第七章 クッキーは砕け、ハサミは割れ、彼等はいつだって壊すことに長けている

 


 テムズ川沿いに理髪店がある。倫敦橋の残骸の、すぐ近くだ。工場の廃液で虹色に染めた大河が見える。月末には借金を返せないギャンブラーがドラム缶詰めにされてダイブする。 

 ハーベストはキャリーケース片手に参上した。舗装されていない足場でローラーをガラガラ鳴らす。

 ただよう刺激臭に鼻をこする。ハーベストは剃刀卿の【PAWN】を訪れたことがなかった。当然、利用もしない。あの殺人鬼に自分の喉をさらすなんて、ぞっとしない。

 理髪店の周囲に人だかりができている。筋肉を風船のように膨らませた警官達だ。パツンパツンのシャツを着こんで、はち切れそうな胸をボタンで締め付けている。フォークで突いたら破裂してしまいそうだ。実働部隊であろう武装警官。暇さえあればプロテインバーを頬張っている変態共だ。

 彼等のなかにワトソン警部を見つけた。いつも通り不機嫌を浮かべて、スターバックスのコーヒーを啜っている。

 ワトスンもハーベストに気づいた。目を見開いてコーヒーを垂れこぼす。

「お前さん……治療された筈じゃ」

「何もかも察しが悪い男ですね」

 ハーベストは肩をすくめる。鈍感なくらいが丁度いい。無用な争いに巻き込まれずに済む。

 ワトスンに武装警官部隊をどこまで進めたのか尋ねる。ワトスンは様子見に来ただけで、マッチョ共とは無関係だという。

「今さっき、第一部隊が突入してったよ」

「馬鹿な」

 つい先日、ゴトーに散々な目に合わされたのを忘れたのか? 

「警官のくせに無鉄砲ですね」

「言っておくが、俺は止めたんだぜ?」

 ワトスンはテムズ川にコーヒーカップを投げ捨てた。

「本当にデキのいい奴は警官なんてならないさ」

 このご時世、まっとうな警官などいない。連中は法を行使する快感と、暴力欲求に素直なだけだ。だがそれでいい。正義が過ぎれば病気にかかり、悪党ほど使い勝手が良いという矛盾がある。

「ふん、僕には関係のないことだ」

 そうだ。ハーベストは誰のためでもなく、自分のために動いている。彼は拳銃を抜くとシリンダーを確認する。弾丸は満タンだ。連中に殺意を腹いっぱい食わせてやる。

「僕が決着をつけます」

「援護もいらないってか?」

「無論」

 だけど、とハーベストは指を立てた。

「借りたいものがあります」

「またか? 貸してばっかりじゃねぇか」

 ゴトーを退治するために有り金すべて燃やしたというのに、とワトスンが口を尖らせる。



 ハーベストは理髪店に悠々と進む。猛獣が草原をのし歩いて、つかの間の平和を楽しむかのように。

 歪んだドアを押した。軋んで悲鳴をあげるが、かまわない。ささやかなドアベルの音が、今は幽霊の鳴き声のようだった。

 ざっと店内を一瞥する。広い。二階建て吹き抜けの天井に螺旋階段。チェック柄に組まれた大理石の床。王宮貴族の一室みたいだ。

 ハーベストの【PAWN】より立派だ。剃刀卿は随分と仕事熱心だったらしい。たくさんの病人を狩れば、それだけ褒賞金がもらえる。もっともハーベストのように店を燃やされて無理やり駆り出されるパターンもあるが……。

 入ってすぐ鬼太郎と芽有を見つけた。芽有は散髪用の椅子に腰を掛けている。鬼太郎は仁王立ち。前髪を櫛でといていた。

 周囲には警官たちが倒れている。そら見たことか。見事な返り討ちである。

「覚悟はいいですか?」

「日本を出た時に、とっくにしてるぜ」

 どうせコミック仕込みの安っぽい覚悟だろう。

 まずハーベストはキャリーケースを床に置いた。ずしんと響く。巨人が足踏みしたみたいだ。彼は二人へとケースを贈った。まるで氷上を滑るようにケースが床を滑っていく。留め金は外しており、半開きの口を開けていた。

