第三章【手紙】
――大学の入学式の一週間程前、手紙が届いた。中学校の時の友人、マナからだった。
突然にごめんね、から始まり、時間がある時で良いので返事をくれると嬉しいです、で終わっていた。間には中学生の頃の思い出が少しと、近況が書き綴られていた。
マナは明るく、さっぱりとしていて、気が合う唯一の女友達だ。中学生の当時、複数でつるんで強がる事も、やたらと連れ立って行動する事もなく、それでもクラスの女子とはうまくやっていたようだった。マナは、僕の苦手とする女子のイメージを一つも持たず、まるで自然に僕とマナは話し、友人になった。
最近はそんなに頻繁に連絡を取る事はなく、時々思い出したように届けられるメールか、もしくはメールよりも更に頻度は下がるが電話で話していたので、手紙が届いて少し驚いた。僕はその日の内に返事を書いて投函した。
この頃には、北上の亡くなり方について考える事はなくなっていた。大学生活への準備もあったし、毎日の時間の経過が少しずつあの奇妙な出来事を記憶から削り取って行った。それはきっと僕がそう望んだせいもあっただろう。
とにかくこの頃の僕は、奇異とは掛け離れた普通の生活を送っていた。僕はそれで幸福だった。本当に。
手紙の返事を出して二日後、またマナから手紙が届いた。そこにはいつもと変わりないマナの口調で、前の手紙のように中学の頃の事と、やはり近況が緩やかに綴られていた。僕が元気にしているかどうかを気遣う文章もあった。
その手紙の返事を書きながら、中学校を卒業してから今まで一度も思い出す事のなかったマナの言うところの「思い出」を、僕はゆっくりと思い返していた。一通目の返事を書いている時は極力、思い出さないようにしていたのだが、こうしてマナに二度も語られると振り返ってみたくなったのだ。
――僕は、本来行くはずの中学校には行かず、市内にある別の中学校に学区外通学をした。その学校の方が校風がしっかりしているからと、母が強く勧めたからだった。
本来の中学校に通うよりも十五分程余計に歩いて僕は三年間そこへ通学し、卒業した。あまり一般的とは言えないかもしれない。というより、普通しないのではないだろうかと、当時も今もその思いは変わらない。一時的とは言え、戸籍を他人の家庭に養子として移し、通いたい中学校の学区内に住所を得るなんて事は非一般的だと思う。
戸籍移動後も生活する家は変わらず、表面上は何も変化しなかったように見えた。しかし、あの三年間、僕は戸籍という紙の上では確かにあの家の養子、あの家の子供だった。あの夫妻の顔は母と共に挨拶に行った一度きりしか見ていない。もう覚えていない。何故、僕はあの人達に頭を下げてまであの学校に行かなければならなかったのだろう。
来るはずのない僕がその中学校に来た事で、小学校六年生の時のクラスメイトが何人も何人も僕に質問をした。どうしてここにいるの、と。それは誰より僕が僕に尋ねたい、そう思った。
好きな人を追い掛けて来たとかコネを使ったとか向こうの中学校に入学を拒否されたとか。煩わしい噂ばかりが毎日、付き纏った。休み時間は僕は大抵、本を読んで過ごした。噂を広め、噂に踊らされ、そしてそれらを面白がる奴らとコミュニケーションを取る気はなかった。彼らは異分子の僕を種にして騒ぎたいだけだろう。そんな人間に興味は無かった。
ある日、いつもの休み時間、いつものように一人で本を読んでいる時だった。
「ねえ、何を読んでるの?」
顔を上げてすぐに目に飛び込んできた、明るい茶の髪がとても印象的だった。後で、それは生まれ付きのものだと知った。肩の辺りで揃えられた真っ直ぐな髪が、僕の視界で、ゆらゆらと揺れる。
「本のタイトル、何?」
その時の僕が読んでいた本は「おいしい紅茶との出会い」だった。紅茶の淹れ方や紅茶の種類、その原産国などが写真付きで詳しく書かれている。
「あ、紅茶の本?」
彼女は後ろから本を覗き込み、そのついでのように、
「私、マナ」
と、短く言った。
僕はどうしてかその時、「これは紅茶の本だけど、でも小説とかも良く読むよ」という言い訳みたいな事を言ってしまった。けれども彼女――マナは、そんな事は少しも気にしていないようだった。
「私も本好きだよ。紅茶も好き。えっと、紅茶、好き?」
「ああ、好きだよ。飲んだ事のある種類は少ないけど」
その時、休み時間の終了を告げるチャイムが鳴った。
「今度、おすすめの葉っぱを持って来るから、良かったら飲んでみない? おいしいよ」
マナは早口にそう言って、席に戻って行った。
僕は紅茶の本を机の中に仕舞い、これから授業が始まる事に、いつも同様、安心していた。休み時間は何をして良いのか分からない。次の授業の準備をするか、トイレへ行くかぐらいしかする事はない。授業なら、席に着いて静かにしていれば良い。教師の話を聞いて板書された事をノートに写して、問題を解いたりしていれば良い。大抵、それで済む。休み時間なんていらない。くだらない噂も、くだらない話も聞きたくない。疲れる。時々、耐えられなくなる。僕は黒板を見ながら、もう幾度目だろうか、そんな事を思った。
