白いもそもそ

高丘真介

白いもそもそ

 そこにいるのが誰なのか、すぐにはわからなかった。見たことはある。それは間違いないのだが、わたしの頭のなかでの処理が追いつかなかったのだ。なぜならその男は、そこにいるはずのない人物だったからだ。

 

 それは、紛れもなくわたし自身だった。

 

 だぶだぶのジャージ上下に包まれた中肉中背の体に、面長の顔がのっかっている。目じりと口元に刻まれたしわが、長年溜めこんだ疲れを物語っているようにも見えた。

 にやり、と左の口角だけを上げて笑うその顔を見たその瞬間、どくん、と大きく心臓が跳ねる。一気に早鐘を打ち始める胸を押さえながら、わたしは我知らずその場を逃げ出した。

 どんどんと走って走って、たどり着いた場所は小高い丘だった。なんとか冷静さを取り戻して後ろを確認する。誰も来ていないことがわかり、ほっと一息。そのままゆっくりと腰を下ろした。

 まずは落ち着けと自分に言い聞かせながら、とにかく自分自身を確認する。両手両足はOK。見えてはいないが、とりあえず顔もある。服装は、記憶にある通り、パジャマとして再利用している高校時代のジャージだ。これも間違いない。

 もしかすると、かねてから抱えている不安が現実のものとなってしまったのかと焦ったが、そうではないらしい。もしそうなら、今自分は紙切れのように薄っぺらになってしまっているか、もしくは米粒や虫けらのような大きさに縮んでしまっているはずなのだ。


「いや、待てよ……大きさって言っても……」


 一抹の不安を払拭すべく、わたしは顔を上げた。

 と、ぬぼっ、と巨大な何かがこちらへと接近してきていた。視界いっぱいに広がる、目、鼻、口、引きつり笑いのように、ぎこちなく上がっている、左の口角――

 巨大な自分自身を目にして、わたしは意識を失った。

 


 わたしは目覚めた。

 布団の中で、下着もジャージもじっとりと湿り気を帯びているのがわかった。むしろ濡れているといっても過言ではないほどに、汗をかいている。スポーツでかくさわやかなものではなく、健康に良くない嫌な汗だ。

 

 どうやら、夢だったようだ。

 普段から気にしていたために、ついに夢にまで侵食してきてしまったのだろう。わたしはそう判断した。


「あなた、起きたの?」


「ああ……ちょっと、ね」


 と、わたしははっとして首筋を押さえながら、妻の方へと寝返りを打った。すす、と忍び込んできた冷たい空気が、濡れた肌から体温を奪っていく。


「また、出てきたの?」


「いや……どうだろう」


 指で右首筋をうろうろと探してみるが、めぼしい突起は見当たらない。


「今日は出てないみたい」


 ああ、そう、よかったじゃない、と少し寝ぼけたような声でいうと、妻はそのまま寝てしまったようだった。

 薄明りの中でその姿を確認してから、もう一度仰向けになって目を閉じた。しばらくそのまま睡魔が訪れるのを待っていたのだが、じとじとと体にまとわりつく湿気が気になって、どうにも眠れそうにない。

 諦めて、一度風呂で体を流すことにしたわたしは、隣で小さく寝息を立てる妻を起こさないように気をつけながら布団をそっとめくり上げて、ベッドから這い出した。


 三月初旬の冷たい空気が、濡れてぴったりと肌にくっついたTシャツ越しに直に感じられる。自然と早足になったわたしは、飛び込むようにして脱衣場へ入る。服を脱ぎ捨てて浴室へ入ると、すぐにシャワーのコックを全開にして水がお湯に変わるのを、ただひたすら待つ。

 何気なく首筋へと手をやると、そこに突起を発見。先ほどまではなかったものだ。もう一度確認する。やはり、あった。それをそのまま爪でこそげ取り、目の前へと持ってくる。

 白い、もそもそとした何かが、指先にくっついている。心なしか、以前取ったものよりも大きくなっているように感じられる。もう一度、先ほどこそげ取ったその痕を手で探る。と、また突起が出てきている。

