第9話 3-1.帰省
マンガ草創期の大正頃から遡ってマンガの描き方の変遷を図解している展示を隆彦は見て、今となってはかなりの工程がパソコンの画面上で行われていることが解説されていることに改めて驚いた。
ペン軸にペン先を付け替えてカリカリと音を立ててマンガを描くことに憧れていた少年時代は何だったのか。
傍らで、息子の幸之介も見慣れない昔のマンガ道具に見入っている。
ペン軸、各種ペン先、羽根ぼうき、インク、ポスターカラー、筆、雲形定規、スクリーントーン。
「京都のおじいちゃんの家には今でもあるで」と隆彦が言うと、幸之介は目を輝かせた。
グラフィックデザイナーだった父は、コンピュータグラフィックの台頭のあおりを受けて失職した。
隆彦が小学生の頃、将来マンガは機械で描くようになる、と言っていた同級生がいたが、確かに、今のマンガ家は仕事机にパソコンを置いて、画面に向かって色々と手を入れている光景をテレビのマンガ家仕事紹介などで目にする。
幸之介のかねてからの希望で京都のマンガ博物館へ来るまで忘れていたが、隆彦は小学校三、四年の時にマンガクラブを作ったのだった。
でも、やめてしまった。
五年生になったら、クラス替えで、メンバーも離れ離れになり、しばらくマンガから離れていたけど、今度は一人で描き出して、紙をホッチキスで止めた物を、隆彦は単行本と呼んでいたが、印刷しない一冊だけの本を、クラスの後ろの方に置いて、見たい人は見ていた。
それを、小学校卒業まで続けた。
中学生になると隆彦は全くマンガを描かなくなったし、読まなくなった。
絵は相変わらず下手だったし、美術も苦手科目になったから、そのうち自分がマンガを描いていたことを忘れてしまった。
息子の幸之介が絵を描くのが好きになり、今、小学校五年生だが、マンガのようなものを描いている。
父も元々はマンガ家になりたかったらしく、デザインを学んでデザイナーになった。
血は争えないと言うが、不思議な感じもする。そう言えば、父に言われてマンガ家になるのをあきらめたのだった。
マンガ博物館の見応えがあり過ぎて時間があっと言う間に過ぎ去ってしまい、実家へ着く頃は、真夏なのにもう暗かった。
年に一度か二度帰るたびに年を取ったように見えて、挨拶もそこそこに体調について尋ねてしまわずに居られなくなる両親が、出迎える。
今回の帰省は新型コロナウイルスの流行もあって二年半ぶりとなり、両親の老化も甚だしく思える。両親の方は孫の成長の早さに驚いていた。
隆彦の実家は小学生の時に建て直して以来ほぼ何も変わっていないが、回りの家々は変わった。となりのおっちゃんもおばちゃんも、もういない。
おっちゃんは隆彦が小学生の時にベッドから転落して脳に障害を負い、言葉が出なくなってしまった。
消防署の仕事を辞めてずっと家に居るようになったが、会話できなくなり、マーチを聴かせてくれることもなくなった。車の運転もしなくなった。
家の前にある石の椅子に座っていつもニコニコしていたが、隆彦もだんだんと大きくなり、関わることはなくなった。十八歳で家を出たので、その間におっちゃんは亡くなったと聞いていた。
その後、おばちゃんが一人で居たが、亡くなったのは幸之介が生まれた頃だった。
結婚した時妻と挨拶に行ったが、幸之介の顔を見せることはできなかった。
おっちゃんとおばちゃんが住んでいた家は建て替えられて、今は知らない年配の夫婦が住んでいる。
その向こうどなりの、隆彦がちょっと憧れていた女の子が居た家も、あの家族はもう住んでいない。またその向こうどなりも。
反対どなりの謎の家だけは、まだあの謎の家族が住んでいる。
かなり高齢のはずだ。子供達は出て行っているらしい。
その向こうどなり数軒の家々は、いずれも真新しく建て替えまたはリフォームされていて、昔の長屋の姿とは、随分と眺めが異なっている。
この長屋の家で、特に夜は物音を立てないよう常に言い聞かせられていた日々が帰省するたびに隆彦の脳裏に蘇り、小学生の幸之介がおばあちゃんの料理を食べながら「おいしい!」と、わりと大きめの声で言うのにもヒヤリとするが、昔はそういうことにうるさかった母親も年を取って丸くなったのか、それとも孫には甘いのか。
幸之介には物音など気にせず伸び伸び育ってもらいたいと思い、借家だがとなりとは間隔が離れた庭付きの一軒家に住んでいる。
家を買うとなると、予算ではやはりとなりの物音を気にしないといけないような物件しかなかなかないのが悩みどころだ。
新型コロナウイルス感染者の大挙収容が可能な通称野戦病院を造る計画が結局実現しないままで感染第六波が落ち着き、第七波が来ると言われているが計画は立ち消えになっている、計画はなぜ進まなかったのか、とテレビの報道特集で流している。
野戦病院、で思い出した。子供の頃に聞いた、実家のある長屋一帯が野戦病院だった、という話。あれは本当のことなのか。
聞こう、と口を開きかけると、母親が幸之介の学校のことなんかを聞いてきた。
答えていると、何となくそのことを切り出す機会を失い、また、どうでも良くなった。
確かなのは、過去にあった事物が嘘のように長屋一帯は変化している。
住む人が入れ替わり、建物が壊され、造られる。
野戦病院どころか、隆彦が子供の頃にあって長屋の子供達の多くが通っていた保育園も今はなく、帰省するたび、幸之介や妻に「すぐ裏に保育園があったんやで」と言っても、なぜか信じてくれない。
こんなごみごみした住宅地に保育園はないと思っているのか。長屋の住人も高齢者が多くなり、子供はほとんどいないらしい。
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