしても、ティーダは怯まずに一歩踏み出していく。口の端より血の滴を垂らしながらも、その眼光は全盛期の頃と寸分変わり無く、真っ直ぐに標的を射竦める――

「間違ってはいない、だが全てでは無い」

「なに……を……キサマはナニを言って――!!」

 その咆哮が世界を震撼させた時、魔女の背後に立ったイルベルトが、筒型の魔導具をハットの中から取り出した。

 すると筒は莫大な量の風を吸い上げ始め、周囲の霧を呑み込み始める。魔女の扱う霧に対して風が有効である事を心得ているのか、イルベルトは猛牛の如く暴れ回る筒を魔女へと差し向けていった。激しく荒ぶる景観の中で、体毎吸い上げられていく魔女の後ろ姿が見える――

 僕とリズは近くの岩陰に身を潜めると、背後からの暴風に対して振り返る事さえしない魔女と、正面より相対した少年の声をハッキリと聞いた。

「変わる筈の無い世界で、変わり始めたピアノの旋律を聴いた」

 掲げた両手に煌めく白銀の霧を押し溜めながら、ティーダはギラギラと眼光を照り輝かせ、過去の自らを望む様にしていた。そして小さき霧の少年は言う。

「この時を繰り返し続ける在り方に反対はしない。無慈悲な外の世界に彼らを投げ出す事にも……だけど変わる事を強く望む者も居る。未来を夢見て瞳を輝かせる者がいる。異種族と手を取り、あらゆる困難を乗り越えて真相に辿り着く者が居る」

「……」

「それが子どもたちだ」

 風を巻き上げるイルベルトの魔導具が、霧の魔女より振り撒かれる霧を吸い上げていく。その風下に佇んだティーダの周囲には、中空に浮かぶ霧の短剣が創造されていった。二人の間で不敵に立ち尽くした霧の魔女は、その黒い長髪を背後からの豪風に吸い寄せられながら顔を立ち上げた。

「仮面の従者毎貫くつもりか?」

「ああ、彼もそれを望んでいる。子どもたちを明日へ届け渡す為に」

 ――解き放たれた無数の短剣は、イルベルトの元へと吸い込まれていく突風に乗って、目にも止まらぬ速度を実現した。だがしかし、霧の魔女はその体内より霧と黒い風を爆散させて、魔道具による吸気量を超越してパンクさせる。さらには背後のイルベルトと前方から迫る霧の短剣の無数を一挙に薙ぎ払ったかと思うと、次の瞬間――

「ウ――っ??!」

 黒い風に乗って差し迫った女王の霧が、たちまちに剣となってティーダを四方八方より串刺しにして宙吊りにしていた。

 悲鳴を上げた僕ら――

 暴虐の黒が渦巻いた光景の中で、女王の声は溌剌と放たれていた。

「見くびられたものだ、その程度の小細工でこの私を倒し切れるとでも――」

「――思っている訳がない」

「――――なッ?!!」

 驚嘆の声が上がると同時に、魔女は自らの打ち出した黒い霧の中で足元を見下ろしていた。――だがそこには何も無い。闇と雨粒だけが音を立てて落ちているだけ……しかし彼女はしかとその一点を凝視しながらこう囁き漏らしたのだった。

「いつからソコに……っ」

 景色が歪み、刃物の様な眼光が虚空に浮かんで女王を見上げる。

「霧に溶けるのとでは気配が違うだろう? これは放散する魔力をも包み隠すのだから」

「堕ちたか……史上最強の霧の魔女とも呼ばれた私が、こんな――!」

「誰よりも自尊心の高いが、よもやなどに頼るとは思わなかった、そう言いたいんだろう?」

 次の瞬間、姿を闇に溶かしていたイルベルトの魔導具――“姿隠しのマント”をひるがえしたティーダが、串刺しにされていた自らの分身の姿を霧に溶かし、霧の流動する螺旋の剣を女王の足元より突き出した――!

