第四章 悪意を練るには、蜜のような怨嗟を抽出しろ



 1

 ハーベストが目を覚ます。

 不自然なほど清潔な部屋にいた。体を動かそうとして……動かせない。ひやり。冷たい感触が手首に伝わる。なるほど、今の状況が解った。ここは病室だ。だけど彼は癒されていない。捕われているのだ。

 四肢をなめし皮のベルトで雁字搦めに拘束されている。

 すぐ横にワトスン警部がいた。何人か部下も引き連れている。ワトスンは座り込んでじっと見下ろしている。目には疲労が浮かんでいた。もう何日も寝ていないとわかる。放ったらかしの無精ヒゲなんて、彼らしくもない。

「あっ……のガキ」

 ハーベストは鬼太郎に倒されたことを、ようやく思い出した。つい五分前のことか、あるいは五年前のことにも思える。


 不意討ち。

 流れ込む血液。

 永遠の悪寒──


 【PAWN】での敗北がフラッシュバックする。側頭部をドリルでガリガリ削られていく気分だ。悔しくはない。勝敗なんてくだらない。店を守るために、あそこで暴れるわけにはいかなかった。それだけのこと。

(僕は間違っていなかった、筈です)

 自らに言い聞かせる。

 なんにせよハーベストは敗北した。鬼太郎に何をされたのか理解していた。だから医者や警察に説明を求めたりしない。

 鬼太郎は血液をハーベストに流し込んだのだ。

 【異形輸血】というものがある。輸血は本来、同じ血液型でなければ成立しない。「A型にはA型を」「B型にはB型を」といった具合だ。

 しかしハーベストの血液A型に対して、鬼太郎の異なる血液が輸血されたら、どうなるか? 【急性輸血性溶血反応】が起きる。

 まず身体が拒否反応を起こし、赤血球が破壊され溶血反応が起きる。肉体がドロリと溶ける悪寒と、永遠に崖を転落するような苦痛に襲われるだろう。免疫系の暴走によって細胞を粉々に破壊された、黄色い死体が完成する。異種の血液を混ぜることは、どんな毒を盛るよりも単純明快で残酷な殺害方法である。

 ワトスンはスターバックスのコーヒーを飲んで頷いた。

「やはり、ちゃんとしたコーヒーは美味い」

「カフェイン中毒で死んでください。今すぐ」

「辛辣だな。俺に素直に協力を求めてたらこんなことには……」

 ワトスンが言葉を濁す。

「あの時、店から俺を逃がしたのか?」

「……」

「お前さんに庇われるなんてな」

 ハーベストはなにも答えない。彼はいつも肝心なことを避けてしまう。

 聞くところによると、倒れてから既に五〇時間が経とうとしていた。

 ハーベストは店に倒れていたところを発見されたらしい。このご時世だ。気を失って倒れている人間を見れば誰だって身ぐるみを剥ぐ。バレなければ殺したっていい。だけどハーベストは生きている。

「病院に連絡したのは常連客だったらしい。お前さんは好かれてるな」

「よしてください」

「本当のことだ」

 ハーベストの店はアルコールを売らないし、クスリも吸わせない。あらゆる暴力沙汰を徹底排除するから【PAWN】は警察署内より平和だ。

 あくまでハーベスト自身のためにしていたことだ。だけど客にとっても居心地が良かったのだろう。店には善悪を超えたナニカがあった。ハーベストはいつも告げる。「お前たちは、ただ座ってお菓子を頬張っていればいいんです」と。

 ワトスンはビニールバッグを取り出した。

「今、お前さんは面倒事に巻き込まれてるんだ」

「いつものことです」

 ワトスンはビニールバックから本を取り出した。半透明の化学素材でグルグル巻きにされ、南京錠で厳重に保護されている。まるで拘束された猛獣だ。

 この本……コミックは鬼太郎が持っていたものだろう。

「手に取っても?」

「迂闊に読むなよ」

 ワトスンがそっと本を突き出す。今にも炸裂しそうな爆弾であるかのように……

「あんたの店に『禁書』が落ちていた。それが問題なんだ」

「『ライアー・スレイヤー』ね」

「読み上げるな。耳が削げる」

「袋から出せますか?」

「いいわけないだろ。眼が潰れる」

 鬼太郎はジャパンのコミックを持ち込んだのだ。ジャパン製コミックは一級汚染指定物質アルティメット・ヒロイズムだ。深倫敦ニュー・ロンドンで最も危険な代物である。存在そのものが悪。これを一冊所持しているだけで禁固三〇年はくらう。それだけにコミック本は裏取引では高級品だ。一冊一億ポンドで取引される本もある。旧時代からのマニアが集めているという噂だ。

