万引き


 どうもここ最近、バイト先のコンビニで万引きが問題になっているらしい。


 深夜のバイト中。

 疲れた様子の戸枝店長は、困ったように頭を掻きながら小さくぼやいた。


 防犯カメラがあるとはいえ、狭い店内に棚を多く詰め込むコンビニでは死角も多く、万引きは少なくはない。

 ただ、深夜帯に勤めている俺には関係の薄い話ではあった。俺の勤めるコンビニでは深夜の客は終電で帰ってきた人が立ち寄るか、昼夜逆転系の人が飯を買いに来ることが多い。

 人気も少なく挙動に目をつけられやすい状況で、わざわざ万引きをしようなどとは考えないだろう。


 万引きというのは日中に起こることが多いそうだ。

 逆に、強盗レベルの犯罪になると深夜の人員が少ない時間帯を狙うらしい。


 幸い、俺は今のところどちらの被害に遭遇したこともなかった。至って平和なバイトである。

 もう一方では全く平和ではない仕事(?)をしている身としては、此処の平穏さはちょうどいい気晴らしでもあったのだが。

 この店で、店長が困り果てる程の万引き被害が出ていたとは露ほども知らなかった。


 何を盗られたのだろう。充電器などは結構被害に遭いやすいから、実物は並べずに札で販売して対策している筈だし、他に店内で目立って高いものなんてのはない筈なのだが。

 いや、よく知らない俺が軽く考えているだけで、安いものでも積み重なれば店にとっては大打撃とも呼べる被害になるのかもしれない。


「そんなに酷いんですか? そういうのって、警察に届け出したりとか……」


 心配と、犯人への不快感から眉を顰めた俺に、店長は一瞬作業の手を止めると、軽く払うように片手を振った。


「いやあ、ちょっと話が違うっていうか。なんて言えばいいかな……万引きなんだけど万引きじゃないんだよね」

「? どういうことです?」


 言葉の意味が上手く掴めず、今度は困惑から眉を寄せてしまう。

 店長はそんな俺を見て苦笑を浮かべる。その表情を見るに、店長自身も事情を把握し切れてはいない雰囲気があった。

 それでも、少し説明に困った様子ではあるものの、ここ最近起こっていることについて教えてくれた。


 店長の話によると、その万引き犯?は親子なのだという。

 四十過ぎくらいに見える母親が、小学校低学年くらいの息子さんを連れてやってくるらしい。

 

 大抵の場合は未開封のお菓子を持ってきて、とても申し訳なさそうに頭を下げるんだそうだ。


 うちの子がお菓子を盗んできてしまって、本当に申し訳ありません、と。


 これだけならば、確かに迷惑ではあるがそこまでおかしなことはない。

 何度も繰り返している点については悪質だし、注意するべきかもしれないが、重要なのはそこでもないそうだ。


 この件の問題は、その『息子さん』とやらは万引きなどしていない、という部分にあった。


 母親が戻してくる商品は確かに何処のコンビニでも取り扱っているようなものだが、在庫と照らし合わせてみるとそれらの菓子が盗まれているような様子はないそうだ。

 一度や二度なら棚卸しの間違いや管理不足もあるかもしれないが、母親が何度も来るようになってからは気にかけて確認するようにしたので、間違いはないという。


「つまり、その母親は、何処か他所の店で買ったものをわざと戻してきてるってことですか?」

「まあ、そうなるねえ」

「……何のために?」


 至極単純な疑問だった。

 盗んだものを返しに来るのは人の道理としては当然のことである。ただ、盗んでもいないものをわざわざ返しに来るのは意味が分からない。


 仮に思い浮かぶとすれば、本当に息子が盗んだと勘違いをしている、だとかだろうか。

 あるいは、もっと悪い想像をするのであれば、ある種の虐待か何かを疑ってもいいのかもしれないが、そうなると親である自分にも責任問題が生じるだろう状況にわざわざ持っていく理由が分からない。


「そんなの、僕だって分からないよ。ただ、まともな人じゃあないんだろうね」


 戸枝店長の声にはうんざりしたような、精神的な疲労を感じさせる投げやりな響きがあった。

 普段の業務だけでも十分に疲れるような忙しさなのに、その上余計な仕事を増やすような人間にまで構ってはいられないのだろう。


 店長曰く、昼のシフトの人は一度はその親子の対応を経験しているんだそうだ。

 親子が来る頻度の高い時間帯──具体的には、夕方四時頃──に入っている人は、頭を下げる母親に何度も対面した上、最低でも二十分はその謝罪に付き合わされる羽目になっているらしい。


