第四章 悪意を練るには、蜜のような怨嗟を抽出しろ
1
ハーベストが目を覚ます。
不自然なほど清潔な部屋にいた。体を動かそうとして……動かせない。ひやり。冷たい感触が手首に伝わる。なるほど、今の状況が解った。ここは病室だ。だけど彼は癒されていない。捕われているのだ。
四肢をなめし皮のベルトで雁字搦めに拘束されている。
すぐ横にワトスン警部がいた。何人か部下も引き連れている。ワトスンは座り込んでじっと見下ろしている。目には疲労が浮かんでいた。もう何日も寝ていないとわかる。放ったらかしの無精ヒゲなんて、彼らしくもない。
「あっ……のガキ」
ハーベストは鬼太郎に倒されたことを、ようやく思い出した。つい五分前のことか、あるいは五年前のことにも思える。
不意討ち。
流れ込む血液。
永遠の悪寒──
【PAWN】での敗北がフラッシュバックする。側頭部をドリルでガリガリ削られていく気分だ。悔しくはない。勝敗なんてくだらない。店を守るために、あそこで暴れるわけにはいかなかった。それだけのこと。
(僕は間違っていなかった、筈です)
自らに言い聞かせる。
なんにせよハーベストは敗北した。鬼太郎に何をされたのか理解していた。だから医者や警察に説明を求めたりしない。
鬼太郎は血液をハーベストに流し込んだのだ。
【異形輸血】というものがある。輸血は本来、同じ血液型でなければ成立しない。「A型にはA型を」「B型にはB型を」といった具合だ。
しかしハーベストの血液A型に対して、鬼太郎の異なる血液が輸血されたら、どうなるか? 【急性輸血性溶血反応】が起きる。
まず身体が拒否反応を起こし、赤血球が破壊され溶血反応が起きる。肉体がドロリと溶ける悪寒と、永遠に崖を転落するような苦痛に襲われるだろう。免疫系の暴走によって細胞を粉々に破壊された、黄色い死体が完成する。異種の血液を混ぜることは、どんな毒を盛るよりも単純明快で残酷な殺害方法である。
ワトスンはスターバックスのコーヒーを飲んで頷いた。
「やはり、ちゃんとしたコーヒーは美味い」
「カフェイン中毒で死んでください。今すぐ」
「辛辣だな。俺に素直に協力を求めてたらこんなことには……」
ワトスンが言葉を濁す。
「あの時、店から俺を逃がしたのか?」
「……」
「お前さんに庇われるなんてな」
ハーベストはなにも答えない。彼はいつも肝心なことを避けてしまう。
聞くところによると、倒れてから既に五〇時間が経とうとしていた。
ハーベストは店に倒れていたところを発見されたらしい。このご時世だ。気を失って倒れている人間を見れば誰だって身ぐるみを剥ぐ。バレなければ殺したっていい。だけどハーベストは生きている。
「病院に連絡したのは常連客だったらしい。お前さんは好かれてるな」
「よしてください」
「本当のことだ」
ハーベストの店はアルコールを売らないし、クスリも吸わせない。あらゆる暴力沙汰を徹底排除するから【PAWN】は警察署内より平和だ。
あくまでハーベスト自身のためにしていたことだ。だけど客にとっても居心地が良かったのだろう。店には善悪を超えたナニカがあった。ハーベストはいつも告げる。「お前たちは、ただ座ってお菓子を頬張っていればいいんです」と。
ワトスンはビニールバッグを取り出した。
「今、お前さんは面倒事に巻き込まれてるんだ」
「いつものことです」
ワトスンはビニールバックから本を取り出した。半透明の化学素材でグルグル巻きにされ、南京錠で厳重に保護されている。まるで拘束された猛獣だ。
この本……コミックは鬼太郎が持っていたものだろう。
「手に取っても?」
「迂闊に読むなよ」
ワトスンがそっと本を突き出す。今にも炸裂しそうな爆弾であるかのように……
「あんたの店に『禁書』が落ちていた。それが問題なんだ」
