第五章【日記】
――確かめたい事があるんだ。
そう、僕はコウタに告げた。
七月の上旬、家の庭には美しい
「高校の時のクラスメイト、北上大地の日記を借りて来てくれないか」
「北上の日記? どうして?」
北上の事を単なるクラスメイトとしてしか認識していなかった僕よりも、仲の良かったコウタの方が北上の家族に話を付けやすいのではないかと思ったから。だから僕は、コウタに頼んでみる事にした。けれど、それは僕の勝手な言い分で、あたかもコウタを利用するかのような自分の考えと行為に強い嫌悪も感じていた。加えて、僕は本当は怖かったのかもしれない。自ら北上の家へと行く事を。
しかし、僕はどうしてもこの目で確かめたかった。北上の日記の最後に書かれていたという、あの時に担任教師が読み上げた言葉を。本当に、僕の読んだ本の内容と同じものなのかどうかを。そう僕が伝えると、それ以上コウタは何も聞かず、落ち着いた声で、分かった、と言ってくれた。日記を借りる事が出来たらハルカの家に持って行く、とも。僕は、お礼を言って電話を切った。
再び窓の外に視線を向けると、先程と同じ様子で雨は降り続けていた。どこか
雨は翌日になっても変わらず、粛々と降り続けた。
コウタに電話をした次の日の夕方、家のインターホンが鳴った。北上の日記を持って、雨の降る中、コウタは来てくれたのだ。日記はビニールで包まれている。
「ありがとう」
そう言って日記を受け取ると、コウタはひどく神妙な面持ちで僕を見ていた。何か言いたそうだった。コウタは僅かに口を開いて、しかし、すぐにそれを閉じた。そして改めて口を開く。
「何かあったら言えよな。話すだけでも気が軽くなる事ってあるだろ」
その口調も表情も
「ああ。ありがとう」
僕が答えたのを確認したかのように、コウタは笑顔で一つ頷いた。そして、それじゃあな、と言って傘を広げると、くるりと背を向けて帰って行った。どんよりと重い、灰をまぶしたような空の下、無言で落ち行く雨の下、コウタの真っ青な傘の色が目に焼き付くほどに印象的だった。
部屋に戻った僕は、さっそく北上大地の日記を読んだ。それは日記帳では無く、普通の大学ノートに書かれている。文章は必ず一行空けて綴られ、心なし小さめの文字が丁寧に並べられていた。
初めの数十ページ程は特に気になる事は無く、つまり、僕の読んだあの本の内容との類似点は見付からずに過ぎた。やがてノートの半分ぐらいに差し掛かった時、一ページ丸々、白紙となっている所があった。そして、そのページを捲ると例のページに辿り着いた。やはり、あの時に担任教師が読み上げた言葉が記されている。
『ああ、やっと蜂の巣を捨てられる』
しかし、驚くべき事はそれだけでは無かった。この日の日記の内容自体、全ての文章が、あの本の内容とそっくりではないか!
『ボクはいつだって正しかった。間違っているとは言えないけれど、これで本当に良いのだろうか。ボクには分からない。でもそんな事はどうでも良い。そろそろ良いだろう? 違う場所へ。やっぱりボクが正解者だったんだ。でも、もう一度だけ考えた方が良いのではないだろうか。良いんだ。もうこれで。ああ、やっと蜂の巣を捨てられる…………』
この日を最後に、日記は終わっていた。日記を読み終わった僕の頭の中に、あの日の声が蘇る。
『おかしいと思ったのは、この、最後のページです』
『……こういう形で書かれているのは、このページだけですか?』
そして、知らず僕の両目は宙を泳ぎ、本棚に収められた一冊の本を捉えた。「蜜と蜂と巣」と題された、あの本を。その瞬間、急速に僕の中を駆け抜けて行くものがあった。
ああ穴だらけだ それなのにだあれも気がつかない わかっているのは私だけ? それともこの両目がイカレテル? ああでもやはり穴だらけだ あんなにうすい皮いちまいで かくしているつもりなのか おもてもうらも穴だらけ みんな みんな みんな みいんな穴だらけ
ぶわ、と汗が吹き出たような気がした。浮かんだそれは、「蜜と蜂と巣」に出て来た詩だった。僕は自分の心臓の音をはっきりと感じながら、もう一度日記の最後のページを読み、考えた。冷静になろうと努力した。
どうして、あの本と同じような事が北上に起きたのか。北上の状態、日記の終わり方、自殺。本になぞらえて、という事も考えられなくは無い。考えられなくは無いが、それは北上の事だけだったらの話だ。
北上、マナ、そして、僕。僕の読んだ事のある本の内容の一部が、僕を含めた三人に現実に起きた。嘘のような、信じ難い話。それこそ本の中の物語ではないだろうか。けれども、その信じられない物語のような事が実際に起こり、今、揺るぎない事実となってしまっている。そして――北上とマナが死んだ。
僕はそこまで考えて、北上の日記を閉じた。
この間、コウタの家に行った時、僕はいつもとは打って変わった様子の人が誰一人いない駅に降りた。それは、僕の完読した小説にあった場面だった。コウタに貸したままになっていた、あの小説。
立ち上がり、机の上に置いていたそれを手に取る。真夏の青空のような色をした表紙に、真っ白な文字でタイトルが印刷されている。思えば、その鮮やかさに惹かれた事が購入のきっかけだった。本のタイトルは「無題」。
