第二章 うんと苦い珈琲に反吐出るほど甘いお菓子を添えよう


 ゴトー・ゴルドマンはまっ白な部屋で目が覚めた。タイル張りの、おそろしく清潔な部屋だ。没個性であろうとする個性。匂いなき臭い。ごうんごうん、と換気扇が息づいている。彼が働いていた銀行もここまで綺麗ではなかった。

 不純物は徹底的に排除する建物。その名を“病院”と云う。

 見下ろせば警官がいた。後ろに無数の白装束が控えている。白衣とマスクで表情が判らない。医者だろうか? 彼等は無感情な視線を向けてくる。カゴのなかの昆虫を観察しているみたいだ。不快感にゴトーが身をよじる。しかし動けない。

 ようやく自身がベッドに縛り付けられていると理解した。見下ろしているつもりが、見下ろされているのだ。

 パニックになって暴れる。じたばた手足を振り回す。ベッド上で溺れるかのようだ。だがどうしようもない。革ベルトでがんじ搦めにされている。シーツすら乱せなかった。

「はなせェ! 貧乏人共が!」

 病人は叫ぶことしかできない。

 

 

 もう何度も経験した風景だった。一緒に来ている部下ですら飽き飽きしている様子だ。

 ワトスン警部はゴトーが落ち着くまでじっと待った。あくびを噛み殺す。徹夜明けで瞼が重たい。

 ゴトーは医者達に囲まれて、がちがち歯を鳴らしていた。蟻に包囲されて、少しずつ千切られていく羽虫みたいに怯えている。

 ふと窓を眺める。ひらりひらり。吹き荒ぶ風に混じってスローガン入りのポスターが飛んでいた。


【羽虫は夢を抱いて飛んでいるのではない。地上を這う蟻を畏れて逃げているのだ】


 まずゴトーに鎮静剤が投与された。

「一本で足りるわけないだろ」

「既に二本投与しているのですが」

「追加で五本ブチ込んどけ」

「警部殿。それでは患者に副作用が……」

「症状を封じるのが、お前らの仕事だ」

 はらりはらり。ゴトーの身体から紙幣がこぼれて、紙山を作り出していた。能力が制御できなくなっているのだろう。髪が抜け落ちるように、肌から金を生みだしていく。男は生きた偽札工場と化していた。紙幣は本物と瓜ふたつの完成度だ。透かしまで入っている。 

 病室がパンクする勢いで紙幣、硬貨があふれる。固唾を飲んで見守る他の警官たち……

「一流銀行員さんよ。投資先は考えたか?」

 ワトスンが偽札を足蹴にする。

「粗末にするなと言っているだろうがっ!」

「うっせーな。おい、もう一本鎮静剤打っておけ」

 ワトスンはゴトーへと顔を近づける。噛みつかれそうなほど顔を突き合わせる。

「鎮まったか? 聴きたいことがあるんだが構わんよな?」

「悪人共が……」

「どこで英雄病に感染した? 司法取引したっていいぜ」

「私は病気ではない……」

「ふん、話にならんな」

 ゴトーは何も答えてはくれないだろう。分かり切っていたことだ。ヒーローたるもの信念は曲げない。拷問官を使ってもいいが、時間と税金の無駄だろう。なにより“悲劇の主人公”になられては余計にタチが悪い 

「そんじゃ、適当に処理しておけよ」

 よっこらせ、とワトスンは立ち上がる。部下を連れて、病室を去っていく。もうゴトーと会うこともないだろう。

「待て! 私を倒したって、それで終わりじゃない」

 待たない。病人共はいつも喋り過ぎだ。付き合っていられない。ワトスンの背にゴトーが訴え続ける。

「じきに正義が為される。悪は滅びる!」

 唾を飛ばして、これでもかと叫ぶ。

「この深倫敦ニュー・ロンドンはヒーローで埋め尽くされる!」

「お決まりの台詞だな」

 ワトスンは去り際、部下のポケットに手を突っ込むと、紙幣を取り出した。あっと口を開いた警官に拳骨を食らわせる。

「警官がネコババすんじゃねぇ」

 ふと紙幣に印刷された“彼女”と目が合った。

 イギリスは新体制に代わってから、新紙幣が発行された。肖像画は深倫敦ニュー・ロンドンの独裁者。英雄病を根絶せんと、ヒーローを迫害する最悪のヴィランが印刷されている。ワトスンでさえ背筋が凍る相手だ。直接出くわしたら一週間は不眠症になる。

 皮肉な話だ。ゴトーは“彼女”が印刷された紙幣を武器に戦っていたのだ。

 

