9話
(ダメだ……)
浅い。
のどからどす黒い血を滴らせるも、おとろしは倒れもしない。
「おのれ、おのれッ……、小僧が、小童(こわっぱ)風情がッ!」
おとろしの気配が変わった。憤怒の赤い炎が見えるほど赤く目を吊り上げ、肩に力を入れれば山ほどにも盛り上がる。
「侮(あなど)りはせん、もうあなどりはせんぞ!」
怒気をまとえば火山のごとく、おとろしは猛進してくる。
死を悟った。
「やるんだったら、最後までやりなさい! 諦めるなッ! バカーーーーッ!」
諦めの死地からも、オサキの声がケンタを引き戻した。
その喝がケンタにもう一度力を与えたのだ。
(そうだ。俺には守るべきものがあるんだ! くじけちゃ、ダメだ!)
『あなたに力を貸しましょう』
風の囁き?
『お願い、あの子を守って』
違う、これは……。
誰かが介添えしてくれた。重い刀がまるで羽根のように軽く。
(これなら……!)
社をも一撃で打ち壊したおとろしの、丸太が吹っ飛んできたかと首をすくめる、強力な腕の振りもひらりとかわせば、その股下を抜けて猿(ましら)のごとく木を駆け登る。
それは修業の賜物か、天の助けを得たものか。
「こっちだ!」
ケンタを見失ってキョロキョロと、頭を振るおとろしに頭上から叫びを振り下ろす。
反射的に上を向いたおとろしの、のど元は隙だらけ。全身太い針金のような剛毛に覆われていても、背中は猪のカルカン、鉄砲の弾さえ弾くといわれたそれで岩のように硬いとしても、そこだけは……、傷もまだ開いたままだ!
「ぎゃあぁっ!」
強く、深く、想いを乗せて、刀を突き刺す。
おとろしよりもはるか頭上から、オサキたち守り人が大切に扱っていた奉刀である。切れ味鈍っているわけもなく、ケンタの体重も加わり叩き落とせば。
恐ろしい断末魔の絶叫であった。
収まれば、山は森閑の夜闇に落ちていく。
そっと山のけものたちが覗けば、伏したおとろしの肉は夜闇よりも黒い霧となって噴き上がって天へ、骨があらわになればそれも朽ちて地に還っていくところを見ただろう。
「ふうぅ……」
倒れこんだケンタは起き上がらない。
大の字に仰向けになって、息まだ荒く、その顔は険しいままだ。
憎きかたきを破り村を守った。
その満足感で笑みの一つでもこぼせばいいものなのに。
「思い出した」
駆けよってきたオサキを見るでもなく、一人語りのように、
「権じぃは昔、わしはろくな死に方をしないって」
「何をいってるのよ?」
オサキが首をひねるも、ケンタの苦しげなつぶやきは続く。
「きっとあのおとろしってやつは、じいちゃんが仕留めてきた獲物が恨んで化けたんだ。オサキもいっていただろう? 殺生を生業とすること、それはやっぱりいけないことだ。あのおとろしってやつは、山の神が人を懲らしめるために遣わしたんだと思う」
「そうかも、知れないわね」
慰めるわけでもなく、静かにオサキはうなずく。
でも、違う。
「あいつは権助だけじゃない、他の、何の罪もない人間も食らった。それはおのれの快楽満たすためだけの悪しきもの。生まれが何であれ、それはいけない、天に背く行いだわ。おとろしの口ぶりから察するに、それをあのじい様は懸命に止めようとしていたんだと思う。そこには殺生の罪を償うとか、自分のせいだとか、そんなことよりもあんたと同じ、村を守る、誰かを守るとただそれだけだったんじゃない?」
「そう……、なのか?」
「そうよ。あんたを見ていれば分かるわ。教えを受けた大事なじいちゃんだったんでしょ? 権助は。だったら、ね」
オサキの口ぶりは毅然として断定的、何より暖かく、優しい。
「そうだ。俺は、じいちゃんの背中を見て育ったようなもんだから」
「あんたは、じい様と、私の家族の無念を晴らしてくれた。それは絶対に間違いない。山の神に刀を向けたわけじゃない。欲望の化け物、おとろしを倒したのよ。立派なものよ」
「うん……」
「胸を張りなさい! 今ごろ、じい様だって笑って成仏してるわよ。あんたのことを誇りにして、満足して。……きっと私の母さまも、兄さまも」
オサキの目からこぼれた涙が一粒、ケンタの頬を熱く伝った。
(そうか。あの声は多分……)
「ありがとう」
「な、なによ、急に」
「オサキがいてくれて良かった、本当に」
「改まって、なによ、もう……」
「オサキがいてくれて、本当に……。俺はお侍さまに、少しは、近付けた、かなあ……」
疲れ果てたケンタが目を閉じれば、安らかに深い眠りの底へ。
再び目を開ければ、朝の光がまぶしく。
そこは村の外れ、山のふもと。
夢を見ていたのかと我を疑うが、全身の傷と痛みがそうではないとはっきり教えてくれる。
オサキがここまで運んでくれたに違いないと、ケンタはうなずくのだった。
それからしばらくして。
誰もいなくなった権助の小屋から人の骨が大量に出てきて村中騒然となるのだが、事の真相は誰にも分からなかった。なにせ、それが発見される前に、その唯一といっていい生き証人であるケンタは村を出ていたのだから。
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