「『ライアー・スレイヤー』ね」
「読み上げるな。耳が削げる」
「袋から出せますか?」
「いいわけないだろ。眼が潰れる」
鬼太郎はジャパンのコミックを持ち込んだのだ。ジャパン製コミックは
コミックが恐れられる理由は単純だ。それが感染源となるからだ。コミックを読むことで正義心が刺激され、英雄病の発症が相次いだ。
他にも感染経路はある。映画、アニメ、小説、過去の芸術作品や美術品等だ。世界各国の美術品を貯蔵する大英博物館は封鎖された。日本で“オタク”と呼ばれるコレクターの書斎は、あまりに危険だった。剝き出しの放射性物質となんら変わらない。
パンデミック発生前はコミックが世界中で人気を博しており、携帯性と量産性に優れていた。ジャパンやアメリカはその二大生産地だった。世界中にばら撒かれた幾百億もの感染源……コミックを全て燃やし尽くすなど、土台無理な話である。
ハーベストはコミックより聞きたいことがあった。
「僕の店は……」
「そんなもん、第二級汚染区域に指定されちまったよ」
「は?」
「ついでにお前さんにも逮捕状が出てる」
「警察は馬鹿ばかりなんですか?」
「俺を責めるな。これは組織の決定なんだ」
ハーベストは怒りのまま喚き散らしたかった。歯ぎしりで奥歯を砕いてしまいそうだ。
これが
感染源となるコミックが落ちていれば、警察は見逃さない。いつ病人が出現するとも分からないからだ。否。実際のところ警察組織は検挙率を稼ぎたいだけなのだろう。
【ライアー・スレイヤー】は鬼太郎の置き土産というわけだ。店に英雄病の感染源が見つかった時点でアウトだ。
口蹄疫という感染病がある。牛や豚などの家畜を中心に感染する。致死率一〇〇%にして、空気感染による強い感染力をもつ。一国の産業を壊滅させるほどの伝染病だ。だから口蹄疫に感染した家畜は焼き殺されるし「感染した可能性のある家畜」というだけで殺処分になる。英雄病も同じくらい恐怖されている。
しかし口蹄疫はケモノにだけ伝染し、英雄病はヒトにだけ感染するのだ。どういうわけか英雄病も仲間を増やそうとして、感染源をバラ撒く。
ハーベストは舌打ちした。
彼は念のため拘束して、念のため治療をして、念のため薬物漬けにされる。
ついでにコミック所有の罪でも、でっちあげられるかもしれない。警察はどんな甘い物よりも検挙率が好きだから。
「僕はこのままだと、どうなるんですか?」
「英雄病かどうか調べる」
「感染してるわけがない。読んでないんだから」
「状況証拠で十分さ」
「それじゃあ、魔女狩りと変わらない」
「ごもっともだ」
ワトスンは深刻な表情だ。ぐるりぐるり。肩を回して骨を鳴らす。
「“守銭怒”に続いて、お前さんも薬漬けにしなきゃいかんとはなぁ」
ワトスンは小瓶をポケットから取り出してみせた。ラベルには“ハッピーエンダー”と記されている。桃色のドロリとした液体が入っている。ほのかに染み出すフルーツシロップのような匂いに、後頭部が痺れる。
室外から足音が近づいてきた。ハーベストを治療するための医者だろうか? 清潔な床を叩く、退屈な音色……。足音が病室の前で止まる。緊張感が薄く平たく伸ばされる。患者の恐怖をじりじり絞り出そうとしているかのよう。
「はーい、オペを始めるよー」
ドアが開け放たれた。しかし医者は現れなかった。
薄氷を滑るような声だった。メガネの奥から月光の視線を送る少女、ユーリ・ノワールが現われた。いつものように大きなヘッドフォンを頭に抱えている。
あとから、ぞろぞろ子供達もついて歩いて来る。まるで小さな騎士行列だ。子供達は一様に笑顔を浮かべて、遠足に来たみたいにはしゃいでいる。
子供達のなかにポッピーがいた。ハーベストに向かって大きく手を振っている。熱線じみた瞳にあてられて、ハーベストはさっと目を逸らした。
