8話

「こいつっ!」

 今度はオサキが飛び出した。ケンタの腕の、熱い庇護から抜け出して。

 果敢に狂気の猟師に飛びついたその姿は確かに仔狐の姿だった。

「あ……っ」

 鉄砲は空しく空を撃ったのみ。

「オサキ!」

「ククク……」

 権助が笑う。

(何故? なんで?!)

 熱気残る晩夏の夕暮れも凍らせるほど、その冷え切った笑みは凄みを持つ。

「これだから子供は始末におえん」

「何だよ! なんでっ? 話を聞こう、小さな命を救おうとして何が悪いってんだよ!」

「そう、それ。その純真さが厄介、まぶしい、そしてうとましい」

 権助の笑みが醜くゆがむ。

 顔が、姿が。

 黒く、暗く、その体から黒い煙がもくもくと、その足元に火が焚かれているのかと錯覚するほど吹き上がる。夕闇よりも黒いそれは、人の姿をかき消していく。


『権助は人間ではない。気を付けて』


 オサキの母は今わの際にも、消え入る命のともし火にも抵抗して必死で伝えていた。

 それが今やっと、オサキの耳にも届いたのだ。

「に、逃げなさい……」

 母がそうしたように、オサキもケンタをかばう。

 撃たれたわけではないとはいえ、殺意の弾丸はかすめただけでもその衝撃で足を動かなくする。せめてケンタだけはと、その想いがいじらしく、悲しい。

 権助に化けていた化け物はサディスティックにあざ笑う。

「狐を殺したのはおまえだ、おまえのせいだと……、無垢な幼子の人情に責め苦を与え、柔らかい心に消えぬ傷を残してやろう、その憐れな魂を飴玉のようにしゃぶりつくしてやろうと思ったが、やめだ。厄介な子供など、その肉がまだ柔らかいうちに喰ろうてくれるわ」

 化け物。

 人の姿に化けたもの。

 化けて、人を惑わす。

 心をえぐって恍惚を得、肉を食らって悪食の腹を満たす。

「お、おまえは……」

「フン。もはやジジイの振りをするのも面倒だ。貴様も、そこの狐の仔も、食らってくれるわ」

 痩せた老人、権助の姿はもうこの世にはない。

 耳まで裂けた大きな口を、これでもかと開いて威嚇する。尖る歯が並ぶさまは、のこぎりよりもなお、刃を連ねた地獄の剣山をも思わせる。頭は狼、体と腕は熊、背中は猪で、後ろ足は鹿。巨牛よりも大きく、大岩よりも逞しい。小さいケンタなど見下ろせば、蟻を見るようにニタリと笑い、威嚇のために一つ足を踏めば、山が轟くかと錯覚するほど音を鳴らす。山の動物が合わさったような恐ろしげな黒い姿、これが本性か。

「権じぃをどうした!」

 気丈に問えば、化け物は口をゆがめていやらしくあざ笑う。

「じじいなど最初に喰らってくれたわ」

「な……」

「なかなかに手強い相手だったがな。食らって、その姿を、そしてその蓄えた知恵も、記憶も奪ってやったわ。それを使えばおまえのように、誰もがおもしろいほどだまされてくれる。ハハハッ! 愉快、愉快、おもしろかった。誰もがおまえのように『何故だ』と滑稽な白い顔を見せてくれた。誰の最後も、誰の恐怖と驚きも、全て笑えるわ!」

「な、なんて、ことを……。つ、つまり、おまえが……」

「そうよ。神隠しの原因は俺よ。俺が全ての犯人だ。権助の姿を借りれば簡単だった。奴をまず倒したのは正解だった。目の上のたんこぶだったが、苦労した甲斐もあった。その姿をもらい、今では感謝こそするものよ」

