山ン本退散仕ッたる后
すらかき飄乎
山ン本退散仕ッたる后
「
「只今退散仕る」と
さて、どうも釈然としないのは
神仏さえも
それでも――
三千世界の魔王を称する
手を変え品を変え、平太郞少年を脅かしてはみたものの、幾ら遣ってもその正気を失わせることは叶わなかった。一月もの長い間、毎日毎夜、狼藉の数々を試した挙句に、遂に山ン本は諦めた。
平太郎を
化かしそこねた結果、山ン本の負けが確定し、真の魔王たる座は神ン野に譲り、悔しいことにその下位に甘んじざるを得なくなった。
一方、賭けに勝利した神ン野としては、得意の絶頂にあってしかるべきなのだが、先にも述べた通り、実際は全然そうでなさそうに見える。
慥かに、山ン本との勝負には勝った。全く以て、勝つには勝った。
そうだ、勝ったのだ!
勝ったるがゆえに、天魔の
本当に
勝つには勝ったとは言え、思えば、
神ン野がこの
彼の
物の本などには、吉備は比熊山の千畳敷にある大杉の頂を灯したとあるが、何もこの地のみに限る話でもない。
諸処の禁足地に光物を
しかるに、彼はそれを自らの
そんな折――
発端は、源平相争う
「三千世界の魔王、東方碧海弧島の天魔に申す。我しばしここに留まらんと欲す。しかれども、
神ン野にしてみれば、意外であった。誰かは知らぬが、何とも思いがけず、的外れなことを言い募る者が遣って来たものよと思った。
「
あっけらからんとした調子で、そう神ン野が答えると、山ン本、極めて感じ入ったる
「成程、
たちまち神ン野の面前から消え失せて、それからあとはどうなったか、神ン野も詳細は知らない。
何でも、王家だか源氏だか平氏だかの
山ン本にあのようにそそのかされて、神ン野の胸底にも「色気」が少しずつ湧いていたようである。
一体、あの者の言うたとおり、
しかし、一旦かかる念に捉われると、みるみる俗化の坂を転がり
その堕落を、別の言葉で、自我という。
神ン野は従前の如く、べかりべかりと光物を
さて、
「
数百年前に、聞いたような口上である。
神ン野が応える。
「
ここまでは、数百年前の文言と同じ。しかるに、その先は少しばかり違っていた。
「かくあれど、
この返答に、山ン本の顔は一瞬意外の色を見せたが、
「さるはよし。勝負というはさてさて、次の如し。すなわち、万物の王を自ら任じて愧じぬ人間に、
これを聞いて、神ン野は非常に困った。かくも作為的な
そこで、
「さる
「倭地にあっては、いかにも
実のところ、その展開に神ン野は大いに弱ったが、山ン本の勢いに
それを見て嬉しそうに山ン本が続ける。
「さてさて、実は、かかる宿願は先に来朝
互いに約する以前の手柄を盛ろうとするは実に横着至極。その手前勝手なる申し出に、神ン野は、更に渋面を強めた。さりとて、山ン本如きに
「一向に
山ン本は、いよいよ顔を輝かせ、
「その意気やよし。されば、八十六人目は、備後は三次の
そう言うが早いか、挨拶もそこそこにさっと飛び去った。
さて、それからというもの、神ン野の
そもそもは、門徒の言う念仏三昧の如く、われとわが身とを顧みることもせず、われの地位を思うことなく、われの何たるかを知らんと欲する念さえもなく、定まれる業に千年一日、万年一日の如く、べかりべかりと、ただただ
あのような約束をしてしまったが、山ン本が果して本願を達してしまったら、どうなるのだろうか?
殊に、山ン本が
七月晦日の晩、一月もの間、気丈にも正気を失うことなく対応した平太郞の勇を、山ン本が大いに讃えて退散したのは、読者諸賢ご案内の通りである。
神ン野は山ン本の敗北に
ほっとすると同時に、山ン本に触発されて肥大化した神ン野の自我は、些細なことも敏感に思い煩うようになってしまった――三千世界の天魔の王たる地位にも拘らず――
そもそも、これまで何万年にもわたって神ン野は名というものを持たなかった。名と称する記号によって、その存在の境界を画して規定されるなどということは、原初より永きにわたって無かったのである。ありえなかったのである。
その
しかし、あの辞去の場面において、平太郞の前で、山ン本は自らの仮名を示すのみならず、こちらの存在までをも明らかにした。
「我は
この瞬間、神ン野は名も無き無限の
山ン本に出会う前は、かような次第は毫末にも念頭には浮かばなかった。
しかし
山ン本の恣意的な名付けによる、その名自体にも、神ン野の不平は存した――
善と悪とのいずれかに解を置くような、安直かつ陳腐な
さて、稻生の一件の
当時、多くの人々の口に、噂話として上るはもとより、『
のちの
他方、神ン野の存在はと言えば、せいぜい山ン本を語る折の付録にされる程度。人々の多くは神ン野なんぞに、特段の関心を払おうとはしない。
山ン本と対峙した稻生平太郞改め、
明々白々たる自我を得てしまった神ン野にとって、そのように世間から軽く扱われることも、非常に癪に障る話であった。
畢竟、
山ン本から進呈された、三千世界の天魔の
したがって、高原という人が『神野悪五郎只今退散仕る』なる本を出してくれた時は、大いに嬉しかった。
光物の
さて今宵、神ン野は日向と大隅の境にある
やがて、東の方がほのぼの明るくなり始めた頃――
はるか北の空を西に向かって飛んで行く山ン本の駕籠と何百もの眷属の姿が目に入った。
今も、変わらず大勢の鬼たちを引き連れて、あちこちを渡り歩いているらしい。羨ましい限りである。
何だかその声は、随分とかすれて彼の耳に響いた。
<了>
山ン本退散仕ッたる后 すらかき飄乎 @Surakaki_Hyoko
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます