第五章 スポンジケーキに指を挿れよう。ほじくるように地下を突き進もう

 倫敦地下鉄アンダーグラウンドは廃線となった。今は【ザ・チューブ】なる愛称だけが取り残されている。年間十憶人規模の利用客でごったがえした地下鉄が、巨大な地下都市に変貌した。

【ザ・チューブ】は深倫敦ニュー・ロンドンの足元にとぐろを巻く大蛇だ。ルーマニアの“マンホールタウン”の超巨大版ともいえる。来るものを拒まない。老若男女善悪を問わない。地表で暮らしていけない無法者達のオアシスである。

 ここは世界の底。けれど住人の熱気と楽観が水蒸気のように噴き出している。誰もが意気揚々とビートルズの「Hey jude」でも歌いだしそうだ。人はどこまで落ちても終わらない。



 ハーベストとポッピーは地下鉄行きの階段を降りた。

 もうもうと立ち込める煙。鼻をくすぐる薬品の臭い……をかき分けて地下都市に潜り込む。

 旧地下鉄は広大だ。長い長い道のり。ぶら下がった青白い電灯。ひび割れて今にも崩落しそうな壁、床、地面。

 行く先々には屋台が並んでいた。ポッピーには初めての場所だ。キョロキョロと大きな瞳を右往左往させていた。冬眠明けに春を味わうリスのようだ。

「まっすぐ前を見なさい」

「うががっ、首を捩じるなぁ!」

 ハーベストが少女の肩を掴んで落ち着かせる。

 彼はじっと前を見据えている。瞳は微動だにしない。

「落ち着きのなさは、弱者の証」

「私は弱者じゃない」

「ならば堂々としてください。誰にもつけ入られないように。誰にも隙を見せてはいけません」

「ハーベストにもか?」

「勿論。そしてユーリにもです」

「ユーリ様は裏切ったりしない」

「……そういうとこです」

 ハーベストは先を急ぐ。

 ポッピーに狙いをつけてニコニコ笑顔で寄ってくる男がいた。

「ヘイヘイ、お嬢ちゃん。お金欲しいかい?」

 ソイツを睨みつけて威嚇してやる。ポッピーも彼にならって威嚇する。ライオンと子猫が一緒になって唸っているみたいだ。

「あんな輩にはこうやって威嚇するんですよ」

「ウッー!」

「まぁまぁ。及第点です」

 


 駅のホームから線路に降りる。かつて列車が疾走した道を歩む。凸凹した砂利道と錆びたレールがまだ残っている。

 並列四車線の路線上……とある屋台が気になった。暖簾押しの入り口が、アジア系の雰囲気を漂わせる。いい匂いがする。ごま油とニンニクの香り。それだけじゃない。妖しく惹きつける正体不明のナニカ。ポッピーが鼻をスンスン鳴らした。ついつい吸い寄せられそうだ。

「店に入らないことです」

 ハーベストがポッピーの襟首をつかんで引き寄せた。うえっと少女が絞められた首をさする。

「迂闊ですよ」

「何するんだ!」

「ケシの実入りの中華麺が出てきたらどうするんです?」

「どうなるんだ?」

「麻薬漬け。病院に放り込まれた連中の仲間入りです」

「それはイヤだ……」

 ポッピーが渋面した。強烈なビターチョコレートに悶絶しているみたいだ。

【ザ・チューブ】で知らない店に入ると、何を出されるか分からない。

 麻薬料理でなくとも、人肉料理店かもしれない。売春宿どころか、奴隷商人に出くわすかもしれない。

 年端もいかぬ少女が迂闊なマネをしちゃいけない。好奇心は猫をも殺すのだ。ハーベストがポッピーを引き連れていく。ずんずん、ずんずん。前進する兵隊みたいに歩む。大人と子供で歩幅が違うから、ポッピーは息を切らしてついていく。でもハーベストは歩む速度を落とさない。歩みを合わせれば、負けず嫌いの少女は怒るに決まっているからだ。

 まだ撤去されていない線路上を歩いて──ちょうど一区画分歩いたころだろうか。風変わりな店に出会った。

 お菓子の家だ。とろけた飴の窓、クッキー製の柱、チョコレートの塗装、屋根にこんもり積もった雪はホイップクリームだろう。壁に散りばめられた色鮮やかなキャンデーの群れは、けらけら笑う子供達みたいに楽しげだ、