「おいおい爆弾か?」

「怖いなら開けなくてもいいんですよ」

「舐めんなよ!」

 鬼太郎はかぶりつくようにケースを開けた。

「怖くなんてない、ぜ……」

 少年の勢いはみるみる失速していく。

 ケースにはキャロットケーキが敷き詰められていた。クリームチーズの代わりにチョコレートが塗りたくられ、高級車を思わせる光沢を放っている。円みをおびた表面が妖しく誘惑してくる。

「おいハニー、こいつは奇妙な展開だぜ」

「そうかしらダーリン? だって彼はお菓子作りの名人じゃない」

 鬼太郎は座りきりの芽有にケースを差し出し、どうすべきか相談し始める。

 ハーベストは鼻を鳴らして教えてやる。

「僕のオリジナルですよ。」

「あ?」

「召し上がれ、ってことです」

 鬼太郎は口をへのじに曲げて、ハーベストを見つめる。

「今度こそ毒でも盛ってるんじゃ----」

「いただきまーす」

 芽有がキャロットケーキを手に取って食べた。一切躊躇がない。

「あっまーい!」

「お前、空気読めよな!」

 ハーベストが殺し合いよりも、ずっと真剣な表情で答える。

「僕は毒を盛りません。どんな悪人や善人が相手でも」

「やっぱりキザな奴だぜ」

「一応は英国紳士なんで」

 鬼太郎もケーキを手に取って、口いっぱいに頬張った。重い。夏の入道雲を吞み込んだみたいだ。胃に渾身のボディブローをかましてくる。身体の隅々までキャロットケーキの甘みが襲う。

 食べ終えて鬼太郎は尋ねた。

「俺たちは敵だぜ?」

「それは新作なんですよ」

「答えになってないぜ」

「味見してほしかったので、今すぐ」

「そんなのダチに頼めよ」

「敵にお菓子を振舞って問題でも? 君達にも舌が付いていることは確認済みです」

 ヒーローであっても、お菓子を食べてもいい。それだけだ。

「どうでした? 美味しかったですか?」

「う、ぐ……」

 鬼太郎は答えあぐねている。芽有はそんなことお構いなしに、チョコレートで汚れた口端を広げた。指でVの字を作る。

「ちょー美味しかったわ」

「うん。よかったです。本当に」 

 ハーベストは浅く頷いた。気づけば微笑んでいた。心の底からの笑みだったのだろう。笑みは作るものではなく、浮かべるものである。

(悪人があんな風に笑うわけがない)

 鬼太郎はムッと鼻を鳴らして両掌を突き出す。【ライアー・スレイヤー】の主人公の戦闘スタイルもこうだった。ハーベストの世界観に引き込まれるつもりはない、この世は鬼太郎の世界観に引き込まれるべきだ!

 悪は悪だ。

 何も考えるな。

 己が正義を燃やせ。

「甘いモン食って、頭もスッキリした。始めようぜ!」

「もっとスッキリできますよ。穴だらけで風通しよくなりますから」

「ほざけッ!」

 ハーベストも銃を抜いた。歴史上、最も人を殺した武器が、今は頼りなく感じる。おとぎ話の“ブリタニアの赤い竜”に爪楊枝で戦う気分だ。



「壊血式・紅蓮血装・鬼道甲冑!」

 鬼太郎の皮膚から血液が染み出す。泡立つ紅蓮が全身をくまなく覆っていく。すぐさま硬質化した血液は、甲殻類の皮膚のように鬼太郎を覆う。顔面も鬼の様相をしたマスクで覆われる。日本の武者甲冑か、あるいは変身ヒーローのよう。

「とっておきを見せてやるぜ! これが──」

 ハーベストは構わず発砲した。黙れ。脳味噌と臓物を出来損ないのパフェみたいにブチ撒けろ。

 鬼太郎は避けようと、地を這う。弾丸がこめかみを掠める。一瞬の猶予があって、変身が完了する。ハーベストが舌打ちした。ヒーローは変身タイミングが一番の弱点なのだ。

「無粋だぞ!」

 怒号を飛ばす鬼太郎を無視して、ハーベストが更に発砲する。

 鬼太郎が前に跳ねて回避した。これで二度目だ。この少年は銃弾を目視して避けている! 英雄病患者は脳内でエンドルフィン系物質が過剰に生成される。銃撃の恐怖など簡単に追い払える。少年は加えて能力を自在に扱えている。“守銭怒しゅせんど”ゴトーよりも“鉄血漢てっけつかん”鬼太郎の病状は深刻だ。

