第六章【決意】

 ――新しい月、八月が訪れた。


 太陽は、ここぞとばかりに輝き、青い空はその色を誇示するかのように冴え渡る。加えて、濃い緑の葉を枝に付けた木々が蒸し暑い微風に揺られていて、そのどれもが本格的な夏という季節の到来を教えていた。例年より過ごしやすくなる、という予報は見事に外れ、一歩、外に出れば濃厚な熱気がたちまちに僕を押し包んだ。


 その夏特有の気怠けだるい空気の中を駅まで歩き、僕はコウタに借りたCDを返す為に電車に乗った。車内の冷房は心地好く、すっと汗が引いて行く。揺れる電車のリズムが、まるで僕の脳味噌をも緩やかに揺さぶるような気がした。


 いつものように、十五分程で電車は目的地に辿り着く。そして、降車駅に立った、その時。僕の頭の中を一つの記憶が瞬時にして駆け抜け、それは僕の足をホームに、心を記憶の中に縫い留めた。今、見えている喧騒に包まれた駅の様子とは全く違う、正反対の、あの誰もいなかった駅の風景が蘇る。あの時の駅は「無題」にえがかれた様子と同じ。そして、音も無く発車していた電車も。


 あれから僕は「無題」を何度も読み返した。これから起こるかもしれない事を防ぐ為に。その決意を思い出し、いつしか俯き加減になっていた顔を上げて、僕は改札の方へと歩き出した。


「おーい、ハルカ」


 改札機のすぐ向こう側にコウタがいた。僕が改札を抜けると、三回ぐらい呼んだぞ、とコウタが言った。


「ごめん、気付かなかった。これ、借りていたCD。ありがとう」


「ああ、どうだった? 俺はさ、特に良かったのが四曲あってさ」


「コウタ」


 僕はコウタの言葉を遮るようにして言った。少しだけ驚いた風なコウタが、どうかしたのか、と言いたげに僕を見た。


「最近、何か変わった事は無かった? たとえば、困った事とか、おかしな事とか。今までと違うような事が」


「いや、特に無いけど。ああ、最近いきなり暑くなって困るよな。まさに夏って感じでさ」


「…………うん」


 僕達は少しの間、互いに押し黙ったまま、そこにいた。人のざわめきと悲鳴のような蝉の声、アスファルトの道をく太陽、生じる熱気。そういう何もかもを打ち払って、僕はコウタに伝えたかった。けれど僕は一体、何を伝えようとしているのだろう? 何を、どう言えば良いのだろうか。差し続ける太陽の光が生み出す熱気のようにじらじらとした気持ちだけが、僕の中を行ったり来たりし続けていた。


 そんな中、先に沈黙を破ったのはコウタだった。


「あのさ。前から思ってたんだけどさ。ハルカの考えている事を全部理解する事は出来ないと思うんだよ。少なくとも俺は。でも、全然分からない事は無いと思う。何て言えば良いのか、うまい言葉が浮かばないんだけどさ。お前の気持ちが分かるよ、っていう事を平気な顔で簡単に言う奴は、俺は嫌いだし」


 コウタはそこまで一息ひといきに言うと、がりがりと頭を掻いた。


「何が言いたいかっていうとだ。もっと周りの奴を頼っても良いんじゃないかって事だ。本当の意味で理解する事は出来なくても、相手の考えを知る事で自分の出来る事が見付かって、そうして別の角度や突破口を相手と自分で探して行けるかもしれないじゃないか」


 コウタは朗らかに笑った。それは、この真夏の遠く高い青空のようで、僕の悩んでいる事があたかもちっぽけで解決策など無数にあるのだと、そんな幸せな勘違いをもたらしてくれそうな、てらいのない笑顔だった。そして、言葉だった。


「コウタ……」


 力強いコウタの言葉は本当に嬉しかった。それは言葉を失うほどに。しかし、コウタに話してみても何も解決しないだろう事は、僕は心の何処かで分かっていた。だから相談では無く、僕はコウタに忠告をした。それしか僕に出来る事は無かった。


 それに、解決策なら僕はとっくに見付けていた。二つ。けれども僕は、未だどちらも実行出来ずにいた。実行出来た事と言えば、「人や車の多い場所には行かない方が良い」という曖昧な助言を友人にしただけだった。