 コミックが恐れられる理由は単純だ。それが感染源となるからだ。コミックを読むことで正義心が刺激され、英雄病の発症が相次いだ。

 他にも感染経路はある。映画、アニメ、小説、過去の芸術作品や美術品等だ。世界各国の美術品を貯蔵する大英博物館は封鎖された。日本で“オタク”と呼ばれるコレクターの書斎は、あまりに危険だった。剝き出しの放射性物質となんら変わらない。

 パンデミック発生前はコミックが世界中で人気を博しており、携帯性と量産性に優れていた。ジャパンやアメリカはその二大生産地だった。世界中にばら撒かれた幾百億もの感染源……コミックを全て燃やし尽くすなど、土台無理な話である。

 ハーベストはコミックより聞きたいことがあった。

「僕の店は……」

「そんなもん、第二級汚染区域に指定されちまったよ」

「は?」

「ついでにお前さんにも逮捕状が出てる」

「警察は馬鹿ばかりなんですか?」

「俺を責めるな。これは組織の決定なんだ」

 ハーベストは怒りのまま喚き散らしたかった。歯ぎしりで奥歯を砕いてしまいそうだ。

 これが深倫敦ニュー・ロンドンだ。クソッタレの都市だ。

 感染源となるコミックが落ちていれば、警察は見逃さない。いつ病人が出現するとも分からないからだ。否。実際のところ警察組織は検挙率を稼ぎたいだけなのだろう。

【ライアー・スレイヤー】は鬼太郎の置き土産というわけだ。店に英雄病の感染源が見つかった時点でアウトだ。

 口蹄疫という感染病がある。牛や豚などの家畜を中心に感染する。致死率一〇〇%にして、空気感染による強い感染力をもつ。一国の産業を壊滅させるほどの伝染病だ。だから口蹄疫に感染した家畜は焼き殺されるし「感染した可能性のある家畜」というだけで殺処分になる。英雄病も同じくらい恐怖されている。

 しかし口蹄疫はケモノにだけ伝染し、英雄病はヒトにだけ感染するのだ。どういうわけか英雄病も仲間を増やそうとして、感染源をバラ撒く。

 ハーベストは舌打ちした。

 彼は念のため拘束して、念のため治療をして、念のため薬物漬けにされる。

 ついでにコミック所有の罪でも、でっちあげられるかもしれない。警察はどんな甘い物よりも検挙率が好きだから。

「僕はこのままだと、どうなるんですか?」

「英雄病かどうか調べる」

「感染してるわけがない。読んでないんだから」

「状況証拠で十分さ」

「それじゃあ、魔女狩りと変わらない」

「ごもっともだ」

 ワトスンは深刻な表情だ。ぐるりぐるり。肩を回して骨を鳴らす。

「“守銭怒”に続いて、お前さんも薬漬けにしなきゃいかんとはなぁ」

 ワトスンは小瓶をポケットから取り出してみせた。ラベルには“ハッピーエンダー”と記されている。桃色のドロリとした液体が入っている。ほのかに染み出すフルーツシロップのような匂いに、後頭部が痺れる。

 室外から足音が近づいてきた。ハーベストを治療するための医者だろうか? 清潔な床を叩く、退屈な音色……。足音が病室の前で止まる。緊張感が薄く平たく伸ばされる。患者の恐怖をじりじり絞り出そうとしているかのよう。


