海と恋愛は似ている

ぽんぽん丸

海と恋愛は似ている

海と恋愛は似ている


君は「撮ってよ」と写ルンですを渡してくれた。それから砂浜の方へ歩き出した。


白いワンピースはなびいてフワフワ踊って、君は太ももの辺りを手で抑えながら風と遊んで楽しそうにした。


そこを撮ろうと写ルンですを覗き込むと、水平線に沈む太陽がちょうど君のシルエットに重なった。波間のさざめきが輪郭線の周囲をきらきらさせた。


そのファインダーの中の光景は僕の心を囚えてしまって息をのんで、シャターを押せずにいると「なんで撮らないの」と言って君はもっと笑った。


「逆光だからこうしよう」君の方へ駆け寄って、肩を抱き寄せ二人で海へ向いた。夕日の光をいっぱい浴びた君は眩しさに目を細めたけどすぐに笑顔を作ってくれた。僕は目一杯腕を伸ばして二人の笑顔を自撮りした。


「海写ってなくない?」君が急にトーンを落として言うからおかしくて、答えもせずに僕が笑うと君も一緒に笑ってくれた。


太陽が水平線に溶けて一層深いオレンジ色に変わった。鳥たちは帰り道の鳴き声で波の旋律に合わせて歌っている。


僕は二人だけににしか聞こえない声で告白した。君も同じ言葉を返してくれた。


常夏の白いビーチ、極彩色の珊瑚礁、沈没船の財宝


まだ見ぬ高鳴りに溢れて二人ならどこまでだってゆける。


海と恋愛は似ている。




二人の生活はまさに結婚指輪のようだった。


シンプルなシルバー。「新卒の二人が慎ましく暮していく決意」「決して贅沢でなくても毎日を幸せに過ごす象徴」ダイヤの入った指輪をすすめる店員さんを静止して、そう言ったのは私だった。


毎朝、白いカッターシャツに急いでネクタイを締めるあなた。眠さに声を絡まらせて喉から朝の挨拶なんだろう音を出すと、私の用意した朝ごはんから流し込めるものだけに手をつけて家を出る。


私はドアが閉まってからその残りを食べる。その後家のことをあれこれする。玄関先の掃除をしていて、写真立てを眺めてはいつもそこで止まってしまう。


あの【海の写ってない海の写真】から目が離せなくなる。


あなたのする話、上司の間違った指示、認めらなかった努力、週末の出勤予定、健康診断の悪い数字。日常とはそういうものだった。そんなあなたとの一年は輪をかけるように過ぎた。すぐ次の一年がはじまった。


結婚指輪の上を歩いている気がした。平坦で変わりのないシルバーの輪の上を永遠と歩く。一周するとまた同じ景色の輪が始まる。何度か繰り返して気づいた。


私はあなたの銀色の日常なんて聞きたくなくて、あの日の夕日を浴びて深いオレンジに染まるあなたとまた話したかった。きっとそれが日常だと思っていたけど違った。


玄関の写真の前で誰にも聞こえないように悲しい声で一人で泣いた。


常夏の白いビーチ、極彩色の珊瑚礁、沈没船の財宝


そんな海はごく僅かで海のほとんどは何もなくただブルーなだけ。


海と恋愛は似ている。




僕は日常を、どうにかしたかった。


リビングの明るいパステルカラーのカーテンは二人で選んだ時よりも日に焼けているように見えた。定番の落ち着いたインテリアを避けた理由は、色鮮やかな心が踊る暮らしにしたかったから。IKEAもそういう暮しを提案していたし、君となら実現できると思った。だが夢見た暮らしに手は届かない。