「あの子たちならきっと、このに花を咲かせられる」

「ぁ――――!!」

 深々と彼女の胸に突き立った螺旋の剣は、蠢き、流れ、対象物の姿を粒子へと変換していった。眼下の少年へと呆けた顔を見せる女王の姿に、黒の暴風に激しく薙ぎ倒されていたイルベルトが親指を立てて見せた。

 全て無に消え去り、黒の風と濃霧が消え去って、雲間の月光がティーダの姿を照らした。悠々歩み出した傷だらけの少年は、閉じかけた片方の瞼を垂らして僕とリズを順に見渡していく。

「あとはあの壁の向こうへと、キミたちが自らの足で――」

 ――そう言い掛けたティーダの表情は、背後に佇み、に凍り付いていた。急速に押し寄せて来た黒の濃霧。固まってしまった少年の耳元へと、まとわりつき、そして囁き掛けるかの様にして、妖艶な魔女はまつ毛を伏せた。

「達観した? いや耄碌もうろくしているだけだ、私の幻影も見破れないとは」

「――――!」

「お前はやはり忘れている。に希望などない」

「カ…………っ!」

「残酷な世界の結末を……私は知っている」

 ――絶句していた僕らが声を上げるのと同時だった。

 ――形状を変えた女王の右腕が、等身をも超える巨大な太刀となって、ティーダの胸を背後より刺し貫いていたのだった。

「その結末に蓋を出来るのならば、この渦の中で夢を見ている方が良かった」

「……っ!」

「彼らはきっと言うだろう、あの世界を見たら」

 ――夜陰掻き分けるリズの悲鳴がつんざいた。

 衝撃的な光景の連続に、僕らはもうその場にへたり込む事しか出来ない。霧の魔女のねっとりとした口調が、十字架に磔にされたかの様な姿の少年へと続けられていく。

「……どういう気分だ、自らの思い出に胸を刺し貫かれる気分は?」

 喘ぐティーダの口の端から夥しい出血が溢れかえるのを見ていると、前方でフラフラと立ち上がり始めたボロ雑巾の様な男に気付いて、リズが叫んだ――

「もういいわっ! アナタまで酷い目にあってしまう!」

「…………」

 イルベルトの背を追い掛けて走り出そうとしたリズを、僕は背後から抑え込んだ。彼女の伸ばした手の先には、暴威に一人立ち向かっていく紳士の佇まいだけがある。彼はズレた帽子を深く被り直しながら、手落とした曲刀を拾い上げて肩で息をし続けた。

「これは異な事だな、従者よ」

「……ふぅむ」

「お前にを施したオリジナルは間も無く消え去るだろう。もう数秒となく、貴様とコイツとの主従関係の契約は破棄される……であるのに、お前は何故私に刃を向ける?」

 霧で造り上げられた太刀が振るわれると、そこに突き刺さっていたティーダが投げ出されて、やがてその頭をゴロリとこちらに向けた。青褪めた顔の中心に、生気を失いかけた瞳が落ちている。

「ティーダ――っ!」

 僕らは彼へと駆け寄った。冷たいに体に触れると、脆いガラスみたいにその体は崩れて霧に変わり始めた。

「ごめんね……キミたちは手を取り合って辿り着いたのに……僕の力が及ばなかった」

 血反吐さえをも立ち上る霧に変えながら、焦点の合わない瞳は宙を彷徨う。向かい合うイルベルトと魔女の姿を横目に、ティーダのまつ毛は小刻みに震えていた。

「もうこの形を保っていられない。情けない、もう僕には……過去の自分を止める事も、イルベルトの行動を保証する事も出来……ない」

「……イルベルト?」

 僕の手のひらから溢れ落ちていく友達の姿……だけど本当のティーダは、もうずっと前に死んでしまったんだ。本当の彼は、あの土の中に眠っている物言わぬ白骨遺体で、僕の腕の中で霧に変わっていく彼の正体は、いま現在の弱り果てた霧の魔女なんだ。

 やがて仮面に向かって話し出した霧の魔女の声を聞くと、過去と現在とが奇妙に交錯した感覚に僕は陥る。

 霧の魔女は仮面に相対したまま、冷徹な声をその場に残していく――

「強制的な服従関係を意味するその仮面も、もう自らの手で取り外す事が出来る筈だ。なのにお前はどうしてそうしない? 空の器に他人の意志を詰め込まれた哀れな傀儡マリオネットよ。それともお前は自分の意志でそうしているとでも?」