 ワトスンはゴトーのこれからを考える。

 医者共はきれいに後始末をやってのけるだろう。

 英雄病に対する治療法はない。

 まず鎮静剤をこれでもかと打ち、容体を安定させる。それから都市特製の“幸福薬”【ハッピーエンダー】を打ち込む。

 彼等を幸せの国へ追放するのだ。それも、ありったけ投薬して廃人に変えてしまう。ベッドの上でなら大人しい優等生になるだろう。人権団体は火星まで旅行に出かけたとのウワサなので、病院側も批判されない。

 【ハッピーエンダー】はゴトーを夢見心地にさせるだろう。誰も金に困らない世界で、銀行員になれる。金を貸して、それを倍に増やして金を返してもらう。それをまた貸して繰り返す。世界が金であふれる。貧乏人は消えて、誰も困らない世界が生まれる。男が言うところの“正義”が為されるのだ。ヒーローはいつもハッピーエンドに終わる、と相場が決まっている。



 ハーベスト・オセロは最悪の一週間を過ごした。

 “守銭怒”ゴトー・ゴルドマン暴れたときにバラ巻いた金のせいで、街はちょっとした混乱状態になってしまった。金を吐き出す病人が暴れたとあれば、どこかに金が落ちていないかと市民が群がりだした。ゴトーが発射した金額は総額二億ポンドとも言われている。全て警察が回収したとされるが、誰も信じない。

 皆が地面とにらめっこしているから、店前は“うつむき通り”と名付けられた。「思春期の少年少女みたいな地名をつけられては営業妨害になる」とハーベストはみるみるうちに不機嫌になった。拳銃を持ち出して野次馬共を追い払う毎日だ。

「もうダメだやってられない」

 事件から二日後の火曜日。突如として言い放つや、客を追い出して店を閉じた。次の日も、そのまた次の日も。店を開けることはなかった。



 とうとう深倫敦ニュー・ロンドンは金曜日を迎えた。

 メインストリート沿いに大銀行がある。傾いた屋根。折れた柱。崩れた階段。隕石が墜落したみたいだ。世間向けには「銀行強盗に襲われた」とされている。

 もちろん嘘だ。

 警察は自己正当化に余念がない。病人が暴れたと公表しない。できるわけがない。

今の時代、どんな悪党より英雄病感染者こそが恐ろしい。

 都市は英雄病に徹底抗戦している。ここは世界最後の地。ジャパンやアメリカみたいにヒーローに支配されていない。イギリスは英雄病の脅威に負けていないと示し続けなければならない。

 見上げれば曇天。湿ったガラス瓶の底みたいな国だが、パンデミック以後はさらに雲が増えた。大気汚染と酸性雨が深刻だった。

 工場は有毒物質が垂れ流し、テムズ川をカドミウムで汚染した。これから二一世紀を迎えようというのに産業革命期まで逆戻りしたみたいだ。公害問題に取り組むヒーローなど存在してはいけない。

 街を一〇分も歩けば、倫敦の変わりようを堪能できる。

 ずらりと並ぶ赤い公衆電話は埃で汚れて血反吐みたいだ。

 大英博物館は一級汚染地域として立ち入り禁止になった。

 世界最古の図書館ことロンドン図書館も汚染されて、誰も近寄れない。 

 バッキンガム宮殿は忽然と姿を消した。

 ウェイントミンスター寺院は、つい一か月前に半分を吹き飛ばされたばかり。

我らがビッグベンは一階建てに変貌……いまやリトルベンだ。短小包茎の仲間入りだと娼婦が笑った。

 ロンドン橋は去年、崩れ落ちた。いまだ修理の目途も立たない。「ロンド橋落ちる、落ちる、落ちる……」怪しい童謡マザーグースが彼方から聴こえてきそうだ。

 有名な建物が次々と朽ち果てた。倫敦の歴史全てを保存する余裕が都市政府にはない。全てが英雄病への対処に向けられた。

 スターバックスとサブウェイは生き残っている。なかなかどうしてアメリカ生まれはしぶとい。

 石造りの町並みから活気が消えた。暖炉のような温もりが、氷像みたいに静まり返っている。街を歩く人達は目を伏せがちだ。コートの襟や帽子の縁で表情を隠してばかりいる。


「倫敦は変わってしまった」昔ながらの住人は、そう口にする。


「倫敦は古さを捨て、新しきを手に入れる。けれど深い水底に身を投げるようなものだ」当時のリベラル派新聞紙は、そう題している。


 しかし変わらぬ物もある。倫敦塔だ。一七〇八年、ウィリアム一世の建造時は宮殿にして城塞だった。王立動物園を経て、造幣所や天文台。銀行、監獄……と様々な役を演じてきた。

