第六章 出来損ないのアップルパイみたいに、爛れて生きよう

 

 

 ハーベストはヒーローを倒して、店を建て直さなければならない。独裁者に企画された復讐を実行し、自分の居場所を取り戻す。それ以外のハッピーエンドはありえない。

 ポッピーを倫敦塔まで送り届けて、すぐに別れを告げた。眠たげな衛兵に少女を託す。頼りないが子供を送り届けるくらいできるだろう。

 ポッピーは少し不満そうだ。まだ夕方になろうかという時間帯だ。別れは少し早い。

「もう帰るのか?」

「帰る場所なんてありません」

「それじゃ困る」

「適当なホテルでも見繕います」

“鴉”の権限は便利だ。公共機関の無料使用から汚染地域の立ち入りまで許されている。ユーリ独裁官の名前を使えば、高級ホテルのスイートルームでも予約なしで泊まれる。

 ポッピーはハーベストのキャリーケースを見つめた。急ごしらえで買いつけたものだ。ケースの取っ手と彼は手錠で繋がっている。

「倫敦塔に泊まればいい」

 ポッピーが時間を稼ぐように食い下がる。

「ユーリ様なら許してくれるはずだ」

「断ります」

「なんで」

「あの女が嫌いなんです」

「むぅ」

 はっきり告げてやる。嘘をつきたくなかった。まっすぐな少女に感化されてしまったかもしれない。

「ユーリ様のことを……はぁ、もういい」

 ポッピーは何か言おうとして、しかしグッと飲み込んだ。足を踏み鳴らして地面を指さす。

「ハーベスト、しゃがむんだ」

「なぜ?」

「いいから!」

 言われるがままハーベストは片膝をついた。ここまでしても、まだまだポッピーを見下ろせる。ポッピーはつま先立ちして、ハーベストの頭を抱え込んだ。細い両腕できゅっとホールドする。それからハーベストの額にそっとキスをした。唇の柔らかな感触がくすぐったい。

「……」

 あ然としたハーベストを見て、ポッピーは強く頷いた。

「誰かに『いってらっしゃい』するときは、こうするのだ」

 ポッピーはいつも、まっすぐ相手を見る。今回はハーベストの頭が固定されているから、目を逸らせない。

「帰ってこい、ハーベスト。わたしの所に」

 

 

 ポッピーに作ってきたお菓子を押しつけるや、ハーベストは逃げるように去った。いつだって男は逃げている。肝心なことから逃げている。

 心拍数が高い。胸が荒く脈打っている。病み上がりで体が弱いせいだ。そうに違いない、と自らに言い聞かせる。

 ひとつ角を曲がって通りに出るや、すぐに電話が鳴った。ハーベストは携帯電話を持たない。常に見えない糸で縛られているみたいで不快だからだ。

 りんりん。りんりん。ストロベリージャムを塗りたくったような、無人の電話ボックスが叫び散らしている。ボックスにはお馴染みのプロパガンダが書き殴られている。


「正しさほど厄介なカルト宗教はない」


 だれが電話を掛けてきた? イレギュラーな人間に決まっている。一般市民は公衆電話の番号を知らない筈だ。無視したいが……



「やっぱり気になるかしら」

 開口一番。受話器越しに言われた。

「僕はただ……」

「恥じなくていいわ。好奇心ほど恐ろしい敵はいないから」

 電話主はユーリ・ノワール独裁官だ。ジャパンの風鈴のような涼やかな声をしている。

「どうせなら倫敦塔に寄りなさいよ」

「断ります」

「歓迎したのに」

「なぜココの番号を知っているんですか」

「この都市で、私の知らない番号なんてないのよ」

 悠々と異様を語る女だ。

「ポッピーは……どんな様子ですか?」

「気になる? 何も知らない?」

「君と違って、僕は盗聴器をつけてない」

「あの子とはまだ会っていないけれど、心配しないで」

 抜け出したこと。勝手にケーキを食べたこと。怒らないから。黙っているから。そう先回りして言われてしまう。ハーベストは喉元まで出かかった言葉を、また飲み込むことになった。