 盗んでもいないものを持ってきて、やってもいない息子に頭を下げさせる母親。

 迷惑な上に、十分に気味が悪い存在だった。


 実際、学生のアルバイトの何人かは、来るだけでも気味悪がって、まともに対応しなくなっているそうだ。

 今は虚偽の万引き報告で済んでいるかもしれないが、こんな訳の分からないことをする人間は、いつかもっと直接的な危害になるような方向に舵を切らないとも限らない。関わり合いになりたくないのは、ごく自然な感情だと言えた。

 店長の疲れ切った顔は、そういうアルバイトからの声を受けてのものでもあるのだろう。一組の気味の悪い客のせいで、シフトを外してくれなどと言われたら、きっと店長からすれば堪ったものではないし。


「うちの商品じゃないから大丈夫ですよって言ってるのに、向こうから盗りましたって言い張られてねえ……何度も何度も頭下げられてさ、受け取らないままで居座られても店としては困るじゃない。盗ってないって言い張る客の方が可愛げがあるなんて思う日が来るとは思わなかったよ」


 やれやれ、と肩を落とす店長は、とにかく話を聞いてくれる相手が欲しいようだった。

 奥さんと娘さんとはまだ離れて暮らしている、というのも精神的な疲労に繋がっているのかもしれない。


 二月の末。

 神藤さんを経由して、伊乃平さんから戸枝店長の件について『解決した』との連絡が入った。

 どんな経緯でどのように解決したかまでは聞けなかったが、少なくとも店長の娘さんがSOSを送ってきた『屋敷に居る何か』については問題はなくなったということだ。


 ただ、店長が奥さんと娘さんと離れることになった理由が解決したからといって、すぐにまた一緒に暮らしましょう、とはならないらしい。

 離婚をしたのも五年前の話で、そもそも同居している祖父母は娘さんが父親である戸枝店長に年賀状を送っていることも知らなかった。

 娘さんも祖父母の家で暮らす上で向こうの人間関係が出来てしまっているし、奥さんも此方を離れる際に仕事を辞めて実家の方で新しい職に就いている。


 此方から会いに行くことは出来るけれども、店長としてはあんなものが居るような地域で暮らしてほしいとも思えない訳で。

 なんとか関東の方で家族三人で暮らしたい、というのが店長の望みのようだった。


「どうせ何度も来るなら、うちだけじゃなくて他所に行ってくれればいいのにねえ」

「……もしかしたら、もう既にいろんなところを巡った上での頻度なのかもしれませんよ」


 なんだか嫌な予感がして、思いついたことを口にする。

 俺の言葉を聞いた店長は、八の字に歪んだ眉を揉みほぐすかのように眉間に親指を当てた。

 結局、揉んだところで心労は解れる様子もなく、店長は覇気のない声で呟いた。


「しかも不気味なのがねえ、連れている子供は泣きもしないでじーっと床だけ見てるんだよ。母親は大袈裟なくらいに頭を下げてるのにね。

 手を引かれないと歩こうともしないっていうか……母親の言うことだけ聞いていればいいと思ってるのか、なんなのか、分からないけど」


 一拍空けて続いた店長の声には、心の底からの同情がこめられていた。


「もうねえ。ああいう子は、まともに育ててはもらえないんだろうね。可哀想に」


 本当に哀れに思っているのが、深く伝わってくる声だった。

 確かに、そうだろう。奇怪な行動ばかりする母親に連れられて、やってもいない万引きをしたことにさせられて、犯してもいない罪について必死に謝罪させられている。

 恐らくは母親が抱える何かしらの欲求を満たす為だけの行為に、人生を付き合わされているのだ。


 そういう子供に対して、真っ当な大人が同情の気持ちを持つのは、至極当然のことだった。


 可哀想に、という心からの言葉が、なんだか妙に耳に残る。

 こういう時、俺はなんとなく、曖昧に愛想笑いを挟むくらいのことしか出来ない。


 同意、はしたくなかった。

 かといって、何か反意を示したい訳でもないのが難しいところだ。


 娘さんを大事に思う店長だからこそ、可哀想な環境に置かれた子供の未来については思うところがあるのだろう。

 ただ、あくまでも他所の子供であるし、現状、店長にとって件の親子は『迷惑行為を働いてくる上に売り上げにも貢献しない客』である。