 八月の終わり、必死な蝉の叫びは窓を閉めていても部屋の中まで届いて来る。


 僕はただ、ぼんやりと机に向かっていた。窓から見える空の色は、もうすぐ夕刻を迎えようかという所だった。太陽が去る時間帯とはいえ暑そうだなと、冷房の効いた部屋の中から僕は思った。その時、携帯電話の着信音が蝉の声を破って鳴り渡る。コウタからだった。


「あ、ハルカ?」


 コウタの声は、いつになく元気が無いような気がした。


「あのさ、ちょっと気になる事があって。ハルカに聞いてみたくて、それで電話したんだ」


 何となく歯切れも悪かった。そして僕が先を促すと、コウタは黙ってしまった。少しして、小さく息を吸い込む音がする。


「実は昨日、右腕を骨折してさ」


 その声の調子は、無理をして明るく振る舞おうとしているように聞こえた。


「階段で転んで、そんな重症ってわけじゃないんだけど。何でか、この前にハルカが言っていた事が気になってさ。人の多い所に行くなって。転んだのがライブ会場の出入口でさ、人の流れに押されて、それで転んで」


「やっぱり」


 僕は無意識にそう言った。少なくとも、無意識と感じた。


「やっぱり? それ、どういう事だ?」


 僕は、はっと我に返る。コウタの言葉が冷水のように思えた。


「ハルカ、やっぱりって?」


 不思議そうなコウタの声。言葉が見付からない。知らず、携帯電話を持つ手に力が入った。冷房の効いている室内にも関わらず、その手の内側にはいつしかじっとりと汗を掻いている。


「ハルカ?」


 なおも僕を呼ぶコウタに、


「ごめん」


 そう一言だけ告げて、僕は電話を切った。そして、そのまま電源も切る。僕の脳裏に、ある一文が鮮明に浮かんだ。まるでその瞬間、誰かが僕に語り掛けでもしたかのように。


『――そして彼は右腕を失い、命のように愛してやまないヴァイオリンに別れを告げたのだった。』


 それは、「無題」の一部。あの小説に書かれた一文。確かめずとも分かるのは、ここ数日の間に何度も何度も読み返したからだ。


 ――無人の駅に降り立つ男。振り返れば、いつの間に発車したのか、姿を消していた電車。その男の友人は、小さい頃からずっとヴァイオリンを習い、数々のコンクールにて多くの入賞を果たしている。しかし交通事故によって友人は利き腕を失い、ヴァイオリンを続けて行く事を断念せざるを得なくなる。


 ひどく、似ていた。僕とコウタの現状に。僕がコウタの家に行った時の駅の様子、電車の事。コウタがピアノを習っているという事。僕とコウタが友人関係にある事。そう気が付いた時から、繰り返し「無題」を読んだ。誰に妄想と言われようと構わない、この本の通りに、あるいは似たような事が現実にならないように、何か対策を考える為に。祈るように。


 その「無題」の登場人物でありヴァイオリンを習っていた彼は、人通りと車通りの多い大きな十字路で自動車の衝突事故に巻き込まれ、そして右腕を失った。だから僕はコウタに、「人や車の多い場所には……」と忠告をした。けれど。


 ふと机の上を照らす光に気が付き、顔を上げた。差し込む橙色のその光は、今、まさに沈もうとしている太陽の放つ光だった。それは紅茶の色に似ていた。




 大切な友人、コウタ。高校一年生の時に知り合った。コウタは、とても音楽が好きだった。後で聴かせてもらったピアノは、忘れる事が出来ないほど素晴らしい演奏で、ピアノの事など良く分からない僕の心にも、確かに強い感動を届けた。


 コウタとは、些細な事から言い合いになる事も多かった。それこそ、体育祭や文化祭の意義、帰りのホームルーム前に行う小テストの意味、購買で希望のパンが間違い無く買える最終の機会はいつか、そんな事までも。つまり、些細な事を話す事がひどく楽しかったのだ。高校在学中に最も良く話し、最も良く遊んだ友人だった。高校生活という時間が色を持って今も僕の胸に残るのは、コウタがいてくれたからだろう。