 イルベルトは何も言わなかった。魔女は周囲に渦巻き始めた霧に声を届けさせる。幻影の霧に映るのは、数多に現れた魔女の口元であった。

「そんな筈は無いよな仮面の男よ。姿使

「……っ」

「オリジナルの私が、お前ごと私を刺し貫こうとしていたのを忘れたか……それともお前は、首輪が外れている事にも気付かずに主人に尻尾を振り続ける哀れな忠犬か?」

 ピタリと静止していた曲刀の切っ先は、魔女の喉元へと向かうのを辞めて、ベルトに掛けた鞘へと戻っていった。ティーダが小鼻にシワを刻んで、リズが小さく口を開けて放心するのが見えた。

 冷たい夜嵐の中で、イルベルトは突然敵意を失った。そうして無警戒に霧の魔女の後方に広がる風穴の方角へと歩み出していく。吐息が掛かる程に肉薄した彼に干渉するでも無く、魔女は冷たい目のまま彼の歩みを見届けていった。

「鳥かごに捕らえられた哀れな人形よ、何処へなりとも行くが良い。貴様の呪縛は既に解き放たれている」

 黙した僕らはイルベルトの背中を見つめる。彼は月明かりの射す風穴へと難無く向かっていく。

「……ほんの手土産だ。その姿……?」

 魔女はイルベルトにそう言った。すると魔導商人は頭上のハットをひょいと摘んで頭から浮かせ、不敵なままにこう返すのだった。

「いいや……私は、自分が何者かを知るのが恐ろしい」

「ならばそのまま、亜人として生きていくがいい……空っぽの男エンプティよ」

 立ち去っていく彼の背をリズはまんまるに見開いた瞳で見ていた。彼女の横顔にはイルベルトに対する落胆も非難も無く、ただ掌を胸の前で握りながら、震えた声で彼の名を叫んでいた。

「イルベルトっ、アナタは空っぽなんかじゃ無い、人形なんかでも絶対にっ!」

「……」

 悠々と振り返って来た霧の魔女の向こうに、振り返りもせずに遠くなっていく魔導商人の背中が雨に混じり込む。魔女より放散され始めた濃縮なる霧は漠々と発散されながら、この村をドーム状に包み始めた。恐ろしい視線が僕とリズを認めたが、次に認識したのは意外にも、許しを請うかの様な柔和な声だった。

「ここが記憶の世界のなのだとしても、いまここで“繰り返しの魔法”を発動しなければ、この世界は崩壊する……それはわかっているね?」

 僕の腕で悶え苦しむティーダを一瞥した後、魔女の瞳は僕を認めてまなじりを下げた。

「キミたちはこの魔法の中でしか生きられない……だから、邪魔をしないで」

 その瞳に映った色は冷徹でも敵意でもなく……優しさだった。それを認めた僕たちは、心に灯ったこのチグハグな気持ちへの対処がわからなくなった。何故なら魔女の胸に秘められているのものは悪意では無く慈愛なのだから。それが痛い程にわかってしまう表情を、彼女はいま僕らに見せているのだった……。

 世界が白い霧に包まれていく。リセットの時に発生するあの白い霧に。全てを繰り返して、やり直してくれる優しい呪いに――

「変わる筈の無い世界で……変わり始めたピアノの旋律を聴いた」

「……ティーダ?」

「それがこの村で起きた初めての異変だった」

 今にも消えてしまいそうな命の灯火を燃やして、雨に溶けていく霧の少年は僕の腕の中で独白を始めた。彼の語る内容はこの村の繰り返しが始まってから今日までの八年間、その心の移ろいに触れていて、風穴の前で世界を白に変えていこうとする霧の魔女も彼の話しに耳をそば立てていた。

「繰り返し続けるだけの筈だった世界で、レインキミは変わり続けた。……それはかけがえの無い者を失った失意の中で、キミが自らについたに整合性を得る為の無意識の研鑽けんさんであったのだろうけれど……僕には、日毎に卓越されていくその美しき旋律が……まるで成長を望んでいる新芽の様に思えて仕方が無くなっていった」