まっすぐすぎて、彼には耐えられない。
「あ、お前!」
無視されたと思ったのだろう。ポッピーが、ぷくっと頬を膨らませた。燃え盛る不機嫌オーラがハーベストの背に突き刺さる。
ワトスンはユーリに敬礼で応じた。「帝国元帥兼終身独裁官殿ッ!」と声高に叫ぶ。彼らしくもない緊張した振る舞いだ。
だが決してユーリを見ようとしない。視線がカチ合えば蒸発してしまう、とでも思っているのか。他の警官も同じ態度だ。ヘビに出くわしたネズミみたいに固まっていた。
ユーリが悠々と歩いてハーベストの元までくる。ハーベストだけがユーリと視線を交差させた。
「君は医者じゃない」
「世界を治そうとしているから、広義では医者かも」
「言葉遊びは嫌いです」
なぜ医者ではなく、独裁者がここに? 誰もがそう思った。
あとから走ってきた医者が頭を下げる。床に額をぶつけんばかりだ。
「独裁官殿……こんなみすぼらしい所に……」
「とても立派な病院よ。私が作らせた病院だもの」
「あらかじめ教えて頂ければ、お迎えに参りましたのに……」
「予定が変わったのよ」
ユーリ・ノワールは予定をよく変える。かつて独裁者ヒットラーが暗殺者から身を守るため予定を変えてばかりいたように、ユーリも常に不規則な行動をとることで暗殺計画をとん挫させる。女は表立って政治を執らない、無数の影武者と側近が国を回しているのだ。今、ハーベストの前にいる少女も本物とは限らない。
ユーリはワトスンの持っていた証拠品【ライアー・スレイヤー】を取り上げた。無造作に拘束を外し、ページをパラパラめくる。前代未聞の行為に誰もが、ぎょっとした。
「独裁官殿ッ! やめてください!」
ワトスンは慌てふためいた。だけどユーリは気にしない。
「私は大丈夫。知っての通り、私は特別なの」
「ああ、くそッ」
ワトスンは狼狽しながら病室の外に出た。他の警官も後に続く。Fuck、Fuck、と毒づきながら逃げ出した。
まるで毒ガス兵器を室内に投げ込まれたみたいだ。英雄病の感染源に、こうも平然と接していられるのはユーリくらいだ。ハーベストですら迂闊に近寄れない。彼は目をそらして、上を向いた。なんとか気をそらそうと天井のシミを数える。
状況をつかめない子供達は、まだ病室にいる。
「子供に見せないでください。絶対に」
「勿論よ」
「なに見てるの?」と子供たちが尋ねる。
「とても退屈なもの。見ないほうがいいわ」
「なんで退屈なの?」
「リアルに欠けるから」
見るなと言われれば、尚更に見たくなるものだ。子供たちは目を輝かせてユーリに「見せて見せて」とせがむ。
「どうしっよかなー、ふふ」
子供の好奇心を弄ぶユーリに、ハーベストが溜息をこぼす。
「なんて女だ……」
それにしても、と女が笑む。
「ハー君に警察の友達いがいたなんて驚きね」
ワトスンのことを指しているのだろう。ユーリはちっとも驚いた様子じゃない。
ヒーロー狩りしていたら、どうしたって警官とは知り合う。
「人のよさそうな警官ね」
「警官には向かない奴です」
「だったら、より大切にすることね」
ユーリがワトスンの座っていた椅子に腰かける。丁寧にロングカートを整える。ちょっとした仕草が貴族のようにしとやかだ。
「どれだけ非凡でも、良い性格には勝てないの」
「そうだとしたら、ユーリは誰にも勝てませんね」
「そうね。私こそが世界最弱よ」
ユーリがくすりと笑った。彼女はいつだって、春のそよ風に吹かれているみたいに穏やかだ。絵画の住人のようで、現実の厳しさとは無縁に見える。脇に挟んだ男色モノのアダルト雑誌だけが違和感だ。
子供達が空きのベッドで飛んだり跳ねたりしていた。ポッピーだけがじっとハーベストを睨んでいる。
「……なんですか?」
「べつに」