早く、ここから抜け出したかった。何も面白くなく、楽しくもなく。本来行くはずの中学校に通っていたなら違ったのかと、こうはならなかったのかと、僕は何度も考えた。だが、それはもうどうしようもない事だった。
ふと、マナの言葉が浮かんだ。
――私も本好きだよ。紅茶も好き。
その言葉が、何となく気になった。それは、ここへ来て初めて、負の符号の付かない感情だった。
翌日、マナは本当に紅茶を持って来た。
「――で、これとこれはミルクティーにすると凄くおいしいの。あと、このセイロンは大好きでいつも飲んでいる葉っぱ。紅茶って、同じ名前の葉っぱでもお店によって全然味が違ったりするよね。あ、セイロンは好き?」
僕の机の上は、マナが紙袋から次々と取り出す小さな缶やガラス瓶で瞬く間に埋まってしまった。
「セイロンは飲んだ事がないんだ」
僕が言うとマナは明るく「そっか」と言い、また一つ紅茶の缶を取り出して、事んと机の上に置いた。
「これは私がミックスしたものなんだ。アッサムとニルギリ。ストレートでもミルクで割ってもおいしいよ」
どんどんと紅茶を紹介していくマナに、僕は少し圧倒されてしまった。それに気が付いたのか、心なしか申し訳なさそうにマナは言った。
「あっ、ごめん。こんなに持って来られても困るよね」
その様子が、とても悲しそうに映ったから。そして純粋に、嬉しかったから。僕が読んでいた、たった一冊の本から、こんなにも関心を持ってくれた事に。
「いや。これ、みんな貰って良いの?」
途端、マナは、ぱっと笑顔を浮かべた。
「うん、勿論だよ。今度、どれがおいしかったか教えてね」
――いつからか、僕はマナと話す事が楽しみになった。マナの明るい口調と態度は、僕をも明るい気持ちにしてくれた。うんざりだった中学校での時間が、少し光を持った。それは、決して大袈裟なんかではない。
学区外通学をしているという事も、その為に言われた、広がった悪口めいた噂も、学区外通学を
紅茶を貰った日、僕はさっそく幾つか飲んでみた。その中で一番おいしかったのはマナがミックスしたという紅茶だった。温かなそれを飲んでいると、知らず僕は、ほっとするような、紅茶の温度と同じような温かいものを覚えていた。不思議な気がした。まさか中学校で紅茶を貰い、それをこうして飲む事になるとは思わなかったから。
「何か、不思議だな」
思った事が、そのまま口を突いて生まれた。
そして翌日、僕はマナに紅茶の感想を伝える。中でもおいしかったのはミックスしたというものだったよと告げると、マナは本当に嬉しそうに笑った。それから僕達は良く話をするようになる。その事は今、思い返してみても、確かに僕の中の光だった。
――僕は手紙を書き終え、封をした。宛名を書いている時、どうしてマナは急に手紙をくれたのだろうと思った。今までは電話やメールで話していたというのに。単に、手紙を出したくなったのだろうか。確かにメールよりは、その人の文字で書かれている手紙の方が僕は好きだ。話をするという点では、電話もメールも手紙も働きは同じかもしれない。けれど、やはり三者は別物だと思う。
書き終えたばかりの手紙をポストへ投函した帰り道、鮮やかな橙色に染まった空を見上げた。まるで紅茶の色のようだと思った。
帰宅してから、僕は久しぶりに紅茶を淹れる事にした。台所の上にある棚を開けると、三つの缶が並んでいるのが見える。一番手前にあった缶を手に取ると、アールグレイだった。それに決めて、ガラス製のティーポットも取り出す。手鍋でお湯を沸かし、それでティーポットとマグカップを温める。もう一度、お湯を沸かし、ティーポットのお湯を耐熱性のハンディークーラーへ移す。ポットに茶葉を入れ、沸かし立てのお湯を注ぐ。途端、葉が勢い良く浮き沈みを繰り返す。
何となく、僕はこれを見ている事が好きだった。マナに言わせると「ポットを包んで保温した方が良いんだよ」という事だったけれど。
アールグレイの葉の浮き沈みを眺めていると、まるで導かれるようにして思い出が自然と浮かび上がって来た。
決して楽しいとは言えなかった中学校生活だったけれど、マナと知り合ってからは少しずつ日々が楽しみになるようになった。それは僕自身、とても意外に思う変化だった。考えてみたら、学校という場は一日の内の起きている時間、その大半を過ごす場だ。そこがつまらなかったら、毎日のほとんどがつまらない。そう、中学校で学んだ事はほんの僅かだが、高校で活かされた気がする。それならば、大学にも活かせるのではないだろうか。
ぼんやりと考え事をしていたせいか、少しばかり抽出時間が長かったようだ。温まったマグカップに注いだアールグレイは渋味が若干、目立っている。マナもこうして自分で紅茶を淹れるのだろう。しばらく会っていなかったけれど、今も変わらず紅茶は好きだろうか。マナの淹れた紅茶はどんな味がするだろう。今度、紅茶専門店にでも誘ってみようかと、渋味が主張されるアールグレイを飲みながら僕は思った。
――大学入学式当日。