 この腕からティーダの質量が喪失されていくのを感じる。霧となって気化していく彼の下半身はもうそこには無くなっていた。

「いつしか楽想は僕の想像を超越し、この心を強く揺り動かす芸術メロディとなっていた。それは僕にとって……本当に、本当にっ、心打たれる出来事であったんだ」

 ほろりと流れた彼の涙も粒子となって風に消えていく。闇を上塗りしていく霧のドームの中で、僕らは少年が渦を巻いた煙になっていくのを見ている。するとティーダの視線はそこで、過去の自ら霧の魔女へと注がれていった。彼女もまたその事に気付いて、眉をひそめていくのが見える。

「それまでの僕は、この世界で同じ一日を繰り返し続ける事が……この村の人にとっての救いであるとさえ思っていた……」

 ピクリと瞼を動かして魔女が顎を上げた……

「私に言っているのか……?」

「……だけどそれは、僕の決め付けた幸せであって、彼らが望んだ幸福では無かった」

 その身を胸の高さまで消滅させたティーダは、僕とリズの頬に順に触れた。彼の宿した優しい瞳は、僕らを見ている霧の魔女のものと同じだった。

「その瞬間、キミたちをただ死から遠ざけ、鳥籠に入れるだけでは無責任だと感じた。……だからチャンスを与えた。自らの足で未来へ踏み出そうとする生命の尊厳の為に、セーフティゾーン私の霧が届かなった場所を知っても修正しなかった。この世界の真相を解明する手助けに、イルベルトという使者を送り込んだ。……そして、人にとって修羅でしか無い外の世界を生き抜く為に僕は定めたんだ。この村の謎を全て解き明かし、定められた運命に風穴を開ける。そんなを乗り越える者が現れたのならば……その者をこの村から送り出そうと」

 ティーダの手が落ちて、腕に抱いていた存在は跡形も無く消え去っていった。

「人と魔族で手を取り合い、自らを取り巻いた不可能をも可能にする……そんな奇跡だけが、に花を咲かせられる、最後の方法だから……」

「ティーダ……」

 僕が立ち上がると、胸ポケットから懐中時計が落ちて時刻を開示した。――〇時二十一分……リセットの時まで残り数秒となった世界で、僕らは身を寄せ合いながら、世界一面を霧に染めた魔女の振り上げられた右手を追っていく。女王はそこで威光を解き放ちながら瞳を上げた。

「力無き者の声など、誰にも届かない」

 迫真の表情となる霧の魔女が、振り上げた右手に力を込めていく。おそらく彼女がその指を打ち鳴らした時が、世界がリセットされるその瞬間なんだ――

「レインっ……リセットが、私達の記憶が消されちゃう!」

「……リズ、僕から離れないで!」

 圧倒的なる力の前に、僕らは魔女にひざまずきそうになった――螺旋の白が、空の果てまでも伸びて闇を引き裂き、摂理を捻じ曲げて天を突く。豪烈なる雫の嵐が、世界を取り巻いて瞳さえ開けられなくってしまう。

「もう……ダメだわレイン!」

「っ……リズ、僕は必ず、何度忘れたってまたキミの元へ……っ」

「私……だって……っレイン!」

 抗う事など叶いそうも無い驚天動地の魔術――激しい霧のさなかに呑み込まれ、僕らは何とか互いの手を取った。絶体絶命なるこの命運に、空にパチンと乾いた音が鳴り響いたのに気付いて、瞳を力一杯に瞑った――


。待っていた……主との契約のリンクが完全に切られ、我が身に課せられた制約が解き放たれるこの瞬間を――」


「ァっ――キサマ、何故――?!!」

 僕らの見下ろした視線の先で、懐中時計がリセットの時刻――〇時二十一分三十二秒を

 霧に灯った緑の眼光――周囲に逆巻いていた白い霧が、猛烈な勢いで地上のある一点に吸い上げられていくのが見えた。やがて霧が薄まり、そこにはひどく狼狽した霧の魔女の姿が映し出された。