 食欲をそそられたハーベストが思わず喉を鳴らす。

 まるで絵本上の代物であり「ヘンゼルとグレーテル」の舞台そのもの。薄汚い地下都市にあるなんて性質の悪い冗談だ。

 ポッピーが目をキラキラさせて、家の周囲を眺める。

「……魔女の家みたいだ」

「魔女なんているわけないじゃないですか」

「む……。それくらい分かってる」

 ポッピーが唸るように返す。

「ちなみに、お菓子も偽物ですから」

「そんなこと私でもわかるぞ!」

「本当に? 僕は一度、噛みついて確認したんですよ」

「ふふん、ハーベストも子供だな」

 彼等はお菓子の家に向かっていく。

 見上げれば【PAWN】の文字。でかでかと銀縁の看板が掲げられていた。奇天烈な見た目をしながらも、堂々と胸を張っているかのようだ。

 玄関口に【CLOSE】と表札が掲げられていた。だけどハーベストは気にしない。ホワイトチョコレートのドアに手をかける。

 ポッピーが尋ねる。

「ハーベスト、いいのか?」

「ここは、いつも閉まっていて、いつも開いている」

「どーいうことだ?」

「いちげんさんお断り、ってことです」

 二人はドアを開けて“お菓子の家”に入った。ふと気づけばポッピーが袖にしがみついていた。頑なとして木から離れないカブトムシみたいだ。

「……動けないんですが」

「うるさい」

「怖いんですか?」

「疲れたんだ。杖になれ」

「魔女なんていないと……」

「うるさい。うるさい……」

 ハーベストにしてみれば少女の保護者こそ、よほど魔女らしい……。ポッピーの怖がるべき相手はすぐ身近にいる。

 屋内に入ってみれば拍子抜けだった。薬品をコトコト煮こむ鍋もなければ、しわくちゃで鉤鼻の魔女もいない。いわゆるダイナーといった風の料理店である。

「意外とフツーなんだな」

「外装に全力をかけて。それで力尽きたんです」

「カッコわるい」

「同感です」


「全部聞こえてるよ糞ガキども」


 カウンター席に女が座っていた。ハーベストより少し年上だろうか。燃える赤毛をそよがせ、目がくらむ口紅を引いて、溶岩の瞳を輝かせている。見上げるような長身と、でっぷりと膨らんだスタイルが合わさって、まるで火の玉のような淑女である。

 彼女は隻眼だった。仰々しい眼帯をつけている。黒のエプロンに、まっ赤なコートを羽織っていた。奇遇にもハーベストと似通った服装だ。

 漆黒のコートと鮮血のコートが対峙した。

「お元気そうでなによりです。隊長」

「思ってもないことを言うんじゃないよ、ハー坊」

「僕は礼儀を大切にしますから」

「ハー坊の礼儀は火薬と砂糖でできているからねぇ。あっという間に焦げついて弾ける」

 ポッピーが首を傾げて尋ねる。

「この人が店長さんなのか?」

「そうさね。よく来たねクソガキちゃん」

 ムムムッ。ポッピーが鼻にシワを寄せる。ガキ呼ばわりにカチンときた。

「私はポッピーだ。『クソガキちゃん』じゃない」

「ほほう。アタシを怖がらないだけ、大したもんだ」

「ユーリ様は『私がつよい』といつも言ってくれる」

「不吉な名前をあげるんじゃないよ」

「つまり、私は、つよい」

「レモネード売りがお似合いなのにねぇ」

 クックック。声を殺して女が笑った。

「ハーベスト! コイツきらいだ! やっぱり魔女じゃないか!」

「言っているでしょう。魔女なんていません」



 テーブル席につくと、水入りのグラスが雑に並べられる。からんころん。氷同士がぶつかって笑うように鳴る。

「隊長。とびっきり美味いヤツ、頼みます」

 バターナイフが飛んで、テーブルに突き刺さる

「殺されたいのかい? アタシが出すモンは全部『とびっきり美味い』んだよ」

 ポッピーは女の殺意に凍りついていた。よく見ればテーブルは傷だらけ。まるで戦場跡みたいだ。椅子のクッションも無惨に千切れて、スポンジがはみ出している。店の隅には血痕が覗いている……。