――その夜、僕は「無題」と題された小説を再び読んだ。目の覚めるような表紙と表題のコントラストとは裏腹に、決して明るいとは言えない話だ。そして、ひどく不思議な話。初めてこの本を読んだ時も、そう思った事を覚えている。
主人公の男が無人の駅に降り立つその場面は、自分の体験と重なり、奇妙な錯覚をもたらした。まるで自分の体験記が、ここに記されているかのような。それは本当に錯覚で、実際はそれと真逆だと――つまり、本が先であって僕の実体験は後であると――思った時、何故だろう、理由の無いおかしさが込み上げて来るのが分かった。そうやって、僕自身を襲った実際の現実での出来事が手伝って、僕は徐々にその本へと吸い込まれて行った。
やがて、本を読み終えた時には既に夜が明けていた。その頃には僕が何故この物語をもう一度読もうと思ったのか、その目的を忘れてしまっていた。本来の目的は意識の奥底へと追い遣られて、僕の思考に引っ掛かる事は無かった。真実、大切な事であったというのに僕はそれを思い出さないまま、思い出そうともしないままに眠ってしまった。
遮光カーテンの向こう側に朝の光を感じ、今日が日曜日だという事に感謝をしながら僕は目を閉じる。夢も見ず、何も感じず、ただ深く暗い眠りだった。
――夏休みになって一週間が過ぎようとしていた。今年の夏は例年よりも過ごしやすいと言われていたが、そんな事はどうでも良かった。僕は落ち着かず、部屋の壁に掛けられた時計を見上げる。これで、もう何度目になるだろう。
「遅いな……」
ふと声に出してしまった僕は、思った以上に気にしている事に気が付いた。今日は、北上の日記を受け取りにコウタが来る事になっている。僕がコウタの家まで届けるという申し出をコウタは断り、今日の午後一時に家に来るという約束になっていたのだが、もう一時間近く遅れている。
コウタは時間にきっちりしていて、約束をすれば必ず五分前にはその場所にいる奴だ。遅れる事が分かっているならば、連絡して来るだろう。何かあったのかと思い、携帯に電話を掛けてみようかと思ったが、どうしてか躊躇われた。いや、僕はまだ強く覚えているのだ。マナに電話をした時の、無機質な応答音声を。そして、もしも今、コウタに掛けてそれが流れたらという危惧を覚えている。そんな事はきっと杞憂に過ぎないだろうというのに。
僕は、また時計を見上げる。その時、やっとインターホンが鳴った。急いで階段を駆け下りて玄関の扉を開けると、いつも通りの笑顔でコウタが立っていた。よう、と片手を上げて見せたコウタに僕は張り詰めていた力が、くったりと抜けて行くのを感じた。
「どうしたんだよ、もう二時だぞ」
別に遅れた事を責めるつもりは無かったのに、自然、口を突いて出てしまった。しかしコウタは特別気にしたような様子も無く、悪いな、と頭に手を遣りながら言った。
「これ、取りに戻ってたら遅くなった」
差し出された左手には、正方形の小さなビニール袋があった。
「この間に買った洋楽のCDなんだけど、絶対、ハルカ気に入ると思ってさ。こっちの駅に着く少し前に思い出して、取りに帰ったんだ。戻った時に家から電話すれば良かったんだけど、夢中でそのまま家を出ちゃってさ。悪かったな、遅れて」
「家からって、携帯は?」
「ああ、今、修理中なんだ。すぐ電池が無くなるんだよ。もう駄目なのかもしれないな」
「そうか……」
僕は、ほっとした。その安堵が顔に出たのか、
「何だよ、そんなに心配だったのか?」
と、コウタが茶化すように言った。
その言葉に、僕は何処か必要以上に緊張していた事に気付かされた。しかし、その一瞬の思考はコウタの明るい声によって遮られる。
「悪かったって。あ、このCD貸すからさ、聴いてみてくれよ。俺は特に五曲目が好きだな」
「うん、ありがとう」
「で、北上の日記は読み終わったのか?」
言われて、僕は日記を手にしていない事に気が付く。
「ごめん、今、持って来る」
僕は
礼を言って日記をコウタに手渡すと、
「確かめたかった事は分かったのか?」
と、幾分、真剣な声と表情で尋ねられた。
「ああ」
僕が短く肯定すると、
「良かったな。また何かあったら遠慮無く言えよ」
と、コウタは笑顔で返した。
じゃ、これは北上の家族に返しておくから、と付け足して、コウタは帰って行った。僕はその後ろ姿を見送りながら、晴れない気持ちが残った事を感じていた。
僕は本当に何も分かっていなかったのだろうか。何も知らず、何も気付かず?
そんな事は無いだろう。ただ僕は、日常を守りたかったんだ。有るべき僕の日常を続けて行きたかった。あんな風に大切なものを失い、壊す事はあってはならない事だった。たとえ失い、たとえ傷付け壊してしまう事があったとしても、こんな形で別れを告げたくは無かった。大切なものと、大切な人達と一緒に、僕は僕の将来を少しずつ歩いて行きたかった。
けれど、どうしてもそれが叶わないというのなら、別れるのは僕一人で良かった。もう取り戻す事は決して出来ない。
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