「はーい、オペを始めるよー」


 ドアが開け放たれた。しかし医者は現れなかった。

 薄氷を滑るような声だった。メガネの奥から月光の視線を送る少女、ユーリ・ノワールが現われた。いつものように大きなヘッドフォンを頭に抱えている。

 あとから、ぞろぞろ子供達もついて歩いて来る。まるで小さな騎士行列だ。子供達は一様に笑顔を浮かべて、遠足に来たみたいにはしゃいでいる。

 子供達のなかにポッピーがいた。ハーベストに向かって大きく手を振っている。熱線じみた瞳にあてられて、ハーベストはさっと目を逸らした。

 まっすぐすぎて、彼には耐えられない。

「あ、お前!」

 無視されたと思ったのだろう。ポッピーが、ぷくっと頬を膨らませた。燃え盛る不機嫌オーラがハーベストの背に突き刺さる。

 ワトスンはユーリに敬礼で応じた。「帝国元帥兼終身独裁官殿ッ!」と声高に叫ぶ。彼らしくもない緊張した振る舞いだ。

 だが決してユーリを見ようとしない。視線がカチ合えば蒸発してしまう、とでも思っているのか。他の警官も同じ態度だ。ヘビに出くわしたネズミみたいに固まっていた。

 ユーリが悠々と歩いてハーベストの元までくる。ハーベストだけがユーリと視線を交差させた。

「君は医者じゃない」

「世界を治そうとしているから、広義では医者かも」

「言葉遊びは嫌いです」

 なぜ医者ではなく、独裁者がここに? 誰もがそう思った。

 あとから走ってきた医者が頭を下げる。床に額をぶつけんばかりだ。

「独裁官殿……こんなみすぼらしい所に……」

「とても立派な病院よ。私が作らせた病院だもの」

「あらかじめ教えて頂ければ、お迎えに参りましたのに……」

「予定が変わったのよ」

 ユーリ・ノワールは予定をよく変える。かつて独裁者ヒットラーが暗殺者から身を守るため予定を変えてばかりいたように、ユーリも常に不規則な行動をとることで暗殺計画をとん挫させる。女は表立って政治を執らない、無数の影武者と側近が国を回しているのだ。今、ハーベストの前にいる少女も本物とは限らない。

 ユーリはワトスンの持っていた証拠品【ライアー・スレイヤー】を取り上げた。無造作に拘束を外し、ページをパラパラめくる。前代未聞の行為に誰もが、ぎょっとした。

「独裁官殿ッ! やめてください!」

 ワトスンは慌てふためいた。だけどユーリは気にしない。

「私は大丈夫。知っての通り、私は特別なの」

「ああ、くそッ」

 ワトスンは狼狽しながら病室の外に出た。他の警官も後に続く。Fuck、Fuck、と毒づきながら逃げ出した。

 まるで毒ガス兵器を室内に投げ込まれたみたいだ。英雄病の感染源に、こうも平然と接していられるのはユーリくらいだ。ハーベストですら迂闊に近寄れない。彼は目をそらして、上を向いた。なんとか気をそらそうと天井のシミを数える。

 状況をつかめない子供達は、まだ病室にいる。

「子供に見せないでください。絶対に」

「勿論よ」

「なに見てるの?」と子供たちが尋ねる。

「とても退屈なもの。見ないほうがいいわ」

「なんで退屈なの?」

「リアルに欠けるから」

 見るなと言われれば、尚更に見たくなるものだ。子供たちは目を輝かせてユーリに「見せて見せて」とせがむ。

「どうしっよかなー、ふふ」 

 子供の好奇心を弄ぶユーリに、ハーベストが溜息をこぼす。

「なんて女だ……」

 それにしても、と女が笑む。

「ハー君に警察の友達いがいたなんて驚きね」

 ワトスンのことを指しているのだろう。ユーリはちっとも驚いた様子じゃない。

 ヒーロー狩りしていたら、どうしたって警官とは知り合う。

「人のよさそうな警官ね」

「警官には向かない奴です」

「だったら、より大切にすることね」

 ユーリがワトスンの座っていた椅子に腰かける。丁寧にロングカートを整える。ちょっとした仕草が貴族のようにしとやかだ。

「どれだけ非凡でも、良い性格には勝てないの」

「そうだとしたら、ユーリは誰にも勝てませんね」

「そうね。私こそが世界最弱よ」

 ユーリがくすりと笑った。彼女はいつだって、春のそよ風に吹かれているみたいに穏やかだ。絵画の住人のようで、現実の厳しさとは無縁に見える。脇に挟んだ男色モノのアダルト雑誌だけが違和感だ。