「ソレハ――っ!? “”ッ!? 何故だッ、霧を封じるその鏡は私自らの手で完全に破壊した筈ッ!!」

 声を出してよろめいた女王は頭を抱え込んで、その身を強烈に引き込もうとする引力に深く大地を踏み締めて堪え忍ぶ。するとそこでイルベルトは、彼女の神経を逆撫でするかの様に、を顔の前でヒラヒラさせてから、ハットの中に仕舞い込んでいった。

「それは――“”か!」

「ふぅむ、流石は霧の魔女……これはあらゆる物質を短時間のみ具現化する魔導具だ。それで喪失された魔導具を再現した」

 激情する女王は歯を食い縛って叫び始めるが、魔導商人は余裕気に鏡に肘を掛けてもたれ掛かった。

「何故だッお前とティーダ今の私との従属の契約はもう途切れている! 心を持たぬお前がどうして自発的な行動を……待て、お前の言ったとは――まさかッ!」

 風穴を背にしながら等身大の姿見を抱え込んだイルベルトが、抑え込み過ぎたハットのブリムをピンと指で弾いてそのエメラルドグリーンを露わにした。

「そうだ……制約より解き放たれた私は今、封印されていた使をしている――」

 彼の言葉を素直に認められないのか、剥き出した瞳を真っ赤にした魔女は声を荒げ始めた。

「自身の意志だと――ッ!? ふざけるな、貴様は空っぽの男エンプティだ! 姿も形もその意志も、私によって後付けされた人形に過ぎない! 貴様の内に、既に自我などというものは存在しない筈なのに――ッッ!!」

 流石は史上最強の魔術師、その全盛期の姿と言うべきなのだろうか。怒りに任せて激しく霧を放散し始めた女王は、イルベルトの支える魔導鏡の猛烈なる引力にまで強く反発し、その需要量を超越するだけの霧を爆散させ始めた――景観が荒れて世界が渦に呑まれていく。木々も瓦礫も何もかもが、災厄の様な魔力の奔流に吹き荒れてイルベルトの身を激しく切り刻み始める。しかし不敵な魔導商人は、ひび割れた仮面の口元を瓦解させながら、ニタリと笑んだ口元で語るのだった。

「その通りだ。あの激しい闘争の中で、私の自我などとうの昔に擦り切れていた筈だった――」

「では、ナゼダ――!!」

」 

 霧の激流を鏡に吸い上げ続けるこの激しい嵐の中で――緑の眼光はしかとリズの方を向いていた。イルベルトは僕らに向けて声を荒げた。

「行け――!!」

 一つ触れただけで消し炭になってしまいそうな魔力の波動を鼻先にして、腰を抜かし掛けていた僕らにイルベルトは呼び掛ける。

「もう保たない――走れ、風穴の向こうへと――!」

 イルベルトの支える魔導鏡に亀裂が走った――霧の魔女の放出する激流はさらにさらにと極大に変じていって、この広い空を横断する架け橋の様にも見えた。

 僕はリズの手を引いて全力で走った。がむしゃらに前だけを、闇に浮かんだあの風穴の向こうにだけ視線を投じながら全力で――!

 過ぎ去っていく景色の中で…………僕らは背中に、魔女のか細く悲しそうな声を聞いた。

「待って……行かないで……お願いだから――」

 ――もう一度、ピシリとガラスのひび割れる物音があると、鏡の中へとイルベルトの輪郭が溶けていく様に見えた……それは彼の全身を作り変えていた女王のさえもが、例に漏れずに鏡に吸い上げられ始めたからだと気付いた。……けれど僕らにはもう、イルベルトの本来の姿を目撃する時間は残されていないだろう。

「頑張ってリズ――!」

 無我夢中で彼女の手を引いて走っていると、リズがやや放心した様になったのに僕は気付く。けれどそんな事に構っている時間などは無く、僕らはこちらに向かって鏡を掲げたイルベルトと交錯して、彼の元を後にしようとした……

 ――その刹那の瞬間に、リズはイルベルトを眺めて言ったんだ。

……っ?」

 彼女の疑念をこの耳に聞き届け、僕もまたギクリとした。――そうだ、“妖精石”の力を扱えるのは限られたエルフだけ……恐らくその指輪を造ったリズのお父さんならばと、僕も今更思い至っていた。