 必要以上に気にかけたところで意味などないし、義務もないし、言ってしまえば権利すらもない。


 けれども、同時に、助けもしないのに勝手に同情する権利だってないのではないだろうか──などと、思ったりしてしまう。

 思うだけな時点で、結局は俺も同じ立場にいるのだろうけれど。


「大体ねえ、父親は何をしてるんだって話だよ。自分の息子があんな目に遭わされてるのに」


 離婚してるとか、死別だとか、理由はいくらでも浮かんだけれど、俺は特に口にすることはなかった。

 店長が求めている会話の行き先はそこではないだろうな、と思ったためである。


 ただ無難に、「もう来ないといいですね」とだけ返しておいた。



      ***



 動きがあったのは、それから五日後の昼過ぎだった。

 今日は何の話を聞くことになるのだろうな、などと思いながら人型の跡の残る風呂場を掃除していた俺のスマホに、店長から連絡が入った。


 なんでも、この前に話した親子がどうもおかしなことになっているから、とりあえずコンビニまで見に来て欲しいのだそうだ。

 あれ以上におかしなこと、とは一体なんだろうか。


 本当に万引きをし始めただとか、店の備品を壊そうとしただとか、あるいは店員に危害を加え始めただとか。そういうことだろうか。

 もしそうなのであれば連絡するべきは俺ではなく警察だと思うのだが、店長は曖昧な返事をする俺に構わず話を続けた。


『あの母親さあ、息子を置いていっちゃったんだよ』


 店長は心底呆れたような、それでいて途方に暮れたような声で言った。

 今日も謝りに来たのかと思ったら、店に入ってきた母親は、息子だけを店内に置いて何処かへ行ってしまったらしい。

 ちょうどレジ二つとも客が並んでいて、バイトが対応できるタイミングではなかったそうだ。


 俯いたまま何も言わない子供に困ったアルバイトが、店長へ連絡し、そして様子を見に行った店長が俺へと連絡した──というのが今の状況のようだった。


「あの……それって、まずは警察とかじゃないんですか?」

『もちろん、普通の子供だったらそうなんだろうけど……あれはちょっとねえ……』


 どういう意味だろうか。

 店長の言う『普通』が今ひとつ掴めないまま生返事をした俺に、歯切れの悪い様子で説明が続く。


 なんかね、ちょっとね、と電話口で囁く店長は、どうやら他の誰にも聞かれない場所まで移動したらしい間の後に、殊更に潜めた声で告げた。


『あれね、人間じゃないんだと思う』

「………………」


 黙り込んでしまったのは、単純に伊乃平さんへ連絡をするべきか否かを考えたからである。


 店長は俺を、霊能力者の弟子だと思っている。そんな事実は一切ないのだが、否定すればするほど嘘に聞こえるから、この類の表明は難しいものだ。

 加えて、下手に実績──と呼んでいいとは微塵も思っていない──があるだけに更に厄介な話である。


 店長がこの状況で俺に連絡をして、『店まで来てほしい』と言ったからには、求めることは一つの筈だ。

 『霊能力者の弟子』である俺に、『霊能力的な何か』でこの事態を解決をしてほしいのだろう。


 沈黙の理由を勘違いしたのか、店長は慌てたように付け足した。


『ああ! 心配しないで! ちゃんと謝礼は出すから!』


 その言葉自体には嘘はない筈だ。店長は使えるものは何でも使う主義の人であり、使う時にはきちんと報酬は支払うタイプでもある。

 使えない人に対しての当たりがやや強いので、一部のバイトとは大層相性が悪かったりもするのだが、まあ、その話は置いておくとして。

 仮に店長がいくら誠実に謝礼を支払おうとしたとしても、そもそも俺個人には対処など出来ないので、単に無意味な提案なのだ。


 店長の娘さんの件に関しては、単に伊乃平さんに頼むことが出来たから解決したに過ぎない。

 だったら今回もそうすればいいじゃないか、と思うかもしれない。だが、俺が年始に店長の件を頼んでから、まだ二ヶ月ほどしか経っていない。

 そもそもが、俺は伊乃平さんに言われた『××神社に言って伊乃平さんに助けてもらいましたと報告する』というお礼すら達成していないのだ。

 あの後、神藤さんから神社の場所を聞いたら岩手の方だったので、中々気軽には行けなかったという事情もあるが、前回のお礼も出来ていないのに更に頼るのは如何なものだろうか。


