第八章 ハッピーエンダー
1
カランカ■ン。ドアを開けると呼び鈴が鳴る。
■■日の昼どき。乾いた風がロンドンに吹き込む。日差しがちりちり木製の窓枠をあぶる。厳しい冬を前にして、最後の晴天を神様がこしらえてくれた。
耳を澄ませると、行き交う群衆の気配。ちょっぴり足早に石床を叩く。ひょっとしたら誰かがダンスを踊って■■■かも。タン、タン、タタン。スズメが地面で歩くような軽いステップだ。そういえばスズメなんてロンドンにいただろうか? そんな疑問にハーベストは頭をひねるが、どうでもいいと思いなおす。
ラジオが軽快なジャズを奏でる。ざぁざぁ。砂嵐じみた雑音が入るけれど、奇妙に心地いい。
「んんんっー!」
甲高い悲鳴が上がる。ポッピーが体を左右に振り回す。振り子時計みたいだ。
「これが生キャラメルというぅ!」
「正確には生キャラメルのシフォンケーキです」
「わたしは最初からそう言ったぞ!」
「変に意地っ張りですね」
■■■は客でごったがえしていた。子供達が右往左往に走り回り、丸テーブルもカウンターも満席だ。行き場を失ったカラス達が窓の外でたむろしている。ガァガァ、ガァガァ。恨めし気に鳴いている。
ハーベストは溜息を吐く。
「彼等を鎮めてくれますか。鬼太郎さん」
「合点承知だぜ」
キッチン奥から、さっと少年が躍り出る。学ランにエプロン姿。腕のこぶが見えるまで裾をめくって、血色のいい肌を晒す。
鬼太郎はバケツ片手に、外に向かって豚骨を放ってやる。油の臭いに惹かれてカラスが路地に群がる。おぞましい光景だが、■■■■市民にとって見慣れたものだ。アーサー王の象徴であるカラスは大事にしなければならない。
「はい、どーぞっ」
芽有が客に紅茶を注いで回る。ゆらりふわり。心浮き立つ香りが充満する。誰もが深呼吸をして、ダージリンのそよ風を取り込む。
「はい。お兄さんも、どーぞ」
「店長と呼んでください。店長、と」
憮然として注意するが、芽有はにかっと笑うだけだ。くるりとその場で回転して、ウェイトレス衣装をひらめかせる。ホイップクリームのような純白と青空色の抱き合わせ。“不思議の国のアリス”を思わせる格好だ。膨らんだ肩のスリーブがコロコロ動き、ミニスカートが揺れて長い脚が露になる。
弾けるようなティーンエイジャーに、客は見惚れるしかない。鬼太郎が空バケツを拳で殴りつける。若さだけが売りのドラマーみたいに、がんがん叩く。
「おい、あんまり見せびらかすんじゃ■■■」
「いーじゃないの。制服、ちょー可愛いんだから」
少女はもう一回転してみせた。
「いくらで仕立てたと思ってるの?」
「知りたくもないぜ。というか俺の金だぜ……?」
ハーベストは自らの腹を指す。ダークコートの下、エプロンを揺らして見せる。
「エプロンを着なさい、この店の一員なら」
「ダサいからヤ」
「……」
「この制服なら、給仕だけじゃなくて踊れるし」
芽有がスカートの両端をつまんで小さく持ち上げてみせる。わっと客が歓声を上げる。
「踊るウェイトレスがどこの世界にいますか」
腕組みをするハーベストの、エプロンが引かれる。ポッピーだ。
「あの女、ハンカチみたいなパンツ履いてたぞ。ゼッタイ寒い」
ポッピーは歯を見せて笑った。
「ちなみにピンク色だ」
「わざわざ言わなくていいです」
「なんでだ。男はパンツ見ると喜ぶんだろう? そう教わった」
「誰に?」
「■■■■だ」
「なんて言ったんですか?」
ポッピーはケーキにかぶりついていた。口は塞がっている。すぐにおかわりを要求されるだろう。
(まぁいい)
ハーベストは焼けるようなダージリンティーをぐっと飲み干し、
「悪くない」
小さくつぶやく。アルバイトを二人雇ってから、随分仕事が楽になった。誰もハーベストのコーヒーを注文しなくなったが、代わりに芽有の紅茶がよく飲まれる。
鬼太郎もカラスの面倒をみてくれる。「ドゥエイン」「ジャックマン」「ステーサム」「エバンス」と次々と適当な名前をつけるのは考えものだが……
新たな【PAWN】は、今までと同じ場所に建てられた。過去を覆い隠すかのように、灰の上に積み重ねるよう、あるいはバターを厚塗りするみたいに。
まだ看板を掲げていない。しかし、どこから聞きつけたのかオープンしてすぐに■■■■市民が集まってきた。客の表情は柔らかだ。眉根のシワよりも両口端のシワが深い。彼等の錨のように強張った肩が、今は丸く凪いでいる。
時節聞こえる都市の喧騒は、にぎやかで親しみに満ちている。世界はショートケーキの純潔を取り戻した。
