第七章【変化】

 気持ち良く晴れた朝、僕は久しぶりに時間に余裕を持って家を出た。時間だけでは無く、僕自身の心にも余裕が生まれていた。ゆっくりと靴を履き、落ち着いた気持ちで玄関の扉を開ける。途端、まだ今日に昇って数時間程の太陽の光が目に入り、見上げれば、高く遠い綺麗な秋空が目に映った。


 こんなにも静かな心は本当に久しぶりだった。駅までの道のり、電車を待つその時間、大学までの道行き、景色。何もかもが違って見え、違って感じられた。そう思えるのは僕が変化したからだと気が付くと、大きな心地好さが込み上げた。心境や考え方が変わると、自然と周りの事が以前と違って見えて来る。それを実感したのは、これで二度目の事だった。何の変哲も無い大学の正門や、ただ僕を後ろから追い抜いて行く人達にでさえ、何か清々しいものを感じた。けれど、その感覚は前向きになろうと決めたあの時のものと同じようでいて、全くの別物だった。根本が異なっているからだ。


 そこまで考えた時、ぽん、と軽く肩を叩いた人物がいた。


「よ、ハルカ。今日の最初の講義、一緒だよな?」


 強く、すっきりと通る声。振り返った先には、やはり予想にたがわず、レイが立っていた。


 お互い同じ講義を取る事が多く、何となく顔を合わせては良く話すようになった。時々は昼食を一緒に食べる事もある。それほど深い付き合いは無いものの、友人と呼べる気の良い奴だ。もっとも、そんな事にはもう興味は無いけれど。僕の視点は、既にただ一点だけを捉えていたから、それ以外の事はほとんどがどうでも良かったとも言えた。


「今日は涼しい。もう秋なんだな」


 レイの言葉に、僕は短く、そうだな、と返事をした。歩きながら、レイは色々な事を脈絡無く話し続けた。僕は適当に相槌を打ち、時折は会話が成り立つ程度に返事を返すだけだった。そうやって取り留めの無い会話のようなものを広げながら、僕達は並んでキャンパス内を歩いた。こんなに近くにいながら、僕とレイの間には埋めようの無い距離がある。それはレイに限った事では無いけれど。その事を僕は悲しいとは思わなかった。


 消去法で選んだ大学進学という進路、国文学科という選択。将来の職業。僕の今後を案じる母の声。他人。それらは実に、くだらなかった。圧縮にぐ圧縮を掛けて燃やし尽くしてしまいたいくらいに。これから始まる講義も、その火の中へと投げ入れてしまいたかった。きっと今の僕には何も与えず、何の役に立つ事も無いだろうから。


「なあ、ハルカ。聞いてる?」


「ああ、課題の提出日だろう?」


「そう。あの量を来週の金曜日までっていうのは無茶だよ」


「確かに、いつになく厳しいよな」


 キャンパス内には多くの広葉樹が植えられていて、歩く道の両脇でも、それらは枝を大きく広げて僕達を見下ろしていた。僕は何気無く木々を眺めながら歩き続けた。紅葉の始まっているその様子は、まるで以前の僕のようだと思った。未だ残されている緑の葉は、やがて一つも余す事無く赤や黄に染め抜かれるのだろう。それは、さながら取り返しの付かない終局へ向かうかのように。それを、望むかのように。




 心の晴れ渡ったあの日から、僕は何かに取り憑かれたかのように数え切れない程の本を読んだ。元々、読書は好きで毎日のように何かしらを読んでいたけれども、もはや「本を読む」理由は「好きだから」という事だけには決して留まらなかった。


 僕の読んだ本の内容が、現実に起こる。そう思う事で僕は、僕の体の奥底が、見た事の無い、感じた事の無い強い輝きで包まれて行く事を自覚した。読んだ本のどれが、どこの内容が、実際、現実に起こるのかは分からなかったし、もうそんな事は二度と起こらないのかもしれなかった。僕一人の夢想に過ぎないのかもしれなかった。けれど、僕は明らかに期待していた。あるのかも分からない可能性の為に、次々と本を手にしては読破して行った。今までに起きた不思議な出来事は全て小説の一部分だったので、小説ばかりを読み漁った。僕は、これまでで最高に本に溺れた。