 伊乃平さんには気になったことは好きなだけ聞けばいいとは言われたが、基本的に関東圏では仕事をしていないそうだし、神藤さんも遠慮しなくていいからね、とは言ってくれているけれども、当然二人とも普段の仕事がある。

 俺の都合でそう何度も連絡するのは、正直に言って気が引けた。

 かといって、自力でなんとか出来るのかと聞かれれば全くそうではないのだから、本来は話など受けないのが一番いいのだが。


『高良くん、頼むよ! このままだと呪われたコンビニとか噂が立って、うちは潰れてしまうかもしれない……!』

「…………その、……一旦、様子だけ見に行きます」


 声量だけは抑えられていたが、店長の言葉はほとんど悲鳴に近かった。

 これを放っておいて素知らぬ顔で出勤出来るか、と言われたら微妙なところである。


 ありがとう!と心からの感謝を口にする店長の声に、何とも言えない笑みが浮かぶ。

 通話を終えてから、適当に着替えて部屋を出た。隣人から話を聞くにはまだ早い時間なので、隣からノックされることもないだろう。


 そもそもが、店長が幽霊だと思っているだけで、全くそんなことはない、ということもあり得る。

 たぶん。一割くらいの確率で。


 九割は幽霊か何かだと思っているのは、そうだとしたら困る、と思っているのと同じくらいに、そうあって欲しいと思いたいからかもしれない。

 少なくとも生身の息子が付き合わされているよりは、よっぽど救いがあるような気がしたからだ。


 まあ、もしかしたら、『生身だった息子』が付き合わされている──ということかもしれないけれど。


 何にせよ、遠慮するだけしておいて、結局頼ることにはなってしまうのだろう。

 迷惑をかけることへのお詫びを記して、俺は神藤さんに連絡のメールを入れておいた。




「────ああ! 高良くん! 来てくれてありがとう、本当に助かるよ」


 コンビニへと顔を出した俺に、店長は心底ほっとしたように笑みを浮かべて軽く此方の肩を叩いた。


 通常業務に戻っているらしいアルバイトの二人が俺に視線を向けてくるので、頭だけ下げておく。

 勤務時間もそうだが、そもそも俺は深夜帯でもなければこっちのコンビニは使わないので、この先顔を合わせることもないだろう。

 店長は足早に俺を裏の控え室へと連れていくと、「ほら、あれ」と室内の一角を示した。


 そこには確かに、小学生低学年くらいの男の子が立っていた。

 俯いているので顔は見えないが、耳にかかる程度の黒髪で、紺色のシャツにクリーム色の半ズボンを履いている。

 見る限りは普通の男の子でしかなかった。そりゃあ、態度の方は少しばかり異様かもしれないが、内気な子供であれば十分にあり得る程度の立ち姿だ。


 やはりこれは、警察に任せるべき案件ではないだろうか。

 そう思って店長を振り返るも、軽く首を振られてしまった。


「顔、顔」

「……顔?」


 見てみて、と潜めた声で言う店長の言葉に従って、そっと少年の顔を覗く。


 口と目がなかった。

 更に言うなら鼻に当たるのだろう部分もなだらかな高さを持つばかりで、きちんと機能しているようには見えない。


「…………」


 少年は身じろぎもしなかった。

 ただじっと俯いて、身体の両脇に腕を垂らしているだけだ。


 俺はそっと、なるべく彼を刺激しないようにゆっくりと距離を取ると、店長へと視線を向けた。

 すぐに察した店長が、声量を落としたままで答える。


「この間までは普通の男の子だったよ。流石にこんなのが来てたらもっと騒いでるだろうし……っていうかさっきも騒ぎかけてたから、急いで高良くんに連絡したんだけど」

「……なるほど」

「本当に申し訳ない! ただ、このままうちには置いておけないからさ、お願いしてもいいかい……?」


 お願い、と言われても。まあ、店長としてはこの場ですぐになんとかしてもらう、というよりは『霊能者』の先生に対応してもらうために俺に預けたかったのだろうけど。

 のっぺらぼうの子供を連れていくのは、俺だってちょっと勘弁して欲しいものがある。