僕は早くも場違い感を否めなかった。ここにいてはいけないような気さえした。やっぱり僕はこんな事をしたいのではない。けれども今更そんな事を言っても仕方がない。手遅れだ。たとえ手遅れではないにしても、何をしたいのか分からない僕は、結局ここにいるしかない。ここを否定して僕は一体何処に行くというのか。
四年間。その数字が、
僕は後ろ向きだと、高校の時、担任に言われた事がある。もっと前向きに、積極的に物事を考えてみたらどうかと。けれども僕が後ろ向きと言うのなら、何を
誰か、はっきり教えてくれはしないだろうか。決定的、確定的な力を
マナから四通目になる手紙が届いた。やっぱり内容は近況が少しと、中学生の時の話だった。
マナの手紙を読むと、当時の事を思い出す。マナからの手紙に中学校の時の事が書かれていない時は無かった。休み時間に話した内容、体育祭や持久走、修学旅行、クラスメイト、担任、その他の教師の事などが、あまり脈絡なく
マナと友達になった事以外は、僕は中学校での事に思い入れは無く、特に取り出して覚えておきたい出来事も無い。しかしマナの文章は、そんな僕とはまるで正反対の様子で、いつもの明るい口調に繋がる文体で、その思い出を綴っていた。
そういった手紙を読む内に、僕はマナのようには出来なかったけれど、本当は中学校は、そしておそらくは高校も、もっと楽しいものだったのかもしれないと思い始めていた。勿論、不愉快な奴はいたし、つまらない授業もあったし、馬鹿らしいと思った行事も多かった。しかし、それらを差し引いても残る面白さや楽しさはあったのではないだろうか。
気が合う人より合わない人の方が多く、興味が無い人が圧倒的に多く、信頼出来る教師などいなくて集団で騒がしく動く行事が恐ろしく嫌いだった僕が、ふとそんな風に思ったのは、マナの手紙の影響に他ならなかった。マナの手紙には、マナにとっての中学校生活の思い出がとても楽しそうに、色鮮やかに書き綴られていたから。それは、あのマナの笑顔を思い出させるほどだった。マナの目には、心には、こんな風にあの時間が映っていたのかと思うと、僕もその視点でもう一度、中学生をやってみたくもなった。だが、それは出来ない事だ。
だから僕は、これから過ごして行く大学での時間を、せめて少しでも今までと違う心で捉えて行きたいと。そう思った。そこに偽りなど無かった。
――大学に入学してちょうど一ヵ月目の金曜日。その夕方。
郵便受けには何通目になるだろう、マナからの手紙が入っていた。約三日か四日おきに、マナの手紙は届く。僕の返事が向こうに届いてすぐに、マナはその返事を出してくれているみたいだった。僕は郵便受けから手紙を取り出し、一つ大きな伸びをしてから家へ戻った。
自室への階段を上りながら、僕はマナに出す手紙の内容をうっすらと考えた。面白くも何とも無い、そう考えていた大学生活が自分の視点や角度を変えてみる事で僅かだが興味を持てるようになったのはマナからの手紙のおかげだった。僕はまた、マナに感謝していた。気が合わない人がいても、不快な事があっても、それに勝る面白い事や興味を惹かれる事が、きっとある。マナは、そう教えてくれた気がする。その事を今日は書こうかと思った。
封を切ると、いつもより便箋の枚数が多いような気がした。けれども内容はいつもの通り、近況と、中学校の頃の事が鮮やかに書かれていた。
しかし、手紙の最後の方になって唐突にそのリズムは破られた。そこには、ただ淡々と、けれどひどく衝撃的な事が記されていた。その直前と何の変わりも無い、マナの字で。
『ところで、突然だけれど、私は違う街へ行きます。そこは、たとえ渡り鳥になっても行けない、とても遠い、見えない街です。どこにあるのかもちゃんとは分かっていないけれど、でも、たぶん大丈夫だと思います。だから心配いらないよ。』
心配いらないって………………何が?
唐突に困惑が生じ、そして僕は怖くなった。言い知れぬ恐怖を感じた。知らず固く強張(こわば)ってしまったその手で、僕は次の一枚を出した。
『本当はハルカにもう一度会って、いろんな話をしたかったけど。仕方ないね。ハルカと同じ中学校で過ごせて、とても楽しかった。三年間、同じクラスになれて嬉しかった。三年間共、同じクラスになれる人ってなかなかいないよね? 凄くラッキーだったよね、私。
私が行く街にハルカがいないことが、さびしい。とても。せめて紅茶があるといいな。飲み切れないくらいの沢山のセイロンが。他にも、アールグレイ、ニルギリ、ダージリン、ウバ、アッサム。沢山の紅茶があると良いな。紅茶の事、もっとハルカと話しておけば良かった。またいつか、ハルカに会いたいです。手紙の返事をくれて本当にありがとう。嬉しかった。
さよなら、ハルカ。
マナより』
僕は体が震えるのを感じた。違う街へ行く? 引っ越すという事だろうか。しかし、何かおかしい。まるで、まるでもう二度と会えないような。
突然に、急速にマナが遠ざかって行くような気がした。僕は、しばらくそのまま動く事が出来ず、ただ立ち尽くしていた。
