ケンタとオサキ

おとろし

1話

 さても、昔の物語。

 過ぎる夏を惜しむかのような大きな雲、山は緑濃くこんもりと深く鎮座していた。

 少年は闘志をたぎらせる。

 山に不穏の空気はふもとまでのしかかってくるようだ。

(俺が村を守るんだ!)

 かつて狒狒の群れに村が悩まされたときには、ふらりと現れたお侍さまに村は救われた。しかし、頼もしき彼はもういない。

「次はおまえが、村を守れ」

 村から一人、差し出されるように従者として付き添っていた少年は、別れ際、お侍さまに頭を力強く撫でられた。鬼のような顔を崩して呵呵と快活に笑う、大きな体、ごつごつと大きな手、彼の言葉は別れを慰める軽口だとしても、三年経った今でも熱く心に残っている。

(今度は、俺が!)

 少年の足取りは勇ましい、茨(いばら)も踏みしめるかのように。

 村を過ぎる少年の耳には風の音だけが妙に空々しく、大きく響く。まだ日も真上に達していない時分なのに、少年を見咎めてちょっと声をかける、訳知り顔の大人、遊ぶ子供さえ、人影は村の通りに、田んぼにも、忽然と消えて一つとしてなかったのである。

 みな息を潜めて、災難が過ぎ去るのを待っている。

 神に祈り、神の使いとも見えた侍の再来を望んでいる。

(待っているだけじゃダメだ! 祈っているだけでは誰も助けてはくれない!)

 小さな猪武者の心意気も侮るな。少年の目はまだ濁りなく、吊り上げて雄々しい。山にはもはや近付くなと、村のタブーの看板も蹴倒して、自分がやるしかないと決意固め岩のごとく。邪なものを除くのに一片の躊躇もなく、山へと踏み入っていくのである。

 山はしかし、別世界である。

 そこは人の領域ではない。

 けものの、果たして山の化け物の領域である。人もそうであろうが、自分の家に土足で勝手に上がりこんできたものをなおさら彼らは許さない。高い木立の上から、深い藪の中から、人には見えなくても、じっと息を殺して見張っているのである。何をしに来た、下手なことをするなら食い殺してやるぞと。

 それは少年も分かっている。

 山をよく知る爺さまから、よくよく言い含められていた。

 少年の神経は細く細く、蟻の巣に入っていくと見えるほど細く尖る。

 風が木の葉を揺らせば、鳥が鳴き声上げれば、敏感に反応する。

 がさりと何かが、茂みで音を立てた。

 少年は一歩、あとずさった。

 今はまだ武器がない。

 敵わないなら逃げろとも、口酸っぱく爺さまはいっていた。

 だが、相手が何かも分からないうちに背を見せれば、それもまた危うい。

 猪は、熊は、背を見せればなおさら突進して、転んだところを襲い掛かってくる。賢い狼なら、追い立てられた先に待ってましたとその仲間に囲まれるだろう。猿でさえ、逃げればそれは弱いものだと、キイッと自分の存在高らかにアピールして襲い掛かってくるかもしれない。

 何よりこれこそ、村に害なす化け物かもしれないではないか。

 息を詰め、さあ何が出てくるかと……、

「ケンタではないか。何をしとる、こんなところで?」

「権(ごん)じぃ!」

 肩から力が抜けた。ほっとしている自分がいた。

 ぽかんと自分を見詰める顔が、なんだか懐かしい。心を張り詰めていきがっていても、そこはやはりまだ若輩。孤独の怖さも相応に押し殺していたのだ。けもの道の茂みを掻き分け出てきたのは、絶界の山にこもる猟師の権助(ごんすけ)爺。少年ケンタにとっては山の師匠であり、祖父の代わりでもあり、偏屈とはいえ村の皆からも信頼篤い古強者である。

「まず、そこらはわしが罠を仕掛けているので危ない。こっちゃ来い」

「う、うん」

 おっかなびっくりの足取りで権助のもとへ寄れば、

「で、なんで、おまえはここに、山にいる?」

 ジロリと、射殺されるかと思うほどにらまれた。

 その手に持つ黒い鉄砲は木漏れ日を受けて鈍く光り、別の生き物として噛み付いてきそうだ。

「あ、あのな……」

「山には一人で入るなと親父にでもいわれなかったか?」

「それは……」

「あやつめ、子供を諭すことさえ出来んのか」

「権じぃ、俺は……」

「子供が何を、この非常時に。わしからおまえを叱ってやろう。大方、何やら勘違いして山に入ったのだろうが……」

 権助はズバズバと決め付けてくるが、ケンタも負けじとにらみ返した。

「人が消えているんだぞ!」

 一瞬、その剣幕に権助のほうがひるんだ。

 そこへ付け込むように、ケンタは、

「売られただの、人さらいだの、今までの神隠しに裏があったことは知ってる」

「子供に何を聞かせるのか……」

 権助の鋭い舌打ちにも、ケンタはひるまない。

「でも、今回のはあまりに異常だ! 誰にも何も心当たりがない。山に食われた、山の神の祟りだって、おそろしや、おそろしやと怯えるばかりだ。けど、このままじゃ、人が誰もいなくなって村が滅んでしまう!」

 一気に捲し立てたケンタに、老練な権助はため息一つ。

「ついてこい」

 と、痩せて少し曲がった背を向けて、ケンタを誘った。

「まったく、あの侍の無茶なところにばかり感化されよって」

 恨めしげにぶつぶついうのはケンタにも聞こえていた。

「だって、権じぃ、誰かがやらなきゃ。お侍さまはもういないんだ」

「だからといって、子供のおまえがやることではねぇ」

「大人はもう、みんな動かない」

「化け物の仕業とも限らん」

「そうかもしれない。それならそれで、原因を突き止めないと」

「それでもおまえが、子供が探る必要などありゃせん。まして、やはり化け物、あるいは狼の仕業ともなれば子供の手に負えるもんでもねぇ」

「子供、子供って……っ」

「最初に一人」

 ケンタの意気込みをくじくように、苦々しげに権助は吐き出す。

「次に消えたそれを捜しにいった三人。一人帰ってきたが、正体をなくして布団のなかで震えて衰弱していくばかりと聞いたな。ついで、また三人。もはや山の祟りだ、山にはしばらく近付かないでおこうと示し合わせておったのに、そのあとも五人は消えたか。出入りの業者も近頃ぱったり姿を見せんとなれば、あるいは……」

 山を越える過程で何者かに捕まったか。

 権助が悔しげにぐっと唇噛んで先をいわなくても、いわんとすることは子供でもわかる。

「だから、俺が! あのお侍さまの……」

 代わりに化け物を討つ、との言葉をケンタは続けられなかった。

 振り向いた権助の顔はやけに悲しげで、怒鳴られるよりも強い衝撃を受けたからだ。

「わしはな、消えたみなを昔からよく知っておる。村からの相談も受けたものじゃ。なあ、ケンタよ、おまえまで消えんでくれ」

 権助の悲しい目も、一度つぶって開けば、それは決意に変わる。

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