 ひやり、と汗が出て、そして引いていくのがわかった。目の前ではシャワーのお湯が垂れ流され、湯気が立ち上っているが、気にかけていられるような気分ではなかった。

 もう一度首筋からこそげ取り、そして、目の前へ。

 今度は先ほどのものよりも倍以上の長さの、五ミリほどの『白いもそもそ』だった。直径は一ミリもない素麺程度の円柱形の物質。それが、わたしの体から出てくるのだ。

 

 

 初めてそれを確認したのは、もう三ヶ月以上も前になる。ベッドの中でわたしの首筋をいじっていった妻が、何かが取れた、と指の腹に乗せて見せてくれたのが『白いもそもそ』だった。

 それ以来、時折「また取れたわ」となぜだか楽しげに『白いもそもそ』をこちらへと見せてきた。最初は軽く受け流していたのだが、あまりにも何度も言われるので、次第に心配になり始めたのだ。

 

 だんだんその『白いもそもそ』が出てくる頻度が増えているように感じられることも、わたしの心を苛んでいる原因だった。


「ねぇあなた。これって、全部集めたらもう一人のあなたになったりなんかして」


 あるとき妻が、こういってころころと可笑しそうに笑ったことがあった。


「なんてね。なんてね」


 と、本人は軽い冗談のつもりだったのだろう。

 しかし、その妻の話が妙に現実味を帯びて心の奥底にこびりついてしまったのだ。自分の首筋から白い糸状の筋がどんどんと出て行って、それが次第に人の形へと変わっていく――そんな映像が、生々しく脳裏に刻みこまれてしまった。

 結果として、あんな悪夢を見ることになり、今こうして真夜中に一人、浴室で佇む羽目になっているのだ。

 

 首筋に、もう何もないことを確認してほっと息をつき、改めてシャワーの持ち手をつかむ。そのまま体を流すと、気休め程度には頭の中もすっきりしてくる。

 妻が「もう一人のあなたが……」といったとき、まじめに取り合ってしまったわたしは「白いもそもそを集めてもう一人のわたしが生まれることになるのなら、理屈上、今のわたしは消滅しなければならない。それは現代物理学を支える質量保存の法則からも明らかだ」と、そこまで考えを進めてしまい、その自分の想念に対してゾッと恐れを抱いてしまったのだ。

 

 まずはその前提を覆してみよう。

 

 と、わたしはクリアな頭でよくよく考えてみる。

 そもそも、もう一人の自分が生まれる、などと本気で考えるのが馬鹿馬鹿しいのだ、と、とにもかくにも考えてみた。


「いや、でも……」


 本当にそうなのだろうか?

 科学的にありえないことではない。

 そう思うと、またまたざわざわと怖気がしてくる。わたしは無意識のうちに首筋へと手を持っていく。そして、はっとする。

 もし、今まさに首筋から『白いもそもそ』の群れが出てきていて、次から次にシャワーで洗い流されていっているとしたら?

 この考えにとらわれたわたしは、思わず排水溝のフィルターへと目をやった。髪の毛が無数に絡みついているだけで、そこに『白いもそもそ』は見当たらない。ただ、フィルターの目は無情なまでに粗い。これでは下水へと流れてしまっている可能性が高い。

 そう思うと、焦燥感でいてもたってもいられなくなる。すぐにシャワーを止めて浴室から出て、ざっと体から水滴をふき取る。すぐに体重計へと体を乗せた。六十七キロ弱。いつも通りだ。


「いやいや、今日は酒も飲んだしご飯も二杯食べたのに、いつも通りなのは逆におかしい」


 これは大変だ――


 もう何がなんだかわからなくなってきた。いったい何が真実なのか。


「奥さん。奥さん」


 気が付くと、駆け出していた。

 奥さん、奥さん、と連呼しながら、わたしは寝室の襖を勢いよく開ける。


「奥さん……ぼくが、見えるかい? ぼくはここに、いるのかい?」


 必死に訴えるわたしの声に、のそり、と起き上った妻が、


「あらあら、風邪ひくわよ……早く服着て寝なさいな」


 と、すぐに布団にもぐりこんでしまう。


「ちょっと待って――」


 と、思わず寝室へと足を踏み入れたわたしの目に飛び込んできたのは、妻の隣で布団をかぶって眠っている、わたし自身の姿だった。

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