英雄病は終息し、世界は治癒された。
いろんな国の人間が■■■■を訪れるだろう。正義も悪もいらない。適度なビジネスと観光を求めて、だ。深く暗い霧を抜けて世界はにぎわい出す。
ハーベストの背後でタイマーが鳴った。振り返って、厳めしいオーブンを見つめる。騎士甲冑みたいなボディがじりじり熱を放っている。腹に抱えた焼き菓子を取り出せ、と急かしてくる。
フカフカのミトンをはめて、さっとオーブンからパイを取り出す。
今回は彼なりに■■■■■したお菓子だ。カウンター越しにのぞき込んだポッピーが「あっ」と驚きを漏らした。
それは地獄の光景か、はたまたイギリスが生み出した怪物なのか。釣り上げられてすぐのニシンがそのままパイに突き立てられていた。暗い瞳が無念そうに天井を見上げている。
「ははぁ、これが例の……」
カウンターで新聞を読んでいたワトソンも苦笑した。
「お前さんは、そういうもの作らないんじゃなかったか?」
「趣味じゃない。ですが、たまには」
おそるおそるポッピーが尋ねる。
「なんだこれは?」
「スターゲイジー・パイ」
「■■■■の必殺技みたいな名前だ」
「なんて?」
「■■■■」
「はぁ。最近のコミックは、そんな感じなんですか?」
「そうだ! ギラギラッて感じの!」
奇怪なポーズを取るポッピーを横目に、ハーベストがニシンの群れにケーキナイフを入れた。ざくりざくり。こんがり焼けたパイが香ばしい風味を散らす。
その場にいた全員が顔を見合わせた。乙女の夢を詰め込んだような菓子ばかり用意するハーベストが、こんなゲテモノを用意したのだ。好奇心をそそる。
「突撃ッ!」
意を決してポッピーがフォークを振り上げる。一番槍にワトソンも続く。
「嬢ちゃんに後れをとるわけにはいかねー。ついでに不味いコーヒーもつけろ」
芽有が鬼太郎を小突く。
「ハニーは、どうする怖い?」
「怖がってないぜ! 舐めんなよ!」
鬼太郎が一番大きいひと切れをつまみ上げる。
全員が味見して、喫茶店は凍りついた。
彼らを見渡してハーベストが薄く笑う。
「感無量というやつですか」
「「お前は一生、普通の甘菓子作ってろ!」」」
全員が怒声を浴びせた。今日の■■■■も平和だ。
ハーベストは机に散らばった【■■■■・タイムズ】を見つけた。丸めてゴミ箱に捨てる。何かの標語が見えたけど、気にしない。どうせ大したことなんて書かれちゃいない。
新聞は退屈になった。空白が目立ち、文字もスカスカだ。いまや誰もが手を繋いで歌い出す時代だ。国民選挙でもすれば、候補者そろってミュージカルを始めるだろう。凶悪事件の一つでもあれば、と新聞記者が泣いている
いい■■になった。これも■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。
2
──瞼を開ける。
光がどっと流れ込んできた。ごうんごうん。換気扇が低く唸っている。蛍光灯の冷たい光。匂いのない臭い。背中にベッドの柔らかさ。シーツと肌のすれる音がした。重力はどこに向かっている? 腹だ。へその薄皮がひっぱられている。
起き抜けで、思考が曖昧だ。さっきの夢が現実ではと疑いたくなる。だって現実は悪夢そのものだから。
ハーベストは手足を、そっと動かしてみた。前に病院送りにされたことを思い出した。今回は手足に食い込む鎖の感触がない。
「いい夢、見れたようね」
彼女はいつも確信的だ。
ユーリ・ノワール帝国元帥兼終身独裁官。冗談みたいに長い肩書きの女がいた。本を片手にパイプ椅子に腰をかけている。まるで図書室の史書みたいな佇まいだ。
彼女が読んでいる本はなんだろう? 不要な好奇心に目が動いた。
今日は珍しくヘッドフォンをつけていない。つまり今は誰とも繋がっていない、ということだ。世界へ聞き耳を立てていない。地獄耳にも休暇があるらしい。
分かることはひとつ。ハーベストはまだ生きている。
また病院送りにされてしまった。命があるだけで儲かりもの。“倫敦塔の鴉”はいつも傷だらけだ。
「ハー君は、いつもいい仕事をする。期待通りよ」
淡々と喋るユーリに、ハーベストは押し黙る。この女には、どう喋っても失言にしかならない。
ユーリから芽有について聞かされる。やはり芽有は貧血気味なだけの少女だったという。
「一般人を手に掛けた気分はどう?」
「彼女は鬼太郎に協力していた……」
意地悪な質問だ。ハーベストは、なんとかして言い訳をこしらえた。「しかたない」そう言いたかった。
本当に仕方なかった? 違う。あの戦いは……芽有は自ら撃たれたがっていたのでは?
