第四章【無人駅】
大学にいても、家にいても、何をしていても僕の心はざわざわとしていて落ち着かなかった。全身がいつも緊張している事が分かった。まるで何かに怯えているような気すらした。背後から、ひっそりと忍び寄る不安。恐れ。正体が分からないから余計に恐ろしく、時折、無性に頭を掻き毟りたくなる衝動に駆られた。僕自身にすら理解出来ない、心の不透明な所から常に湧き出ている何かが、喉元へゆっくりと込み上げて来ている。そんな気がした。だが、どんな状況でも時間というものは必ず流れて行く。日を追うごとに、時間の流れと共に、僕の心が変化して行く。
僕の知る本の内容と酷似した点を持ち、亡くなった二人。僕の知る本の内容と同じような状況下に置かれた、僕自身。いつしか、それらに関する不安が驚くほどにすんなりと消えた。不安や恐ろしさというよりも、不思議だ、と思うようになった。
けれども僕は、この一連の流れの後ろに、何か得体の知れない、僕の思考力の届かない、とても巨大なものが音も無く隠れているような気がしてならなかった。理由など無い。しかし否定出来ない。その存在が、心の底から恐ろしかった。
久しぶりにコウタから電話があった。お互いの大学の様子を含む近況を少し話した後、僕はコウタの家に行く事になった。コウタと話せば、少し気が晴れるかもしれないから。この鬱々とした感情が、少し消えるかもしれないから。しかし何故だろう、そう思う事は間違いを犯しているように思えた。だから、別の言い訳めいた理由を繰り返し頭の中で唱えた。コウタに、遊びに来いよと言われたから。返すCDがあるから。だから僕はコウタに会いに行くのだと、そう言い聞かせて電車に乗った。
コウタの家へは電車で十五分ぐらい掛かる。その間、やはり僕は落ち着かなかった。ここの所、なかなか気が休まらない日々が続いている。CDが入った紙袋の持ち手を固く握り、なるべく何も考えないようにして僕は後方へと流れ去って行く景色をただ眺めていた。
――ふと、随分長い間、電車が止まっているような気がした。特急電車との待ち合わせでもしているのだろうか。開かれている扉から顔を出して停車している駅名を見ると、それはもう降車する駅だった。慌てて電車から降り、改札口へと向かう。そして切符を通すその時になって、日曜日の午後にしてはいやに静かだなと感じた。僕は何となく後ろを振り返った。
静かなはずだ。目にしたものは、誰一人としていない駅のホーム。空っぽのベンチ。向かいのホームにも人影一つ無く、誰かが階段から下りて来る気配も無い。加えて、電車はいつ発車したのか、既に影も形も見えなかった。
「え…………」
呆然と辺りを見回した。しかし、やはり誰もいない。しん、と静まり返った空間。四つの路線の乗り入れをしているこの駅がここまで静かで誰もいないという事は、珍しいというよりも異様な光景だった。それに、電車は一体いつ発車したというのだろう。音も無く、まるで消え去ったかのように思うのは僕だけだろうか。僕だけ? 他の人は何処へ行ったのだろう。ここで降りた人は僕一人だという事だろうか。それとも、もう改札口の向こうへ? 僕が驚いている内に?