 子供達が空きのベッドで飛んだり跳ねたりしていた。ポッピーだけがじっとハーベストを睨んでいる。

「……なんですか?」

「べつに」

「『べつに』って顔してませんが」

 ユーリがポッピーに他の子供達の面倒を見るよう頼む。「君は年長者なのだから」と諭してやる。ポッピーが渋々といった様子で立ち去っていく。ハーベストはその小さな背を眺めながら、

「今にも食ってかかりそうな顔でした」

「複雑な年頃なのよ」

 それからユーリは【ライアー・スレイヤー】を読み始めた。内容を大雑把に教えてくれる。

 創作物には濃度がある。オリジナルのコミック本は危険で触れる事すら躊躇ちゅうちょされるが、こうして人の口を伝えば、濃度を薄めることができる。汚染物に対して伝言ゲームは有効だ。

【ライアー・スレイヤー】は日本で人気を博した漫画であり、毎週刊行されている少年誌をまとめた単行本である。


「嘘つきを嫌う熱血漢の主人公が、

 特殊な力を奮い、

 悪しき嘘つきを倒して回る。

 人は彼をこう呼ぶ。『ライアー・スレイヤー』と」


 売上発行部数は五千万部近くに上り、今も日本で続いているのだという。濃度を薄めるため、ユーリはとにかく内容を省いて説明してくれた。おかげでハーベストからすると、このコミックがどう面白いのか分からず、ちっとも読みたいと思わない。限界まで薄めたフルーツ&ハーブのシロップ漬けのよう。

 コミックは毎週のように何百種類何億部と刊行される。それだけ病原菌が毎週生まれているということだ。

 今の日本は魑魅魍魎のヒーローが跋扈している。海を何度も越えた先にある地獄だ。ハーベストには、とても想像できない世界だった。

「ハー君を襲ったコは、この本のファンね」

「奴はゴトーの仲間だと言っていた」

「ふふん。仕返しされた気分はどう?」

「報復には慣れています。また借りを返してやるだけです」

 

「それにしては復讐心が足りないわね。もっとガッツが欲しいところ」

「ユーリの希望は聞いてません」

 それよりもハーベストは自らが拘束されている事実が解せない。彼は深倫敦ニュー・ロンドンの鴉だ。英雄病に対抗できる法外の住人である。無意味な治療をさせるだなんて、ありえない。

 ハーベストの心内を読み取って、ユーリが答えてくれた。

「ハー君はここに来る必要があったの」

「冤罪にしてまで?」

「どんな罪をなすりつけてもね」

 つまりワトスンは無関係だ。警察組織の都合ですらない。もっと遥か高みの人間……独裁者による指示があったのだ。

 ユーリが黒といえば、どんな白も黒になる。

「店に返してくれ。明日の仕込みが残ってる」

「残念だけど。それはできないわ」

 ハーベストを拘束するベルトが軋んだ。よく研いだ肉切り包丁のような殺意が放たれる。

「僕だって、いつまでも穏やかじゃいられない」

「なにをいまさら」

 女が失笑した。

「ハー君はいつだって激しいじゃない。たくさん殺して殺して、これからも正義を殺すのよ」

「僕の生活を守るためです」

「ならば今はティータイムを我慢なさい」

 ユーリがハーベストの顔に頬を寄せた。噛みつけるものなら噛みついてみろ、と挑発している。女の冷たい吐息に触れる。

 ハーベストの運命を弄るなど、バースデーケーキに灯ったロウソクを吹き消すよりも容易い。

「今ね、ちょっとした事件が起きてるの」

「いつものことです」

「いつも以上に、ハー君は観ておくべき……」

 ユーリは、するりと手を伸ばす。備え付けのテレビを操作した。ハーベストの傷だらけでブ厚い手と違って、一切汚れていない綺麗な手だ。鎌首をもたげた白蛇のように、なめらかで迷いがない。

 鈍色のツマミを撫でるように回してチャンネルを操作する。何を観ようというのか? アニメやドラマだなんて、ありえない。この都市はプロパガンダを垂れ流す国営放送しかない。

「ハー君ってテレビ見る?」

「興味ありません」

「そうでしょうね」

 彼女はなぜ答えが分かりきった会話をするのか? ハーベストはいつも不思議に思う。

 ばちん。テレビが爆ぜるように点いた。霧が晴れるように、ぼんやりと動画を映す。

 深倫敦ニュー・ロンドンセントラル放送局はニュースを流していた。都市の一角で火事が起きているらしい。サイレン音がけたたましく鳴り響く。都市が泣き出しているみたいだ。人だかりができて。沸騰したヤカンみたいに騒然としている。