「おのれ、よくも権じぃを! 村のみんなをっ!」

 地団駄踏むほど悔しがるケンタも、化け物は意にも介さないのか、おもしろい道化の踊りでも見ているふうにニタニタと笑っては、

「いいぞ、もっと恨め、悔しがれ、そして恐れろ。我が名はおとろし。恐ろしい、おそろしい、おそろしやと、人間が畏れた山が俺を生み出した。そうだ。人の負の感情こそ我が力、そして我が食物よ」

「オサキの家族はぁ……」

「あれも邪魔だった。まだ力弱い神使の見習いのようなものとはいえ、俺の正体を暴くとすれば奴らだろう。まだ気付かないうちに、そう、だまし打ちよ。一匹逃してしまったが、今ここで始末を付けてやろう」

「おまえは……ッ!」

 勝ち誇るようにべらべらと、自分から悪行並べる。

 ケンタの足の震えが止まった。

 義憤の強い炎、内に燃え上がり、恐怖などたやすく燃やし尽くしてしまったのだ。

(こいつを野放しにしてはいけない)

 ウリボウの心意気にも、義憤の炎が力を与える。

 今やはっきり、ケンタの目には狒狒退治のお侍さまの背中が見えていた。名誉も宝もいらない。見返りも求めない。ただ世のため人のため、命も投げ出すほどに覚悟を決めて、狒狒の群れにたった一人で討ち入っていった、あの勇ましきお侍さまの背が。

「今は……、俺が、俺こそが!」

 やらねばならないときがある。

 少年の果敢な決意も、化け物おとろしは鼻で吹き飛ばす。

「おまえに何が出来る? 破邪の刀からは遠ざけようとしたが、たとえそれを手にしたところで……」

「やって、やるさ!」

 こぶしを握り、社を目指して駆け……。

「おっと、行かせはせんよ」

 悔しや。巨大な屏風岩にさえ見える大きな手を広げられれば、まさにそれを前にして立ちつくす。飛び越えることも、先へ回ることも、出来るものではない。

 唇噛んだそのとき、

「あんたが欲しいのはこれでしょ? さっさとこれを持って逃げなさい! そして大人に助けを求めなさい! 大人にこれを与えて、私たちのかたきを……」

 オサキだ。

 社から、奉刀を重たげにも抱えて出てきたではないか。

 オサキはおとろしの注意がケンタへ向いている隙に、もう一度力を奮い起こして人の姿にまた変じたのである。

「うぬ。いつの間に!」

 おとろしが目を切った瞬間、今度はケンタが、社へ、オサキの下へと駆け込んだ。

「ありがとう、オサキ」

「いいから、もう、いいから……。あんたは、それを持って……」

 強く、ケンタはかぶりを振った。

 ここで化け物を止める、止めるんだ。

「なにを、あんたなんかに……」

「やる。俺が、やるんだ。村も、オサキも守る。ここであいつを逃せば、また村のみんなは化かされる。俺の言葉なんて、権じぃの口でかき消されてしまう」

「だからって……」

「やるんだ! 化け物は俺が、斬る!」

 オサキから刀を受け取れば、魂込めて、その柄を握り締める。

「小僧が、重い刀など振れるものか!」

「あなどるな!」

 誰にも内緒にしていた、祖父代わりの権助にも。

 だから権助の記憶を奪った化け物とて知りようがない。

 剣の修行秘かに、お侍さまへの憧れ抱いていたときからケンタは続けていたのだ。

 この刀の重さは知っている。

 戯れにお侍さまに渡され、あまりの重さに腰が砕けた、それを笑われた悔しさと共に。

 太い木の枝、それを水に浸し重さを似せて、必死にそれを振って鍛えてきた。

 家の手伝いの合間に。子守りの時も、弟妹が寝付いた隙に。

 ずっと、ずっと、振り続けてきた。

 ここがその成果を示すとき!

「うおおぉっ!」

 獅子にも負けぬ彷徨、渾身の一閃。

 吐き気を催すほどの臭い息を吐きつつ、大きく口を開けて迫ってきた、油断の多いおとろしの、下にもぐりこめばそののど元を、見事斬り裂いた!

「ぐおぁっ」

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