しばらくした後、やっと僕は思い出したように携帯電話を手にして、マナの携帯へと電話を掛けた。しかし電話は通じず、「この番号は現在使われておりません」という無機質な案内が虚しく響くのみだった。
僕の不安と恐怖は、いよいよ激しく渦を巻き始めた。手紙の終わりに書かれた『さよなら』という言葉が、ひどく恐ろしく思えた。それは明るく朗らかなマナには似合わない言葉だった。
僕は、緊張と不安と恐怖が入り混じった心を抑え、マナの自宅へと電話を掛けた。五回程のコール音の後、マナのお母さんらしき人が出た。僕が名乗ると、「ああ、あなたがハルカ君」と、納得したような声が届けられる。
そしてその後、妙な間があった。ややあってその沈黙は、信じられない、信じたくない言葉によって
「生前はマナがお世話になって…………」
一瞬、マナの温かな笑顔が浮かんだ。そして消えた。もう二度とマナには会えない、あの笑顔を見る事は出来ないのだと、心のどこかで冷静に僕は思った。
マナが死んだと知り、僕は破かれるようにして二つに裂かれた。
マナが死んだなんて嘘だ、誰かが僕を騙しているんだと、大声で喚きたいほどに揺さぶられ、動揺した僕。そして、残酷なほどに冷静に、ただ静かにマナの死を受け止めた僕。どちらが本当だったのだろう。それとも、どちらも本当だったのだろうか。
あの時の僕は、一体何が本当なのかと、何度も何度も繰り返し考えていた。本当の僕を、本当の心を探していた。そうしていく内に、僕はゆっくりと、しかし確実に、まるで引き寄せられるかのようにして何処か一つの所へと向かっていた。そこに辿り着く事が正しかったのか、今の僕にも、あの時の僕にも分からない。
本当の事を知る事が幸せだと、それが正しいと、誰が自信を持って言い切れるだろう。知らない方が幸せな事も確かにこの世にはあるだろう。
けれども僕は気付いてしまい、その先にあるものにも気付いてしまった。そしてそれを求めてしまった。求めずには、いられなかった。だから今の僕が在る。それが正しいとも良かったとも、間違いだとも、幸せだとも、その逆だとも、僕も誰もきっと言えない。ただ、そこには僕の意思がある。
――数日後、マナの家を訪ねるとマナのお母さんが僕に一つの小さな缶を手渡してくれた。手の平に収まる、丸い
「中学生の頃、マナはほとんど毎日、ハルカ君の話をしていたの。休み時間に話した事とか、ハルカ君の読んでいた本の事を、いつも楽しそうに話してくれた。ハルカ君が紅茶を好きだって知った日は、その話をしながら色々な紅茶を戸棚から出してはテーブルに並べて…………」
マナのお母さんは言葉を切り、改めて僕の手の中にある缶に目を落とした。
「この紅茶はマナが作ったものみたいね。作ったというか、二種類の紅茶の葉を混ぜたみたい」
缶から足元へと視線を外し、その後、マナの母は再び僕の顔を見た。
「貰ってやってね。ハルカ君」
そして静かに微笑んだ。
僕は一礼して、マナの家を後にした。少し行ってから振り返ると、玄関先で綺麗に礼をしているマナのお母さんの姿が見えた。僕も頭を下げ、再び帰り道を歩いた。もう振り返らなかった。ぱた、と涙が落ちた。とめどなく、溢れて落ちた。
マナの家から帰った僕は、崩れ落ちるようにして床に座り込んだ。手に持っていた紅茶の缶が床にぶつかり、乾いた音を立てる。ただぼんやりと光の入り込む方向を見上げると、自然と視線の先にある窓の外の景色が目に映り込んだ。
映る木々は、どれも鮮やかに輝く緑を宿し、陽光の下、生き生きとしていた。その枝々の葉を、時折、僅かな風が柔らかく揺らして通り過ぎて行く。晴れやかな青い空、輝く太陽、光る緑。僕の心など一片も知らないであろうそれらの美しい姿は、いっそ目障りだった。
マナが死んだって、一体何だろう。何かが間違っているのではないのか。信じる事など、僕には出来ない。
窓の外の景色から目を逸らすように、僕は視線を落とした。途端、視界に飛び込んで来る、紅色をした紅茶の缶。それを手に取り、先程のように缶の中蓋を開けると気持ちの良い茶葉の香りが届けられた。何処か懐かしい香りのようにも思える。蓋を閉め、僕は何気無く缶を引っ繰り返してみた。すると、へこんだ缶の底に白い紙がテープで貼り付けられているのが目に入る。その瞬間、どくり、と心臓が
僕は急いでその紙を剥がし取り、開いた。薄く、ひらひらとしたその紙には、あの変わらないマナの字で、文体で、僕へ向けての手紙が綴られていた。
『ハルカへ
これが正真正銘、最後の手紙です。さよならなんて書いておいて、またこうやって手紙を書いている自分がちょっと恥ずかしいけど。でも、やっぱりハルカには本当のことを言っておこうと思って。勝手かもしれないけれど。ごめんね。ハルカがこれを読むかは分からないから、ただの自己満足なのかもしれないんだけどね。
突然に私がハルカに手紙を出してから、毎回ハルカが返事をくれていたとしたら、きっとハルカは紅茶を受け取ってくれているんだと思う。それで、もしかしたらこの手紙に気が付いて、読んでくれているんだね。まるで私が出した手紙にハルカが返事をくれて、そしてまた、まるで私が返事を出したみたいになっているんだよね。』
まるで?
