終章【落涙】

「それじゃ、ゆっくりしていってね」


 その言葉に頭を下げ、彼は扉を開ける。部屋の中は時が止まっているかの如く、静かだった。その空間を壊さないようにするかのように、彼はゆっくりと部屋に一歩を踏み入れる。そして、そっと扉を閉めた。


 さほど広くはないその部屋には大きな本棚が三つも置かれ、そのどれもに本がぎっしりと、そして整然と収められていた。また、床の上には無造作に積まれた小さな本の山が幾つか出来ている。部屋全体には橙色の夕陽の光が溢れ、どこか神聖な雰囲気をかもし出していた。窓際に置かれた机の上にはルーズリーフの束があり、一番上のそれには大きく「白鳥の歌」と書かれていた。しかし、その文字には乱暴にバツ印が付けられ、下に小さく「コウタへ」と走り書きされている。


 彼は、その一枚目を静かに手に取り、記された文字を読む。紙を持つ手に力が入ったのか、小さく乾いた音がして、少しだけ皺が寄った。彼は、それを元の通り、束の上に戻す。そして、もう一度部屋をゆっくりと見渡した後、静かに椅子に座った。僅かにきしむ音がした。


 机の上にはルーズリーフの他に、あかい小さな缶がひっそりと置かれている。彼は何となく、その缶を開けてみた。中には細かい葉のようなものが入っていて、彼の知らない香りがした。蓋を閉め、缶を元の位置に戻すと、彼はルーズリーフの束を引き寄せ、それに目を落とす。


 それきり、部屋の中は限定された音だけが静かに響き続けていた。壁に掛けられた時計の秒針の音、長針の音、短針の音。紙をる音。彼の僅かな呼吸の音。夕陽の光をたたえたその部屋の中で、机に置かれた紅色くれないいろの缶が光を反射し、より一層、鮮やかに輝いていた。まるで彼を見守るように。




 その空間を壊すものは、何一つとして存在しなかった。そして、まるで彼自身までもその空間の一部だとでも言うかのように、彼はとても良くそこに溶け込んでいるように見えた。


 ――どれくらいの時間が過ぎたのだろう。既に橙色の光は全て部屋から消え失せ、温かな色で包み込まれていた部屋は一転、暗く深い闇に押し包まれている。その暗闇の中、机に置かれた小さなスタンドライトの光だけが白く、ただぼんやりと光っていた。


 彼は静かにルーズリーフの束を整えた。そして最初にそうしたように、一枚目を静かに手に取り、そこに書かれた表題と言うべきものを読む。しばらく、彼はじっとそれを見つめていた。そして、元に戻す。


 彼は顔を上げ、窓の外へと視線を向ける。そこには、夜に光る家々の明かりが少しと、街路灯が一つ、見える。だが、彼の目はそれらを映し込んでいるだけで見てはいなかった。


 彼一人きりしかいないその部屋は、ただ静寂に包まれている。生まれている音といえば、規則正しい、壁に掛けられた時計の針の音。不規則な彼の僅かな呼吸の音。そう、彼は間違い無くこの部屋に存在している。それなのに、まるでこの部屋と同化したかのように彼の存在は希薄だった。


 かち、と室内を照らす唯一のスタンドライトの光を、彼はゆっくりとした動作で消し去った。それは、ここに漂っている空気を少しでも振動させまいとするような、緩慢で優しい動作だった。スイッチに伸ばしていた手を、やはりゆっくりと彼は手元に引き戻す。少し経ってから、彼は祈るように両手を組み合わせ、俯いた。しかしすぐに手はほどかれ、それぞれ力強く握り締められる。


 やがて彼が椅子から立ち上がると、座った時と同じように小さくきしんだ音がした。暗闇の中、彼は、しばらくそこに立ち尽くしていた。


「俺は、お前に何がしてやれた? 教えてくれよ。言ってくれよ………………………………」


 彼の目から、涙が流れて落ちた。


 問い掛けに答える声は、何処にも無かった。





〈了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

かくれていた扉へ 有未 @umizou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