 どうしたものかな、と思ったところで、ポケットに突っ込んでいたスマホが震えた。

 画面を見ると、神藤さんからの着信である。店長に軽く断ってから、電話に出る。


 『多分、幽霊か何かが来てるみたいで』などという不明瞭なメールを読んで連絡をくれたらしい神藤さんは、のっぺらぼうの子供が居て、とりあえずこの場からは離したいんですけど……と伝えた俺に、少し困ったように言った。


『兄さんとすぐには連絡がつかなくてね。電源も切っているみたいだし、こうなるとしばらく音信不通になるものだから……。

 ただ、前に似たような状況になった時、一時的にマンションに置いておいたことがあったんだ。大家さんは高良くんの好きにしてくれていいって言っていたから、なんだったら七階に連れて行ってもらっても構わないし、それで何か起こるってことはない筈だよ。

 兄さんと違って、頼りにならないことしか言えなくて申し訳ないんだけど……』


 すまないね、これから会議があって、と申し訳なさそうに告げた神藤さんとの通話が切れる。

 忙しい中でわざわざ電話の時間を取ってくれただけで有難い話だ。

 一先ず、マンションに連れていく分には問題は起こらない、らしい。本当かは知らないが。


 振り返ると、店長は期待に満ちた目で俺を見つめていた。身体の前で合わされた手が拝むように掲げられている。


「……とりあえず、一度連れて行ってみます」

「本当かい!? いやあ、ありがとう! やっぱり高良くんは頼りになるねえ!」


 謝礼は高良くんに渡せばいいかい?なんて途端に笑顔になる店長に、思わず苦笑いを浮かべてしまう。断られる想定ではいなかっただろうし、そもそも断ろうとしたのなら何時間でも粘る人である。

 すっかり解決したつもりで軽やかな足取りで部屋を後にする店長を見送ってから、俺は立ち尽くしている少年の側へと近づいた。


 連れていく、と言ったはいいものの、問題は彼についてくるつもりがあるかどうかである。


「……えーと、お母さんは迎えに来ないみたいなんだ。一旦、俺と来てくれるかな」


 意思疎通が出来るのかすら分からないまま、それでも見た目は少年の形をしているものを無理に連れていくのもどうかと思って話しかける。

 俯いたままの彼は無反応だった。頷く素振りもなければ動く気配もない。マネキンだと言われれば信じてしまいそうだったが、試しに手を取ってみると、確かに柔らかかった。


 そのまま、手を引きながら足を進めてみる。

 ついてきた。


 くるのかあ……というのが、俺の心情を端的に表したものだった。

 いや、ほら。これでついてこなければ、「やっぱりダメでした」とか言えるかと思ったのだが。


 ただ、手を離すと簡単に止まる。意思というものがまるで感じられなかった。

 例の母親に連れられている時も、こんな感じだったのだろうか。どんな思いで謝る母親の声を聞いていたのだろう。いっそ、何一つ思うところなどなかった方がいいくらいだ。


 レジ前を通る時のアルバイト二人のリアクションをあまり見たくなかったので、俺は目線を合わせることなく会釈だけしてコンビニを後にした。


 マンションへの道のりを、手を繋いだまま二人で歩く。少年は俺の少し後ろについてくる形だ。

 基本的に俯いている上に前髪が少し長いので、連れて歩く分には顔がないことを察せられることはなさそうである。

 ただ、見ず知らずの子供を連れ回しているようにも見える訳で、俺はこれが幽霊や怪異の類であるという事実とは別種の緊張を抱いていた。


 不審者には見えませんように、などと祈りつつ、なんとか無事にマンションへと辿り着く。

 ところで。

 マンションに置いておいたことがある、と神藤さんは言っていたが、これは俺の部屋まで連れて行かないとダメなのだろうか。

 それとも七階の空いている部屋に一時的に居てもらえばいいのだろうか。

 まあ、他に鍵が開いている部屋は七〇五室しか無いのだが。澄江由奈の友達にでもなってもらえばいいのか?