「ボーっとしてんじゃねぇぜ!」

 鬼太郎が猛然と迫る。速い。二発目、三発目と発砲するが、また避けられる。殺意を孕んだ影みたいに俊敏だ。ハーベストをしても捉えきれない。

「ッ……!」

 気づけば少年が眼前にいる。拳を振りかぶっていた。ただの喧嘩屋らしく大ぶりで隙だらけのモーション。速いが、迅くはない。それが救いだった。少年が拳を叩き込む直前、まるで動画を停止したような硬直が生まれるのだ。タメ、気合、あるいは覚悟といった不純物だ。相手を殺す時は、道端にある小石を蹴るように無遠慮で無関心でなければいけない。ハーベストには解かる。この少年は喧嘩慣れしているだけの素人だ。

「壊血式・残鉄拳!」

 お決まりの文句。一生懸命考えたであろう必殺技名が聞こえた。わざわざ攻撃をする前に叫んでくれるのだから間一髪で反応できる。

 だけど触れられてはマズイ。前に一度触れられただけで、ハーベストは敗北したのだ。皮膚上からでも強制的に血液を流し込まれる。

 まさに一撃必殺の猛毒男。

 危機感に全身を引き裂かれそうになる。ハーベストが身を振って回避すると、通り過ぎた拳が壁に激突──粉砕する。流星みたいに弾けた破片が、ハーベストの体を打つ。擦り傷だらけになってハーベストは転がった。ダークコートを大げさに舞わせた。影が踊っているみたいだ。 

 はためくコートはハーベストをうまく隠してくれる。負傷を隠し、殺意を隠し、迷いを隠してくれる。

 ハーベストはいつも迷っている。今もそうだ。

(本当に鬼太郎達を倒すだけで、すべて解決できるのか?)

 


 芽有がふらふら立ち上がろうとして、けれど鬼太郎が手で制す。

「あんまり時間かけてると、増援来るよー」

「お前は座ってろ」

「でも」

「座ってろ」

 彼女は椅子にぐったり戻る。ぼんやり佇んで動かない。芽有は戦いに参加する気配がまるでない。

 ハーベストと芽有。視線だけが交錯した。彼が知っている目をしている。満天の夜空がこぼれ落ちそうな目をしている。ハーベストが顔を背けたくなるような子供の眼だ。

(ポッピーと同じ……僕に期待しているのか?)

 瞬間、ハーベストは自身がどうすべきが解ってしまった。

(だけど、本当にそんなことを……)

 ハーベストは胸が押しつぶされそうな葛藤に苛まれた。だけどやるしかない。正義に歯向かうために、最悪を尽くす。

「俺の女に色目使ってんじゃねーぜ!」

「言いがかりです」

 鬼太郎はハーベストへ続けざまに距離を詰める。

 ハーベストは後退しながら撃ち込んだ。

 発砲。またしても弾丸が避けられてしまう。だけど、うろたえる暇なんてない。鬼太郎の蹴りが放たれる。爆ぜた火花みたいな、よく伸びる不良蹴りだ。ハーベストは左腕でどうにか受け止め──きれない! ぼぎん。嫌な音を立てて腕が折れた。彼等と違い、一般人はクッキースティックみたいに脆いものだ。