 そのコウタにしてやれた事は、あんな助言一つきりだったのだろうか。もっと、もっと他に何か具体的に言える事は無かったのだろうか。何も解決しないなんて思わず、事の始まりを一つずつ話していれば良かったのだろうか。


 ――僕のせいで、コウタは怪我をしたのではないだろうか。


 幸い、コウタの骨折は全治三週間で、後遺症も残らない事が分かった。携帯電話の電源を入れた時に受信されたコウタからのメールに、そう書かれていた。他に話したい事も聞きたい事もある、とも。


 けれど、僕はもうコウタと話をする事は無い。会う事も無い。僕は決めた。やっと、決められた。コウタの骨が完全に治る頃、僕はようやく僕になれるだろう。




 ――長い夏休みが終わった。


 すべき事が分かった今、大学になど行く事は時間の浪費に過ぎないと思ったものの、余計な波風を立てたくなかったので僕は普段通り大学へ通う事にした。朝は講義に間に合うギリギリの時間まで家にいて、その日の講義が終わればすぐに帰宅した。休日は家に籠もった。何にも増して、僕には優先しなければならない事があった。その結果が思った通りになるという確信も自信も無かったけれど、少なくとも試す価値はある。そう思い、僕は行動に移した。出来る限りの速度で。


 コウタは、何かおかしいと思ったに違いない。だから、骨折した時の状況と僕のした忠告について、電話をして来たのだろう。更に、あの時に僕が言った「やっぱり」という言葉で不信感をいだいたかもしれない。まるでコウタが怪我をする事を知っていたかのように思われたかもしれない。気味が悪い奴だと思われたかもしれない。けれど、事の始まりや、僕の仮説などの考えをコウタに伝えた所でおそらくは何も変わらない。それに、時間が無い。


 もし、もしも本当に僕のせいで、僕があの本を読んだせいで、コウタが怪我をしたのであれば。僕は急がなければならない。「無題」は、主人公の友人の死で物語が終わるのだから。


 僕は、自分の前に積まれたルーズリーフのたばを静かに見つめた。その一枚一枚の裏表には、びっしりと文章が――物語が書き込まれている。決意をしてから今日に至るまでの、僕の行動の結果だった。もしかしたら僕の考えていたよりも多くあったかもしれない選択肢、その中の一つ、その断片。けれど、断片は近い内に必ずその全貌を見せる。その結末がどうなるのかは分からないけれど、僕にはこれが最良の手段に思えた。あるいは、そう思いたかっただけなのかもしれない。


「蜜と蜂と巣」の主人公と同じような状況にあった北上。高校の時のクラスメイト。彼は、あの主人公と同じような状況下で、同じような日記を残し、同じように自殺してしまった。


 中学校三年間を通してクラスメイトだったマナ。自分が死んだ後、僕へと宛てた手紙をまるで自分と僕が文通をしているかのように投函してほしいと、母親に頼んでいた事。マナのおかげで、少しずつ僕は変わって行けた事。そして僕は、マナの手紙が全て僕に届いてから、マナが死んでいた事を知った。これは、僕が以前に読んだ小説に酷似している。その小説のタイトルは未だ思い出せずにいた。


 そして、「無題」。その主人公の友人の状況は、今、まさに僕の友人であるコウタの状況だった。音楽大学に通い、楽器を習い、音楽を愛しているという事。交通事故に遭った事。「無題」の主人公は交通事故によって利き腕を失うが、コウタの怪我は完治する事が分かった。その一点が、少しだけ僕の心を救った。利き腕を失い、絶望し、死を選んだ登場人物のようにはコウタはならないだろう。

 北上とマナ。死を前にしての二人の状況、行動は、ほとんどがそれぞれの小説内容と同じだった。けれども、コウタは違った。だからコウタは死なない。そう思った。しかし、そこに根拠などといったものは無く、あるものと言えば勘のような、ただそれだけのものに過ぎなかった。それでも信じるしか無かった。


 各々おのおのの本の内容は、思い返せば思い返すほど現実と相似そうじしていた。本来なら、そう考える事が普通なのかもしれない。しかし、僕にはどうしてもそれだけだとは思えなかった。小説の内容に似た事が現実に起きた。それに加えて――あるいはそれを超える容量で――まるで故意に、小説が現実の話になったように思えて仕方無かったのだ。


 そして、その夜。僕は不安の正体を悟った。




 現実が小説に似たのか。小説が現実に似たのか。小説が現実に反映されたのか。最も非現実的と思われる第三の考えを、僕は完全に否定する事が出来なかった。偶然。必然?