「ハー君は面倒見がいいのね」

「馬鹿言わないでください」

 ハーベストが不貞腐れるよう口調を尖らせる。ユーリが電話口の向こうでクスクス笑う。彼の反応が予想通りで愉快らしい。

「君はまるで……ふふッ」

 まだ笑っている。

「コミックのキャラクターのように解りやすい」

「危険発言ですよ」

「大丈夫。私は特別だから」

 独裁者の免罪符サマサマだ。

 まるでコミックに精通しているみたいな物言いだ。市民がそんな発言をしようものなら感染者扱いされて治療されてしまう。ユーリの異質を誰も指摘できないのは、彼女が世界の頂点に君臨しているからだ。

 彼女の出世躍進に疑問を抱く者は多い。だけど誰も独裁者に取って代わろうとしない。ほどほどに悪党でいる方が幸せだからだ。

 他にもユーリが独裁者である理由がある。

 ヒーローを覗くも者は、自らもまたヒーローになる。

 ヒーローを迫害してきた今までの独裁者は次々に英雄病にかかり、椅子からずり落ちた。彼等に接しすぎて、感化され過ぎるからだろうか?

 だから権力闘争をする間もなく、とんとん拍子にユーリへ席が回ってきたのだ。

「これからどうするの?」

「英雄病の連中を捕まえる。それが君の望みだろう」

「いいえ、ハー君の望みよ」

 女は断言した。

「ハー君の使命で、ハー君の復讐で、ハー君の未来なの」

 お膳立てはしてやった。あと好きにやれという。ユーリという巨悪を前に成す術はない。圧倒的な力を持ちながらも無音の津波みたいだ。気づいた時にはもう遅い。有象無象の子悪党を押し流してしまう。

「あと、ヒーローのカップルの血液型も調べてあげたわ」

「密入国で、しかもジャパニーズの個人情報が分かるんですか?」

「私には、たくさんの“ジェームズ・ボンド”がいるのよ」

 諜報活動はイギリス古来のお家芸というやつだ。ハーベストの知らない暗部など腐るほどあるのだろう。

 ユーリによると「赤寺鬼太郎:A型」「青染芽有:A型」ということらしい。ちなみにハーベストはB型だ。

「どう? ハー君もA型になる。全身の血液取り換えてみる?」

「冗談じゃない」

 血糖値は高めだが、全て失くしてしまうには惜しい。

「血液型ついでに、もうひとつ教えてください」

「私をアゴで使う気? いい度胸しているじゃない」

「頼みますよ“ボス”」

「気味が悪い。やめてちょうだい」

 ハーベストが要件を伝えた。電話を切ろうとして、ふと思いとどまる。

「ところでユーリの方から音楽が聞こえますが……どこから電話を?」

「聞きたいことばかりね。ちょっと長話が過ぎるわ」

 一方的に電話を打ち切られる。隙がない女だ。公衆電話であろうと盗聴への対策を警戒したのだろう。通話時間が長くなると、通信を捕捉される恐れがある。いくら独裁者であろうと、身の回りが安全だとは限らない。あらゆる者の頂点に立つということは、あらゆる者に裏切られる可能性があるということだ。

 加えて彼女は英雄病治療の推進者だ。あらゆるヒーロー達を薬漬けにし、脳味噌を弄り回してきた。彼等から恐れられ、憎まれて、つけ狙われている。

 しばらく待つとカラスが飛んできた。赤い電話ボックスにインクを垂らすよう停まる。ハーベストの店でたむろしていた一羽だ。

「クロウ……」

 鬼太郎がつけた名前を口ずさむ。あのカップルに借りを返さなければいけない。聞いておくこともある。

 クロウの足首には紙が括りつけられていた。伝書ガラスというわけだ。

 折りたたまれた紙を広げれば、無数の番号が書き記されていた。筆圧の強い男らしい字だ。筆跡は指紋のようなものだ。鑑定にかければ書き手の特定につながる。だからハーベストはユーリの書いた字を一度も見たことがない。あの秘密主義者は徹底的だ。