強い違和感を覚えた。そして含みのある、何かを隠すかのようなマナの言葉に、僕は得体の知れない不安に包まれて行く。
『手紙を書いて封をして、切手を貼ったのは私です。でも、一通目の手紙がポストに入る時、もう私はいなくなっています。私が死んだ後に、手紙をお母さんがポストへ入れてくれているはずです。初めの一通を、お母さんが投函してくれたらスタート。ハルカが返事をくれたら、次の二通目を、また私の代わりにお母さんが投函。そうやって、私が封をした最後の手紙が届くまで文通が続いたら、ハルカは紅茶を手に入れてゴール。』
驚きと困惑の中、僕は二枚目の紙を出した。
『何となく、本当に何となくでしかないんだけど、私、そろそろ死ぬんじゃないかなって思ってた。理由なんか分からないけど、そう思ったの。思った時からずっと、そのことは私の頭から離れなかった。気にしないようにしようって思ったけど、駄目だった。日を追うごとに、どんどんそれは大きくなって、私から離れなくなって行く。誰かに言っても、たぶん分かって貰えない。もしかしたら頭がおかしいんじゃないかって思われる。そう思ったから誰にも言えなくて、相談出来なくて、それで余計に苦しかった。
もし、突然死ぬことになったら。もし、その日が近いとしたら。浮かんだのはハルカだった。家族より友達より、他の誰より、ハルカのことが気になった。これから通うことになる大学よりも将来よりも。だから、遺言とかじゃないけど、手紙を書いたの。そして、死ぬかもしれない日の一日前、お母さんに頼みました。ある時、分かってしまったんだ、その日が。怖かったよ。凄く怖かった。死ぬかもしれないって思ってから急いで手紙を書いたけど、ちゃんとハルカは読んでくれたかな。もっと書きたかったな。』
三枚目を読んだ。
『手紙をお母さんに渡したら、凄く驚かれた。もしかしたら明日死ぬかも、なんて聞かされたら当たり前かな。私も、そんな事は一生の内で一度だって言いたくなかった。でも、仕方なかったんだ。自殺するつもりなのとか、何か嫌がらせを受けているのとか色々聞かれたけれど、最後には手紙と紅茶の缶を受け取ってくれました。お母さん、どう思ったんだろう……。
この手紙を書いている今日の翌日、つまり明日が、もしかしたらの日です。今日の夜、この手紙は紅茶の缶の底に貼り付けておきます。これをハルカが読んでいたら私は死んだってことだから、この手紙は誰にも読まれないで、あとで私がくしゃくしゃにして捨てられたら良いね。そうしたら笑い話になって、ハルカに話せる。死んじゃったら、私の手紙へのハルカの返事が読めないし。紅茶も飲めないし。
長くなってごめんね。もし、明日死ぬとしたら、私はどこか遠い街へ行くんだと思うことにします。その方が、ほんの少しだけど気持ちが軽くなるから。ハルカがいた中学校で過ごした時間が私は一番好きで、大切です。大人になってもハルカと友達でいられたら、お酒を飲みながら、そういう楽しかった時を一緒に振り返ったりしたのかもしれないね。
それじゃあ、今度こそ本当にさようなら。でも、またいつか会えるよね。友達になってくれてありがとう。
マナ』
視界がゆっくりとぼやけて行く。
疑問が消えた。時々、手紙の内容が、僕の出した返事と噛み合っていないような気がした理由。今までのように電話やメールで話さず、手紙を送って来た理由。封をしてあった最後の手紙の不思議な内容。まるで、もう二度と会えないような。さよならの言葉。別れの言葉。一通目の手紙が僕に届くより前に、マナは死んでいたんだ。
紅茶の缶を受け取ってマナの家を出た帰り道よりも、多くの涙が流れた。強い、重い鋭い悲しみが胸の奥底に落ちて刺さった。
――懐かしい香り。この紅茶の葉は、中学生の時に僕がマナから貰ったものと同じだ。セイロンとニルギリを、マナがミックスした茶葉だ。
でも、もうマナはいない。おいしいと感想を伝える事も出来ない。何も話す事が出来ない。
今までより前向きに頑張る事にしたんだ、マナの手紙を読んでいたらそう思えたんだと、僕はマナに言いたかった。ありがとうの一言ですら、今はもう届かない。伝わらない。たとえ世界中の紅茶を買い占めてマナにプレゼントしても、マナはもう笑わない。何も手渡す事すら出来ず、墓前に供える事しか出来ない。
僕はマナに、もう何も出来ない。
――その日、僕は夢をみた。
夢の中は、砂糖菓子のような甘い香りがふわふわと踊るように漂っていた。アロマキャンドルの炎のような光がゆらゆらと揺らめき、辺り一帯を包んでいる。そして、やがてはっきりとして来た視界は、そこが学校だという事を僕に教えた。
「ハルカ」
突然に名前を呼ばれて振り返るも、誰もいない。
「ハルカ?」
再び、名前を呼ばれる。しかし、やはり誰の姿も見えない。
僕は気味が悪くなった。そういえば、ここは学校だというのに僕以外の誰の姿も無い。それに、さっきから漂っている香りは何だろう。少なくなったとはいえ、ゆらゆらとした光もそこかしこを泳いでいる。幻想的ではあるが、香りと共に得体が知れない。
「ハルカ。準備、出来たんだよ」
はっとして前を見ると、制服姿の女の子が一人、降って湧いたようにして
「マナ!」
「どうしたの、大声を出して」
「マナ、僕は」
「それより、準備が出来たから行こう」
僕の言葉を遮って、マナは少し強引に僕の手を取る。そして、すぐ側の扉を勢い良く開けた。そこは中学校の教室。ふと見れば僕も、マナと同じように中学校の制服を着ていた。
「紅茶、何が良いかな?」