少女は戦いを終わらせたがっていたのかもしれない。
鬼太郎と芽有は相互依存の関係にあったのだろう。
強力な少年と、か弱く守られるだけの少女。
あるいはヒーローとヒロインか。
傷つく主人公と見守るだけのサブキャラクターか。
愛し合う。それは誰にも否定できない行為だが、あのカップルは歪過ぎる。地獄に一直線に落ちる螺旋の関係だった。
ハーベストははっとして、
「彼等はどうした?」
「誰のことかしら?」
ユーリは分かっているくせに、すっとぼける。
「カップルです」
「やっぱり気になるの?」
にんまりユーリが唇を曲げる。よく嗤う女だ。
「安心してちょうだい。彼らは治療しなかったわ」
「なにも安心できませんが?」
ユーリは続けて説明してくれる。カップルは外傷を治して、本国に強制送還したのだという。せっかく捕えた凶悪犯を再びに野に放ったということか? ハーベストは耳を疑う。ひょっとしたら戦いの影響で、まだ頭がイカれているのかもしれない。頭がガンガンなるように痛いのは、そのせいかもしれない。いや何をされたのか分かっている。
自身の袖をまくった。腕に青あざがある。注射痕だ。皮膚に浮かんだ、すぐに忘れ去られる孤独な傷。
ついさっき見た幸福な夢を想い返し、確信する。
「僕に【ハッピーエンダー】を打ちましたね」
なぜ英雄病治療薬をハーベストに? ユーリは黙ったままだ。実験モルモットを観察するような冷ややかな視線だ。いつも頼んでもいないのにベラベラ喋るくせに、いざ黙られると、こちらが窒息しそうになる。
「僕は用済み、ということですか?」
「あなた以外の【PAWN】は全滅したものね。鬼太郎君ひとりに、なんて脆いのかしら」
壊れた玩具には興味がない、と言わんばかりだ。
「貴方は最後の【PAWN】。用済み。
結論。
「ハー君はもういらない」
ユーリがそっと囁いた。ハーベストを英雄病扱いにして葬り去ろう。彼は元から行方不明の身。いくらでも替えが効く消耗品だ。
愕然。ハーベストは震える顎をどうにか噛みしめる。気を抜けば全身がバラバラになってしまう。ネジが外れたブリキの玩具みたいに、がらがら自壊してしまう。
「──そう思ってた」
「は?」
「気づいているかしら? ハー君はまだ生きているの」
言って、彼女はくすくす笑った。
ハーベストは健康体だ。意識もはっきりしている。
「ハー君は期待以上だった」
パンパン。愉快そうに手を叩いた。
「だからやめた。半分だけ薬を打って、思い直して、やっぱりやめたの」
ユーリがポケットから薬入りの小瓶を取り出す。「ハッピーエンダー」とラベルが貼られている。小瓶には薬液が半分ほど残っていた。
彼女は小瓶を握りつぶした。ガシャンと小瓶が割れて、中身もろとも飛び散った。ユーリの掌をガラス片が裂く。桃色の薬液と赤い血液が抱き合ってしたたる。ユーリはハーベストのベッドに手をこすりつける。天使の返り血が咲いたみたいだ。
「うん、やっぱり痛い」
ユーリは血まみれの手を愛おしそうに舐める。
「血が出るのは孤児院で遊んでいて転んだ時以来ね。ハー君は覚えているかしら」
「ユーリが転ぶ姿なんて、想像つかない」
「あの時、とっさに手を伸ばして私を助けようとしたこと。まだ覚えてるのよ」
「……覚えてません」
ユーリが怪我をしていない手を差し伸ばした。飴細工のように脆そうな腕だ。
「少し、外を歩きましょう」
「嫌です」
「独裁官命令よ」
ハーベストは手を取った。まだ体中が軋む。半死人のありさまだ。けど意地がある。ユーリに遅れをとってなるものか、と鼻を鳴らす。
「そんなに手を強く握られると興奮しちゃう」
「少し黙ってください」
真のヒーローもヴィランも見たことがない。だけど悪魔がいるとすれば、きっと五本指なのだろう。肉の感触は、びっくりするほど柔らかい。
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