 電話ボックスに戻ると硬貨をねじ込む。記された番号を入力していく。ユーリから取り寄せたのは電話番号だった。全部で八つの電話番号が記されている。

 ハーベストは順繰りに電話をかけていく。八番目の番号でようやく繋がった。



「もしもし、“PAWN”だけどぉ」

「もしもし、“PAWN”ですが」


 ふたりは確かに【PAWN】だった。

 深倫敦ニュー・ロンドンには八つの【PAWN】なる店がある。同じ看板を掲げ、けれど皆が同じ職というわけじゃない。ハーベストと隊長は喫茶店を経営しているが、この“剃刀卿かみそりきょう”は理髪店である。他にもウイスキーショップ、ガンショップ、仕立て屋、鍛冶屋……となんでもござれ。

 彼らの共通点は【PAWN】の看板を掲げる店であり“ヒーロー狩り免許”のある鴉であるということ。だから“自発的に都市に協力する”ことが認められている。

【PAWN】の誰もが都市公認の悪党共だ。独裁者によって支配された都市で、自分の世界観を守ろうと躍起になっている。ヒーローを踏みにじってでも、自分の店を守る信念がある。

 自分の店を守るためならば、世界が滅んでも構わないとする連中ばかり。

 ユーリ・ノワールは彼等に語った。「強制された兵隊ではいけない」「利己的にヒーローを始末しなくてはならない」「悪意こそ英雄病に抗えるワクチンなの」と。

 深倫敦ニュー・ロンドンの一角に理髪店がある。虹色の長髪とシマウマみたいな胡散臭いスーツが合わさった店長はこう自称する。「極彩色の剃刀卿カレイド・スウィーニートッド」と。長ったらしい異名が面倒なのでハーベストはただ“剃刀卿”としか呼ばない。

 電話の先。剃刀卿が応対した。これから喉を掻っ切られる七面鳥みたいなキンキン声だ。「ようよう、甘菓子屋じゃあねーの」

「今は失業中です」

「知ってるよぉ。焼かれたんだろ」

 誰に? と男は言わなかった。

「今、市中の全【PAWN】に連絡を取ってるんですよ」

「よく連絡先知ってるな? オイラだって、お前に教えた覚えがないのに……」

「気になります?」

「やめとく。不用意に首突っ込んで死にたくないからねぇ」

 ハーベストは深倫敦ニュー・ロンドン英雄病感染者ヒロイック・シンドロームのカップルが潜伏していると教えてやる。

「ジャップか。おっかねぇ」

「まだ子供です」

「ティーンエイジャーが一番おっかねぇのさ。日本人感染者は強力だってぇ話だ」

「この世全てが正しくあるべきだと信仰している年頃です」

 ハーベストと違って剃刀卿は社交的だ。客を選ばない。

 ステップを踏めば大量のハサミを連ねたベルトがジャラジャラ歌い出す。目まぐるしい手さばきで客の髪と髭を整える。ただし気に入らない相手とみれば殺人鬼に豹変だ。誘拐してでも理髪店に連れ込んで喉を掻っ切る。 

 ハーベストが単刀直入に申し出た。

「協力してほしい」

「できないよぉ」

 剃刀卿が即答した。

「僕たちは鴉です。ヒーローを狩らなければ……」

「それは義務じゃなくて権利さ。オイラに復讐の片棒を担がせるんじゃねぇ」

「僕は、僕のセカイを守るためなら何でもするんですよ」

「オイラも同じ気持ちさぁ。だから無駄に働かない」

「【PAWN】らしい考えですね」

 ハーベストが低い声で呟く。

「協力してくれないなら、脅したっていいんですよ?」

「やめときなよぉ」

 男の声が低くなった。

「病人の他に【PAWN】まで敵に回すってのかい」

「それだけ焦ってるんです」

「無理は通らないよぉ」

 じゃきん。金属のすり合わせられる音が聞こえた。剃刀卿は仕事道具のハサミとカミソリを武器とする。彼は無数のヒーロー達の喉を掻っ捌いてきた。いまさら常人を殺すことに躊躇いなんてない。

