第一章【夢】

 ――初めて本の面白さを知ったのは、小学校四年生の時だった。


 その日、僕は初めて図書室に入った。いつも通りの昼休み、する事もなかった僕は、ただ廊下を歩いていた。当たり前のように昼休みという時間は騒がしく、廊下を楽しそうに走り去って行く数人とすれ違った。思えばこの頃から僕は、こういう時間が苦手で持て余していたようだった。


 そこに入ったのは、何となく気が向いたから。他に何もする事がなかったから。図書室の前に横たわる廊下にはこの時間特有の喧騒がなく、反対にひっそりとした空気が静かに漂っていた。


 そっと扉を開けて中に入ると、驚いた事に誰もいなかった。貸し出しや返却を受け付けるはずのカウンターにも人はいない。 


「はあ」


 気が抜けたのか、意味の無い音が洩れた。電気も点いていない、窓から差し込む光だけをたたえて沢山の本を書棚に抱えたその空間は、どうしてか神秘的に見えた。静けさのせいもあるのかもしれない。


 僕は、せっかくなのでゆっくりと書棚を一つ一つ見て回った。低学年向けの児童書、植物や鉱物の図鑑、広辞苑、純文学小説、空や動物の写真集、文庫本。種々様々な本の量に僕は驚いた。しんとした図書室に、やはりしんと収まっている本。独特な光景に、僕は胸がどきどきとして来るのを感じていた。


 一通り書棚を見て、僕は何とはなしに一冊の小説を棚から取り出した。少しだけ傷んでいるそれをぱらぱらと捲ると、ふわりと本のにおいがした。近くの椅子に座り、僕はその小説を読み始める。


 ――あの時の興奮は今も忘れない。何となく選んだ一冊の本。その、たった一冊の本が僕に全てを忘れさせ、全くの別世界に引き摺り込んだ。


 窓から降り注ぐ太陽の光の暖かさと、ページを捲る時に生まれる音。僕自身の心臓の鼓動ですら何処か遠くの感覚のように思え、しかしそれらが奇妙な協和をもたらし、安堵と興奮とを同時に与え続けていた。


 やがて昼休みの終わりを告げる予鈴の音が僕を現実に引き戻した。まだ夢心地だった僕は、見上げた時計で本当に昼休みが終わった事を知る。本を閉じ、立ち上がると、今更ながらそれをまだ読み終えていない事に気が付いた。貸し出しカードに記入をしないと本を借りられない事は知っていたが、カウンターには入って来た時と同じ、誰もいないままだった。もしかしたら途中で誰か来たかもしれなかったが、今、いないものは仕方がない。そう思って僕は、その本を持ったまま図書室を出た。扉を閉める前に一度、振り返ると、やはりそこは光と本に溢れていて神秘的な空間だった。僕にはそう見え、そう思えた。


 教室へ急ぎながら、本を読んでいる間は昼休みのざわめきを感じなかった事に気が付いた。あの時間と空間を侵すものは何もなかった。僕は初めて、休み時間が終わる事を惜しいと思ったのだ。


 そして、翌日の昼休みも僕は図書室を訪れた。貸し出しカードを作って貰い、その最初には昨日の小説のタイトルを書いた。(昨日、無断で借りて読み終わっていたのだが、図書室に来て初めて借りた本をカードの最初に記入したかったのだ。結局、その小説は二回読んだ。)


 それからというもの、僕は昼休みになるたびに図書室を訪れた。利用する生徒が少ないのか、そのほとんどは誰もいない空間となっていた。静かで、沢山の本があって、太陽の光が柔らかく満たすその場所は輝くような魅力を放ち、僕を惹き付けた。卒業するまでに全ての本を読み尽くしたかったが、さすがにそれは叶わなかった。だが、手元には数十枚に及ぶ貸し出しカードが残り、過ごした時間を物語った。


 ――あの日から僕は退屈を忘れた。




 至上の幸福。絶望。賛同、共感。喜び、悲しみ。感動。全ての輝きがそこにはあった。知らない世界が息づいていた。求めていたものにやっと出会えた。それは僕にとって、この上ない喜びだった。