 ハーベストは跳ね飛ばされた。視界が明滅する。少年の分厚い靴底が遠ざかっていく。

「ジャストヒットだぜ!」

「君に直接触れなければ、問題じゃない」

 ハーベストは静かに、鋼の言葉を紡ぐ。

「血液を毒のように扱う君はとてもヒーローに見えない」

「うるせぇ! ブッ殺す!」

 安い挑発に鬼太郎は激昂した。マスクをしていて表情は見えないが、はっきり分かる。英雄病感染者は簡単に怒らせられる。

 鬼太郎のスピードがぐんと増した。ブチ切れた少年漫画の主人公みたいに。気合と根性だけで超常現象を起こしてしまう。英雄病のデタラメさを思い知る。

 ハーベストも銃撃で応じるが、また避けられる。

「壊血式・三倍残鉄拳!!!」

 彗星のごとく煌めく拳。ハーベストは咄嗟に銃を盾にして、鬼太郎の拳を受ける。手甲に覆われた拳は凶器そのもの。

 カチン。世界が割れた気がした。拳銃が木っ端微塵! 泣き出すように散らばった。流星が弾けたみたいな衝撃。人外の怪力に、長身のハーベストですら二階まで吹っ飛ばされた。店が吹き抜けで助かった。天井に身体を打ちつけて、巨大なシミになるところだ。

 ハーベストがよろよろ立ち上がる。息も絶え絶えで、二階からカップルを見下ろす。

「俺の能力にアテはついてるんだろ? だがよ、俺は触れて殺すだけじゃないぜ」

「ハニー! すごいわ!」

 芽有の黄色い声援を背に、鬼太郎がガッツポーズをとる。

 圧倒的な怪力、速力、反射神経。血液製の甲冑。一触即発の強制輸血能力。ハーベストが想定した以上に厄介なヒーローだ。

「これでテメーのエモノはなくなったぜ」

「僕の銃が怖かったんですか?」

 鬼太郎は銃弾は避けていた。つまり甲冑自体に銃弾を受けきる防御能力はないのだろう。見た目が変わるだけの能力だとみていい。ヒーローとは不合理なものだ。

 鬼太郎は勝利を確信しているらしい。ハーベストの問いはすっかり無視された。

「悪は自分のエモノ以外に頼るものがないからな!」

「君は他に頼るものがあるんですか?」

「もちろん」

 少年は自らの胸を親指で指し示す。

「俺の熱いハートだぜ!」

「度し難い病人です」

 ハーベストは溜息を吐いた。気づけば、まだ銃の残骸を握りしめていた。もはやグリップ部分だけ。しかし体の一部みたいによく馴染む。良い銃だった。惜しいと思う。ただの道具に過ぎないと思っていたが、失くして初めて大事なモノだったと分かる。

 ハーベストは銃を投げ捨てた。感傷に浸るには早すぎる。

「相棒に分かれくらい言うべきだぜ」

「銃は銃です、ただの武器だ」

 ハーベストが口内に滲む血を吐き捨てる。

「何度でも替えが効く。君や僕と同じように」

「ほざけッ!」

 鬼太郎はひとっ跳び。吹き抜けの二階、その取っ手に足を掛けた。人間離れした身体能力は、まさしくスーパーヒーローだ。

 ハーベストは立っているだけで精一杯だ。鬼太郎の攻撃を避けることすら、ままならない。

 だから渾身の力を振り絞って、二丁目の拳銃を引き抜いた。ハーベストが用いていたものよりも、一回り小さい拳銃だ。ハーベストがワトスンから借り受けたもの……。

「お」

 鬼太郎が驚く。不意打ちが決まった。

 ハーベストは出鱈目に撃ち込んだ。三発ほどは命中したが鬼太郎の甲冑に弾かれた。甲冑の防御力が優れているのではない。まるで銃の威力が足りないのだ。腐敗した警察はまともな武器すら調達できないらしい。これでは女子供しか殺せない。

「くそっ……」

「俺を殺すんならロケットランチャーでも持ってこい!」

 鬼太郎がハーベストの胸ぐらを掴み上げる、開いた手で、取り出したコミック本をぐいと顔に押し付けてくる。呑み込めと言わんばかりだ。古紙の湿気た臭いに、うんざりさせられる。