教室の中央には机が幾つか集められ、綺麗な長方形を作っている。そして真っ白なテーブルクロスが掛けられている。その上には所狭しと白く丸い皿が並び、そのどれもにケーキやクッキーなどが載せられていた。ああ、さっきからの甘ったるい香りはこれのせいかと思うと同時、それとは別の、懐かしい香りが宙を泳いだ。
「これで良い?」
いつの間に淹れたのだろう、マナは柔らかく微笑み、僕にマグカップを差し出す。差し出されたマグカップは、夕焼けを濃く溶かし込んだような液体で満たされていた。温かな紅茶。何の紅茶かは聞かなくても分かった。
「ああ、ありがとう」
マグカップを受け取る。そして、僕は先程に言い掛けた言葉の続きを紡ごうと口を開いたのだが、どうしてかそれが浮かばない。
「紅茶、飲まないの? お菓子もこんなにあるんだよ」
マナの声に誘われるようにしてマグカップに口を付けると、まるでその紅茶の一滴一滴が、細胞の一つ一つにまで染み渡るような気がした。そして、渦巻きの形をしたクッキーを一つ食べると、自分の意識がやっとここに根付いたような、そんな感覚が全身を捉えて離さなかった。ふと窓を見遣ると、そこにうっすらと映る僕の姿もマナ同様に中学生に戻っている。
「――私ね、いつかこうやってハルカとゆっくり紅茶を飲んで、ゆっくりお菓子を食べてっていう時間を過ごしたかったの」
不意にマナが話し出す。その口調は、ここに漂っているお菓子の甘い香りを思わせる、何処か夢みるようなそれだった。
「ねえ、あの日。私が初めてハルカに話し掛けた日に教室で読んでいた本、あるでしょ?」
「紅茶の本?」
「そう。それを見た時、私ね。凄く、どきどきしたんだ」
「どうして?」
「もしかして紅茶が好きなのかなって。だったら、あの葉っぱ飲んでみて貰いたいなとか、どんな紅茶が好きなんだろうとかって色々な事が一気に浮かんで、それはもうどきどきしたよ。わくわくもした。私の周り、紅茶を飲む子があんまりいなかったから。でも、本を読んでいるだけであんまり飲まないかなーとも思って、だけど聞いてみたくて。思い切って聞いてみたんだ。結構、緊張しました」
「そうなの? そんな風には見えなかったけど」
マナは照れ隠しのように笑った。
「実は、緊張してたんだよ。でも、それがきっかけでハルカと話せるようになったし、嬉しかったな」
そこまで話して、マナは一口、紅茶を飲む。僕とマナの持つマグカップは、空の色をしていた。
それからマナは何かを話そうとする気配が無く、訪れた静寂は否応無しに僕達を包み込んだ。途切れた、声。途切れた、会話。僕は何かを言おうとしたのだが、正体の見えない壁のようなものが、それを阻む。そういえば、さっきも言い掛けた事があった。僕はマナに何を伝えようとしているのだろう。
「紅茶、どう?」
突然に降ったその声に、いつの間にか手元へと落ちていた視線を向けると、マナがこちらを見て柔らかく笑っていた。
「あ、おいしいよ。これ、前に僕にくれた紅茶だよね。マナがミックスしたっていう」
「うん。分かった?」
「ああ」
「嬉しいな」
そして、マナは更に笑顔を見せる。
けれど、僕にはそれがそのまま消えてしまいそうな何処か儚いものとして映った。理由は良く分からない。そのせいなのか、穏やかな空気とは裏腹に僕は落ち着かない気分を味わう。
どうしてだろう。どうして、こんな気持ちになる? その不安の正体を知りたくて、僕はマナに尋ねてみたくなる。何をどう尋ねて良いものかどうかも分からないままに。だが、言葉が出ない。さっきからこうだ。伝えたい事がある、尋ねたい事がある、それなのに一つも言葉にならない。
「もしも」
不意に、ぽつりと穏やかな大海にささやかな
「もしも大人になっても私達、友達でいられたら。一緒にお酒を飲んだりしたいね」
「勿論、友達だろう?」
少しの照れを感じながら、僕はそう答えた。しかし、途端に胸の奥がざわざわと鳴る嫌な感じが生まれた。これは一体、何だろう。
「紅茶にラム酒を数滴入れると、おいしいらしいよ」
「へえ、初めて聞いたよ。その時は、それを飲みたいな」
「私も」
「楽しみだな」
「そうだね、楽しみだね」
そして、僕達は互いに紅茶を飲み、クッキーやケーキを食べた。
こうして話している間も、僕が本当に言葉にしたい何かは相変わらず喉の奥に張り付いたようで、かけらとて生まれる事が無い。その引っ掛かりをどうにかしたくて、紅茶を飲む。その繰り返しで、やがてマグカップの中は
「紅茶、貰って良いかな」
その言葉に、マナは首を横に振った。
「ごめんね。もう無いんだ」
良く見れば確かに、透明なガラスのティーポットは空っぽだった。
「そっか。おいしかったよ」
瞬間、この穏やかな空間を引き裂くかのように大きな音が鳴り響いた。いや、実際はそこまで大きな音では無かったのかもしれない。だが、その意外な出来事に僕はひどく驚き、狼狽した。
「チャイム?」
導かれるようにして見上げた壁時計は、しかし針が無かった。長針も短針も秒針も。
「ハルカ。ありがとう」
振り向くと、マナの笑顔が視界に飛び込んで来る。その、あまりの笑顔に言葉を失う。そして、反響する音の洪水の中、まるでそれにマナが押し流されるような錯覚が訪れる。
「マナ。僕は……」
名前を呼ぶ。けれど、言葉に詰まる。僕は、さっきから何かを言おうとしているのに言えないままだ。必死にそれを思い出そうと掴み取ろうとしている間も、チャイムは鳴り続ける。それがひどく耳障りで、思考がまとまらない。
そうこうしている内に、机の上を埋め尽くすほどにあった皿の上の菓子が、しゅうしゅうという不思議な音と共に泡になり、瞬く間に消失して行く。そして、あっと言う間に全ての菓子と皿が消えてしまった後、マナの手の中から、僕の手の中から、揃いのマグカップがやはり泡になり、消えた。最後にティーポットも静かに泡になり、消える。これは一体どういう事かと尋ねようとして、もう一度マナを見ると、マナはひらりと左手を振っていなくなってしまった。音も無く、文字通り消え去ってしまった。