「『べつに』って顔してませんが」
ユーリがポッピーに他の子供達の面倒を見るよう頼む。「君は年長者なのだから」と諭してやる。ポッピーが渋々といった様子で立ち去っていく。ハーベストはその小さな背を眺めながら、
「今にも食ってかかりそうな顔でした」
「複雑な年頃なのよ」
それからユーリは【ライアー・スレイヤー】を読み始めた。内容を大雑把に教えてくれる。
創作物には濃度がある。オリジナルのコミック本は危険で触れる事すら
【ライアー・スレイヤー】は日本で人気を博した漫画であり、毎週刊行されている少年誌をまとめた単行本である。
「嘘つきを嫌う熱血漢の主人公が、
特殊な力を奮い、
悪しき嘘つきを倒して回る。
人は彼をこう呼ぶ。『ライアー・スレイヤー』と」
売上発行部数は五千万部近くに上り、今も日本で続いているのだという。濃度を薄めるため、ユーリはとにかく内容を省いて説明してくれた。おかげでハーベストからすると、このコミックがどう面白いのか分からず、ちっとも読みたいと思わない。限界まで薄めたフルーツ&ハーブのシロップ漬けのよう。
コミックは毎週のように何百種類何億部と刊行される。それだけ病原菌が毎週生まれているということだ。
今の日本は魑魅魍魎のヒーローが跋扈している。海を何度も越えた先にある地獄だ。ハーベストには、とても想像できない世界だった。
「ハー君を襲ったコは、この本のファンね」
「奴はゴトーの仲間だと言っていた」
「ふふん。仕返しされた気分はどう?」
「報復には慣れています。また借りを返してやるだけです」
「それにしては復讐心が足りないわね。もっとガッツが欲しいところ」
「ユーリの希望は聞いてません」
それよりもハーベストは自らが拘束されている事実が解せない。彼は
ハーベストの心内を読み取って、ユーリが答えてくれた。
「ハー君はここに来る必要があったの」
「冤罪にしてまで?」
「どんな罪をなすりつけてもね」
つまりワトスンは無関係だ。警察組織の都合ですらない。もっと遥か高みの人間……独裁者による指示があったのだ。
ユーリが黒といえば、どんな白も黒になる。
「店に返してくれ。明日の仕込みが残ってる」
「残念だけど。それはできないわ」
ハーベストを拘束するベルトが軋んだ。よく研いだ肉切り包丁のような殺意が放たれる。
「僕だって、いつまでも穏やかじゃいられない」
「なにをいまさら」
女が失笑した。
「ハー君はいつだって激しいじゃない。たくさん殺して殺して、これからも正義を殺すのよ」
「僕の生活を守るためです」
「ならば今はティータイムを我慢なさい」
ユーリがハーベストの顔に頬を寄せた。噛みつけるものなら噛みついてみろ、と挑発している。女の冷たい吐息に触れる。
ハーベストの運命を弄るなど、バースデーケーキに灯ったロウソクを吹き消すよりも容易い。
「今ね、ちょっとした事件が起きてるの」
「いつものことです」
「いつも以上に、ハー君は観ておくべき……」
ユーリは、するりと手を伸ばす。備え付けのテレビを操作した。ハーベストの傷だらけでブ厚い手と違って、一切汚れていない綺麗な手だ。鎌首をもたげた白蛇のように、なめらかで迷いがない。
鈍色のツマミを撫でるように回してチャンネルを操作する。何を観ようというのか? アニメやドラマだなんて、ありえない。この都市はプロパガンダを垂れ流す国営放送しかない。
「ハー君ってテレビ見る?」
「興味ありません」
「そうでしょうね」
彼女はなぜ答えが分かりきった会話をするのか? ハーベストはいつも不思議に思う。
ばちん。テレビが爆ぜるように点いた。霧が晴れるように、ぼんやりと動画を映す。
轟々となにか燃えている。
よく知っているレンガ造りの赤黒い壁。
よく知っている濁った窓ガラス。