 もしも、その結果。誰かが――北上やマナやコウタ、僕のように――信じ難い奇妙に巻き込まれる事になっても、もう僕は構わなかった。誰がどうなろうと知った事では無いとか、そういうわけでは無かったけれど。けれど。僕は夢の続きが見たかった。どうしても。何に代えても。


 自分自身の死で終わらせた小説を書き、それを読んだ事は、身勝手な僕を許す為の儀式、あるいは贖罪しょくざいだった。しかし本当に許されたかったのは、こうして夢を追い掛けて行く僕であり、罪悪にさいなまれる僕ではなかった。


 あの物語を書き終わっても、読み終わっても、その瞬間に僕は死ぬ事は無かった。そして、その時に込み上げた安堵と大きな喜び。僕には、僕自身よりも他の人の身を案じて潔く死を選べるほどの決断力は無く、かと言って、少しも気にする事無く周囲を巻き込み楽しめるほどの余裕も無かった。だから僕は自身の死で終わる物語を書き、読み、物語による死の可能性を僕の中に埋め込んだ。そして、残された時間は好きに生きる事を僕は僕に許した。それは唯一の妥協策だった。死を迎える日付を作中に書かなかったのは、周囲に対してそこまでは出来ないと思ったからだ。


 ――あの瞬間に死ぬ事にならなくて本当に良かったと思う。とりあえずだが、賭けは僕が勝ったのだ。


 しかし、僕が書いた物語が現実になるかなどという事は分からないし、物語のどの部分が反映されるのかも分からない。それらを知る術(すべ)も無い。だから、あの作品による僕の死の可能性なんて初めから無いのかもしれない。無い、とは言い切れないけれども、ある、とも言えない。結局僕は、僕が歪んだ希望にしがみ付いて生きる事実を容認したかっただけだ。僕のしている事を、しようとしている事を、明るく笑って肯定してくれる人なんていないだろうから。あの時の強く張り詰めた心に横穴を空けたかった、ただそれだけの、僕の為だけの行為だったのかもしれない。


「でも、登場人物が死ぬ小説なんて今までに沢山、読んで来たし」


 どの小説の、どの場面が現実になるのか分からないならば、僕が本の影響によって死ぬ可能性はそれこそ腐るほどあるだろう。


 とにかく、僕は僕を捨てられない。僕の夢は捨てられない。誰にも邪魔はさせない。命を今すぐ絶つ事以外で、僕は周りの人達に対して精一杯の事をした。これ以上は、譲れない。




 ある天気の良い日曜日。僕はレイと出掛けた。買いたい物があるんだと浮き足立つレイに対し、僕は買い物なんてしたくもなく、外出する用事も無かった。だから楽しそうなレイの態度も晴れ渡った秋空も、心底からどうでも良かった。用も無く気乗りもしないのに、誘われるままこうして出掛けたのは何か起きるかもしれないと思ったからで、他には何も無かった。そういう意味では、僕の心は弾んでいた。物語が、いつ、どこで現実世界に反映されるだろうかと僕は気を配って歩いた。隣で話すレイに適当に言葉を返しながら、僕の意識は常に自由に飛び回り、物語の断片を探していた。


「今日は良い天気だな」


「そうだね」


「俺さ、新しい靴を買おうと思って。安くても良いんだけど、ちょっとやそっとじゃ傷まない奴。で、歩きやすい物」


「そう」


「そう、って素っ気無い返事だな。ハルカは何か買わないのか?」


「特に、無いかな」


「そういえば、本は? ハルカって、良く読書している印象があるんだけど。俺は漫画ばかりだからハルカって偉いなーと思ってる」


「偉くなんかないよ。本か。少し見て行こうかな」


 答えながら、僕は湧き上がる高揚と、それによって生じそうになる笑いを抑え付ける事に必死だった。ああ、偉くなどないのだ。これっぽっちも。全ては僕の為だけにしている事なのだから。