「注文は聞かないよ。徹頭徹尾アタシが決める」

 隊長はコートを翻して、店の奥に消えた。

「まるで暴君です」

 ハーベストが肩をすくめる。だが“ローマではローマ人のするようにせよ”ともいう。ハーベストは店のルールをリスペクトすることにした。

 ポッピーが不安そうに店奥とハーベストを交互に見やっている。

「なんなんだ、あの女……メチャクチャだ」

「私の師匠です。お菓子の腕は保証しますよ」

 ポッピーはじっとハーベストを見つめてから、フンと鼻を鳴らす。小さな体を椅子にうずめた。

「ハーベスト、今嘘をついたな」

「どうして、そう思うのですか」

「わかるから、わかるんだ」

 ハーベストの顎がわずかに震えた。

「これだから子供は……」

 もごもごと舌を動かしてみる。正直、うまく喋れるか不安だった。

「ユーリ様はいつも言っていた。『嘘には二種類ある』と」

 ポッピーは思い出すように、指で宙に円を描く。

「『語る嘘と、あえて語らない嘘』がある」

「それで?」

「今のハーベストは『あえて語らない嘘』を吐いた。わたしには分かる」

 ハーベストは何も言わなかった。否、言えなかった。なにか一言でも発しようものなら、この小さな巨人に、また何かを見透かされてしまう。そんな気がしたからだ。

(僕が怖気づくとはね)

 子供は危うい。平然と真実を見つけてしまうから……。



 まもなく料理が運ばれてきた。ホール状のキャロットケーキである。生地上で刻まれた人参が火花みたいに散らばっている。てっぺんはヨーグルトとクリームチーズがたっぷり塗りたくられていた。“隊長”はテーブルで小皿に取り分けてくれた。

 それぞれ三切れもある。作り過ぎた家庭料理みたいだ。作ったら、とりあえず皆で分けてしまえばいいだろう? と言わんばかり。

 隊長によると「店のメニューはコレしかない」らしい。飲み物もミルクかコーヒーだけ。

 ポッピーは肩透かしを食らった気分になる。色とりどりで華やかなお菓子たちが行列を作って行進するものだと期待していた。かつてハーベストが引きずっていたお菓子入りカバンは宝石箱みたいで心底ワクワクさせられたのに……

 ハーベストがのんびり頷く。

「もはやキャロットケーキ専門店ですね」

「文句あるなら、生の人参を齧りな」

「文句だなんて、まさか」

 苦笑。

「僕はコレが大好きですよ」

 ハーベストの店にはキャロットケーキがない。彼女ほどの絶品を作れないからだ。

「レシピを教えてくださいよ」

「自分で盗みな。誰だって盗みをやる世だよ」

「どんな銀行強盗よりも困難ですよ」

 ハーベストは肩をすくめた。かつて彼女から菓子作りを学んだ日々を思い出す。あの時はハーベストも痩せっぽちで背も低かった。

 隊長はよくこう言ったものだ……。

 

「水と油。ソレが菓子作りの基本要素さ」

「どちらも相容れない。正義と悪みたいですね」

「ルールにこだわるのは社会だけさ」

「お菓子はそうじゃないと?」

「お菓子作りのルールはひとつ。『ルールを気にするな』さ」

 

 ハーベストの記憶を引き裂くように、ふわりと甘い匂いが立ち込める。

 ごくり。ポッピーが喉を鳴らした。ぎゅるんぎゅるん。胃も鳴きだす。キャロットケーキの見た目は地味で質素なものだ。だが極上の匂いは少女の不安をさっと拭い去ってしまった。孤児院でもキャロットケーキは定番のデザートだが、店のソレはまるで別物だ。

 ハーベストが二人分の代金を払う。ポッピーに食べるよう促した。

 隊長が踵を返してキッチンへと戻る。

「とっとと食って、さっさと出ていきな」

 キャロットケーキにありつくことにした。とはいえ、どこから手をつけたものか迷う。真のごちそうを前にすると、つい手が止まってしまうものだ。迷わずがっつくなんて出来ない。あまりの幸福に我を疑ってしまう。触れた途端に消えてしまうのではないか? これが儚い夢ではないか? と警戒するのだ。ぐっと唇を引き結んで、涎がこぼれないよう気をつける。