よく知っている欠けた屋根。
彼の店【PAWN】は火事だった。病院送りにされてまで守った店が、あっけなく燃えている。
ハーベストの顎ががくがくと震えた。あらん限りに目を剥いて、鼻を膨らませる。
立ち込める黒煙がテレビ画面を覆う。まもなく【PAWN】は焼け落ちるだろう。逆さまにブチ撒けたビターチョコレートパフェみたいに。
熱風でプロパガンダのビラが舞った。
「その荷物は捨て置け。
重過ぎるから。想い過ぎてしまうから。
想いを重ねた輩から病人になるのだから」
「
女性リポーターが叫んでいた。よく通る声だ。火事現場の喧騒にも負けない、と意地を見せている。どんな地獄でも喋り倒せるよう訓練したのだろう。
リポーターが表情筋を総動員して、緊迫した表情を浮かべていた。とはいえ内心では何も感じていないだろう。毎日のように凶悪事件に接するのだから、面の皮が厚くなくては務まらない。彼女の仕草はどこか人形的だ。瞳にうっすら冷たさが漂う。
“ジャーナリズム”が正義感を刺激する言語として、放送禁止用語になったのは、もうずいぶん昔の話だ。
リポーターの背後で【PAWN】が相変わらず炎上している。ハーベストは無理やりまばたきをした。頼むから夢であってくれ、と願うように。しかし現実は変わらない。炎が手当たり次第に蹂躙する。ぎぃぎぃ、と店が鳴いていた。
この店はハーベストの逃げ場所だった。この腐った世界から現実逃避するための大切な場所だった……。
ちょうど駆けつけた消防隊が放水作業を始めた。随分と遅い到着だ。ティータイムと洒落込んでいたのか? 店が焼け落ちる寸前ではないか。もはや火の手が両側の建物に燃え移ってしまった。周囲一帯を焼野原にした無能共である。
でっぷりした腹の消防隊員が先陣を切る。膨らんだ上半身が左右に振り子みたいに揺れた。まっ当な消防隊員はすっかり消え去った。火事になってから、のんびりゆったり来る連中ばかりだ。正義感あふれる迅速丁寧な消防隊員など、誰が喜ぶ? 市民もリポーターも無感動な視線で消防隊の活躍をカメラに流した。
「現場では【PAWN】という喫茶店が経営されていました。店主は現在行方不明で……」リポーターが情報を読み上げる。熱風に煽られるのを気にしているのか、長髪を指で押さえている。
「専門家によると、英雄病患者による放火だと予想されており……」
なんの証拠もなしに、メディアが妄想を垂れ流す。「英雄病患者のせい」は彼等の常套句である。
ありとあらゆる悪事が病人のせいにされ、メディアもそう公表するよう政府から圧力をかけられている。路地裏の殺人事件から、車が跳ねた泥水まで英雄病のせいというわけだ。
とうとう焼け落ちた店をカメラが無感動に見つめる。画面上部にプロパガンダのテロップが流れた。
「正義感とは、はみ出し者の言い訳に最適だ」
我慢の限界だった。
「やめろ!」
ハーベストが吠えた。
テレビに届かない怒りをぶつける。すさまじい剣幕だ。がらがら鳴く落雷みたいで、鉄格子付きの窓を震わせた。驚いた子供たちが一目散に病室から逃げ出した。ポッピーだけがユーリの腰にしがみついていた。暴風に飛ばされまいと耐えるかのように。
「拘束を解けッ! 殺すぞ!」
まさに悪鬼羅刹。ユーリはヘッドフォンを押さえて、怒声を受け流す。
「病室では静かに、よ」
「うるさいッ! この!」
ハーベストは起き上がろうと躍起になっていた。今にもテレビに飛びかかりそうだ。丁寧な言葉遣いも忘れて、荒々しさを隠さない。
「やめろ、やめろ……! この!」
拘束具が軋み、繋がれたベッドが歪んだ。驚くほどの怪力だ。ポッピーは目をまるくして、暴れるハーベストを見ていた。
「鎮静剤を打っておくべきだったわね」
「今すぐコレを外せ」
「嫌よ。ポッピーちゃんも怖がってるし」