 轟々となにか燃えている。


 よく知っているレンガ造りの赤黒い壁。

 よく知っている濁った窓ガラス。

 よく知っている欠けた屋根。


 彼の店【PAWN】は火事だった。病院送りにされてまで守った店が、あっけなく燃えている。

 ハーベストの顎ががくがくと震えた。あらん限りに目を剥いて、鼻を膨らませる。

 立ち込める黒煙がテレビ画面を覆う。まもなく【PAWN】は焼け落ちるだろう。逆さまにブチ撒けたビターチョコレートパフェみたいに。

 熱風でプロパガンダのビラが舞った。


「その荷物は捨て置け。

 重過ぎるから。想い過ぎてしまうから。

 想いを重ねた輩から病人になるのだから」

 

深倫敦ニュー・ロンドンセントラル放送局です。こちら現場リポーターの……」

 女性リポーターが叫んでいた。よく通る声だ。火事現場の喧騒にも負けない、と意地を見せている。どんな地獄でも喋り倒せるよう訓練したのだろう。

 リポーターが表情筋を総動員して、緊迫した表情を浮かべていた。とはいえ内心では何も感じていないだろう。毎日のように凶悪事件に接するのだから、面の皮が厚くなくては務まらない。彼女の仕草はどこか人形的だ。瞳にうっすら冷たさが漂う。

“ジャーナリズム”が正義感を刺激する言語として、放送禁止用語になったのは、もうずいぶん昔の話だ。

 リポーターの背後で【PAWN】が相変わらず炎上している。ハーベストは無理やりまばたきをした。頼むから夢であってくれ、と願うように。しかし現実は変わらない。炎が手当たり次第に蹂躙する。ぎぃぎぃ、と店が鳴いていた。

 この店はハーベストの逃げ場所だった。この腐った世界から現実逃避するための大切な場所だった……。

 ちょうど駆けつけた消防隊が放水作業を始めた。随分と遅い到着だ。ティータイムと洒落込んでいたのか? 店が焼け落ちる寸前ではないか。もはや火の手が両側の建物に燃え移ってしまった。周囲一帯を焼野原にした無能共である。

 でっぷりした腹の消防隊員が先陣を切る。膨らんだ上半身が左右に振り子みたいに揺れた。まっ当な消防隊員はすっかり消え去った。火事になってから、のんびりゆったり来る連中ばかりだ。正義感あふれる迅速丁寧な消防隊員など、誰が喜ぶ? 市民もリポーターも無感動な視線で消防隊の活躍をカメラに流した。

「現場では【PAWN】という喫茶店が経営されていました。店主は現在行方不明で……」リポーターが情報を読み上げる。熱風に煽られるのを気にしているのか、長髪を指で押さえている。

「専門家によると、英雄病患者による放火だと予想されており……」

 なんの証拠もなしに、メディアが妄想を垂れ流す。「英雄病患者のせい」は彼等の常套句である。

 ありとあらゆる悪事が病人のせいにされ、メディアもそう公表するよう政府から圧力をかけられている。路地裏の殺人事件から、車が跳ねた泥水まで英雄病のせいというわけだ。

 とうとう焼け落ちた店をカメラが無感動に見つめる。画面上部にプロパガンダのテロップが流れた。


「正義感とは、はみ出し者の言い訳に最適だ」

 

 

 我慢の限界だった。

「やめろ!」

 ハーベストが吠えた。

 テレビに届かない怒りをぶつける。すさまじい剣幕だ。がらがら鳴く落雷みたいで、鉄格子付きの窓を震わせた。驚いた子供たちが一目散に病室から逃げ出した。ポッピーだけがユーリの腰にしがみついていた。暴風に飛ばされまいと耐えるかのように。