 いざ対決の時。フォークという槍を構えて、キャロットケーキの牙城に立ち向かう。

 まずはどうしてやろうか? クリームチーズのまっ白な屋根から崩すか、それとも人参入り生地の絶壁から削るか……。

 ハーベストは真正面からフォークで切り崩した。大胆な正面突破を仕掛け、躊躇なく頬張る! まるでハチミツを懸命に掘り返すクマみたいだ。

 あれこれ悩んだ挙句、ポッピーも正面切って食べることにした。フォークを押し返す生地の弾力に、負けじと押し込む。口にいれて理解した。今まで孤児院で食べてきたのはキャロットケーキなんかじゃない。甘いだけの土くれか、生臭いスポンジだった。

「……」

 お互いに無言のまま。黙々とキャロットケーキを食べる。

 口に運んで、また口に運んで。決められたルーチンワークに徹する。感激を口からこぼす暇もない。

 人参の優しい味わいが夏の入道雲みたいに、どこまでも広がる。だが最後にはクリームチーズとヨーグルトのシャープな酸味が、味わいを引き締めてくれた。

「おいし……」

 ようやくポッピーがボソリと呟いた。

 食べ終わったあと、皿まで舐め回したい衝動に襲われた。もちろん偉大なるユーリの子供達はそんなことしない。少女は我慢強い。

 ハーベストはポッピーよりずっとはやく食べ終えていた。ミルクを勢いよく飲み干す。大きな図体をして、子供みたいな食べっぷりだ。

「やはり隊長のケーキには敵いません」

 噛みしめるように、彼は言った。

 キャロットケーキをたいらげ、二人そろって息を吐く。

 ポッピーはご機嫌だ。誰だって腹を満たせば、気分が良い。いつも冷然としているハーベストですら綻んでいる。キツく結んだ紐がようやく解けたみたいだ。

「連れてきてくれて、ありがとう。ハーベストはなんでも知ってるんだな」

「知っているのは甘い物だけです」

「十分だ」

 ポッピーが歯を見せて笑った。

 ハーベストは気づく。そういえば初めて少女の笑顔を見た、と。

 そっと手を伸ばし、ポッピーの小鳥の髪飾りに触れる

「おい、何をするんだ」

「綺麗な髪飾りだと思って」

「そうだろう、そうだろう」

 ポッピーが自慢げにうなずいた。



 隊長がキッチンで洗い物を終えてきた。のっしのっしと歩く雌熊みたいだ。

「なんだ、まだ帰ってなかったのかい」

「冷たいですね」

 隊長がテーブル上に尻をのせる。

「行儀悪いですよ」

「性格は良いから問題ない」

 ポッピーが不思議がる。

「そういうものか?」

「いいえ、悪い大人を見てはいけません」

 ポッピーの頭を鷲掴みにする。キリキリと捩じって明後日の方向を見させた。「いたい、いたい」と少女が叫ぶ。

 ハーベストはおかわりのミルクを飲みながら、周囲を見渡す。この雑多で甘い匂いも、キラキラお菓子の外装も、なにもかもが懐かしく感じる。

「今度、ボンボローニを作ってみようと思うんです」

「オンボローニ? 酷い名前だね」

「ボンボローニ。イタリア式ドーナツで……」

「アタシは興味ないね」

「頭にキャロットケーキしか詰まってないんですか?」

「あ? そうだよ。死ぬか?」

 隊長は煙草を取り出した。古紙でぐるぐる巻きにした煙草だ。“ビリー”というインドの安煙草だ。まろやかな“菩薩樹の葉”がよく効いている。

 マッチ棒をこすると、硫黄の臭いが流れ、ケーキの甘ったるい匂いを掻き消す。

 隊長とは長い仲だ。生まれも育ちも一緒。意外なほど歳も近い。深倫敦ニュー・ロンドンの影から湧いて出た幽霊のようなものだ。ハーベストは彼女から菓子作りを学んだ。

