呼ばない

01

 スクールバスを降りて夕方の匂いを吸い込んだとき、小早川こばやかわまりあはふと(今夜寂しくなるな)と思った。

 今夏、彼女は母親を亡くしている。遺体がないから法的にはまだ生きていることになっているけれど、母が死んでいることを、まりあはちゃんと知っている。

 当たり前の失い方ではなかった。なるべくしてああなったのだという納得感も持っている。それでも喪失感はまだ残っている。どこかの家から流れてくる夕食の匂い、ふとすれ違った人から香った柔軟剤の匂い、女性の手の手触り、体温。ふとしたことで「寂しくなるスイッチ」が入ってしまう。

 まりあには、見浦花織みうら かおりの気持ちがわかる。いなくなった家族の名前を呼んで「気のせい」を育ててしまった心の状態は、おそらく今の自分のそれに似ていると思っている。もしも「気のせい」が現れたのが自分の部屋のクローゼットの中だったとしたらどうだろう? 呼びかけずにいられただろうか?

 アパートの鍵を取り出し、手探りして鍵穴に差し込む。この動作はかなり慣れてきて危なげがない。その時まりあのすぐ横を、何かが通りすぎた。完全に光を失っているはずの彼女は、しかし何かしら得体のしれないものをように感じる。言葉では上手く表現ができない。ひたすら感覚的なものだ。

(練習したら、もっとわかるようになるんだろうな)

 視覚を失い、志朗貞明しろう さだあきのところに通い始めてから、まりあは時々似たような感覚を覚えることがあった。名前も行く宛もない「何か」は、思っていた以上にそこかしこを漂っている。それに名前をつけること自体は簡単なことだ。一線を踏み越えることは容易い。

 それがよくないことだと知っているまりあでさえ、ふと部屋の隅に「ママ」と呼びかけたくなることがある。

(大丈夫、やらない。お師匠さんがだめって言ってたし、ママはもういないって、わたしはちゃんとわかってる)

 母親が死んだことも、その母親の霊を志朗貞明が消したことも、まりあは知っている。外ならぬ自分がその判断を下したことも、ちゃんと覚えている。

 だから母親を呼んだりしない。

 手の中で鍵が回り、玄関のドアが開いた。すでに慣れ始めた自室の匂いが鼻腔を撫でる。まりあは部屋の中に入り、ドアを閉めて、玄関をきちんと施錠した。


〈ZOOM 了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ZOOM 尾八原ジュージ @zi-yon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