長屋・市場・空

松ヶ崎稲草

第1話 1-1.となりのおっちゃんとホンダの車とマーチ

 市場、と長屋の大人達が呼んでいる京都市場からは、籐の買い物籠を持った、割烹着、浴衣、アッパッパー、など様々な格好のおばちゃん達が、カッ!コッ!カッ!コッ!と音を立てながら出て来る。

 「あれ、何の音?」と隆彦はおっちゃんに聞いてみる。

 ずっと不思議だったが、母に連れられて市場へ来る時は、忙しそうにしていたり、近所の人に会って話し込んだりしているので、なかなか聞けなかった。

 何を食べればあんな音が口から出てくるのだろう、と思っていたが、おっちゃんが言うには、おばちゃん達の履いているサンダルが地面に擦れる音なのだそうで、そう言われればおばちゃん達はあの音を出しながらもけたたましく喋り合っているので、口から火を吹く怪獣のようだと思っていたが、そんな訳ではなかった。

 おばちゃん達の大声での話の内容は子供の隆彦には理解できなかった。


 京都市場の横にあるから『市場の公園』と呼ばれている公園内では、隆彦よりも相当大きな、小学校三、四年生ぐらいの子供達が、ぐるぐる回る円型のジャングルジムのてっぺんに登って勇ましく遊んでいる。

 野球やサッカーをしている子供達は、もっと上の年だと思われる。隆彦よりも少しだけ年上らしい子供達は、滑り台で遊んでいる。


 隆彦は公園の中へは入らず、となりのおっちゃんと車の中に居る方が楽しい。

 いつも隆彦をドライブに連れて行ってくれて、市場の前にある噴水のような自動販売機のオレンジジュースを買ってくれたり、回転する綿菓子を割り箸で取る機械に十円を入れて動かし、隆彦に取らせてくれたりする。

 今日もジュースを買ってくれて、おっちゃんのホンダの車の中で飲んでいる。

 運転席に座るでっぷりとした体格のおっちゃんと隆彦との間の1、2、3、4、と数字が書かれた棒を、隆彦は不思議な気持ちで見ている。

 車を動かす時、おっちゃんはこのレバーをカクカクと動かす。車が走る時、ブロロロ…と音がするのも、少し揺れるのも、心地良く、いつも楽しみにしていた。


 隆彦のさらなる楽しみは、おっちゃんの家の大きなステレオで、マーチを聴くことだ。

 おっちゃんの家へ行くと、おっちゃんとよく似た体型のおばちゃんが必ず隆彦を「おいない」「おあがり」と招いてくれて、お茶やジュースを出してくれる。

 おっちゃんの家に子供は居ないので、ジュースは隆彦のために用意してくれているらしい。

 左右のスピーカーも入れると部屋の半分くらいの場所を取って置かれている木製のステレオの蓋をおっちゃんは大きな手で開け、黒いターンテーブルに大盤のレコードを置き、回転するレコードの端の方の溝に、針を下ろす。


 音楽が始まり、マーチの重厚な音量がスピーカーから響いてくる。うっとりと聴き入っていると、すいませえーん、と玄関の方から母の声がする。

 そろそろ帰って、お昼寝せなあかんで!と隆彦に母は言う。隆彦はしぶしぶ、おっちゃんの家を後にする。玄関を出たら、子供の足でも五歩程度で自分の家の玄関に着くが、隆彦は寂しい気持ちになる。

 

 隆彦が家でタオルケットにくるまって寝転がっていると、壁の向こう側から、マーチの音が聴こえてくる。

 これには、母も苦笑する。隆彦に聴かせようと、わざと流してくれていることが分かる。

 大音量にしなくても、長屋で壁がくっついているから、話し声まで聞こえてしまう。普通より少し大きめの音で、十分音楽を楽しめる。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る