 三年の修行を経て、地上の一画で喫茶店を出すまでになった。営む店が違っても、頑固さは師弟そろって変わらない。

 隊長は出し抜けに尋ねた。

「店を燃やされたんだって?」

「子供の前ですよ」

「構いやしない。どうせ倫敦塔のガキだろ?」

「私は気にしないぞ」

 ポッピーは強がるように、ハーベストを見上げた。彼はバツが悪そうだった。こんな話は食後にしたくない。

「ハーベストのお菓子は美味しい。なんど店を燃やされたって、すぐに復活できる。そうだろ?」

 ポッピーが自信満々に述べた。根拠もなしに、よく平然と言える。大人は子供の無垢さに苦笑するしかない。

 隊長が紫煙を吐く。

「誰に燃やされた?」

「犯人は英雄病ってニュースで……」

「月並みな話を聞きたいんじゃないよ」

 隊長は軽薄さを煙に混ぜた。

「ハー坊にとっての不都合を喋りな」

 ハーベストは重く頷いた。

 この都市は毎日そう叫んでいる。「世の災厄はすべてヒーローのせいだ」「すべてヒーローが悪い」「なにもかも奴らが原因だ」叫ぶことをやめたら窒息してしまうかのように。

 ハーベストは口を「へ」の字に曲げた。天井を見上げる。煤汚れた蛍光灯を割れんばかりに睨みつける。


【PAWN】炎上事件の裏側……。彼には予想がついていた。あんな大仰に報道していたが、実際のところ店を燃やしたのは英雄病患者ではないだろう。だって可笑しな話ではないか? ハーベストは既にカップルの英雄病に襲われていたのだ。理由はどうあれ彼は殺されずに済んだ。わざわざ、もぬけの殻になった店を燃やす意味とは、なんだ?

 新たな、別のヒーローの仕業かもしれない。けれど偶然が過ぎる。偶然だなんて、“守銭怒”ゴトー・ゴルドマンが店に転がり込んできただけで十分だ。

 ハーベストを英雄病狩りに発起させるには、放火事件のタイミングが良すぎた。

「ハーベストの店がなぜ燃やされたか?」ではなく「ハーベストの店が燃えて誰が一番得をするか?」を考えたほうが良い。


 誰が一番に英雄病を始末したがっているか?


「僕の店を燃やしたのはユーリだよ」

 言葉を吐くだけなのに、舌が別の生き物みたいに抵抗する。

 証拠なんてあるわけがない。ユーリは捏造し放題の立場なのだ。なんて忌々しい女だ、と唇を噛む。

 店内が静まり返る。三者三様に違う表情を浮かべた。

 ハーベストは憔悴を。

 隊長は納得を。

 ポッピーは憤怒を。

「ハーベスト! なんてこと言うんだ!」

 口火を切ったのはポッピーだ。もうキャロットケーキを食べた感動など消え去っていた。

「英雄病がわるいって、皆言ってるだろ!」

 子供は沈黙に逃げない。想いをすぐ口にする。

「いずれ分かりますよ」

「答えになってない! ユーリ様の悪口は聞き捨てならない!」

「君以上に、僕はあの女をよく知っているんですよ」

 ハーベストの物言いは、後ずさりして逃げるかのようだ。大事なところで逃げる癖がまた出ている。彼は言葉を選ぶ。選ぼうとするから迷うのだ。

「ハー坊。有耶無耶にして逃げるのは、あんたの悪い癖だよ」

 隊長がそっと告げた。バターナイフでさくりと心に切り込むかのようだ。

 ハーベストは唸るように俯く。ポッピーにはユーリがどんな奴なのか、現実を突きつけてやった方がいいのかもしれない。

 彼は、さっとポッピーの髪飾りを奪った。

「おい、やめろって!」

 ポッピーが怒鳴った。返せ、と短い手を伸ばす。だけど届かない。

 ハーベストは髪飾りをテーブルに叩きつけた。卵を割るような気軽さで、まっぷたつにしてしまう。プラスチック製の安っぽい髪飾りだ。すんなりと中身を晒す。予めそうなるよう設計されている。

