かくれていた扉へ
有未
序章【卒業式】
暗く深い、海の底のような部屋だった。暗く濃い、青と黒とが濃密に混ざり合い、溶け合っていた。時々、小さな星のかけらのようなものがちかちかと白い光を放つ。それらは部屋中に散りばめられるようにして無数に広がっていて、まるでマリン・スノーを思わせる、ひどく幻想的な光だった。
その雪景色の向こう、たった一つ、橙色の
不意に、ゆらんゆらんと橙色の光が大きく揺れた。そして同時に、長い溜め息の音が静かに洩らされる。
「もう時間がない。あの子は何を思うだろう…………」
再び、しばしの静寂が空間を押し包んだ。光はその間もちかちかと瞬き続けている。
唐突に、その幻想的な海底のような空間が、ゆやんと揺らぐ。生まれた楕円形の窓のような向こう側に二人の少年が見えた。二人は仲が良いのか、とても楽しそうに話し、笑い合っている。
「せめて最後の時まで傍にいよう。たとえ君に私が見えないとしても」
一人、自らに言い聞かせるように彼は呟き、その言葉が終わるよりも早くに彼の目は閉じられた。そして彼の姿は部屋から瞬く間に掻き消え、彼を追うようにして白銀の無数の光も橙色の温かな火も消えた。
後には海の底を思わせる濃紺の部屋だけが、ただぽっかりと残された。
――誰でも、どこかへ飛び越えて行きたい衝動に駆られる時がないだろうか。今、持っているものを全て捨ててでも得たいものがある時がないだろうか。見たい世界が、ないだろうか?
僕には、それがあった。いや、あるとは気が付いていなかった。けれど、自覚してからはそれを忘れる事が出来なかった。普段、存在を意識していなかったものがきっかけによって正しく明瞭な形を持ち、
当たり前の日常を当たり前に続けられる事の意味を、意義を、もう少し早くに、たとえ僅かにでも掴んでいたとしたら全ては変わっていたかもしれない。変わらずに、いたのかもしれない。起こってしまった事は決して取り消す事が出来ない。分かりすぎるくらいに分かっている
「ハルカ」
呼ばれて顔を上げた先には、少しだけ呆れたような顔をした友人が立っていた。
「お前、こんな日まで本は持って来なくたって良いだろう。すぐ帰るんだし、荷物だって多いんだし」
友人は、両手でやっと抱えるほどの教科書やらノートやら、おまけに英和辞典と和英辞典、古語辞典まで持っていた。それらを僕の机に置いて、友人はふっと大きく息をついた。
「いつも本を読んでいるような気がするよ。この三年間、お前が本を読まない日があったか? いいや、ないね」
彼は一人で話を成立させていた。
「でも、まさか今日もお前の読書姿が拝めるとは思わなかったよ」
少しの皮肉を込めて言われたのだろうその言葉は、しかし僕を苛立たせるものではなかった。それは親しい者同士に通じる、ジョークのようなものだ。
「で。今、読んでるのはどんな話?」
彼は、そう尋ねた。そして興味深そうに、僕の手元で開かれている本を覗き込んで来る。
彼――コウタとは、この高校で知り合った。三年間とも同じ文系クラスにいた事もあり、僕らは良く話し、共にいる事も多かった。だから、きっと傍(はた)から見れば僕らは仲が良さそうに見えただろう。しかしその反面では、確かに気は合ってはいたものの、些細な事から言い合いになる事もしばしばあった。
些細な事の例としては、学食でどのパンが一番人気かとか、校内に設置されたお菓子の自動販売機の存在意義とか、駅と高校とを繋ぐ公共のバスを一般の利用者に迷惑を掛けるからと生徒は利用禁止にするのはどうかとか。そういう、今、こうして思い返してみても本当に些細でくだらない事だ。理由としては、一日の活動時間の多くを過ごす事になるこの高校という場所で退屈しないようにしていたのかもしれないと、やはり今、思い返してみればだが、そう思う。
他、軽く振り返ってみても様々な事を僕はコウタと話してきた。「在学中に一番良く話した人は」と聞かれれば、間違いなく「コウタ」と答えるだろう。コウタは人を馬鹿にするような事は決して言わなかったし、意味もなく突っ掛って来る事もなかった。そして、コウタの言葉にはまるで裏がなく嘘が感じられなかったから、つられるように僕も本当に思った事しかコウタには言わなかった。しかし、それゆえに良く衝突したのかもしれない。それでも次に顔を合わせた時には「よう」と言い交わせるというのは、なかなか面白いと思う。