残されたのは、僕一人。何かを考えようとしては、響き渡り続けているチャイムの音に邪魔される。それを何度か繰り返した後、不意に白いテーブルクロスがふわりと宙を舞い、元よりも大きく広がる。そしてまるで幕引きのように上から下を目掛けて、ゆらりゆらりと、スロースピードで下りて来る。その時になってようやく、僕は現実を思い出した。
マナの死から三日後、僕はマナのお母さんにマナのお墓の場所を尋ね、そこへ向かった。確かめたかったのかもしれない。マナの墓前に立って、ああ本当なんだ、マナは本当にもういないんだと、自分に言い聞かせたかったのかもしれない。僕はマナの通夜にも告別式にも出席していないから、尚更にそう思うのかもしれなかった。
マナのお母さんに葬式の事を尋ねると、
『自分が棺桶なんかに入っている所をハルカに見られたくないし、せっかく工夫をした手紙の事が無駄になってしまうので、お通夜にも告別式にもハルカは呼ばないで下さい。』
というメモ書きがマナの机の上にひっそりと置かれていたと教えてくれた。何だかマナらしさを感じた。そのマナらしさが、今はただ悲しかった。
マナの死を確かなものにする、その線を踏み越える為に、僕はそこへと向かっていた。この線を越えたら、揺るぐ事の無い事実が僕の中に息づく。
電車で三十分ぐらい移動し、そして駅からタクシーで二十分程の場所に、寺はあった。僕は、これからマナのお墓を目にしようとしている。緊張と恐れ、焦燥と不安。そういうものが今更になって強く僕を押し包んだ。
寺の人にマナの名を告げると、丁寧に墓前まで案内してくれた。それは墓地に入って右手側、すぐの所だった。そこには手を合わせ目を閉じている、一人の男性の姿がある。ややあって男性は目を開け、僕に気が付いて軽く会釈をした。僕も慌てて頭を下げる。
「マナの墓参りに来てくれたのですか?」
はい、と答えると、男性は静かな笑顔を見せた。
「私はマナの父です。娘が、お世話になりました」
深々と頭を下げられ、僕は戸惑いながら、こちらこそ、と言った。
僕はマナの墓前に、花と、セイロンの茶葉が入った紅茶の缶を供えた。そして手を合わせる。しかし、それらの行動に実感は伴わず、何処か夢のような気がしてならなかった。
「違っていたら申し訳無い。もしかしたら、ハルカ君ですか」
「あ、はい。そうです」
すると、マナのお父さんは先程よりも柔らかく笑った。
「やはり、そうでしたか。良く、娘が言っていました。紅茶の好きな男の子がいて、仲良くなったんだと。中学生になったばかりの頃から卒業するまで、ほとんど毎日のように話していました」
僕は、どう答えたら良いのか分からず、そうですか、とだけ返した。
「――まだ、信じられないのです。これが悪い夢だったら良いと、もう何度も考えました。マナが車に轢かれて…………死んでしまったなんて」
マナのお父さんは一人呟くようにそう言い、僕に向き直った。
「娘は、特に中学生の時の毎日が本当に楽しそうでした。ハルカ君とは親しい友人であったと聞いています。ハルカ君、ありがとう」
「いえ。こちらこそ」
改めて頭を下げるマナのお父さんに返事をし、僕も頭を下げた。しかし僕はその時、一つの違和感を覚えていた。
「それでは、私はこれで。またその内、会いに来てやって下さい」
遠ざかるマナのお父さんの姿が完全に見えなくなり、辺りに誰もいない事を確かめてから、僕は口を開いた。今はもういない、マナに確かめるように。
「交通事故だったのか?」
僕は、この時まで考えてもみなかった。どうしてマナが死んでしまったのか、という事を。
見渡せば、多くの緑に囲まれて、多くの墓が整然と並んでいた。まるで僕とは無関係に思えるこの墓地に、多くの墓の中の一つに、マナのお墓がある。僕の目の前の、この石の下、骨になったマナが眠っている。二度と息をする事の無い、話す事も笑う事も泣く事も無い、歩く事も無い、ただ白い骨だけになったマナがいる。それはとても不自然な事に思えた。
しかしそれ以上に、マナが死んだと聞かされてから三日、墓参りに来る今日この日まで、一度もマナの死因について考えなかった僕の方が、よっぽど不自然に思えた。マナのお父さんが「車に轢かれて」と言った瞬間、心の奥が、ざわりと鳴った。そして、その音は今も鳴り続けている。墓地を囲む木々が無造作に風に吹かれて立てている音よりも、僕の心の奥底で鳴っている音の方が格段に大きかった。焦りのような胸騒ぎのような、この感覚は味わった事がある。この音は聞いた事がある。記憶を懸命に手繰り寄せた。手繰って、手繰って、手繰って…………………………。
突然、強い風が横から吹き付け、木々が一層、大きく揺れた。葉ずれの音も大きく響く。その一際大きな音が、体内の音と刹那、重なった気がした。そして、唐突に記憶の濁流は澄んだ。
僕は「まさか」と思いながら急いで墓地を走り出て、来た道を戻った。途中でタクシーを拾い、駅前で降りる。電車に揺られて、家路を辿る。その間中ずっと、僕の頭と心は絞め付けられるように息苦しく痛んだ。そして何故か――本当に何故か「やっぱり」という正体の分からない確信めいたものを僕は抱えていた。まるで何かに導かれるように。まるで誰かに手を引かれるように。
僕は、あの時に心の深い所で鳴った音を聞いた事があった。あの感覚を知っていた。涙が零れ落ちそうな悲しみと、何処か落ち着かなくさせる高揚感に似た何か。どうして忘れていたのだろう。本当に、忘れていたのか?