 電話越しに殺人鬼の異様を思い浮かべる。


 じゃきん、じゃきん。剃刀が風を削る。

 ぞりん、ぞりん。よくなめされた革ベルトで刃を研ぐ。

 貴方の柔らかな喉を裂くために。

 

 厄介な剃刀卿を相手取りたくない。だから手法を変えることにした。

「僕の店は独裁官に焼かれたんですよ」

「甘菓子屋……滅多なことをいうもんじゃあない」

 剃刀卿の声が緊張に揺れる。盗聴の恐れがあるからだろう。否、盗聴されている! わざわざ【PAWN】の電話番号をユーリに教えてもらっているのだ。あの女が聴いていないわけがない。「これから電話するよ」と教えてやれば「それじゃあ盗聴するよ」という具合だ。

「僕一人でヒーロー共を始末しよう」

「それがいいよぉ」

「だけどね、僕がヒーローに殺された後は、どうなると思いますか?」

「…………」 

 返事がない。剃刀卿は黙ったままだ。

 ヒーローを放置してユーリが諦める? ありえない。ひとつ目の駒が潰れたら、ふたつ目の駒を動かすだけだ。まだ【PAWN】は七騎も残っている。あるいはハーベストの知らない組織がまだ存在するかもしれない。ようは鴉なんて特別でもなんでもない消耗品だ。交換が利くネジと変わらない。【PAWN(歩兵)】は【ROOK(倫敦塔)】の土台となれば、それでいい。

 ハーベストの次は他の【PAWN】が駆り出されるだけ。何度でも動機をこしらえてくれるだろう。店を燃やすだけが能じゃない。身内を人質にとったり、あえてヒーローを送り込んだり……。隣人にギフトを贈る気軽さで、ユーリは悪意を提供する。

「今、僕を助けたほうが、あとあと楽です」

「…………」

「これは感情じゃなく理屈の話です」

 ひとりずつヒーローに立ち向かうよりも、人数を揃えて囲んで叩いたほうが確実だ。人数差は最も分かりやすい戦略だ。剃刀卿としても面倒な展開は避けたいはずだ。

 他人への協力は善意の証じゃない。結局のところ、他人を助けるということが、周り巡って自分のためになる。究極の利己主義とは究極の利他主義にもなる。

「悪は群れるべきです」

「意外だぁ、オメーは一匹狼だと思ってたのによぉ」

「そんな上等なもんじゃありません」

 電話口で大きなため息が聞こえた。

「しょうがねぇ奴だよぉ」

「協力してくれますね?」

 ハーベストが押し込むように尋ねる。

 剃刀卿の返答は……ハーベストが期待したものと違った。

「悪いけどよぉ。それでもダメなんだぁ」

 息を呑む。

「君も【PAWN】ならば」

「……わかってるけどよぉ」

 剃刀卿が咳き込んだ。泥を吐くかのように苦しげだ。

「オイラは人気者だからさぁ」

「……どういう意味ですか?」

「お前と同じさ。甘菓子屋よぉ」

「剃刀卿、もしかして----」

 電話越しに、ようやく気づいた。剃刀卿は傷を負っている。

 ばちん。肉を強かに打つ音がした。続いて鴉が羽ばたく音……。

「電話かわりましたぁ~」

 聞き覚えのある、蜜のように薄く粘る声。ハーベストを襲ったカップルの片割れだ。

「蒼染芽有……」

「アハ、覚えてくれたんだ~」

「客の顔はみんな覚えています。名前も」

「お兄さんも元気そうだね」

 喉をせり上がる嫌悪感。絞り出した憎悪が唇を伝う。そして確信した。カップルはハーベストにそうしたように剃刀卿を襲ったのだ。

「彼は、剃刀卿はどうしたんですか?」

「それ、お兄さんに関係ある?」

「……」

「えへへ、でもネタバレはしてあげる。ダーリンはネタバレ嫌いなんだけどねー」

 芽有は語る。剃刀卿はヒーローに襲われていた。彼はそれを隠しながらハーベストと電話していたのだ。

 いよいよ剃刀卿にトドメというところで、ちょうど電話が鳴ったのだという。電話の主がハーベストだったのは幸運か、あるいは不幸か?