「【ライアースレイヤー】だぜ」

「くっさっ、何冊持ってるんですか……」

「観賞用、保存用、布教用、自分用、ついでに自分用だぜ」

 ハーベストはコミックを跳ね除け、お返しに鬼太郎の側頭部に左フックをかましてやる。けれど兜を殴りつけて、ハーベストの拳が砕ける。

「イテェなオイ!」

 本来、肉弾戦において体格差は絶対だ。ハーベストがこんな子供に負けるわけがない。けれどヒーロー相手には覆る。物理法則はポップコーンみたいに弾け跳んだ。

「世の全てが完璧に説明できるはず」「どんなに暗くとも、いずれ夜が明ける」「俺達には未来がある」そう信じる少年は非常識に愛されている。

 少年は手指を銃に見立て、ハーベストの額に突きつける。銃口を突き付けられているに等しい。

 既視感デジャヴ。血を流し込まれる、と戦慄した。喫茶店を襲撃した時と一緒だ。異なる血液型同士の拒絶反応で体内から八つ裂きにされる。どんな拷問よりおぞましい攻撃に晒されるだろう。 

 ハーベストの背に悪寒が走る。全身の血管と神経がざわつく。むき出しの魂をヤスリで削られる気分だ。

「早撃ちなら俺が勝つぜ」

「早漏選手権でも優勝できますよ」

「ホント、ムカつくヤローだぜ」

 鬼太郎は出血した。人差し指の先から血が滴り落ちる。薄紙で切ったみたいな裂け目から、湯水のごとく血液が溢れ出す。

 ぬらりゆらり。血液自体がナメクジのように蠢いている。ハーベストの額にぺたりと触れて侵食しようとしている。

「最後に、もう一度言うぜ」

「聞きたくありません」

「ヒーローになれ、オメーには素質がある」

「断ります」

 意地の張り合いはお互い様だ。

 鬼太郎は苛立つ。ハーベストがいくら拒否をしたって、英雄病は世界を覆う。不浄にして悪徳の地“深倫敦ニュー・ロンドン”もいずれ、そうなる。日本やアメリカがそうなったように、最後には正義が勝つのだ。

 鬼太郎の指から血液が放たれた。

「壊血式・大紅蓮逆流血」

 一撃必殺。前回は、あえて生かしてやった。芽有の頼みだったからだ。だが今回は違う。この男に正義を執行してやる。

 ハーベストも緊張に体を強張らせる。

 カチリ。世界が音を立てて凍りついた。太陽から熱が奪われ、風は息を呑み、雲が勢いを殺した。あらゆる色彩が行き場を失った。

 痛いほどの静寂。ハーベストは泥に沈むよう突っ伏した。倒れる瞬間、“彼女”と目が合った。

 鬼太郎が吠える。血液製の甲冑を解除すると、血煙が周囲一帯を覆った。血に濡れた人差し指を立てる。勝利宣言。空を貫かんとする勢いだ。

「最後には正義が勝つんだぜ!」



 鬼太郎は芽有へと振り返る。「さすがハニーね! 素敵っ!」と迎えてくれることだろう。痛いくらい抱きしめてやりたい。しかし黄色い声援は無かった。

 蒼染芽有は床に倒れていた。華奢な身体が血だまりに沈んでいた。彼女の胸には穴が空いていた。ごぷりごぷり。血液が濁流となって流れ出している。

「ああ、あああっっ!」

 鬼太郎が叫んだ。言葉にならない悲鳴をあげる。転びそうになりながら、少女に駆け寄る。芽有は何か喋ろうとしているが、喋れない。ひゆうひゆう。壊れた笛みたいな音が出る。口をパクパク開いて、血の泡を吐くだけだ。

 傷口から、すぐに撃たれたと分かった。致命傷だ。弾丸が胸を貫通している。恐らく心臓周りの血管を引き裂いている。

 割れ窓からカラス達が侵入してきた。ガァガァ。二人をはやし立てる。理髪店【PAWN】で飼われていたのだろう。死の匂いにつられてきたのか……

 鬼太郎は絶望に膝を屈した。倒れたハーベストを睨む。

「卑怯だぜ」

 ハーベストは倒れたまま、ぴくりとも動かない。鬼太郎に仕留められる直前、彼は芽有を狙って撃ったのだ。警官の銃で乱発した時だ。

 鬼太郎の心臓が早鐘のように鳴る。だけど、

「まだ絶望するには早いぜ!」

 めらめらと瞳が活力に燃える。右腕を掲げた。指で銃を形作ると、鬼太郎は芽有の胸を突いた。

 相変わらずデカくて邪魔な乳だぜ、と愚痴る。心臓マッサージはしない。女の熱い血を浴びて、ひるみそうになる。まずは出血を止める。溢れる血液を抑え、元通り循環させる必要がある。

 少年が拳を地面に叩きつけると、ぱっくり地面が割れて破片が飛び散る。大理石のタイル片を掴み取るや、自らの頸動脈を掻っ切る!