「小説って面白い?」


「面白いよ。とても」


「そうか。どうも俺は漫画ばっかりだな。小説って、何て言うか字が多くて。ページを開いた途端、ぎっしりと字が流れているだろ? あれで読む気をなくすんだよな」


「……そういえば、僕の友人も似たような事を言ってたよ」


「やっぱり、思うよな。だからハルカは凄いなと思うわけでさ」


「凄くなんかないよ」


 そう、決して。


 午後になり、軽く昼食を取ろうと、僕達は小さなレストランに入った。十月初旬とは言え、まだ僅かに暑さの残る外に比べ、店の中は弱めに冷房が効いていて涼しかった。案内された窓側の席に座り、僕とレイは互いにメニューを手に取る。しばらくした後、レイは決まったのか、顔を上げた。


「俺は、ランチセットにするよ。ハルカは決まった?」


 それに答えようとした時、


「ハルカ?」


 と、隣から声がした。


 その次の瞬間、僕は体が恐ろしく冷えて行くのを感じた。顔を向けた、通路を挟んですぐ横の席に、コウタが座っていたのだ。僕を呼んだのはコウタだった。


「ハルカ」


 もう一度、コウタが僕を呼ぶ。ひどく驚いたように言うコウタの声が、とても遠く感じられた。コウタの向かいに座っていた男が、友達? と、コウタに尋ねた。ああ、と返事をして、コウタは再びこちらを向く。他の人達の話し声と、ほんの僅かなクラシックの音を他所よそに、僕らの周りの空間だけが急に切り取られたような感じがした。


「ハルカ、お前どうしてたんだよ。携帯は繋がらないし、家の電話にも出ないしさ。何かあったのか? それとも俺、気に障る事したか? それなら、はっきり言ってくれよ」


 コウタは一息ひといきにそう言い、僕の答えを待つかのように間を空ける。僕が黙っていると、更にコウタは言った。


「俺さ、お前に聞きたい事があるんだ。話したい事も。ハルカさ、いつも考え事をしているみたいで気になってたんだ。なあ、どうしたんだよ。何とか言えよ」


 勢い良く、コウタは話した。だが不思議と、コウタは僕を責めてはいない気がした。思い違いかもしれないけれど。どうしてだか、そう思った。けれど、何か言わなければと思って開いた僕の口から出て来た言葉は僕自身、意外なものだった。


「コウタ、元気だったんだ」


 自分の言ったその言葉と声の調子に、違和感を覚える。コウタもそれを感じたらしく、怪訝けげんそうな顔で僕を見た。流れた沈黙が怖くなり、再び僕は言葉を探す。


 すると、そんな僕を見透かしたように、


「別に無理に何かを話さなくたって良いよ。俺はハルカと世間話がしたいんじゃない」


 と、コウタは言い放った。


 そして立ち上がり、


「そこら辺、散歩しないか」


 と、真剣な顔で言った。断る理由は無かった。


 僕はレイに、コウタは友人に、それぞれ謝って僕達は店を出た。レイは少しがっかりしているようだったが、また誘うからな、その時は奢れよと、何処か楽しそうな口調で言った。


 レストランの扉の向こう側は、僅かに昼間の暑さを感じさせる外気が緩く波打っていた。けれど、それも慣れてしまえば何て事は無く、秋にしては少しだけ気温が高いかなという程度のものだった。


 僕達はどこへ向かうでも無く、ただ並んで無言で歩き続けた。二人分の靴音が重たく感じられる。十分くらいは歩いたのだろうか。やがて、ゆっくりとした口調でコウタが沈黙を破った。


「ハルカさ、何を悩んでる? 俺は何も出来ないのか?」


 一瞬、唐突に僕の世界が揺らいだ。


「ハルカの話を聞いて、もし具体的に俺が何も出来ないとしてもさ、俺は話を聞きたいよ。友達なら、そう思うのが自然だろ?」


 僕にとっての世界の輪郭が、じわじわとにじんだ水彩絵の具のようになって行くのを心の奥底で感じた。このままでは、駄目だ。だって僕は決めたのだから。本に、小説に埋没して生きて行く事を選んだのだから。あの夢を追い続けて行く道を選び取ったのだから。たとえ他の誰が犠牲になろうと、他の何が踏み付けられようと、僕は僕の夢を捨てられない。諦められない。それで良いんだと思った時点で、僕はコウタの友達なんかではない。友達は、あの時にいなくなったんだ。