 芽有曰く、鬼太郎は電話を遮るような無粋な男じゃない。

 それに剃刀卿は助けを求めなかった。最後まで戦闘を感じさせない喋りだった。彼は誰も頼ることをしなかった。よほど他の【PAWN】に借りを作るのが嫌だったのか? 今となっては尋ねようがない。だからハーベストは冷たい事実だけを口にする。

「すぐに会いに行きますよ」

「言っとくけど~」

 芽有が溜息をついた。

「芽有は浮気はしないから」

「は」

「ナンパに乗らないから」

「不愉快です」

「こういうのは先回りして言っておかないと~」

「あのガキと末永く金魚のクソみたいにくっついていればいい」

「アハ、ありがと」

 女がケラケラ笑った。

「ここに電話したのは七件目なんです」

「ふ~ん、それで?」

「剃刀卿以外の【PAWN】に電話が繋がりませんでした」

 それは“隊長”も含めた、ハーベスト以外の【PAWN】全七店が音信不通だということ。さっきまで「隊長」とはキャロットケーキを食べて話していたというのに……。

「僕以外の【PAWN】は全滅したんですね」

「御名答ちゃん」

 七人の英雄狩りを、たった二人で?

 ハーベストは戦慄した。乾いた唇を舐める。だけど恐怖は、すぐに憤怒の炎で炙られ蒸発した。今の彼はヒーロー達への復讐心に燃えている。じりじり焦げるカラメルのように、フラストレーションが心を黒く染める。

「君達に清算してもらいます。何もかも」

「こわ~い。ひょっとして、お兄さんが【PAWN】で一番強いの?」

 ハーベストは殺気立っていた。声だけで芽有を磔にしてしまいそうだ。

「生かしておいたこと。後悔させてあげますよ」

「それなら安心ねっ」

「……なんだって?」

 思わず聞き返してしまう。意味が分からない。

 芽有が構わず続ける。

「あたし頭イイから知ってるの。正義には悪が必要。そうなんでしょ?」

 物を知らない子供に諭すような口ぶりだ。


 太陽を知るためには夜を知らなければならない。

 満腹を知るためには飢えを知らなければいけない。

 希望を知るためには、絶望を知らなければいけない。


「だからダーリンにはお兄さんが必要なの」

 当たり前を芽有が告げた。女とは、いつも説教めいた生き物なのか? 思わずユーリの顔を思い出した。

(この女は、ひょっとして……?)

 ちょっとした思いつきがあった。歯の裏まで言葉が届いていたけれど、どうにか飲み込んだ。

 そんなこと知ってどうする?

 お前がすることは何も変わらないだろう?

 彼は自分の店を取り返すため、病人を排除するだけだ。

 気づけばハーベストは黙りこくっていた。

「他に何かあるぅ~?」

「うるさい人です」

 これ以上、話すこともないだろう。ハーベストは電話を切ろうとして「待ってよ」と呼び止められる。「ハニーに代わるから」と。

「よう、待たせたな」

 少年の声だ。聞き覚えがある。

「要件を聞きます。命乞い以外で」

 くっくっくっ。鬼太郎は堪えるように笑った。

「なぁ、お前も感染しようぜ?」

「お断りです」

 どんな誘い文句だ。馬鹿にしているのか? 電話を切ろうと思った。

(いや……まだ早い)

 考え直す。今、電話を切るのはマズい。

 この回線をユーリが盗聴してくれているかもしれない。ならばカップルを引き付けておく必要がある。通話時間は長いほど盗聴がしやすい。彼等の気を引けばユーリもアクションを起こしやすい筈だ。相手が話したがっているのなら乗ってやれ。

「僕を感染させたい理由は?」

「アンタ、素質あるからな」

「この世で最も不快な褒め言葉です」

「くれてやったコミックは読んだか?」

「読めるわけがない」

「『読まない』じゃなくて? 読もうとは思ってくれたのか?」

 やすっぽい挑発だ。

 堪えろ。だけど、こめかみが斬りつけられたみたいに熱くなる。

「君たちは同類が欲しいだけだ」

「卑屈な奴だぜ」

 いつだってヒーローは孤独だ。正義は孤高で悪は群れるものだ。彼等は少数派で寂しいだけかもしれない。

(だから英雄病のカップルだなんて奇妙なものが……)