 大出血。鬼太郎の喉から薔薇が咲いた。しかし拡散した血液は宙で反転すると、芽有の傷口に収束した。動画が逆再生するみたいに、血液が芽有に戻っていく。

 血が足りないなら、足してやればいい。血管が裂けようと、心臓が潰れようと、関係ない! 血液操作で強引に血液を流し込めばいい。鬼太郎が芽有の心臓代わりになるのだ。手法は強引ながらも精密作業の極致! 幸いにして……否、運命的にも二人は同じ血液型だ。 

「俺ならできるぜ! できるに決まってるぜ」

 鬼太郎は自らを鼓舞する。汗を滝のように流して集中する。みるみるうちに血色が悪くなり、土気色の指先が震え始める。

 少年は今まで壊すことしかしなかった。ヒーロー揃い踏みの日本を飛び出して、ヴィランを求めてイギリスに来た。「深倫敦ニュー・ロンドンにはヒーローがいない」それを聞いたとき鬼太郎は胸躍らせた。


「正義がいないなら悪しかいない、だろ?」


 深倫敦ニュー・ロンドンに来てから、壊して壊しつくした。汚職警官も始末してやった。けれど誰かを救ったことが一度でもあったか? 悪を挫いて、しかし弱者はどうした?

 鬼太郎は歯を食いしばる。焦りに震える腕を抑える。ガサツ星の住人みたいな彼が、一流外科医も裸足で逃げ出すような処術をしなければいけない。

 必死に念じる。集中しろ、集中しろ、集中しろ! 芽有を救うため、全身全霊全能力で挑め。鬼太郎はありったけの血液を操った。更に多くの血液の紐が芽有の傷口へと伸びる。

 芽有が息を吹き返した。意識はないが、青白かった顔色が回復しつつある。傷口そのものも鬼太郎の能力で応急処置ができる。

「よしっ……! もうちょっとだ……頑張れ!」

 鬼太郎は振り絞るように笑った。

 ぬらり。少年の背後に影が伸びる。ハーベストだ。満身創痍でありながら、しかし男は生きていた。



 折れた左手を振り子時計みたいに揺らして、ハーベストは銃を右手で構える。

 警官の銃は苦手だ。かつて世界が病に侵される前のこと、イギリスの警官は拳銃を持たなかった。丸腰で市民と接するのが当たり前で、誇りでもあった。

 だけど世界は変転した。英雄病に対抗できるよう、市民の裏切りに対応できるよう、銃を所持することが義務づけられた。屈辱的な殺人証マーダー・ラインセンスだから、ハーベストが自由気ままに振り回していい代物じゃない。

「最悪な気分です」

 ハーベストは、ぽつりと呟いた。

 彼は解毒に成功した。血液を挿れられたら、外に出せばいい。血中の赤血球が破壊し尽くされる前に素早く、迅速に……。

 芽有を救おうと鬼太郎は遮二無二になっていた。ハーベストの体内に挿れた血液すらも抜き取って、芽有に使い果たしてしまったのだ。おかげで芽有が救われ、ハーベストもついでに救われた。

 称賛すべきは機転を利かせて芽有を撃ったハーベストではなく、芽有を治すために全身全霊を尽くした鬼太郎だろう。少年は自らの正義に裏切られたのだ。

 戦況は逆転した。

 鬼太郎は芽有から離れられない。視線すら動かせない。水飴で固められたみたいな有様だ。ガチガチ奥歯を鳴らして、こめかみがヒビ割れたみたいに筋張っていく。

「動けば撃ちます」

「テメェ……!」

「君だけじゃない。彼女もだ」

 鬼太郎でも芽有をこれ以上守り切れない。彼女の出血箇所を増やされたら、穴が開き過ぎた水風船みたいに、たちまち対処できなくなるだろう。

「──」

 鬼太郎は絶叫した。怒号で星を砕いてしまいかねない。

 屈辱極まる!