「――高校の時さ、俺はハルカと話すのが楽しかった。ハルカはどうだった?」


 それは思ってもいなかった話題で、僕は、


「え?」


 と、反射的に聞き返し、コウタを見た。


 だが、目が合う事はなかった。コウタは、ずっと前を見たまま歩き、話し続ける。


「クラスの中で、ハルカは何だか目を引いたんだ。別にハルカが変わっているとか、そういう事じゃないんだ。ただ何て言うか、雰囲気がさ。ハルカが良く読書をしていたからなのかな……。うまく言えないんだけど。どういう奴なのか気になっててさ、それで実際話してみたら面白くて、良い奴だと思った。言い合いも多かったけどさ。俺は、長く付き合って行きたいと思った。でも」


 コウタは、そこで言葉を切る。何かを考えているように見えた。沈黙を守り、歩きながら、僕はコウタの言葉を待った。そうして続けられたコウタのそれは、とても意外なものだった。


「でも、ハルカにとって俺は、高校の時にお前が嫌気の差していた連中と変わらないのかな。どうでも良い、うるさい奴らの中の一人に過ぎないのかな。どうなんだ?」


 心臓が止まる思いがした。瞬間、僕は本当の事を言おうかどうか葛藤した。けれども、何をどう伝えれば良いのだろう。コウタとはずっと友達として付き合って来た、でも今の僕にはそんな資格は無いんだ。そう告げた所でコウタを混乱させるだけだろう。何か適当に話を繋げなくては……。


 そう思って改めてコウタの横顔を見ると、その表情は真剣そのものだった。その時、心が良く分からない音を立てて、僕そのものに問い掛けた気がする。こんなにも真剣に気持ちをぶつけてくれたコウタに、適当な事を言って誤魔化して良いのだろうか。それは、あまりにも失礼なのではないだろうか。しかし、そう思うものの、それを言うならばコウタまでをも巻き込もうとしている僕の姿勢と願望こそが、失礼どころか最低だと思った。


 高校生の時、クラスメイトを含む、僕の周囲にいた大勢の人間は僕にとって確かに妨(さまた)げでしかなかった。だが、そんな事、僕は今まで誰にも言った事はない。勿論、コウタにも。けれど、コウタはあの頃の僕の気持ちに気が付いていたんだ。それは、コウタが僕を本当に友達として見ていてくれていたからではないだろうか。だから今、尋ねているのではないだろうか。


 そう思うと僕は、言わずにはいられなかった。


「一度だってコウタを嫌な奴だなんて思った事はない」


 何かに急かされるように、僕はコウタに言った。すると、レストランを出てから初めてコウタが僕を見た。そして笑った。それは最上の笑顔だった。




 ――思えば、僕は意地になっていたのかもしれない。でなければ、きっと狂っていたんだ。

 あんなにも強くあの夢に執着し、その僕自身を正当化するかのように固執した。まるで自己弁護のように何度も自分の考えを確かめた。一歩引いて遠くを見るように目を細めれば、あの時の僕の愚かさがこんなにもはっきりと見える。いっそ哀れなくらいに。


 音楽が大好きなコウタと、本が大好きな僕。一生、音楽に携わろうと、それを生きて行く為の手段として確立させようと、絶え間ない努力をしていたコウタ。けれど、一生、本に携わりたかった僕に努力は必要なかった。本が好きだから読む。それで終わりだ。本を読むという行為は、僕にとってはごく自然で当たり前の事だったから、それはまるで呼吸のようだった。そう、呼吸というたとえが一番ぴったりと来る。それなしでは生きていられないほどのものを、本は僕に与えた。


 しかし、そこに向上心は無い。どんなに大切で代えが利かなくても、それが無いと存在して行けないとしても、それは、その為だけにある。持っている以上の力を発揮する事は無いのだ。


 僕はコウタのようにはなれない。なれなかった。心から作家になりたいと思えなかったのは、本を愛するだけの僕と作家という職業が、どうしても結び付かなかったからだ。数え切れない程の物語を生み、収入を得て、そしてその収入で食べて行く、生活して行く、衣食住を満たして行く。それは僕には似合わない。たとえそれで他の何が満たされても、生涯、心が満ちる事は無いだろう。現実の未来を目指して走るコウタの背中を見送りたくないばかりに、僕は焦り、意地になり、作家になりたいという束の間の偽りの目的さえ見付けた。そんな気がする。