 ふと違和感に襲われる。思考が霞がかる。真実が磨りガラスに閉じ込められる。奥歯になにか挟まったみたいな不快感を、ハーベストはすぐに振り払った。

 鬼太郎は尋ねた。

「初めて店に行った時のこと、覚えてるか?」

「覚えてません」

「嘘だぜ。お前はよく覚えている。そういう男だぜ」

 鬼太郎は嬉々として語る。

「お前はあの警官を助けた。この世界の警官はロクデナシしかいないってのに」

「助けたんじゃない」

 ハーベストは早口に付け足した。

「ワトソンがいると、邪魔だったから」

「俺は嘘が嫌いだぜ。特に自分への嘘が大っ嫌いだぜ」

「嘘じゃない。その受け売りみたいな文句は腹が立つ」

 少年が愛読している【ライアー・スレイヤー】の台詞だろうか? 病人のたわ言に過ぎないが、心臓をガリガリ引っ掻かれている気分になった。

 ハーベストはどう言葉を返そうか迷った時、


「時間切れね。ご苦労様」


“新たなる第三者”が割り込んできた。地獄のそよ風みたいな声だ。

「あぁ? 誰だテメー!」

 鬼太郎が怒鳴りつけた直後、轟音が電話越しに響く。まるで巨人に踏みつぶされたみたいな音だ。そして電話が唐突に切れた。

 ハーベストは知っている。あれはユーリの声だった。彼女は盗聴するばかりか、回線に乱入してみせた。盗聴は成功。鬼太郎達の位置も捕捉済みだろう。

 確信した。電話口の先では病人駆除が既に始まっている。



 ハーベストは一息ついて、電話ボックスから出た。

 このままユーリに手柄を与えるつもりはなかった。カップルにも借りを返したい。

 ヒーロー達と独裁者。二つの脅威に挟まれて、否応なく回される歯車になった気分だ。苛立ちのまま電話ボックスを蹴飛ばす。ガラス戸が破砕。電話ボックスがCの字に歪む。モノに当たったところで、虚無感が増すばかりだ。

 状況は加速している。彼は置いてけぼりだ。

 熱したオーブンに放り込まれたみたいに、汗が噴き出る。思策を巡らす。考えろ、考えろ、考えろ。熱したカスタードは絶えず混ぜ続けなければならない。

「よし」

 ひとり頷く。まずは剃刀卿の店の在りかを知らなければいけない。恥ずかしいことに、ハーベストは店の外に無関心だったから、何も知らない。

 すぐ傍にあった出店に向かう。しがない新聞売りがある。禿げ頭の主人が怪訝な視線を向けてくる。だけど気にしない。



 新聞売りはチョコレートバーを片手に硬直していた。

 電話ボックスを蹴り壊した大男が、なんでウチの店に?

 なぜ? なぜ? なぜ?

 警察呼ぶか? というか、どこかで見たことある顔だな……。

 新聞売りが「あっ」と小さく呻く。

「あんた燃えた喫茶店の……」

「黙ってください」

 たった一言。それで親父は乾パンみたいに固まってしまう。

 竹林のように生い茂る新聞のなか、古ぼけたテレビがあった。ハーベストは腕を組んで放送を眺める。深倫敦中央ニュー・ロンドン・セントラル放送局、都市にあるチャンネルはひとつだけ。

 ハーベストはじっとテレビを見据えた。五人組ギャングが銀行強盗をする古い映画だった。彼等は「色」でコードネーム決めている。

 今どき悪党やチンピラが主役の映画ばかりだ。ヒーローが活躍するような映画は撮れない。正義感を煽る映画も検閲対象だ。放映しようものなら、どっと感染者が増えてしまう。

 どうやら映画は佳境らしい。血だらけのスーツを着たギャング二人が銃を向けあっている。銀行強盗、裏切り、口論、暴力、決着。転がる負の連鎖に抗えない男達。だけど最後はシンプルな結末を迎えるだろう。「殺るか、殺られるか」だ。