 そんなことを考えつつ、エレベーターの階数ボタンを押す。

 少年は、マンションに入る時にも特に抵抗する素振りは見せなかった。

 今も静かに俯いている。


 だが。

 エレベーターが六階に通りかかった時、俺は異常に気づいた。


 握り締めたままの彼の手が、びくりと大きく震えた。

 一回り小さな手に強く力がこもり、俺の手の甲に軽く爪が立てられる。


 後ろを振り返る。身体をくの字に折り曲げた少年が、空いている方の手で口元を押さえているのが見えた。

 目に見えて頬が膨らんでいる。その皮膚の下で何かが蠢いているのを察した瞬間、俺は自分の身体が強張るのを感じた。


 あ。

 やばいなこれ。


 俺はその膨らんだ頬の内側に何が・・いるのか、知っている。


 原因となっているのは六階の異常である。

 五階から六階、あるいは六階から七階の間を階段で上がると、どういう理屈か口から害虫が出てくるのだ。

 主にゴのつくあいつで、他にも諸々いるらしい。


 俺は実際に上がったことはないのだが、前にそうなった人を目撃したことはある。

 マンションの短期入居者が、ここを浮気相手と会うための部屋にしていて、更にそこに本命の彼女が乗り込んできて──みたいな事情の結果起きた話だ。カバンでぶん殴ってくる彼女から逃げようとして、四階から六階まで逃げたんだと。

 階段で大騒ぎしていたのを漏れ聞いただけだが、大体合っている筈だ。悲鳴をあげる彼氏と悲鳴をあげる彼女と悲鳴をあげる浮気相手がもつれ合って、なんだかとても大変なことになったそうだ。


 個人的にはダントツで最悪な霊障だと思っているので、俺は絶対に階段は使わないと決めている。

 伊乃平さんからの説明をそのまま聞かせてくれた神藤さんによると、実体を持たない害虫の霊が、人間やその他の命を使ってこの世に現れているんだそうだ。

 だから人間以外にも、例えばねずみやら烏やらがもしも階段を使ったとしたら、それらの口からも害虫が出てくる筈である。見たくもないので試す予定はないが。


 エレベーターを使えば大丈夫なんだと思っていたが、どうやらそれは生身の人間に限った話らしい。


 唇も無かった筈の少年の口元には、既に内側から引き裂かれるようにして切り込みが入っていた。

 押さえている手の隙間から、見慣れた黒いあいつがもぞもぞと這い出してくる。見たくない。が、見ていない間にこっちに飛ばれると本当に困る。

 目を離せないままでいる内に、七階に着くと同時に、嘔吐するような仕草と共に裂けた口から様々な虫が飛び出てきた。


「うおお、うわ、うわ……っ」


 蹲った少年が次から次へと吐き出す害虫から距離を取──ろうとして、縋るように握られたままの手に止められた。

 意思がないように見えた彼だったが、どうやら流石にこれは辛いらしい。分かるよ。俺だって同じ目にあったら本当に最悪に嫌だからな。


 なんとかして助けてやりたい。俺が連れてきたせいでこんなことになったのだし。

 だが、申し訳ないことにこれを解決する手立ても知らない。あと何より、本当に虫が苦手だ。さっきから勝手に情けない声が出ている。


 小さい頃は平気だった癖に、どうして大人になるとダメになるのか。しかも自分の何十分の一もないような生き物相手に。

 まあ、何十分の一だろうと何十匹も集まっていたら勘弁してほしいに決まっている訳だが。


 視界に飛び回る虫を腕で払いつつ、少年の手を引いて逃げるようにエレベーターを降りる。

 自室である七〇二号室の前までやってきて、鍵を取り出そうとしてから、果たして彼を部屋の中に入れることが正しい判断だろうかと迷って手を止めた──瞬間、俺の頭に何かが当たった。