強すぎる困惑に、頭がおかしくなりそうだった。現状を不審に思いながらも改札機にICカードを翳す。右手にある駅員室には数名の駅員の姿があった。僕は幾分ほっとし、そしてコウタの家へと向かった。
歩きながらも、さっきの駅の様子が頭から離れなかった。けれども何をどう考えたら良いのか分からず、ただ困惑だけが強くなって行く一方だった。ただでさえ頭の中はざわついているというのに、更にざわざわと鳴り始める。困惑を抑え、どれほど思考を巡らせようとも、無人のようだったあの駅のホームといつの間にか姿を消していた(ように思える)電車に対する説明は思い浮かばなかった。静まり返ったあの駅は、まるで現実味が無かった。恐ろしいほどに。
複雑な思考を抱えたまま辿り着いたコウタの家。インターホンを押して少しもしない内に、コウタは顔を出した。
「久しぶり。上がれよ」
そう言って笑うコウタは以前と変わらない、いつも通りのコウタだった。一瞬、高校生の僕とコウタが高校の教室で話しているような、そんな感覚に陥った。
コウタの部屋への階段を上がりながら、そういえば以前に来た時は、コウタの事が羨ましいような、僕は駄目な奴のような、そんな気分になった事を思い出す。自分の本当にやりたい事を見付けて夢を引き寄せる努力をしているコウタにはっきりと気が付いたあの時、追い詰められるようにして大学への進学を決めた僕が浮き彫りにされたようで、何とも言えず惨めな気持ちが生まれた。それでも、前を向いて頑張ろうと思った。それは、マナのおかげだった。僕は、ありがとうも言えなかった。
「ハルカ」
顔を上げると、コウタと目が合った。
「何か考え事か?」
「いや、何でもない。これ、借りていたCD。ありがとう」
紙袋を手渡すと、コウタは軽く返事をしてそれを受け取りながら、そうだ、と思い出したように言った。
「俺もハルカに借りていたものがあったんだよ。たぶん、高三の初めぐらいに借りたと思う。それからずっと借りっ放しでさ、ごめん」
「何か貸してた?」
ああ、と返事をし、コウタは机の引き出しを開けた。
「これ。前に来た時も返そうと思ってたんだけど忘れちゃってさ」
そう言い、コウタは僕に一冊の本を差し出した。
「ああ、そういえば」
真っ青な表紙に印刷された真っ白なタイトル。見覚えのあるそれは、確かに僕の本だった。
「これ、学校でハルカが読んでいたんだよな。それで、あらすじを聞いたら面白そうだなと思ったんだ。滅多に小説って読まないんだけど興味が湧いてさ。何か既に懐かしいな、高校生活」
「そうだね、まだ三ヵ月も経っていないのに。それで、どうだった?」
僕が尋ねるとコウタは少しばかり興奮したように、ああ、と言った。
「漫画以外で面白いと思ったのは、この本が初めてだった。小説って字がぎっしりと書いてあって読む気をなくすんだけどさ、これは本当に面白かった。普段こういうのを読んでいるハルカの気持ちが、ちょっと分かったよ」
特に、とコウタは付け足す。
「最後の方の場面は凄かったよ。誰もいない駅に主人公が一人で降りてさ、振り返ったらいつの間にか乗って来ていた電車が消えている所。まるでそこは別の世界のような、っていうの、分かるなと思った。また面白いのがあったら教えてくれよ。こういう本なら大歓迎だな、俺」
すっ、と足元が無くなって行くような気がした。今、コウタは何を言ったんだろう。
「それ…………何の話だっけ」
祈るような気持ちで僕は尋ねた。だが、そんな僕の心など知るはずも無く、あっさりとコウタは答えた。
「ハルカに借りていた、その本の内容だって。忘れたのか? 長い間、借りたままだったしな。悪かったよ」
いや、と返事をする事が、僕の精一杯だった。いよいよ頭がおかしくなりそうだ。
――無人の駅に降り立つ主人公。振り向けば、主人公が乗って来た電車は消えている。それはコウタに貸した、この小説の一部。僕の読んだ事のある物語。架空の、お話。
では、さっきの僕に起きた出来事は? 降りた駅には誰一人としていなかった。いたのは駅員室の中の駅員数名。いつもの駅独特のざわめきは皆無。静寂。そして、ふと振り向いた先では一体いつ発車したのか、煙のように姿を消していた電車。あれらは確かに現実。ほんの十分程前の、現実だ。
「ハルカ、どうかした?」
「…………いや、ちょっと。気になって」
ちょっとなんてものでは無かった。これでは、まるで本に書いてある事が実際に起きたようではないか。ああ、いつか本で読んだ話に似ているなあとか、そういう程度の事では無い。しかも、こんなに重なって。北上、マナ、僕。
ぞわり、と何かが足元から這い上がって来るような感覚を覚えた。
「どうしたんだよ」
コウタの声が、ひどく遠かった。
「ごめん。悪いけど帰るよ」
立ち上がった僕を、コウタは驚いたように見た。
「この後、用事があるんだ」
ほんの僅かの沈黙の後、そっか、とだけ短くコウタは言った。
「ごめん」
もう一度、僕がそう言うと、
「良いよ、また時間がある時に遊びに来いよな」
と、コウタは笑顔で答え、部屋の扉を開けた。
何となく分かっていたんだ。本当は気が付いているのに、気付かない、知らない振りをしていたんだ。そうしないと壊れてしまいそうだったから。
本が好きな僕、大学へ行っている僕、将来について考えている僕、僕の生活、僕の日常、僕の友人、僕を取り巻く、その全て。全部、失いたくなかったから。それとも今の僕が、真実、本当の意味での僕なのだろうか。
思い返せば何もかもが遠ざかってしまったようだった。いや、遠ざかったのは僕なのかもしれない。それでも、立ち込めてしまった
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