 狂気の夢を止めてくれたコウタ。僕の大切な友達。友人、家族、知人、出会った事のある人達、出会った事の無い人達。全ての人を僕は踏み付けて生きて行く所だった。それを止めてくれたコウタ。あの夢をひどく大切に抱えて、かけがえのない友達でさえも巻き込もうとする心があった事実は消えないけれども、コウタと友達に戻れたあの日、ほんの少しだけ僕は何かに許されたような気がした。


 読書は僕にとって呼吸のようなもの。本は酸素のようなもの。それらを失う事があるのなら、どんな事をしてでも取り戻したいと思っていた。けれどもやっと、本当にやっと、僕は心を決められた。これは自己犠牲でも偽善でもない。誰の為でもない、僕の為に、僕は心を決めた。


 コウタと再会したあの日、今度こそ揺るぎのない僕が生まれた。それは、まるで長い眠りからようやく覚めたような心地だった。僕は、本物の光をこの目で見た。


 その日、僕はコウタに全てを話した。信じられないかもしれないし、信じなくても良いけれど、と前置きをして。北上とマナと僕と、そしてコウタを巻き込んだ出来事を。その時の僕の、驚きを。そして、やがて生まれた…………喜びを。話しながら僕は、その時その時の記憶が鮮やかに蘇って行く事を感じ、苦しくなった。コウタは時々返事をする以外は、ただ黙って僕の話を聞いていた。


 そして最後に僕は、一番言いにくい事を言った。


「――それで思ったんだ。こんなに不思議な事が起こるのなら、僕はそれを見て行きたいって。そのせいで誰が巻き込まれる事になっても…………それでも僕は、僕の夢を捨てられないって」


 するとコウタは納得したように、ああ、それでか、と言った。その声は何故か明るく、僕は少し戸惑いながら、何が? と尋ねた。


「さっき俺にさ、元気だったんだ、って言っただろ。俺が元気なのが不自然だ、みたいな言い方だったから。俺に何かが起こるような、そういう本を読んだとか? 前に言っていた、人の多い所へ行くなっていうのも、それの予兆とか何かだろ。あの骨折がハルカの読んだ小説の通りなら……あれは、その後の俺に更に何かが起こるきざしだったとか」


 言われて僕は気付いた。コウタが「無題」の登場人物のように死ぬ事を、少なからず期待していた僕。「元気だったんだ」というあの言葉は愚かしい僕の浅ましい願いが外れた、その落胆から来たものだ。今更ながら僕は自分を恥じた。加えて、コウタの聡明さに驚き、僕は何も言えなかった。


 そんな心の内を知ってか知らずか、


「当たり?」


 と、コウタはまるで、謎々でもしているかのような軽い口調で言った。


「あ、ああ」


 その様子に少し面食らいながら、僕は答えた。するとコウタは、いつもの笑顔で僕を見る。瞬間、ああ、これだと思った。コウタが笑うと、僕まで嬉しくなるような、気持ちが軽くなるような、そういう感覚になる。今までに僕は何度もこの笑顔に引っ張られて来た。こんなに良い友達がいたのに、僕は一体何処を、何を見ていたのだろう。


 奇妙な出来事への解決策は生まれていないのに、僕は心がゆっくりと晴れて行くのを感じていた。




 あの日の別れ際、コウタは僕に言った。


「本の通りの事が起きたら面白いのにって、たぶんハルカは無意識に思ったんじゃないかな。今までにも考えた事なのかもしれない。だからまず、その願望を捨ててみるっていうのはどうかな。そうしたら、もしかするとだけど、普通の日常に戻るかもしれない。確かな事は何も言えないけどさ。こういう分析みたいなのはハルカの方が得意だろ? ハルカも考えてみてほしい。どうしてこうなったか。それが大事な所だと思うんだ、俺は」


 僕は自室の机の前に座り、コウタの言葉を思い返しながら考えていた。どうしてこうなったか。その答えは、コウタの言った通りのような気がした。小説が現実になれば。そう、僕が望んだから。たとえそれが非現実的な答えだとしても、現実に事は起きているのだ。その原因として今、思い浮かぶ事はそれしかなかった。