 そんな事を考えながら眠ろうとしていたその時、僕はふと恐ろしい事を思った。何故、故意に小説が事実になったように思えたのか。それは、僕がそう思いたいから・・・・・・・・ではないのかと。決して北上やマナやコウタに死んでほしいと思ったわけでも思っているわけでも無い。そんな事は断じて無い。けれど――。




 僕は、本が好きだ。小説も漫画も多く読む。読書は、僕を限り無く広い世界へと導いてくれる。出来るだけ多くの本を読む事が、僕の生涯の目標だった。けれども、だんだんと、普通に本を読んでいるだけでは僕は満足出来なくなって行った。そのせいだろう、一時期は作家になりたいなんて思ったりもした。作家になる事が僕の将来の夢なんだと、心から信じた時もあった。


 でも、それは違う。僕はただ、本に埋もれるようにして暮らしたかっただけなんだ。本から得た世界観や価値観などを地に敷いて、他の誰も来る事の出来ない感覚の中で、他の誰も知り得ない世界を感じて生きて行きたかった。その奇妙の真ん中に、僕一人だけで立ってみたかった。その世界から今までの世界を覗いてみたかった――まるで、今のように。そう、たとえば物語が現実のものとなるような、そういう付き合い方を書物としてみたかったんだ。それは途方も無い夢物語だったけれど。


 僕は、強く固く目を閉じた。気付いてしまった。もう駄目だと思った。何を利用しても何を犠牲にしても、友人を最悪の形で巻き込んでも、それでも、見たい世界がある。この気持ちに気が付きたくなくて、きっと僕は知らず蓋をして来たに違いなかった。けれど、もう、それは出来ない。




 起き上がり、部屋の明かりを点けた。照らされた壁時計は午前三時を指している。静かに机の上に積んだままのルーズリーフの束を手に取ると、自然と自嘲的な笑いが小さく洩れた。僕は、もう一つ重要な事に気が付いていた。それは、コウタの事だ。


 僕は初め、何と思っていたのだろう? 「無題」は主人公の友人の死で物語が終わる、だから急がなくてはならない、そう思っていたはずだ。けれども、さっきの僕の思考は、コウタは死なないだろうという予感で満ちていた。この違いは何だというのだろう。現実と「無題」が違って来ている事を、僕はあの時に知ったはずだ。コウタからの「骨折は三週間で治る」というメールを読んだ時に。それでもなお、僕はコウタの身を案じ、急がなくてはと思った。その気持ちに嘘は無かった。


 それなのに、どうして今になって僕は、コウタは死なないだろうという甘い考えに浸っているのだろう? 答えは一つだ。「無題」の結末のように、コウタに死んでほしいと僕が本当は思っているからだ。厳密に言えば、「無題」の通りになってほしいだけであってコウタの死を直接望んでいるわけではないのだろうけれど、結局は同じ事だ。


 そして僕は、コウタは死なないと表面上は思う事によって、この手の中にある物語の完成を急ぐ、その理由を無きものとしたのだろう。この物語を書き上げずにいれば、僕はまた一つ、小説の通りに流れて行く現実世界をこの目で見る事が出来るかもしれないから。コウタが死ぬ事を知る事が出来るかもしれないから。「無題」のように。つまり、「無題」通りのラストシーンを心の底では望んでいるという事。やはり、結論はそこに辿り着く。


 ――そこまで考えて、僕は自分に吐き気がした。けれども顔に浮かんだ自嘲の笑いは消える事が無かった。それは、もう僕に退路が無い事を示していた。




 無我夢中とは、こういう事を言うのだろう。とにかく必死に僕は書いた。それ以外の時は、その物語の続きを考えた。時間が何よりも惜しく、食事や眠りを求める体すらうとましいくらいだった。何枚も何十枚も、ルーズリーフを文字で埋め尽くした。生まれた文章が上手いかどうかは知らない。話にまとまりがあるかどうかも分からない。それでも僕は書き続けた。この物語を完成させる、それだけを強く心に思っていた。