「窓見てどうしたの?」


『このカーテンを今の生活にあった色に変えるにもお金がかかるよね』

口に出そうになった。あの頃と変わらない笑顔を向ける君にはこの悩みは言えなかった。だけど口に出そうになったから


「今日の仕事も大変だったんだ」

君にはできない理由を言った。


社会は海の幻想やパステルカラーの暮しを抱えたまま生きさせてはくれなかった。


僕はいつも力不足で、僕を叱責する人も力不足だ。お金を出す人だけが力不足じゃないふりをして偉そうにしている。


家に帰って寝るだけで、目の前の仕事に追いつけない。僕は流されるだけだ。だから速度を上げた。仕事が増えた。そんな僕に偉そうな人が言った。


「労働環境を改善します。残業は個々人で自己調整をしてください」


何かをしてくれる人はいなかった。僕を仕事に繋ぎとめてくれてくれているのは君だった。君だけは僕のためにいてくれる。


そんな君を避難させてあげられる。君を家にいさせてあげられることだけが僕の救いだった。


大海原で僕の思い通りになることは一つもなかった。君はこのことを知らずにカーテンのパステルカラーを信じて過ごしてほしい。


海の殆どは冷たく、暗く、臭い。


だから漂流者は大切な人を先に救命ボートに乗せる。自分の体温が奪われることを感じながら、その人だけでも無事でいることに安堵する。


海と恋愛は似ている。




健康診断で悪い数字だったのはあなただったけど、私はまず健康診断を受けていなかった。


あなたは入院着の私に謝ってから『会話』をしてくれた。


あなたが仕事を休んでくれて、病室で一緒に過ごす時間に幸せを感じた。昔の思い出話を久しぶりにした。だけど夜になるとそのこと自体が悲しかった。病室で幸せを見つけたことが。過去に幸せを感じることが。


退院の日にあなたは私の言葉を遮って未来の話をした。


「海に―「迷惑かけてごめん。俺転職するよ。もっと給料も良くて、時間に余裕が持てる仕事を探す。だからまた少しの間忙しくなるけど待ってほしい」


シルバーリングは砕けた。


私の願いはたまに「海にいこうよ」と言ってほしいだけ。


海はずっといる場所ではない。

だけど私の日常に必要だった。


海と恋愛は似ている。



あの海に来ていた。


そこでファインダー越しに見た君の姿を思い出して、今まであの光景を忘れていたことに愕然とした。


あのワンピースを君はいつから着なくなったのだろう。波間のさざめきは変わらずにきらきら光っていた。だけど今日はあのときに見たシルエットはなくて、夕日が直接眼球を刺したからすぐに目を反らしてしまった。


海の方へ歩き始めてみたが、今日は目的の人がいなかった。それで向かう場所がわからなくなった。波が革靴の先を濡らしてもまだ止まらなかった。海水を含んだカッターシャツが肌に張り付き気持ち悪く感じるころには、身動きがとれなくなった。


藻掻いている。だけど変に冷静だった。水面を叩くと、腕と一緒に空気が海中に入ってきて無数の泡が出来たのを見た。何度も。夕日も消えてその泡の向こうは暗くて見えない。もう方向がわからない。


肺に海水が入ってくる。味は辛くて臭かった。海は恋愛と同じ味がした。


「海と恋愛は似ている」

最後になるかもしれないから感じたことを声に出してみた。

声が出るよりも海水が流れ込んでくる方が早い。やっぱり海と恋愛は似ていた。


自分の四肢を目一杯伸ばして水を掻いていると、指先は暗がりに消えてしまう。見えない。寒い。こんなに必死に藻掻いているのに体は冷えていく。だんだん時間がゆっくりになる。だからシルバーリングが指から抜けて海底に向かって沈んでいく様子がはっきり見えた。-そうか、そっちが下なのか。シルバーリングを追いかけて海底に向かった。本能もそうしろといった。


しかし追いつくことはなかった。すぐに見えなくなった。きっと沈没船の財宝もこうして失ったんだ。財宝の持ち主もその瞬間になってやっと後悔したんだろう。


病院で見た君の笑顔を思い出した。ただ会話をすれば笑顔が見れた。だけど君とたくさん話すと僕は壊れそうだった。その場で泣き崩れてもう立てなくなりそうだった。それでもなぜ僕は泣かなかったんだろうか。君は会話をして泣き崩れたからって突き放すような人ではない。


いや、もし突き放されたとしてその何がいけないのだろうか?自己を覆い隠したまま愛する人を傷つける悲しさと比べて、正しく突き放されることがどれだけ暖かかっただろうか。そこからまた始めることが幸せなのではないだろうか。


海中では涙はすぐ海に混ざりもう泣けているかもわからない。目が海水に浸かっているのだから涙が出るのは当然でもある。最後に正しく泣けているのだろうか。あの時、二人の部屋であのカーテンを眺めながら泣いてたら良かった。


日曜にカーテンの隙間から夕日が差している。キッチンの君を手伝おうとすると拒否されて仕方なくテレビの前に座る。実際テレビは見てないし、スマートフォンが仕事の要件で鳴ってもそれを無視する。ただ君の料理のにおいを楽しんでいる。おはしをとりに行ったり、しょうゆと小皿をとりにいったり、それくらいはさせてもらって、二人で食事をする。「美味しい」と言ったら君は笑ってくれるのだろう。


パステルカラーの暮しを想像しながら、ここは海底。そう。思い出していない。想像だ。こっちが下で良かった。


また海に誘えばよかった。

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