 ただ、ここに来て僕は一つの疑問が浮かんだ。非現実的現実の後半、誰を巻き込んでも良いから小説が日常に反映されれば良いと僕は思った。それは紛(まぎ)れも無い事実だ。だから多くの小説を次々と読んで行った。けれども、誰を巻き込んでも良いと初めから・・・・僕が思っていたとしたら。本の通りになったらという望みが無意識下にあったとして、そこには、本の内容が現実になるのなら誰がどんな被害を受ける事になっても構わないという意識も、同時に存在していたとしたら。そうしたら。


「北上とマナを殺したのは、僕?」


 そんなのは嘘だ、と強く思った。嘘だと思いたかった。実際、真実は分からない。けれど、一度でも誰を巻き込んでも良いと考え、あのコウタに対してでさえ小説の通りに死ぬ事を望んだ僕には、皮肉にも似合いの真実のような気がした。


 誰を巻き込んでも、の「誰」の中には、僕を含めた全ての人が当て嵌まる。親しい人、親しくない人、出会った事のある人、出会った事の無い人、北上、マナ、コウタ、全ての人達が当て嵌まる。当たり前のように。そんな、考えなくとも恐ろしいと分かる事を僕は本気で願っていた。夢という言葉で誤魔化し、あるいは本当に夢であったとしても、「誰を巻き込んでも良い」夢など、ただの狂った妄想だ。それを生んだ僕は狂っている人間なのだろうか。


 そこまで考えた今、唐突に気が付いた事が二つある。


 一つ。僕は何故、マナと文通をしている間、一度もマナにメールもせず、電話もしなかったのか? 確かに、しばらく連絡は取っていなかった。元々、頻繁にメールのやり取りなどをしていなかった。筋は通る。だが、僕はそこに言い様の無い、強い猜疑心(さいぎしん)を自分自身に覚えていた。最後の手紙、さよならの言葉。あれを目にして初めて、僕はマナに電話を掛けた。それも決して、おかしくはないだろう。今までとは明らかに違う手紙、別れの言葉。違和感を覚えない方がおかしい。よって、今までと違う行動を取った僕はおかしくなどない。しかし、これらがまるで取って付けた言い訳のように感じてしまうのだ。


 一つ。僕は何故あの日、「無題」を読んでいる途中で本来の目的を忘れたのか? 僕が「無題」を読み返した理由、それはコウタを助ける為だ。あの物語の終わりがコウタに繋がらないよう、コウタを助ける手掛かりを物語の中から探し出す為。大切な事だ。忘れて良い訳はなく、また、忘れるような事とは到底、思えない。後日には思い出し、再度「無題」を読み返したけれど、どうして一度目のあの時、目的が消え失せたのだろうか。本の内容に夢中になったから? 否定は出来ないけれど、肯定も出来ない。そして、その翌日、北上の日記を受け取りにコウタが訪れた時。僕は日記を持って来るのを忘れて、一度、自室に戻っている。その際、「無題」を目にしている。そこで、僕は何か形容し難い引っ掛かりを感じたはずだ。どうして、そこで目的を思い出せない? 玄関先でコウタが僕を待っていた。だから、早くしなければと焦っていた事は覚えている。けれども、それで説明が付くだろうか。「無題」を読み返した本来の目的を忘れた事を、形容し難い引っ掛かりを感じても、その正体が分からなかった事を?


 不意に、突き刺さるような強い頭痛がした。部屋に響く時計の秒針の音がいやに耳に付く。その日、夕食も食べずに僕は眠った。




 この日、この時までは、僕はまだ甘い希望にすがっていた。北上とマナが僕のせいで死んだのだとしたら、それは許されるはずのない、取り返しの付かない事だ。そして、あんな夢を生み出した僕は狂っているのかもしれないと思った。


 それでも僕は何かを諦めていなかった。漠然と、たとえるなら朝日のようなものを期待していたのかもしれない。それはあの日、コウタに会い、全てを打ち明けた事で生まれた。僕が思って来た事、して来た事の恐ろしさ、罪深さを僕自身が痛感してなお、コウタの与えてくれた光は残光となって僕の行く道を照らした。


 コウタが僕の話を真剣に聞いてくれて信じてくれたあの時、僕は本当に嬉しかった。コウタ自身に光のようなものを感じるほどに。それは決して大袈裟なんかではない。


 嬉しさが強すぎて、ありがとうと伝えられなかった。それが、ただ一つの心残り。

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