 本は僕にとって必要不可欠で、大切な存在で、そして空気のようにいつも僕の周りにあった。どんなに多くの本を読もうと、この世にはまだ読んだ事のない本が数え切れないほど存在している。それを思うと体の奥が震えた。


 自分が生きている間に読める本は、一体どれくらいなのだろうという事も考えた。その数は、世界中にある本の数に比べたらきっと一握りに過ぎないのだろう。だからこそ僕は、読めるだけの本を読み、出会えるだけの世界に足を踏み入れたかった。純文学や偉人の伝記、現代小説など、時間の許す限り僕は本を手に取った。漫画も小説と同じくらいに沢山読んだ。


 小学校の図書室、中学校の図書室、高校の図書室、大学の図書室、市内の図書館、書店。その全てが僕にとっての宝であり、命のようなものだった。読めば読んだだけの世界がそこにはある。


 ――その内に僕は作家になりたいと思うようになった。いつか自分でもペンを持ち、真っ白い紙に新しい世界を生み出してみたいと考えるようになった。きっと楽しいだろうと夢をみた。けれど、それは本との出会いから与えられた、僕の真実の夢だったのだろうか。今でもそれは分からずにいる。




 高校の卒業式の一週間後、僕はコウタの家に向かっていた。結局、式の当日は疲れ切ってしまい、コウタに断りの電話を入れ、約束は今日になった。


 コウタは特に気にする様子もなく、


「良いよ良いよ、じゃあ次の日曜にな」


 と、明るく言った。


 コウタの家は、僕の最寄駅から電車で十五分くらいの比較的近いところにある。それもあって僕達は在学中、良く互いの家を行き来した。


 初めてコウタの家に行った時は、その素晴らしい外観にひどく驚いた。僕の家とは比べ物にならない大きな一戸建てで、広々とした庭が悠々と存在していた。その外観もさる事ながら、中も凄かった。ぴかぴかにワックス掛けされた横幅の広い廊下が明るく美しい白の壁紙に囲まれ、広がっている。そこに掛けられた田園風景の絵画、リビングの天井から吊るされたシャンデリアのようなきらきらした照明器具、置かれた透明ガラスのテーブルに、上品なネイビーカラーのダブルソファ。そして何より驚いたのが、そこに誇らしく佇んだグランドピアノとエレクトーンの存在だった。どちらも黒のそれらは美しく、そして威厳をって僕を迎えた。自宅にグランドピアノとエレクトーンを持つ友人を僕は他に知らない。


 音大でピアノと声楽を学ぶ事を、いつ頃コウタは決めたのだろう。僕にはコウタほど、はっきりとしたヴィジョンはない。僕にとって大学へ行って文学を学ぶ事は、何が何でもやりたい事ではない。僕は、文学作品の時代背景や作者の心情、表現法、文法などを詳しく知りたいわけではないのだ。また、大学生活にそれほど興味があるわけでもない。


 進学して文学部へ。それはまるで取捨選択の結果、何となく残ってしまった余りもののような、もっと言えば何かに、誰かに押し付けられたような、そんな気さえもしていた。けれど、たとえ押し付けられたものだとしても僕にはそれを跳ね返すだけの力も、それに代わる道もなかった。見出せなかった。だから責任は自分の中にある。結局、最後は残されているものに甘んじたのだから。


 進学が決まったのに今更かもしれない。望んだところに受かる事が出来たのだから幸福と言えるだろう。けれど僕はもっと別の事をしたいような気がしてならない。呼吸と同じくらい生きて行く事に必要で、外す事の出来ない何か。たとえば僕にとっては読書のような。コウタはそれを見付けてしまっている。将来、それで食べて行こうと思っている。   

      