「拘束を解けッ! 殺すぞ!」

 まさに悪鬼羅刹。ユーリはヘッドフォンを押さえて、怒声を受け流す。

「病室では静かに、よ」

「うるさいッ! この!」

 ハーベストは起き上がろうと躍起になっていた。今にもテレビに飛びかかりそうだ。丁寧な言葉遣いも忘れて、荒々しさを隠さない。

「やめろ、やめろ……! この!」

 拘束具が軋み、繋がれたベッドが歪んだ。驚くほどの怪力だ。ポッピーは目をまるくして、暴れるハーベストを見ていた。

「鎮静剤を打っておくべきだったわね」

「今すぐコレを外せ」

「嫌よ。ポッピーちゃんも怖がってるし」

「わ、私は怖がってなどいません!」

 ハーベストは疲労困憊になるまで暴れた。ぜぇぜぇ、ぜぇぜぇ。息を荒げるばかりでベッドから逃れられない。革ベルトで括られた手首は擦り剝けて血が流れていた。

 革ベルトにはいくつもの血の跡があった。古い汚れだ。暴れる病人を抑えつけるために使っていたのだろうか……

「開放しやがれください。レイヴンマスター殿」

「ノーよ。二度も同じこと言わせないで」

「君をコーヒーミルですり潰してやりたい」

「とびっきり甘いコーヒーになるでしょうね」

 ハーベストは焦っていた。すぐにでも病院を飛び出したかった。すぐにでも【PAWN】に戻りたかった。それを邪魔する者が忌々しい。ありとあらゆる障害を許さない。いつもの平たんな顔が、今はくしゃくしゃの古紙みたいだ。

「嘆かわしい。英雄病は悲劇しか生まないわ」

 ユーリは詩を詠うように述べた。

「ハー君、独裁官令を下すわ」

 ゆるりと告げた。もうじき雨が降りそうですね、といった具合だ。

 それは独裁者による絶対命令権の行使。ひとたび「独裁官令」が発令されたら血の雨が降る。誰であろうと独裁者の命令を聞くほかない。

 ハーベストは背筋が寒くなった。そもそも最初から彼を冤罪にするつもりだったという。独裁者は彼と密談の場を設けたかった。


「そんなことない。私が作らせた病院だもの。とても立派よ」


 ついさっきユーリが発した言葉が、頭蓋を転がり落ちる。

 ヒーローを閉じ込める病院は秘密主義の塊で、ユーリにとって都合がいい。そんな場所でユーリは何を命じようというのか?

 ユーリがテレビの電源を落とす。

深倫敦ニュー・ロンドンの鴉に命じるわ」

 それは神の宣託じみていた。

深倫敦ニュー・ロンドンにはびこる病人を始末なさい」

「もう何度目と分からない話ですね」

「これから何度だって始末するのよ」

「守るべきものがないのに、ですか」

「あんなショボくれた店、また建ててあげるわ」

「ショボくれてません」

 ハーベストが独裁者に抗うよう見上げた。カシャン、カシャン。拘束が力なく揺れた。

 独裁官の命令は、あらゆる法より重い。

 ユーリの命令は簡単だった。


 手段と生死は問わない。

 すみやかにヒーローを処理せよ。


「僕だけしか動けないんですか?」

「都市じゅうの鴉に呼び掛けてるけど」

 ユーリがヘッドフォンを指先で叩く。

「みんなワガママだから。応じてくれるか微妙ね」

「忠誠心がないんですね」

「ハー君にもないじゃない」

「復讐心ならあります。店を燃やされたツケを支払わせたい」

 ハーベストは目を閉じた。

(英雄病が悪い……つまりは、そういうこと)

 瞼の裏では、まだ店が燃えている。大切な店だった。この腐った世から隔離された、彼だけの世界。彼だけの法。彼だけの牢獄。カビ臭い木材と煤汚れたガラスの城……。焼き払った連中にはケジメをつけさせる。

 ハーベスト自身は行方不明ということになっている。ユーリを伺うように見ると、彼女は眠たげなウインクをした。

「ハー君はもう透明人間よ」

 今のハーベストは政府公認の行方不明者だ。おあつらえ向きの復讐心もある。なんてユーリ・ノワールに都合がいいことか……



 ポッピーは彼等のやりとりを眺めていた。

 話の内容なんて分からない。だからこそユーリは子供達を傍に置いている。「愛されるコツはほどよくバカであること。もしくは都合がいいくらい幼くあること」ユーリはそう言っている。