 色鉛筆である。

 それからくしゃくしゃに丸められたノートの切れ端。

 次にスティックのり。

 あと木べら。


 七〇五号室の扉が少しだけ開いていて、隙間から次々に何かが飛んできていた。

 多分、室内でまだ形を保っているものを投げつけてきている。澄江由奈が。

 箸も来た。


 まあ。

 そうだろうな。

 虫はとびきりに嫌だよな。

 女の子だし。

 自分の部屋にまで来られたら最悪だもんな。


 黒い何かがへばりついたフライパンが扉の隙間からはみ出てきたところで、俺は少年を連れて自室へと飛び込んだ。

 扉を閉めると同時に、廊下の奥の方でも強く扉の閉まる音が響く。

 フライパンは最初から投げるつもりはなかったようで、何よりである。流石にあれが当たったら軽い怪我じゃ済まないだろ。


 ところで。対照的に、隣人の部屋は不気味なくらいに静かだった。

 その代わりに布団から威嚇するように腕が出ていたが、無視した。今はお前に構っている場合では無い。


 少年の口から出ている害虫が止まる気配はなかった。

 これ一体どうすればいいんだ。どうしろってんだ。分からん。


 窓とか開けて置いたらそこから飛んでいってくれないだろうか。冷静に見えるかもしれないが、俺は今ちょっと、いやかなり泣きそうである。幽霊よりもゴキブリが怖い。

 たとえば部屋の隅に白いワンピースの黒髪の女が立っているよりも、同じサイズのゴキブリがいる方がみんな怖いのではないだろうか。

 嘘だ。どっちも怖いに決まっているのでこの例にはなんの意味もない。


 とりあえず、部屋の中で吐き出されるよりは、ベランダで吐かれる方がマシだと思い至った。


 軽く声をかけつつ、少年の手を引く。つらそうに身を屈める彼を無理に歩かせるのは申し訳なかったが、このまま無限に吐かれるのだとしたら部屋の中では勘弁してほしかった。

 あとで絶対に燻煙タイプの殺虫剤を買ってこよう、と心に誓いながら、二人揃ってベランダへと出る。


 耳障りな羽音は絶えず響いていて、俺は時折反射的に腕を上る何かの感触を振り払っていた。


 飛んでいく害虫を見る度に背に嫌な寒気が走るのを感じつつ、手が離れる気配もないのでひたすらに現実逃避に励み始める。

 伊乃平さんはいつ連絡が取れるんだろう。このまま待っているよりも、いっそ隣人に頼んだ方がいいのかもしれない。


 そんなことを思いながら隣のベランダへと視線をやりかけた時、俺の耳は小さな呟きを拾った。

 男の子の声だ。出所は当然、隣に立つ彼である。


 ゆるしてください、と辿々しい声が微かに響いていた。


 ちゃんとします ちゃんとします

 ゆるしてください


 身を守るようにして蹲った彼は、引き裂かれた口から害虫を零しながら、ただそれだけを繰り返していた。

 それはこの状況に向けられたものというよりは、此処にはいない誰かへの懇願だった。


 繰り返される言葉の並びに、『ごめんなさい』が無いことにすぐに気づいた。それが出てこない理由も、すぐに察した。

 どういう訳か、『ごめんなさい』と言った方が更に怒られる場合があるのだ。これは俺の勝手な憶測だが、謝らせたくて怒っているのではなく、ただひたすらに此方が悪いことを自覚させたいだけだから謝られても腹が立つだけなのだろう、と結論づけている。

