第九章【惜別】

 ――全ての事には始まりがあり、全ての事には終わりがある。


 そう言っていたのは誰だっただろうか。あの老人の言葉が本当なら、今日の午後五時に、僕は死ぬ。今日は僕の終わりの日。


 カーテンを引いて窓を開けると、冷たい朝の空気と鳥の声が入って来た。晴天。いつも通りのような朝。今日が休日なのは、ありがたい気がした。ゆっくりとした時間を過ごしたかったから。自分でも驚くほど、思いの他、僕は平静だった。だが、それはそう見せ掛けているだけなのかもしれない。見えない奥底に意識を向けると、筆舌に尽くし難い心情が見える。それを強く抑え込んでいるに過ぎないのかもしれない。


 ひどく何かをしたいような、何もしたくないような。窓の外の風景から逃げるようにして、僕は自分の部屋を見回した。コンポの横に積まれた沢山のCD、小学生の頃から使って来た勉強机、色々なものが所狭しと置かれた小さな棚、そして、多くの本が並べられた三つの本棚。


 僕は、その時、何かに打たれたかのように思い出した。机の二段目の引き出しを開けると、それはあの日のまま、そこにあった。


「マナ……」


 マナがくれた最後の紅茶。マナの母から受け取ってここへ仕舞い、一度も飲んでいなかった。紅色くれないいろの缶の鮮やかさはあの日のまま、少しもせる事無く僕の手のひらの中で静かに光っている。


 僕は静かに階下に降り、台所でお湯を沸かした。カーテンの隙間から入る僅かな太陽の光だけを頼りにガラス製のティーポットを取り出した時、そういえばしばらく紅茶を飲んでいなかった事に気が付く。棚の中には、三つの缶が置かれている。アールグレイ、ダージリン、アップルティー。それらを取り出して一つずつ蓋を開けてみると、それぞれの香りはまだ強く、茶葉はあまり劣化していないように思えた。決して紅茶に詳しいわけではないから、確かではないけれど。


 しゅうしゅうという音が手鍋から生まれて、お湯が沸いた事を知る。ほんの数分の間の事だったのに、何処かタイムスリップでもしたかのような感覚に包まれていた。自分に苦笑しながら、そのお湯をティーポットとマグカップに入れる。そしてもう一度、お湯を沸かす。細い陽光を受けて輝いている紅色の缶を開けると、いつかも出会った香りが、ふわりと舞った。紅茶が抽出されるまでの数分、やはり何処か過ぎ去った時間の中に僕は心を置いているような気がした。浮かんで来るのはマナの事だった。小さなエピソードが幾つもぼんやりと浮かんでは消え、浮かんでは消えて行く。まるで目の前で浮き沈みを繰り返している茶葉のように。


 注がれた紅茶は、とても綺麗な水色すいしょくで、柔らかな香りで。ああ、やはり以前に中学生の時にマナから貰ったものと同じだと僕に教えてくれた。マグカップ二杯分のそれは、知らず僕の心を落ち着けてくれたようだった。マナが、そこにいるかのような気さえしてしまうほどに。


 だが、僕は思い出した。マナは手紙で言っていた。自分が死ぬ日が、何故か分かったと。そして、苦しかったと。それなのに僕はこうしてマナのくれた紅茶を飲み、マナの事を思い出し、心を落ち着ける方法を手にしている。マナは、どれほどに悩んだだろう。どれほど、不安だっただろう。知る事はもう出来ない。そう思った途端、紅茶の温かな温度を伝えて来る手のひらの中のマグカップを、僕は強く握り締めていた。 


 部屋に戻り、紅茶の缶を机の上に静かに置くと、こん、という軽やかな音がした。その後、僕は出掛ける準備を黙々とした。天気が、良いから。出掛ける用事なんて何も思い付かなかったから、僕は無理矢理に理由を付けた。


 何とも言い表せない何かが少しずつ、だが確実に迫って来ているようで、そして、それからは逃れられないような気がした。真実、逃れられないのだろう。逃げる気などなかった。しかし、何をして過ごせば良いのか分からず、怖かった。


 部屋を出る直前、僕は以前に書いた小説を取り出し、題を書き換えた。死を前にして、こんな事をして、一体、何の意味があるというのだろう。こんな事くらいしか思い付かない僕は、いっそ滑稽こっけいな気がして笑えた。


 僕は慣れ親しんだ部屋を振り返り、


「さよなら」


 と言って、扉を閉めた。


 早朝の外は明るく、空は、すっきりと青く晴れ渡っていた。ほんの少しだけ、風を冷たく感じる。気持ちの良い天気というものは、それだけで心を明るく照らす。たとえ、こんな僕の心でも。大きな深呼吸を一つして、僕は歩き出した。


 何も考えず、何も思わず、僕は僕の生まれて育った、この街を歩きたかった。けれども、そんな事は無理だった。一時ひとときの陽光は心から去って、僕の中は今までで最も複雑に、急速に絡まり始めて行く。




