5話
ズンズンと権助はまた先を歩く。
よほど怒っているのか、腹の虫が収まらないのか、まったく後ろを顧みず、ケンタがいることも忘れてしまったかのように。
権助はもともと無口な性質である。
寡黙ななかにもぼそりと呟くがごとく、古強者の言葉には千鈞の重みもあるものだが、口をつぐんでしまえば、一昼夜でも、一週間でも黙りこくる。口を開く労力も惜しむか、根っこも太く張り出す山道も、老いているとは思えないしっかりとした足取りで行かれるのだからたまったものではない。どんどん離される。
「ま、待って……」
弱音は吐かないと歯を食いしばっていたが、ついに助けをと手を伸ばしたその瞬間だった。
叩きつけるような雨であった。
「う、うわあ!」
隙間なく生い茂る木々の葉も撃ち抜くような、つぶての雨。バラバラ、バタバタと派手に葉を叩いて音を鳴らし、風も唸れば、自分の声さえ、自分の耳にも届かない。山が機嫌を損ねた土砂降りに、小さなケンタなど、叩かれ、押さえつけられ、
「あ、あ……」
足はよろめき、空を蹴って、あわれ地をすべり、
「うわあっ!」
ケンタは崖を転がり落ちてしまった。
驟雨は、突然降り止む。
殺気だった土砂降りが嘘だったかのよう。
山はまた晴れ上がって穏やか。
「あんた、大丈夫?」
仰向けに目覚めたケンタの目に飛び込んだのは、青い空の暖かさではなかった。覗き込む少女の、見知らぬ冷たい目だった。
「い、たたた……」
「ちょっと、無理はしないでよ」
少女よりもむしろ、ケンタこそ困惑は強い。
「俺、どうなったんだ?」
「あそこから落ちたのよ」
ケンタとさほど年恰好も違わないと見える、当たりのきつい吊り目の少女が、その目を向けた先はとんでもない高さの崖だった。
「よく無事だったな、俺」
実感のなさに他人事のように思うが、起き上がれないほどの痛みが現実であることを教えてくれる。
「君が助けてくれたのか?」
「私はたまたま通り掛かって、倒れていたあんたを見付けただけよ」
「心配してくれたのか?」
「だから! そんなんじゃない! 目の前で死なれたら目覚めが悪いってだけよ!」
(それを心配というんじゃないのか?)
含み笑いを殺した、ケンタの心の声を知らず、
「無理に起きようとしないほうがいいわよ。ちょっと寝てればいいんじゃない? あんなところからずり落ちてきたんだから。でも、悪運強いわね。骨も折れていないようだし、大きな切り傷もないし、寝てれば治るでしょ?」
よく見ているものである。
「もしかして、父ちゃんを助けてくれたのも、君か?」
「父ちゃん? ……ああ、あの間の抜けた。ふーん……。そう、あれが……」
少女のその目は、値踏みのそれである。
風がさらりと吹いて、野性的な顔立ちの、その髪を揺らす。
少女は黙ってしまったが、大の字で呼吸を整えるケンタのそばは離れない。
「なあ……」
「何よ?」
棘のある返しは変わらないが、ケンタは気付いた。それは野生動物の警戒心と変わらないのだと。無理に手を出せば、逃げるか、噛まれるか。でも彼女は、噛み付きはしても逃げはしない。つっけんどんな物言いの奥には人馴れしていないだけで、傷をなめてくれるような、落ち込めばそっとそばに寄り添ってくれるような、心根の暖かさがあるはずだ。
「君は名前、なんていうんだ?」
「……オサキ」
「そうか。俺はケンタだ、よろしくな」
「変な奴」
「変はないだろう? 友達にでもなろうっていうのに」
「と……っ」
気安いケンタに、吊り目をいっそう吊り上げるも、少女は怒りではない朱で顔を染める。
「は、初めて会って、私のこと、何にも知らないくせに!」
「だからこそ友達にって、そういうもんだろう?」
「し、知らないわよ!」
「あ、そうだ。お礼もまだだった。助けてくれて、ありがとな」
「あんたって、まったく……」
山の少女オサキはぷいと横を向いた。
素直なケンタに調子が狂うか、もとは陶磁器のようなすべらかな肌なのだろうが、熱く火照る頬は朱が差したまま収まらない。それでもケンタのそばは決して離れない。受け入れてくれているのだと、それがケンタにはうれしくてたまらなかった。