 芽有を見捨てられない。だからハーベストにも指一本触れられない。

 鬼太郎が静かになってから、ハーベストが口を開いた。

「彼女は保険だったんですね」

「……その言い方はやめろ」

「 “輸血パック”と言い換えてもいい」

 ハーベストが芽有に初めて会った時から、彼女は病気のようだった。立つこともままならず、車椅子に縛りつけられている。彼は英雄病に由来した症状のひとつだと考えていた。だけど、もし英雄病でなかったら? ただの不健康な一般人だとしたら? 

 青染芽有は貧血。ただそれだけのこと。

 血液を自在に扱えるヒーローだ、と少年は言った。けれど血液を自在に生み出せるとは言っていない。


「俺は嘘が嫌いだぜ。特に自分への嘘が大っ嫌いだぜ」

 鬼太郎が言っていた【ライアー・スレイヤー】の受け売りであろう文句を思い出す。

 

 だけど鬼太郎は自分に嘘を吐いていた。恐らくは無意識に、だ。ポッピーに言わせれば「『語る嘘と語らない嘘』がある」というやつだ。鬼太郎の嘘は後者だろう。

 少年の病状は血液を操るだけ。大量の血液を消費する。ならば輸血パックが必要になるだろう。生きた血を持ち運んでくれる同血液型のパートナーならば都合がいい。

 加えて最初に殺された汚職警官達、ハーベストの最初の敗北。どちらも血まみれ過ぎだ。鬼太郎は連続の能力仕様で、芽有の血も借りたと考えられる。

 ハーベストの予想は、けれど鬼太郎が芽有に輸血できたことで、確信へと変わった。

 「銃は銃です、ただの武器だ」と語るハーベストに鬼太郎は反論した。それは芽有を「輸血パック」としてしか見なしていない罪悪感の裏返しだったのではないか?

 鬼太郎の背が小さく縮んだ気がした。年相応の柔な背中だ。

「これで勝ったとでも思っているのか?」

 ハーベストは無言のままだ。

「なんとか答えろよ! オメーは卑怯者だぜ!」

「鬼太郎君」

 ハーベストは初めて少年の名前を呼んだ。びくりと鬼太郎が震えた。脆い。銃口で突いてやるだけで、バラバラに崩れてしまいそうだ。

「君の負けだ」

「オメー、勝ったと思うなよ」

「勘違いしているようですが、僕たちの戦いに勝者なんていない」

 無数の足音が聞こえる。警察隊が突入してきたのだ。痺れを切らしたワトスン達が突入してきたのだろう。彼らが何か呼び掛けて来るが、ハーベストにはよく聞こえない。意識を保っているだけで精一杯なのだ。引き金を握る指の感覚がない。

 ハーベストのあらゆる現実が霞んでいった。



 かつてユーリは言った。まだまだ背も低くて、胸も薄っぺらで、お尻もちっちゃくて、だけど瞳にありったけの意思を詰め込んでいた頃だ。

「昔も馬鹿な英雄気取りはいたの」

 今も昔も変わらない。少女は教え諭すように喋る。

「ドン・キホーテっていう小説知ってるかしら」

「読書は嫌いです」

 文章は悠長だ。弾丸の率直さを持たない。心を貫く文字よりも、命を貫く銃の方が欲しかった。

騎士道物語エンタメを読み過ぎたお爺ちゃんが、騎士として旅する話よ」

「内容なんて聞いていませんが?」

「自分をヒーローと勘違いしたお爺ちゃんが、勘違いしたまま難問を解決して、勘違いしたまま病気で死んじゃうの」

「英雄病の元祖だと?」

「そうなるかも」

「悲劇です」

「ええ、酷い喜劇よね」

 お互いに譲らない歯車のように、二人は子供のころから話が噛み合わなかった。だけどユーリは愉しげだった。

 あの遠い過去の孤児院から、ユーリ・ノワールはなにひとつ変わっていない。独裁者になって、彼等が育った孤児院を引き継いでも、なにも変わらない。それがなによりハーベストには恐ろしいのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る