僕は、高校生活に大した期待をしていなかった。実際、面白い事などほとんどなく、毎日は主に勉強に染められていた。その事に特別な不満があったわけではない。誰かと衝突する事などがなく、無事に高校を卒業出来れば僕はそれで良かったのだ。だから自分を主張する事は極力せず、無駄に自分を擦り減らす事もせず。ただ、無関心でいる事は避けたつもりだ。
そんな僕に対し、コウタはするりと、ごく自然に気付けば隣に立っていた。コウタは例外だった。お互いに変に気を遣う事もなければ愛想笑いをする事もなく、引けないところは口論になってでも譲らなかった。そして気が付くと、ただ何となく自然に話をしている僕達が日常にいた。それは本当に自然な事だった。僕はそう感じていた。コウタがどう感じていたかはコウタ以外、誰も知り得ない事だが。少なくとも、僕は彼のおかげで自分で予想していたよりも充実した三年間をこの高校で送る事が出来た。
「ハルカ、聞いてる? 今はどんなのを読んでるんだよ」
「ああ、これはさ……」
コウタに本のあらすじを話しながら、ああ、今日は卒業式なんだよな、と思った。
こうしてみると、割と高校生活はあっという間に過ぎ去ったように思える。その流れた時間をコウタと知り合えたからこそ「充実した」と形容出来るのだろう。
振り返れば一瞬のような、しかし入学当時は永遠のように思えた三年という時間は、やっと今日、完全に終える事が出来る。多くは淡々と流れて行ったものだった。そんな中、コウタとの会話や過ごした時間は、はっきりとした輪郭を持ち、そこだけが切り取られたかのように思い出せる。それ以外は何だか意味もない事のようにぼやけてしまっていた。雲の一つもない空の上弦の月と、風に流れる厚い雲に何度も遮られる下弦の月のように。
今日が卒業式だという事にも実感が湧かなかった。まるで他人事のようだ。
「――大体、こんな話かな。少し口語掛かった表現が面白いんだ」
本の概要を聞き終えて、なるほどね、とコウタは軽く頷いた。その後で、そういえばさ、と話を切り出す。
「ちょっと良い洋楽のCD見付けてさ。今日、聴きに来ないか」
「ああ、そういえば借りたままのもあるし、行こうかな」
僕がそう答えると、まあ、そんなのはいつでも良いんだけどさ、とコウタは言った。
「別に卒業したからって何が変わるものでもないだろ。友達は友達でさ」
笑ってコウタは言った。こういう事をストレートに言って来るのは如何にもコウタらしく、そして、その言葉がわざとらしく響かないというのは凄いと思った。きっとそれは、その言葉が口先だけのものではなく本心からのものに違いないからだろう。
やがてホームルームの始まりを告げるチャイムが鳴り、同時に担任が教室の扉を開けた。途端に、ざわついていた教室の空気が一転し、席を立っていた人達が素早く自分の席に戻って行く。
「じゃ、そんな感じで。後でな」
僕の机に置いていた自分の辞典などを面倒そうに持ち上げ、コウタも席に戻って行った。
そして、皆が静かになった頃を見計らったように、担任は今までに出した事のないような声でしんみりと言った。
「――これが君達との最後のホームルームになるんだな」
まるで今生の別れのようだ。別に、これきり会えなくなるわけでもないのに。何故、あんなにも悲しそうな声で当たり前の事を言うのだろう。
「先生、まだ式の後のホームルームがありますよ」
誰かが茶化すように言った。
「そうだな。まだ最後じゃなかったか」
苦笑しながら担任がそれに応える。最後じゃなかったら何だと言うのだろう。僕は小さな苛立ちを感じていた。早くこの今日という日が、卒業式というものが過ぎ去れば良いと心の底から思った。
女子が狂ったかのように使い捨てカメラのシャッター・ボタンを幾度も押す事が分からなかった。普段、口をきいていなかったような人とも肩を並べ、笑顔で写真を撮る。それが一体、何になるだろう。挙句、僕にも笑顔で写真に写る事を強要して来た人もいて良い迷惑だった。兎のように目を赤くして涙を流しながら笑ったり、大声で騒いだり。何枚も何枚も写真を撮ったり。