 指先が、ちり、と熱くなった。


 電車を降りて改札を通ると、そこにコウタが立っていた。いつもと変わらない朗らかな顔で、


「よお」


 と、片手を上げて見せたコウタは、僕にはひどく輝かしく見えた。


 ――コウタの部屋には、以前と同じように高価そうな音楽機器が整然と並んでいた。そして、CDの数は以前よりも格段に増えている。


「これ、ありがとう」


 借りていたCDを手渡すと、うん、と軽く返事をしてコウタは引き出しへと仕舞った。その引き出しにもCDがぎっしりと入っていて僕は驚いた。


「それにしても凄い数だよね」


「俺もハルカの部屋で同じような事を言った気がするな。凄い数の本だって」


 引き出しの中をがちゃがちゃとやりながら、コウタは言った。


「この間に見付けた洋楽って話だったよな。今、聴いてみないか」


 僕が頷くと、コウタは立ち上がり、CDをセットしてプレイヤーの再生ボタンを押した。途端、緩やかなイントロが部屋中に流れ始める。まるい、小さな粒が集まったかのような曲調で流れるそれは柔らかく、そして何処か懐かしい水のような歌声と共にコウタの部屋を満たして行った。オーディオの性能が良いせいなのだろうか、音の響き方に広がりを感じた。きっと反響も良いのだろう。僕の部屋では、こうはいかないに違いない。


「な、良いだろ?」


「うん、確かに」


 洋楽、邦楽、クラシック、ジャズ、ロックと、幅広いジャンルの音楽をコウタは聴き、ピアノと声楽を習い、作曲もしている。希望していた音大にも見事に合格した。


 コウタは部屋にいる時は大抵、何かしらの音楽を掛けているらしい。音楽のない生活は考えられないと、以前コウタは僕に言った。そういった話をする時のコウタはいつも笑顔だった。


 コウタにとっての音楽は、僕にとっての本だと思う。それなしの生活は考えられないほどの重みを持ち、代えの効かないもの。そういうものを持った僕達だから、付き合いが続いているのかもしれない。意識する事は無くても共感めいたものを感じているのかもしれない。そう、思っていた。


「ハルカ、良かったら貸そうか?」


「ああ、借りて行って良いかな」


「良いよ。あ、あとさ、この曲も好きなんだけどさ……」


 ――コウタにとって代えの利かないもの、音楽。その音楽に携わる事が出来る生活の手立てを、将来を求めて、もうコウタは歩き出している。


 僕は本が好きだ。だから大学へ進学し、文学部へ? 文学を、学ぶ為に? 違う。本が好きだから文学部を選んだわけではない。まして、進学を決めたわけでもない。ただ、僕にはそれしかなかった。


 僕とコウタは、似ているようで実は全くと言って良いほど違うのだ。


「そろそろ帰るよ。CD、ありがとう」


 僕が立ち上がると、もう帰るのか? とコウタが聞いた。


「ああ。またその内に会おうよ」


 そして、コウタの部屋を出て玄関で靴を履いている時だった。


「あのさ、何か困った事があったら力になるから」


 ごく自然に、それこそ歌うようにコウタは言った。調子は軽やかだったが言葉には真実味があり、僕は驚いて思わず振り返った。


「ん?」


 コウタは不思議そうな顔で僕を見る。


「その……急にどうしたのかと思って」


「いや、何となくだけどさ。何か考え事でもあるのかと思ったから。もし、そうだったら頼ってくれよなって事」


「あ、ああ。ありがとう」


 ほどけ掛けていた靴紐を結び直し、僕はドアノブに手を伸ばす。


「じゃあ、また」


「ああ、またな」


 コウタはいつもの笑顔で見送ってくれた。


 ――コウタの家を出てから、僕は何かに急かされるようにして駅への道を歩いた。外は明るく、さらさらと穏やかな春の風が流れている。柔らかく暖かな空気だった。それとは似ても似つかない自身の心情を抱え、駅へと向かう足を早めながら、僕は「力になるから」というコウタの言葉を思い返していた。


 僕はあの瞬間、とても驚いた。衝撃を受けたのだ。コウタは何かを察したのだろうか。僕はそんなものを少しも表に出さないようにしていたというのに。まるで見透かされたようだった。そして。


『力になる』


 頭の中でコウタの声が何度も響いた。そして、コウタの凄さを思った。同級生の中で「力になるから」と言ってくれる人は何人いるのだろう。一人だっていないかもしれない。そして、あの言葉が通り一遍のものではない事は、誰より僕が良く知っている。何故、今まで気付かなかったのだろう。コウタは凄い奴だ。僕なんかより、ずっと。


 春だというのに僕の心は重く、体までもが大きな負荷を感じているようだった。知りたくなかった事を知ってしまった。そう、心の奥底が告げていた。

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