「わ、私は怖がってなどいません!」
ハーベストは疲労困憊になるまで暴れた。ぜぇぜぇ、ぜぇぜぇ。息を荒げるばかりでベッドから逃れられない。革ベルトで括られた手首は擦り剝けて血が流れていた。
革ベルトにはいくつもの血の跡があった。古い汚れだ。暴れる病人を抑えつけるために使っていたのだろうか……
「開放しやがれください。レイヴンマスター殿」
「ノーよ。二度も同じこと言わせないで」
「君をコーヒーミルですり潰してやりたい」
「とびっきり甘いコーヒーになるでしょうね」
ハーベストは焦っていた。すぐにでも病院を飛び出したかった。すぐにでも【PAWN】に戻りたかった。それを邪魔する者が忌々しい。ありとあらゆる障害を許さない。いつもの平たんな顔が、今はくしゃくしゃの古紙みたいだ。
「嘆かわしい。英雄病は悲劇しか生まないわ」
ユーリは詩を詠うように述べた。
「ハー君、独裁官令を下すわ」
ゆるりと告げた。もうじき雨が降りそうですね、といった具合だ。
それは独裁者による絶対命令権の行使。ひとたび「独裁官令」が発令されたら血の雨が降る。誰であろうと独裁者の命令を聞くほかない。
ハーベストは背筋が寒くなった。そもそも最初から彼を冤罪にするつもりだったという。独裁者は彼と密談の場を設けたかった。
「そんなことない。私が作らせた病院だもの。とても立派よ」
ついさっきユーリが発した言葉が、頭蓋を転がり落ちる。
ヒーローを閉じ込める病院は秘密主義の塊で、ユーリにとって都合がいい。そんな場所でユーリは何を命じようというのか?
ユーリがテレビの電源を落とす。
「
それは神の宣託じみていた。
「
「もう何度目と分からない話ですね」
「これから何度だって始末するのよ」
「守るべきものがないのに、ですか」
「あんなショボくれた店、また建ててあげるわ」
「ショボくれてません」
ハーベストが独裁者に抗うよう見上げた。カシャン、カシャン。拘束が力なく揺れた。
独裁官の命令は、あらゆる法より重い。
ユーリの命令は簡単だった。
手段と生死は問わない。
すみやかにヒーローを処理せよ。
「僕だけしか動けないんですか?」
「都市じゅうの鴉に呼び掛けてるけど」
ユーリがヘッドフォンを指先で叩く。
「みんなワガママだから。応じてくれるか微妙ね」
「忠誠心がないんですね」
「ハー君にもないじゃない」
「復讐心ならあります。店を燃やされたツケを支払わせたい」
ハーベストは目を閉じた。
(英雄病が悪い……つまりは、そういうこと)
瞼の裏では、まだ店が燃えている。大切な店だった。この腐った世から隔離された、彼だけの世界。彼だけの法。彼だけの牢獄。カビ臭い木材と煤汚れたガラスの城……。焼き払った連中にはケジメをつけさせる。
ハーベスト自身は行方不明ということになっている。ユーリを伺うように見ると、彼女は眠たげなウインクをした。
「ハー君はもう透明人間よ」
今のハーベストは政府公認の行方不明者だ。おあつらえ向きの復讐心もある。なんてユーリ・ノワールに都合がいいことか……
2
ポッピーは彼等のやりとりを眺めていた。
話の内容なんて分からない。だからこそユーリは子供達を傍に置いている。「愛されるコツはほどよくバカであること。もしくは都合がいいくらい幼くあること」ユーリはそう言っている。
ハーベストは拘束を解かれ、痛む体の節々を撫でる。神経質な目でポッピーを見やる。彼は子供を巻き込みたくない。ガキは甘い物をたらふく食べていればいい。
「子供を引き連れるのは、やめたらどうです?」
「構わないわ。そうでしょう? ポッピー」
「はい」
少女は即答した。
「ユーリ様が仰るならば、正しい」
盲目的な信仰にハーベストは顔をしかめる。全てが独裁者の掌の上にある。
ユーリをじっ睨む。