 ポッピーが悲鳴を上げた。まっ赤な顔が転じてまっ青になる。

「それはユーリ様に貰った……!」

「知っています。小鳥の……小ガラスの髪飾りでしょう?」

 こんなモノを贈る輩など、ひとりしかいない。

「見てください、これを」

 割れた髪飾りを突きつける。ボタンのように円くて薄い電子機器が内蔵されていた。

「盗聴器です」

「トーチョーキ……」

「これで盗み聞きしてるんです」

 こうしている今もユーリは聴いているに違いない。ユーリは都市の様々なヒト、モノ、バショを監視している。あの不釣り合いに大きなヘッドフォンで世界に耳を澄ましている。

 ハーベストはポッピーが好きだ。彼のお菓子を評価してくれる。だからポッピーの頭からユーリの影を追い出してやりたかった。

「分ったでしょう、これがユーリの本性で──」

「だからどうした!」

 即座にポッピーが叫んだ。地面に打ち付けたゴムボールみたいに跳ねっ返る娘だ。ハーベストですら、ぎょっとした。しんと室内が静まり返る。外から聞こえる雑多な賑わいが、どこか遠い世界の出来事のようだ。

「だからどうしたって……盗み聞きですよ?」

 依然としてポッピーは強硬な姿勢だ。

「ユーリ様のお考えだ。トーチョーキとやらが間違いであるわけがない」

 危うい少女だ。盲目的すぎて眩暈がしてくる。

「そんなにユーリを信じているんですか」

「当たり前だ。あの人が私を拾ってくれたんだ」

 絶句。

 盗聴先でユーリがほくそ笑んでいる気がした。独裁者はこの世すべて我が物だと確信している。少なくともポッピーの心は手にしている。

 ハーベストの気遣いなど、余計なお世話ということか。

「だから返せと言っている!」

 ポッピーの我慢も限界だ。怒りのままに飛びかかる。

 テーブル上のフォークを握るや、突き出した。囚われた髪飾りを助け出そうとして、ハーベストの手を狙う……いや、そんなチャチなもんじゃない。一直線にハーベストの顔を狙った! 殺意山盛りの一撃が放たれる。

 少女の躊躇いを知らぬ暴力そのものにハーベストは驚かされた。けれど体は迷いなく動く。暴力沙汰の経験は忠実だ。無意識であっても脅威に対応できる。

 まず迫るフォークの根元を掴んで止めた。返す手で銃を引き抜くや、ポッピーの額に突きつけた。ただ引き金に力を込めるだけでいい。一撃必殺の状況に持ち込む。鬼太郎のように不意を突かれない限り、子供に負けるわけがない。

 単なる脊髄反射だ。殺すつもりなんてない。けれど少女に銃を突きつけたという事実にバツが悪くなる。

 引き金ひとつで脳みそが吹き飛ぶポッピーはというと、じっとハーベストを睨み据えたまま動かない。

 ひゅー。隊長が口笛を吹く。

「やっぱり倫敦塔の子ガラスだねぇ」

 隊長が煙草を吐き捨て、踵で踏みにじる。両手をコートに差し込むと、二丁の銃を取り出した。スローモーションじみた流麗な動作だ。一流ビジネスマンがするりと名刺を取り出してみせるかのよう。だが実際は瞬きすら許さぬクイックドローである。

 ぎらり。金属が冷たく光る。銃身の先を切り詰めたソードオフ・ショットガン。狭い店内でも好き放題に振り回せるよう改造されている。

 地獄行きのチケットをハーベストとポッピーに突きつける。

「あたしの店で騒ぎは許さないよ」

「知ってます。僕の店も同じルールでした」

 彼女を縁取る赤色が燃えていた。身内であろうと一切容赦しない。この師にして、この弟子ありといったところだ。

「物騒な客ばかりで商売あがったりだよ」

「師弟そろって、経営センスゼロですね」

「お黙り。赤字分はヒーロー狩って稼ぐのさ」

 ハーベストは銃をしまった。ポッピーは頼りなさげにフォークを握ったままだ。冷静を取り戻し、むしろ青ざめていた。ハーベストを刺し殺そうとしたことが、自分でも信じられない様子だ。

 ハーベストが少女の手からフォークをつまみあげる。

「これはスポンジケーキを崩すためのものです」

「こんなつもりじゃ……」

「わかってます」

 最後まで言わせなかった。ついカッとなってしまった。それだけだ。ユーリが物騒な教育しているとまで思いたくない。

「僕こそ無礼を働きました。謝ります」

 ハーベストが頭を下げた。彼が深々と腰を折っても、ポッピーの身長よりも、ずっと高い位置にある。

 ポッピーの頭からユーリの影を追い出すことができなかった。ユーリへの信仰は強靭だ。少女の魂の奥深くまで根を張っている

 