 ほら。謝るとさ、許さない方が悪い空気になるだろ。なる場合があるだろ。謝るという行為がどういう訳かその相手を責めている、と取られるパターンがある。最悪である。


 気づいた時には、丸まった小さな背中に手を乗せていた。

 別に、宥めたところで何の意味もないし、同情なんかしたところでどうにもならないし、憐れむことはきっと彼にとっては苦しいことだろうけれど。


 しばらくの間──つまりは、彼の口から出る大小様々な虫がすっかり抜け切るまでの間そうしていると、隣の部屋から窓の開く音が聞こえてきた。

 このタイミングでか、などと思いつつ、膝をついたまま仕切り板の方を見やる。


 黒く爛れた管の一つがゆるりと向こう側から姿を現す。

 そうして、出てきた隣人はちょっと驚いたような、それでいて嬉しそうな声で呟いた。


「今日はグミじゃないんだ」


 俺は、静かに自分の片側を見やった。

 まだ名残があるのか、軽くえずいている様子の彼は変わらず隣にいて、俺の掌を縋るように握りしめている。


 特に続く言葉もない沈黙の中、俺はじっと、此方に寄り添うように蹲る少年を見下ろしていた。

 今日はグミじゃないんだ、という隣人の言葉を、脳内で三回くらい繰り返しながら。


「……………………」


 かなり良くない想定が頭に浮かんだが、多分間違っては無いと思う。

 確定にするつもりは一切ないので、一ミリも言及するつもりはない。


 なので、この、隣のベランダから楽しみにしすぎて身を乗り出すかのようにして管を伸ばしている隣人には、残念だが諦めてもらう他ないだろう。

 それ以上の言葉を聞く羽目になる前に、俺は抱いた焦燥を振り払うように言葉を重ねた。


「彼のことはあとで伊乃平さんに相談する。今は預かってるだけだ」

「なんで?」


 なんで? なんでってなんだ。

 あれか。不満の表明か? それとも、単純に連れてきた理由を聞いてきたのか。


 後者だと良いな、と思った。

 というか、後者でなかったら勘弁してほしかった。


「……バイト先に迷惑かけてる母親が置いていった、子供の幽霊か何かみたいなんだ。店長が困ってるから連れてきたけど、どうしたらいいか分からないから、伊乃平さんに聞こうと思ってる」

「子供?」


 今度は、純粋に驚いたような声音だった。

 連れてきた理由にはちっとも興味がなさそうな仕草で管を傾けた隣人は、驚きのままに続けた。


「タカヒロにはそれが子供に見えるのか」


 するりと落ちた呟きの意味を理解する前に、俺の視線は腕の先の少年へと向かう。

 到底普通の人間ではないことは確かだが、それでも、子供であることには間違いがないように見えた。


「……お前には何に見えるんだ」


 俺の目で答えを確かめることは出来ないだろう。そもそも、確かめる必要もないことかもしれない。

 それでも聞いてしまったのは、もしも隣人に見えているものが人以外のものであれば、『グミ』と同列の扱いであることに納得できるかもしれない、と思ったからだ。


 迷いながら問いかけた俺に、隣人は伸ばした管の一つから目玉を覗かせる。

 蛇が首をもたげるようにして少年の姿を確かめた隣人は、やや平坦な声で告げた。


「夫に死んだ子供の皮を被せている」


 それは一体、どういう状態に当たるのだろう。

 伊乃平さんみたいに分かっている人が聞いたのなら理解できたのかもしれないが、俺には想像もつかなかった。


 ただ、俺はそれ以上尋ねることはしなかったし、隣人も説明をする気はないようだった。

 一度、少年の方へと視線をやり、隣人の方へと戻──そうとしてやめる。目玉が引っ込んでいく気配を感じてから、ようやく目の端にだけ姿を入れておいた。


 俺の手を離した少年は、最後に茶色くて小さい方の虫をぽろりと吐いてから、膝を抱えるようにして座り込んでしまった。

 小さく丸まった彼の姿は、やはり俺には十歳前後の少年にしか見えない。今は顔が見えない格好でいるから尚更だった。


 仕切り板の向こうへと引っ込んだ隣人は、既に興味を失ったような様子で六本指を揺らしている。

 特に怪談を話し始める気配もない。けれども、部屋に帰っていく様子もない。


「………………」


 俺は静かに少年を見下ろし、その肩に手を当て、軽く揺らしてみた。だが、此方も此方で、反応がほとんどない。

 霊障を直接受けたせいで気が滅入っているのか、それとも動く気力がないのか。このままベランダに置いておくのは大分良くない気がするのだが、立ち上がってくれそうにはなかった。


「この子……この人、伊乃平さんに連絡がついたらどうするか決めるよ。それまで居ると思うけど、気にしないでくれ」

「ふうん」

「…………何か嫌か?」

「タカヒロが気にしないなら、いいと思うよ」


 隣人の言葉には特に強い感情が乗っているようには聞こえなかった。そうして、特に何を語るでもなく部屋へと戻っていく。

 俺としては、布団のあいつよりは余程安全に見える気がするので置いておいても構わないのだが、何か気になる点があるのだろうか。


 そうして、ベランダの端で置物のようになってしまった少年を置いて部屋へと戻った俺は、


「…………お、おお……」


 部屋の郵便受けからはみ出さんばかりに捩じ込まれているノートの切れ端──澄江由奈からの山盛りの抗議文を前に、とりあえず詫びの品を用意せねば、と思った。


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