「お父さん――っ!!」

「……早く……行くのだ!」

 振り返ったリズがイルベルトの元へと戻ろうとするのを必死になって止めた。リズの腕を取ったまま視線を上げると、霧に溶けたイルベルトの耳が、尖ったエルフの耳へと変わっていくのが見えた。

「お父さんなんでしょう!? ねえ! ねえってばぁ!!」

「……私は東の国から来た、しがない魔導商人だ」

 ――ガシャリと、いよいよ魔導鏡が大破する物音が聞こえる。もう残された時間は数秒とない。この間に風穴の向こうに出られなければ僕たちは……

 静かに振り返った仮面のひび割れた目元が瓦解した。……そこには確かに、リズの求め続けていた父の緑の視線が灯っていた。

「うわぁああっっ! おとうさ、お父さんも一緒に――ッ!」

 瞳を弓形に曲げたイルベルトはハットをまさぐり、一つ残された指輪をリズへと投げ渡して前へと向き直る。

「お前たちは外の世界を見て来るが良い……真実の世界を」

「……なんで……どうしてそんなっ、やっと会えたのに、見つけたのに……一緒に来てよぉっ、なぁんでぇぇ……私ずっとお父さんのことぉっ!」

 泣きべそをかきながら、投げ渡された赤い妖精石の指輪を大事そうに握り締めたリズへと、イルベルトは間際の声を残した。

「私にとってはこの渦の中の方が良いのだ」

「……ぇッ?」

 いよいよ瓦解した魔導鏡。霧の魔女による魔力の大河がそのまま僕らの正面へと流れ込んで来るが――

「さぁ……ッ、行け――!」

 割れたガラス片をその手に握り込み、僅かな抵抗を続ける父はその身を激流に晒し出した。いよいよ限界を迎えた事を悟った僕は、リズを連れて強引にその場を走り去る――大粒の涙を振り撒くリズだったけれど……彼女はすぐに自分の足で走り出していた。

「……!」

「……ッ」

 背中に迫る霧の圧力を肌に感じ、冷や汗を垂らす。風穴の向こうまで、もう五メートル――


 三メートル――

 二メートル――

 一メートル――


「逃がさない――ッッ!! ここでッ、このの中で永遠に!!」

 すぐ背後にまで迫った黒い霧のプレッシャーに纏わりつかれ、僕は耳元に魔女の奇声を聞く――

「ナニモ知ラズッ幸セナママデ――ッ!」

 頭から取って食われるかの様な霧の幻影が、大口を開けて僕らの頭上に迫る――だがその牙を止めたのは、黒い風に紛れ込んでいた僅かなだった。振り返るとそこに、浅黒い肌をした霧の少年の横顔が見えた――

「この村の事は心配しないで。今度はキミに成り代わって、僕がピアノを弾き続けるから」

 僅かに振り返った少年の、消え掛かった半身は微笑んでいた。

「……ねぇレイン。僕はね、キミのピアノが大好きだったんだ」

「……っ」

「僕は本当のティーダでは無いけれど、霧の様な夢なのだけれど……キミと友達になれて、本当に楽しかった。あのピアノの旋律を聴かなければ、今の僕はきっと――」

 ティーダの助力はすぐに女王に切り裂かれる。けれど彼の作り出したこの一瞬を、僕は決して無駄にはしない――!

 女王の霧が力強くこの背を引いて来る。リズの頭をこの胸に抱き、霧に捕らわれるまま光へ伸ばした手。村を遮る石の壁を越えて、開いた指先が、霧を掻き分けジリジリと伸びて

 ――――僕はこの魂で叫ぶ。

「僕らは子どもだ、葛藤して、路頭に迷って、それでも成長する変わる事を望んで、何が悪い!」


 ――にこの手を掴まれて、僕らはこのスノードームから引っ張り出された。


 現実か夢かの区別が付かないけれど、僕があの村で見た最後の光景は、こちらに向かって手を伸ばす、のシルエットだった。

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