あの光景は、僕にはとても異様に映った。「今日は年に一度のカーニバルなんです」、そんなナレーションでも入りそうな勢いだった。でなければ集団催眠術だ。
――あの時、僕は馬鹿を見るような目をしていたに違いない。
「そして、今日で君達はこの高校を卒業し、様々な未来へ向かって歩いて行くわけだが……」
担任のそんな話は上の空で、僕は読み掛けの小説の続きが気になっていた。
「……また君達と会う日を心から楽しみにしている」
長い担任の話が終わり、僕達は一斉に体育館へと向かった。教室にも廊下にも、この卒業式という日の独特の雰囲気が漂っていて、一刻も早く全てが終われば良いと僕は再び思った。
式の最中、僕は何となくこれからの事を考えていた。国立大学の文学科という、希望していた進学先を手にする事が出来た僕はおそらく幸福なはずだ。誰もが希望した進路へ進めるとは限らない。
けれど、これから大学へと四年間通い、きっと就職するであろう未来は恐ろしくありふれていて、退屈なものに思えて仕方がなかった。だからと言って、他の何かが思い浮かぶわけでもない。という事は「ありふれた」道を行くしかないだろう。ただ、それは僕にとってひどく受け入れ難かった。他の人は自分の現実に疑問を抱く事はないのだろうか。日々を理解し、受け入れ、時に拒絶しながらも、結局は自身の現実を認め、そこに帰って行くのだろうか。こんな事を思う僕が現実離れしているのだろうか。一生、答えは出ないような気がした。
ようやく式が終わった。大袈裟な音楽に包み囲まれて体育館を退場し、教室へと戻る。全員が席に着いた頃に担任が扉を開けた。途端、再び先程のように教室中が、しんとする。
「改めて、卒業おめでとう。私は君達と出会えて幸せだったよ。君達の未来が輝かしいものである事を祈っている。少しくらい嫌な事があっても負けずに立ち向かって行ってほしい。ここでの三年間は、きっと君達にとって大切なものになったはずだ。それを忘れずに、これから先も頑張って行ってほしい。ではこれで、最後のホームルームを終わる」
女子の
――思った通り、既に教室の外は熱気で溢れ返っていた。僕は熱の隙間を擦り抜け、昇降口へと急ぐ。その間に校内放送で歌が流れ始めた。それは既に飽和となっている熱気を更に煽るかのようで、僕は両耳を引き千切りたいような衝動に駆られた。
僕がおかしいのだろうか。自分の卒業式に何の感慨も湧かず、涙の一滴も零せない僕が?
三年間、一度も買い替える事無く履き潰した革靴を取り出し、突っ掛けるようにしてそれを履いた。僕は妙な焦燥感を感じていた。もう一秒でさえもこの場所にいたくなかった。
「ハルカ」
振り向くと、コウタが立っていた。瞬間、ほんの少しだけ空気が和らいだ気がする。
「凄い勢いで出て行ったけど、何かあったのか?」
「いや、ただ早く帰ろうと思ってさ」
相変わらず歓声のような雑音がうるさく、僕とコウタは少し大きな声で話した。
「そうか、なら良いんだ。今日、来られるんだろう?」
「ああ、行くよ。時間はどうする?」
「俺もすぐ帰るからさ、いつでも良いよ」
言って、コウタは少し笑った。
「じゃ、後で」
僕はコウタに背を向けて、足早に正門へと向かった。早く帰りたい、それは本当だった。けれど、その理由を言ったらコウタは驚くかもしれない。
ここにいると気がおかしくなりそうなんだ、嘘くさい涙を流して雰囲気に酔っている人達と同じところにいたくないんだ、写真なんていらないし、卒業旅行なんか行きたくもない、とにかくここを離れたい。
――そんな事は言えない。言えるはずもない。
頭上に掲げられた幾つものアーチは白と赤の薄紙で作られた嘘の花で飾られていた。僕はそれを極力見ないようにして、ただただ歩いた。このカーニバル・シンドロームから一刻も早く抜け出す為に。
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