 ――『ありがとう』と思う事は何度もあったけれど、言葉にして伝えた事は少なかったように思える。


 たとえば、何かを借りたりした時の『ありがとう』も、勿論、心からのものだけれど、もっと胸に迫った時の『ありがとう』を言った事が、あまりなかったような。嬉しさが強すぎたり、気恥ずかしかったり、理由は色々だけれど。そこには一つ、共通点がある。それは、突然に伝えても分からないであろう、『ありがとう』だったという事だ。ただ、僕と話をして、出掛けて、友人関係を築いてくれて。そういう些細なように見えてとても大切な事に、僕は感謝の気持ちをうまく示して来られなかったような気がする。


 僕と「相手」が知り合い、友人になって行く途中。友人になった時。そういった事の全てに感謝を表す『ありがとう』を、もっと伝えておけば良かったと、今、僕は強く思う。


 ここまで来る間に、僕は何度も友人に助けられて来た。ただ、その人が友人でいてくれた。それだけで、僕は本当に嬉しかった。その人達に、僕は何を返してあげられたのだろう。何をしてあげられたのだろう。


 僕は、本が好きで。どうしようもなく本が好きで仕方無くて。そして、人が、友人が死んで。それでも僕は、本が好き?


 僕の今までは、一体、何だったのだろう。全てが間違いだったのだろうか。結局の所、僕の夢は何なのだろう。本を読む事以外に、何か本当にしたい事があるのだろうか。あったのだろうか。こうやって歩いている僕が、あと何時間後かに死ぬ? だとしたら、どうして、何が原因で死ぬのだろう。今までに僕が読んで来た小説のせいだろうか。いや、僕が書いた、あの小説のせいだろうか。それとも僕が危険な存在だから消えてくれっていう、誰かの願い事のせいだろうか。


 僕は、何を思って死ねば良い?




 僕は、ただ当ても無く街を歩いた。だんだんと日が傾いて来ている。夏に比べ、随分と早い夕暮れ時の訪れだった。今は何時くらいだろう。気付けば、腕時計も携帯電話も家に忘れて来てしまっていた。それはまるで、今日の「その時」を目にしないようにという、僕の無意識的な意思の表れのようでもあった。あの老人の言葉が真実かどうか、本当には分からない。けれども、今日、僕が死ぬという事を何処かで肯定している自分がいる。それは事実だ。


「おーい、ハルカ」


 聞き慣れた声がする。顔を上げると、予想の通り、コウタがゆっくりとこちらへ向かって歩いて来ていた。僕は、この場から全力で逃げ出したい衝動に駆られた。どうしてだろう。


「よお、偶然だな。買い物?」


 その時、『別れを告げたい人に会っておくと良い』という老人の言葉が蘇った。それは一度では無く、二度、三度と、抗い難い残響をって脳味噌を揺さぶるようにして繰り返され、再現された。


「………………コウタは?」


「俺は今、CDを買って来た所。欲しかったのが中古で売っててさ、驚きだよ。やっぱり大きい店にはあったりするんだな」


 手に持った袋を軽く掲げて、コウタは言った。それがとても嬉しそうだったので僕までも嬉しくなり、良かったな、と言った。そう言うのが自然のように感じるくらい、コウタは嬉しそうだった。


 僕が、あれぐらいの喜びを表に出したのはいつだろう。狂気の夢に会った時の喜びは、コウタの純粋なものとは比べる事も出来ない。そんな事を考えていたら、いつの間にか僕を見ていたコウタと目が合った。


「――あれから、どうした?」


 コウタが何を聞いているかは、すぐに分かった。だが。


「ハルカ」


 促すコウタに伝えるべき言葉は見付からず、その真剣な問い掛けに答えるすべが僕には無かった。その代わり、僕は乾いた喉の奥からやっと振り絞るようにコウタに尋ねた。


「今、何時か分かる?」


「え、ああ……」


 コウタは携帯を開くと、


「四時四十五分」


 と、答えた。


 それを聞いた僕は、


「早いなあ」


 と、思わず呟いていた。


 その声が、まるで自分のものでは無いように聞こえた。何処か異質さを覚える。


「ハルカ? どうかした? 急いでいるんだったら、また今度に話を聞くよ」


 辺りはもう薄暗く、まばらな人の話し声が微かに聞こえて来ていた。うっすらと赤い空には気の早い三日月と一番星が光り、アスファルトで埋まった舗道には僕とコウタの細い影があった。何一つ普段通りで無いものは無くて、その日常に出来る事なら僕も溶け込みたかった。許されるなら、何も無かったように。けれど。


「――そういえば、高校生の時。僕達は結構、言い合いが多かったよね」


「え? ああ、そうだな。今、思えば、くだらない事で争ったよな。争ったって言うか、何て言うか。でも俺は、面白かったな」


「確かに、どうでも良い事だらけだった気がする。たとえば、購買で希望のパンが間違い無く買える最終の機会はいつか、とか」


「あー、あったあった。本当にくだらないよな」


 コウタは声を上げて笑った。


「それで、実際に実験したもんな。昼休み終了の十五分前、二十分前とか。あと、一番人気のパンは、どれかとか。惣菜パンの中ではコロッケサンドで、菓子パンの中ではチョコレートデニッシュ」