「そ、そんなことより! あんた、あんなクソジジイについて、何をしようっていうの?」
たとえ照れ隠しだとしても、その言い方は気に入らない。
「権じぃは俺のじいちゃんって、いってもいい人なんだぞ。悪くいうなよ」
「フン。……山の生き物を狩るような奴を祖父なんて、あんたもたかが知れたもんね」
「それは……」
「殺生を生業にする猟師なんて、ろくなもんじゃない」
「そう、かも知れない。それは確かに……」
核心衝かれれば、二の句を継げない。殺生の重さ、ケンタもそれなりに気付いている。
そうはいっても、殺気立つほどの怒りをオサキが向ける理由は分からない。
戸惑いも深く、暗い顔に目線もさまようケンタに、
「まあ、いいわ」
と、オサキのほうこそ八つ当たりに気付いたか、自ら矛を収めた。
「で、あんたは何しに来たのよ? 慣れない山で崖から滑り落ちてまで」
「刀をな、取りに来たんだ。いや、借り受けに来た、かな」
「かたな? ああ、あの社の。なんで?」
オサキはどうやら護り刀のことを知っているようだ。
それなら話は早い。
「あれで化け物退治だ!」
「化け物、退治?」
オサキの顔に、暗幕を下ろすかのような、暗い翳が差す。
それは一種、恐怖のそれとも見える。突然、目の前に熊が現れて血の気が引いたような。
「どうか、したか?」
「何でもない! ……あんたみたいな子供に何が出来るのかって、思っただけよ!」
それは明らかにごまかしだろうが、オサキの棘がいっそうきつい。
「山を登るだけでヒィヒィいって、挙句、崖から滑り落ちて怪我するようなのに。ああ、そうか。刀に助けてくださいって拝みにいくのね。そういうことね」
「違う!」
「な、何よ、大きな声出して……」
「お侍さまに代わって、今度は俺が災厄を斬るんだ」
「はあ? あんたが? 刀って重いのよ? 子供が振り回せるものではないわ」
「バカにするなよ。これでも鍛えてるんだ、やってやるさ!」
「ふーん……。だったら、目の前に狐が出てきたら、問答無用で斬るわけ?」
化け物の話をしていたはずなのに、狐の話にすりかわる。不思議なものの持って行きかたと首をひねらないでもないが、権助のことも知っていたのだ。化け物退治が狐狩りとなっていること、知っていてもおかしくはない。
オサキの心の裏、短い出会いにうかがい知れないことあるが、ケンタには表裏などない。
「どうかな?」
寝そべったまま、素直に首をひねった。
「権じぃは化け狐にはもう話が通じないっていうけど、俺はそれでも話がしてみたい。それで、誰でもない、俺自身が、狐が敵か味方かを見極めたい」
「偉そうに、何様かしら」
言葉には棘あるのに、オサキの顔からは何故か、安心を得たように険が取れた。
「まあ、でも、ふーん……、そっか……」
オサキ、なんだかうれしそうである。
サッと、夏の終わりを告げるような、爽やかな風が吹いた。
オサキの真意を測りかねるが、ケンタは少し、目を閉じる。
呼吸を整えていれば、じわじわと四肢に力が入っていくのが分かる。ゆっくり、グ、パ、と手を握ったり開いたり、足首も動かしたり。やがて、その繰り返しが早く、力強くなる。
「よし!」
「びっくりした!」
「ごめん、でも……」
ケンタは立ち上がった、立ち上がれた。もう、足は踏ん張れる。休んだことで雷に打たれたようだった腰の痛みも引き、力がみなぎっている。これならば、いける。
「俺は行くよ。ありがとう。助けてくれて、見守っていてくれて」
オサキを危険から遠ざけようと、別れを告げようとするが、
「どこへいけばいいか、分かっているわけ?」
オサキの冷静な一言に、「あ……」と、ケンタの踏み出した足が止まった。
やれやれと首振るオサキは、恐れも絶ち切らんとの決意、内に秘めて。
「仕方ないわね。私が社まで連れて行ってあげる」
「本当に!」
「なによ? 信じられないなら、自分で社を探すことね」
「ありがとう!」
「もう……」
皮肉も、棘を刺しても、ケンタには通じない。真っ直ぐなケンタはまるで、お日様のようにピカピカである。口の悪いオサキもそれにはかなわないのである。
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