 銃は便利だ。分かりやすい。手っ取り早い。指先ひとつで決着がつく。

 ここぞという場面で画面が切り替わる。「せっかく良いところだったのに」というやつだ。

 新たな画面に見慣れた女がいた。ユーリ・ノワール独裁官だ。厳かな壇上で、いつも通りラフな格好で佇んでいる。肩にはカラスが止まっていていた。カラスは慎ましやかに頭を下げている。何十年も主に仕えた侍女みたいだ。


「こんにちは。不健全なる市民の皆さん」

 ユーリが隣人への挨拶みたいに呼び掛ける。


「吉報です」

 彼女は冬空に浮かぶ北極星みたいに揺るがない。


「ここ数日、市内で暴れまわっていた英雄病感染者の所在を突き止め、警察が保護に動いています」


 彼女は事件の詳細を告げる。

「ハーベスト・オセロ氏が経営する喫茶店【PAWN】への放火事件や他の殺害事件の関与もある彼等は現在、フリート街四丁目の理髪店を襲っており、厳重警戒網を敷いています」


 テレビを通して世間に語りかけているのか?

 あるいはハーベストに語り掛けているのか?


「いいですか、現場には絶対に近づかないでください」

 ユーリは人差し指を立てて、念を押すように告げた。けれど潰すなと言われたシュークリームは潰してしまうものだ。ハーベストは現場に向かうと決めている。

 ハーベストはコインを弾いて投げた。すかさず親父のチョコレートバーをひったくる。

「おいぃ!」

「代金は払ったでしょう」

「ワシは新聞屋じゃ! 新聞を買えい!」

 ハーベストは無視。テレビに背を向けて街を駆け抜ける。

 イライラすると甘いモノが欲しくなる。がぶり。チョコレートバーを食い千切る。

 深倫敦ニュー・ロンドンのぶ厚い雲みたいな甘さが喉にへばりつく。チョコレートの厚化粧を剥いでみれば、ヌガーとキャラメルが下品なくらい詰め込まれている。

 ユーリは犯人を包囲していると言っていた。だから鬼太郎達は理髪店に足止めを食らっている筈だ。誰のために? だなんて考えるまでもない。


「世界は病んでいるわ」


 背後からユーリの声が追いかけてくる。彼女はいつもすぐ傍にいる。テレビから、ラジオから、新聞から、人々の噂話から、貼りつけられたポスターから、ありとあらゆる手を使って、ハーベストの背にしなだれかかる。

 気づけば放送が大音量で都市を流れている。新聞屋だけじゃない。あらゆる店やアパートの一室に“ユーリ・ノワール帝国元帥兼終身独裁官”がいる。

 彼女の声で、がしゃんと空が崩れてしまいそうだ。あるいは水飴のような悪意で、地上を溶かしてしまう。

 ハーベストは走る。ただひたすら走る。路地の隙間から独裁者が語りかける。ハーベストを呪うように。あるいは羽ばたかせるかのように。


 かつてアドルフ・ヒトラー総統は振り下ろすハンマーのように演説した。

 かつてウィンストン・チャーチル宰相は貫くサーベルのように演説した。

 けれどユーリ・ノワール独裁官は詩を詠うように演説した。

 死にゆく世界を看取るように。

 全人類の墓の上でオルゴールが鳴くように。


「正義感という病が蔓延っているわ」「私たちは人類の心臓であり」「病に抵抗し続けなければならない」「正義に対する私たちとは何か?」「即ち病に対するワクチンよ」「永い闘病生活になるでしょう」「でも一日たりとも英雄病の好きにはさせません」「何度湧いて出ようとも」「何度国外から侵入してこようとも」「私たちの断固たる決意は変わりません」「正義よりも強いものがある」「彼らに何度でも叩き込んであげましょう」「私たちが世界を治療するのです」

 

 ユーリが演説を終えた頃合い、ハーベストは理髪店に辿り着いた。

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