 ハーベストは拘束を解かれ、痛む体の節々を撫でる。神経質な目でポッピーを見やる。彼は子供を巻き込みたくない。ガキは甘い物をたらふく食べていればいい。

「子供を引き連れるのは、やめたらどうです?」

「構わないわ。そうでしょう? ポッピー」

「はい」

 少女は即答した。

「ユーリ様が仰るならば、正しい」

 盲目的な信仰にハーベストは顔をしかめる。全てが独裁者の掌の上にある。

 ユーリをじっ睨む。

「なんでもかんでも利用し続けていると、しっぺ返しを食らいますよ」

「例えば?」

「君の塔だって燃やされる」

「楽しみにしておくわ」



 気づけば大病院が遥か後方にある。

 ハーベストは拘束を解かれるや、すぐ病室を後にした。ユーリと目を合わせ続けるなんて、ごめんだ。あっというまに石に変えられてしまうかもしれない。横引きのドアを開けて、ぎょっとする警官共を無視して歩む。

 歩く。歩く。歩く。

 思考は炎と憎悪に染められている。灰色に煤けた視界。ザラついたそよ風が心を削る。彼は冷静さを欠いていた。病院の敷地から出ようというところで、ようやくポッピーの追跡に気づいた。孤児の集団から抜け出してきたのだろう。なんて醜態だ、とハーベストは歯噛みする。今のハーベストなら子供でも殺せる。背後からそっと忍び寄って、ナイフでひと突きすればいい。

「おい、お前っ!」

「ハーベストです。名前がある」

「ハーベスト、今日は火曜日だ」

「なんの変哲もない、この世で最も不必要な曜日です」

「イライラを火曜日にぶつけるな。かわいそうだろ」

 ハーベストは酷く機嫌が悪い。病室の一件がそうとう堪えたらしい。ずんずん、ずんずん。苛立ちを足裏に込めて歩く。ポッピーが、せっせと追いすがってくる。

「なんで君がついてくるんですか?」

「ポッピーだ。私にも名前がある」

「『金魚のクソ』に改名したらどうですか?」

 鈍痛。ハーベストの腰に頭突きが刺さる。

「ハーベスト、今日は火曜日だ」

「何度も言わなくていい」

「金曜日にまた倫敦塔に来るのか?」

「なぜ私が?」

「お菓子。金曜日に作ってきてくれるじゃないか」

 ポッピーは先週から孤児院入りしたという話だ。だが既にハーベストの習慣を熟知しているらしい。ユーリの忠臣としては上出来だ。

「できません。店がもうありませんから」

 納得いかない、とポッピーが唸る。小ガラスの髪飾りが悩ましげに揺れる。しかし無理なものは無理である。

「おいしかったから、早く店を作り直すんだ」

「言われずとも」

「わたしも手伝ってやる」

「いえ、それは別に……」

 通りに出てすぐの赤信号にぶつかった。二人そろって止まる。信号なんて律儀に守ることもない。だが彼は考える時間が欲しい。

 ハーベストは迷った。このままポッピーを突き返すのは簡単だ。だがポッピーは期待を抱えてハーベストを追いかけてきた。追い返すのは躊躇われた。おかげで冷静さを取り戻してもいた。

 彼は溜息を吐いた。復讐にポッピーは付き合わせられない。

「僕はお菓子を作れませんが、美味しいお菓子屋なら知っています」

「本当か!」

「ええ。知っておくべきです」

 ポッピーが目を輝かせる。幼い瞳に綺羅星が宿っている。ハーベストは少女から目を逸らしつつ、手を差し出した。

「一緒に来ますか?」

 ポッピーはハーベストに手を伸ばそうとして……躊躇った。迷っている。少女は孤児院では年長者だ。ひとり抜け駆けというのは、他の子供たちに申し訳が立たないのだろう。しっかりした子だ。小さな身体に見合わない真摯さを秘めている。

 ポッピーは危うい、とハーベストは確信する。

 こんな子供は正義感に魅入られやすい。

 金を巻き散らす銀行員。血液を操る学生……。ハーベストの胸中に嫌な思い出がよみがえる。

「君は少しくらいズルを憶えるべきです」

 ハーベストはさっとポッピーの手を取った。少女を引きずるように連れ出す。ポッピーは驚いていた。だけど逆らわない。抵抗すべきか決めかねているのだ。

「実はユーリ様の許しなしで……」

「構わない。彼女が困るなら気分がいい」

「まるで誘拐だぞ」

「誘拐犯くらい、どこにでもいます」

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