マナの墓参りから家へと戻った僕は、本棚に並べられた本という本を手当たり次第に手に取ってはタイトルと概要を確かめた。棚の奥に仕舞ってある本も全て取り出し、確認した。おかげで部屋の床は積み上げられた本や散らばった本でほとんど見えなくなってしまった。だが、それでも僕の探している本は見付からなかった。
思い違いだろうかと、散乱した本を見つめる。僕が持っている本の中に無いとすれば、図書館で借りた本か友人に借りた本か……あるいは、僕が誰かにその本を貸したままか。いずれにしろ、読んだ事があるのは確かだった。けれどもタイトルも著者も全く思い出せず、覚えているのは内容だけ。僕は少しの間、考え込んだ。そして、やがて僕は一つの結論へと向けて、散らばった本を片付けながら思考を組み立てて行った。
僕は読んだ本の内容は決して忘れない。自信があった。だから、何処で読んだのかを思い出せなくとも、記憶違いや勘違いという事は有り得なかった。僕が今、思い出している、その本の内容。それは僕とマナに起きた事と気味の悪いくらいに良く似ていた。
――主要人物は二人。中学校に入学し、同じクラスになった事をきっかけに親しくなって行く二人。暇潰し感覚で勉強だけをして来た、一人の男。学校を楽しい所だと思っている明朗な、一人の女。時々、会話をするようになった二人は、休日に一緒に遊びに出掛けるほどに親しくなる。ありふれたと言えば、そうかもしれない物語。
僕が面白いと思ったのは、二人が出会った事で訪れた、二人への劇的な変化だった。学校も家庭も、二人を取り巻く環境は何一つとして変わっていないのに、二人が――特に男が――視点を変えた事で、今までに見て来た事、感じて来た事の多くを、まるで違うものとして捉えられたという事。互いに二人は持っていなかった相手の考え方を知り、その考え方を少しずつ取り入れて行く。そうする事で自身の日常を、大きく言えば二人にとっての世界を変えた。視点、考え方の変化、発想の転換。よって生じた逆転、好転。それがとても面白く、興味深かった。
中学校を卒業後、二人は別々の高校へ進学する。しかし、メールや電話でのやり取りは続き、友人関係も続く。ある日、男に女から手紙が届く。二人はしばらくの間、メールや電話の代わりに手紙を出し合うようになる。そうして最後に男に届いた手紙は短く、それは、さようなら、の言葉で終わっている。そして男は、女が最初の手紙をくれる以前に、死んでいた事を知る…………。
そこまで思い出して寒気がした。そっくりだ。同じ中学校に通っていた二人が卒業後に文通を始める事、手紙を出す前から女は死んでしまっていた事、そして視点、考え方に生じる変化。
その他に、一つ思い出した事がある。あの音の正体。僕がマナの墓前で聞いた、心の奥底から湧いた音。あれは、高校の時のクラスメイト、北上の告別式で聞いた音だ。亡くなった北上は、ある本の内容との共通点を持っていた。その本を僕は読んだ事がある。北上は日記の最後に奇妙な言葉を書き残して、自殺した。その言葉はあの本に書かれていた言葉と全く同じだった。加えて、本の主人公と北上の境遇はとても良く似ていた。告別式の日。北上の日記に記されていた言葉を担任教師が読み上げた時、間違い無く、僕はあの音を聞いた。そして、北上の時もマナの時も「まさか」と思い、その後「やっぱり」に変わった。
頭の中を一気に事柄が駆け抜ける。僕の両手は僅かに震えていた。
北上とマナが、僕の読んだ事のある本の内容と似た死に方をした。本になぞらえて死んだ? 何の為に? そんな事をする必要が二人にはあったというのだろうか。そして、その二冊の本を僕が読んだ事があるという事。これは偶然だろうか。更に、僕自身に起きた事。視点の変化、手紙のやり取り。これも、偶然だろうか?
分からない。違和感と静かな恐怖が僕を襲った。
「何だ、これ……………………」
決して感じた事の無い感覚だった。
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