「良く覚えてるね」


「自分でも今、思い出せた事にびっくりしたよ。ハルカも譲らないし俺も譲らない、だから言い合いになるんだ」


「つまらない高校を面白くしようとしていたのかもしれないよね」


「ああ、そうかもな。まだ、そんなに経っていないのに何かもう懐かしい感じすらする。不思議だな」


「そうだね」


 懐かしい。それは的確すぎる表現だった。


 過ぎた時間には、二度と戻れない。二度と。それでもこうして思い出し、懐かしむ事は出来る。生きている者に許された事。許される事。けれど、もうそれすらも僕はきっと出来なくなるのだ。こうしてコウタと話す事も。こうして街を歩く事も。沈み行く夕陽を見る事も。紅茶を飲む事も。本を、読む事も。


 今になってまで脳裏に浮かんだ本の存在に、僕は苦笑する。僕を助け、僕に与え、僕を導いてくれた数々の書物。それに報いるだけの人生を歩けなかった後悔が一時いちどきに押し寄せ、僕を飲み込む。


「ハルカ、どうかした?」


 黙り込んだ僕を案じるかのように、コウタが声を掛ける。


「いや、何も」


 そう、何も無い。今更だ。


 僕はもう一度、コウタに時間を尋ねた。四時五十八分だと、コウタは告げる。


「そうだ、さっきの話だけど。急いでいるんだったら、また今度にするか?」


 目の前にいるコウタが、既に遠く感じられた。同じ場所に立ち、同じ夕陽に照らされているのに、まるで世界が違ってしまった。


「もう、今度は無いよ」


「え?」


 今、思っている、これは悲しみなのだろうか。それとも生への執着だろうか。後悔だろうか。贖罪の念だろうか。死への恐怖だろうか。何にしろ、コウタと再び会う時間は二度と無い。「今度」も「また」も、無い。無い。


「コウタと友達になれて良かったよ。僕は色々と面倒な奴だったかもしれないけど、今までありがとう。それから、あの日に僕の話を真剣に聞いてくれてありがとう。嬉しかった。音楽への夢、頑張って」


 コウタの横を擦り抜け、僕は歩き出した。後ろでコウタが呼んだけれど、振り返りはしなかった。最後にコウタに会えて良かった。『ありがとう』と伝える事が出来た。心残りは無い。足早に歩く僕を、コウタが追い掛けて来る音がした。


 駄目だよ、間に合わない。




 ――今までに無いくらいに強く、とても強く心臓が鳴った気がする。その衝撃は心臓から生まれて、それを知ると同時に体から心が抜け落ち、緩やかに遠ざかるのを感じた。その心を精一杯、掴み取ろうとしている僕の頭の中に、切り取ったような映像と黒い文字が沢山のまばゆい光の明滅と共に、次々と入り込んで来た。


 北上大地「蜜と蜂と巣」情緒「やっと蜂の巣を捨てられる」自殺「タイトルを忘れてしまった小説」マナ「違う街へ行く事に」「視点と考え方を変えてまるで違う世界へ」青い表紙「無題」音大ヴァイオリンピアノ駅「まるで異世界のような」コウタ


 それぞれの文字に合う、それぞれの映像。


 そして僕は理解した。やっと分かった。一連の出来事は、でたらめに起こっていたのではなかった。コウタの言った通り、僕の思った通り、「こうなったら面白いのに」という僕の願望にもとづいて起きていたのだ。そして、僕の望みの一番強い部分が現実世界に反映されていた。


 鍵は、「別世界」。穴だらけの心を捨てて別世界へ死と共に旅立った、視点を変えていつもの世界を別世界へと変化させた、現実と異世界を繋いだ駅に降りて別世界を体験して行った、それぞれの小説の登場人物と、現実の僕達。僕は。


「別世界へ行きたかった」


 今なら、そんな事は思わないのに。すぐ隣に、君がいる。コウタがいる。もう会えなくなるけれど、君がいる。そして、レイがいる。大切な人達が。僕の、すぐ近くに。


 それに、僕は教えてもらったはずなのに。マナに。視点を、考え方を変えれば、簡単に世界などいつでもその姿を変えるという事を。僕は知っていたのではなかったか。


 ふと、鈍い痛みが全身を走った。掴み取ろうとしていた心は、もう影も形も見えなくなっていた。伸ばし続けていた腕を力無く下ろすと、そのまま何処かへ沈んで行く感覚に襲われる。何かに引っ張られるような。飲み込まれるような。消えて、行くような。


 本当に別世界に行くのかもしれない。どうする事も出来ない力に全身が引っ張られて行く。今更、生きる事にしがみ付く事は許されないだろう。それでも、僕は。僕は?


 ――もしも、同じ所に辿り着けたら謝らなければならない。謝らなければ………………………………

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