 

 ハーベストは他に、この店に来た目的があった。

「隊長、キッチンを貸してください」

「汚すんじゃないよ」

 ショットガンをちらつかされて、ほどよい緊張が走る。

 彼の店は焼け落ちてしまい、この店でしか料理ができない。

 使い古されたキッチンに入った。新築時の綺麗さは失われ、長い時を経た愛着が染みついていた。ただ年老いただけの愚者ではなく、歳を重ね深みが増した賢者のようだ。

 戸棚を次々と開けていく。ハーベストはキャロットケーキ以外の材料があることに気づいた。

 キッチン越しに隊長へ声をかける。

「揃えが良いんですね」

「バカ弟子が自分の店を燃やしたって聞いてね」

 苦笑。

「ハーベストもお菓子を作ってくれるのか?」

 ポッピーが声を飛ばす。テーブルから身を乗り出してキッチンに飛び込まんばかりだ。初夏の日差しめいた視線に、ハーベストの後ろ首が焦げそうだ。

 純真無垢な熱意に晒されると、ハーベストは一歩二歩と下がって逃げ出したくなる。熱されたフライパンに落とされた水滴みたいに、ジュッと音を立てて消滅してしまいそうだ。

「わかってますよ。ポッピーの分も……」

「塔の皆の分もだぞ!」

「はいはい」 

 期待を受けて、お菓子作りに励む。

 ボウルに卵を放り込んで、シャカシャカかき混ぜる。

 ひどく懐かしい感覚だ。心が埃かぶるまで永く店に戻っていない気がした。

 たっぷりお菓子をこしらえるのに小一時間かかった。スチームミルクのように清潔な紙箱に梱包してから、ポッピーに持たせてやる。

 ポッピーも気を持ち直したらしい。小さく笑っていた。



 二人はお菓子の家を出る。絵本から現実に引き戻されたかのようだ。振り返ってみれば、やはり地下都市には場違いな店だ。【PAWN】の看板だけが現実との接点を保っている。

 隊長はドア先で尋ねた。

「これから、どうしたいんだい?」

「僕は鴉ですから。これから病人共を始末します」

「答えになってないよ。『ハー坊』はどうしたいんだい?」

「僕は……答えなんて持たない」

「なにも選択しないだけさ」

「そのほうが楽です」

「だけど楽しくはないねぇ」

 ハーベストはむっと鼻のしわを寄せる。

 彼は、またしても肝心なことから逃げている。隊長の言葉通りだ。ユーリの思惑通りに動かされる方が楽で幸せなのかもしれない。独裁者は動機も手段も用意してくれた。たとえ自演自作の殺意であっても……。

 ポッピーの手をひいて、さっと店を後にする。隊長が吹かす紫煙から逃げるように。

 ふと、どうしてポッピーを連れ出したのか思い出す。


「君は少しくらいズルを憶えるべきです」


 迷う少女にそう告げた。灰色の世界でポッピーは純真すぎるから、わざわざ連れてきたのだ。ふっくらと焼き上がるべきクッキーが焦げつくのを、黙って見ていられない。

 ハーベストはお人好しじゃない。大勢のヒーローを潰してきた。でもポッピーだけは、あの倫敦塔の子供だけは放っておけない事情もあった。

「ハーベスト、今嘘をついたな」とポッピーは指摘した。ハーベストと師匠の間柄が、ただの師弟ではないと気づいてしまった。

 その通りだ。

 もう一〇年以上前、相変わらずの曇り空を思い出す。ロンドン塔に集う無数の子供たち。ハーベスト・オセロはまだ幼く、正しかった。年長者で「隊長」と呼ばれたあの女性も正しく、そして同い年のユーリ・ノワールは誰よりも正しかった。

 だからポッピー達には特別優しくしてしまった。自分の復讐心を棚上げにするくらい、わけもない。

「特別扱いは感心ね。不平等そのもの。正義とは呼べない」

 頭の中でユーリが囁いた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る