「なんでもかんでも利用し続けていると、しっぺ返しを食らいますよ」
「例えば?」
「君の塔だって燃やされる」
「楽しみにしておくわ」
3
気づけば大病院が遥か後方にある。
ハーベストは拘束を解かれるや、すぐ病室を後にした。ユーリと目を合わせ続けるなんて、ごめんだ。あっというまに石に変えられてしまうかもしれない。横引きのドアを開けて、ぎょっとする警官共を無視して歩む。
歩く。歩く。歩く。
思考は炎と憎悪に染められている。灰色に煤けた視界。ザラついたそよ風が心を削る。彼は冷静さを欠いていた。病院の敷地から出ようというところで、ようやくポッピーの追跡に気づいた。孤児の集団から抜け出してきたのだろう。なんて醜態だ、とハーベストは歯噛みする。今のハーベストなら子供でも殺せる。背後からそっと忍び寄って、ナイフでひと突きすればいい。
「おい、お前っ!」
「ハーベストです。名前がある」
「ハーベスト、今日は火曜日だ」
「なんの変哲もない、この世で最も不必要な曜日です」
「イライラを火曜日にぶつけるな。かわいそうだろ」
ハーベストは酷く機嫌が悪い。病室の一件がそうとう堪えたらしい。ずんずん、ずんずん。苛立ちを足裏に込めて歩く。ポッピーが、せっせと追いすがってくる。
「なんで君がついてくるんですか?」
「ポッピーだ。私にも名前がある」
「『金魚のクソ』に改名したらどうですか?」
鈍痛。ハーベストの腰に頭突きが刺さる。
「ハーベスト、今日は火曜日だ」
「何度も言わなくていい」
「金曜日にまた倫敦塔に来るのか?」
「なぜ私が?」
「お菓子。金曜日に作ってきてくれるじゃないか」
ポッピーは先週から孤児院入りしたという話だ。だが既にハーベストの習慣を熟知しているらしい。ユーリの忠臣としては上出来だ。
「できません。店がもうありませんから」
納得いかない、とポッピーが唸る。小ガラスの髪飾りが悩ましげに揺れる。しかし無理なものは無理である。
「おいしかったから、早く店を作り直すんだ」
「言われずとも」
「わたしも手伝ってやる」
「いえ、それは別に……」
通りに出てすぐの赤信号にぶつかった。二人そろって止まる。信号なんて律儀に守ることもない。だが彼は考える時間が欲しい。
ハーベストは迷った。このままポッピーを突き返すのは簡単だ。だがポッピーは期待を抱えてハーベストを追いかけてきた。追い返すのは躊躇われた。おかげで冷静さを取り戻してもいた。
彼は溜息を吐いた。復讐にポッピーは付き合わせられない。
「僕はお菓子を作れませんが、美味しいお菓子屋なら知っています」
「本当か!」
「ええ。知っておくべきです」
ポッピーが目を輝かせる。幼い瞳に綺羅星が宿っている。ハーベストは少女から目を逸らしつつ、手を差し出した。
「一緒に来ますか?」
ポッピーはハーベストに手を伸ばそうとして……躊躇った。迷っている。少女は孤児院では年長者だ。ひとり抜け駆けというのは、他の子供たちに申し訳が立たないのだろう。しっかりした子だ。小さな身体に見合わない真摯さを秘めている。
ポッピーは危うい、とハーベストは確信する。
こんな子供は正義感に魅入られやすい。
金を巻き散らす銀行員。血液を操る学生……。ハーベストの胸中に嫌な思い出がよみがえる。
「君は少しくらいズルを憶えるべきです」
ハーベストはさっとポッピーの手を取った。少女を引きずるように連れ出す。ポッピーは驚いていた。だけど逆らわない。抵抗すべきか決めかねているのだ。
「実はユーリ様の許しなしで……」
「構わない。彼女が困るなら気分がいい」
「まるで誘拐だぞ」
「誘拐犯くらい、どこにでもいます」
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