 本当は物語を完成させたくないという矛盾した心を、この時だけは殺した振りをして。




 ――それは、九月が終わりを見せる頃、ようやく完成した。余りに長く遠い月日が流れたような気がした。


 部屋の窓からの景色は、主張の強い緑の葉を付けた木々から、控え目な紅(くれない)や茶色の葉を付けて秋に染まり出した木々に変わり、あの暑い夏の面影は追い遣られるように消えようとしていた。あれほどにうるさく感じた蝉の声は全て死に絶えたように聞こえて来なくなり、その静けさは、まるで何か得体の知れないものが音も無く忍び寄ろうとしているような、そんな気配さえを僕に与えた。


 あながち、その感覚は間違いでは無いだろうと思いながら、僕は窓の外から机の上へと目を移す。積み上げられたルーズリーフには、世界に一つきりの、まだ誰の目にも触れていない物語が書かれている。机に向かって座り、ルーズリーフの束を手に取ると意外にも重く、僕は体に少なからず緊張が走るのが分かった。一応タイトルまで付けたこの物語は、ここ数ヵ月の間に僕と僕の周囲に起こった奇妙な一連の出来事で構成されている。


 ――コウタの骨折を知った、あの日。僕は死のうと思った。たとえ僕が死んだ所で何も変わらないにしても、もうこれ以上、こんな現実は見たくないと思った。だから、死んでしまおうと。今、思えば短絡的かもしれないが、そう思った時、僕の薄暗い脳の中に光が差したような気がした。あれは僕に残された少しの良心と意思、最後のまともな思考だったのかもしれない。結局、僕は生きてここにいる。現実的な死の方法を考える事もやめて、こんな非現実的な方法で死のうと本気で考えている。厳密に言えば、死を組み込もうとしている。


 僕は、改めてルーズリーフの束を見て、それを持ち直し、揃えて机に置いた。そして頂上の一枚目を手にし、裏返した。始まる、物語。一字一字を目に焼き付けるように、一文一文を脳味噌の奥まで刻み付けるように、話の全てを心に埋め込むように、僕は慎重に物語を読み進めた。一番最後の句点を目にした時に死ぬのかもしれないと、そんな夢のような淡い期待と、それとは相反あいはんする希望を抱きながら。


 そして、三時間程を掛けて、僕は自分の書いた物語を読み終えた。僕は死ななかった。当たり前と言えばその通りの事実に、僕は些か拍子抜けしながらも、心の奥では薄く笑う感情を自覚した。


 コウタに死んでほしくない、他の誰にも死んでほしくない、そして、こんな現実はもう見たくない。それらは、あの時・・・までは本当の気持ちだった。けれども心情が変化するまでに、さして時間は掛からなかった。自分以外の誰かの未来を案じて死を簡単に受け入れられるほど、僕は善人でもなければお人好しでもない。そして、これからもしかしたら小説の通りになって行くかもしれない現実、それを僕はこの目で見たい。どうしても!


 これが、今の僕の真実。偽る事など出来るものでは無かった。だから僕がこの物語を書き、読んだ事は、僕が僕を許す為の儀式のようなものだった。それによって僕の生死がどうなるかは、一種の賭けだった。それで死ぬならそれでも良い、でも本当は生きていたい。こんな矛盾した心を僕は抱えていた。


 これまで、僕や僕の周りの人に影響を与えたであろう三冊の本は、全て僕が読んだ事のあるものであり、僕が感動したり共感を覚えたりした、心を動かされた本だった。そして、ここ最近の一連の出来事はひどく大きく僕を揺さぶった。こんな話の書かれた本があったら僕は飛び付いて読むだろうと、そう思った。だから僕は僕の読みたい物語、心を動かされる物語を、一連の現実を主軸として書き綴った。勿論、話のラストを主人公の男――つまり、僕――の死で締めくくって。


 それを読む事で、たとえどんなに非現実的であろうと、僕は僕の仮定の上で、死にのぞんだのだ。結果、僕は今、生きている。軽い笑いが声になって洩れた。


 夕暮れを迎えた外の空気が静かに部屋の窓から流れ込んで来る。外は夕方、紅茶色の光。その柔らかく温かな光は、僕の歪んだ夢をも美しく照らした。

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