 大勢の人間を処刑した暗い歴史がありながら、前時代は観光地として消費されていた。そして現在。全てをひっくり返した世界では孤児院として生まれ変わった。


 ハーベストは市内を闊歩していた。目指すは倫敦塔だ。

 お決まりのダークコートに純白のエプロン姿。大きなゴツゴツしたキャリーケースを転がしている。だけど車輪が古いため上手くケースを転がせない。がりんがりん。石床を削るように引きずった。

 キャリーケースのハンドルと腕を鎖で繋いで、絶対に手離さないようにしている。ケースに爆弾でも詰めているみたいに厳重に運んでいた。

 ハーベストの歩みには迷いがない。問答無用で飛来する砲弾じみている。

 倫敦塔は店からそう遠くない距離だ。夜はどんなお菓子を焼こうかと悩む間に、すぐ着いた。

 正面の門から悠々と入る。衛兵はうたた寝していたのか、ぼんやりした表情で素通りさせてくれる。名前と顔さえ分かればそれでいい。フリーパスというやつだ。勤勉な衛兵を期待するのは時代遅れというもの。

 ハーベストは衛兵を一瞥する。

「塔を守る気があるのですか?」

「世界が終わるその時まで、オイラは安泰だよ」

「世界なんて、とっくに終わってますよ」

 衛兵は腰に小さな文庫本を挟んでいた。ハーベストに見られていると気づいて、彼は慌てて文庫本を隠す。「何を読んでいるのですか?」だなんて気軽に聞けない。都市政府によって禁書指定された物語を読んでいると知れたら、彼は牢屋行きだ。

「読書は、ほどほどに」

「……わかってるよ」

 ハーベストが胸にある銃を見せつける。

「僕はお菓子を焼くのに忙しいので、コレを使いたくない」


 倫敦塔の敷地に入ると、すぐに内庭へ出た。

 赤い花畑がある。かつては戦没者のためにセラミック製の造花が植えられていた

 今は本物の阿片ケシが植えられ、都市公認の麻薬畑となった。麻薬全般が合法となり、だからこそ麻薬は国家に管理されなければならない。

 麻薬畑に少女が佇んでいた。美しい花々に見とれている。

 きらきらと白い歯をのぞかせて。

 こぼれそうなほど大きな眼をして。

 ご機嫌に揺れる三つ網をぶら下げて。

 一二歳か一三歳といったところ。まだコーヒーの味わいすら知らないだろう子供だ。

 少女はハーベストに気づくと、立ち上がった。

(なんて目をしてるんだ……)

 ハーベストは息を呑んだ。曇り空を突き抜けんばかりの視線を向けられた。強い瞳をしている。【PAWN】に来るロクデナシ共には、ありえない視線を放っている。

 ハーベストは目を逸らして、少女の髪飾りを見た。子ガラスの髪飾りをしている。

「変わった髪飾りですね」

「わたしの宝物だ」

「ここの新入りですか?」

「うん、でも一番おおきいんだ」

 少女はポッピーと名乗った。ハーベストを倫敦塔へ案内することになっているらしい。

「カバン持つぞ」

 そう両手を差し出すポッピーだが、ハーベストはにべもなく断った。キャリーケースが大きすぎて、小枝のような腕が折れかねない。なにより他人に荷物を預けるなどあり得ない。

 ずかすか倫敦塔に入っていくハーベストをポッピーが慌てて追いかける。

「待て! お前!」

プンスカ。ポッピーは頬を赤くして怒った。キャリーケースに抱き着こうとするも、ひらりと避けられてしまう。

「大事な、とても大事な物が入っているんです」

「人の親切は素直に受けるものだ!」

「前時代的な考えですね」

「ムカつくなお前! だが案内はするぞ! 迷子になるからな」

「そうしてください」

 塔内を右往左往に進み、上下階を往復するように昇り降りする。布を針でデタラメに縫ったような道を歩いた。出口が見えない。入口すらわからなくなる。もう後戻りはできない。

 英雄病ヒロイック・シンドロームが蔓延して以来、倫敦塔は大改修された。

 都市のド真ん中に迷宮が築かれ、天空と地下に塔が広がった。噂ではテムズ河全域に根を張っているという。ミノタウロスの迷宮じみている。だがハーベストは知っている。住んでいるのは牛ではなく鴉なのだと。

 とてとて、とてとて。歩くポッピーに連れられ進む。

 無数に並ぶ絵画も、彫像も、処刑器具も、あるいは亡霊共でさえ通り過ぎたかもしれない。

 ようやく、とある一室に辿り着く。

「着いたぞ」

「ご苦労様です」

 ここで“大英帝国元帥兼終身独裁官”ユーリ・ノワールと待ち合わせている。またの名を“鴉のレイヴンマスター”という。つまるところ独裁者というやつだ。ハーベストと変わらぬ歳でありながら、異例の立身出世を果たした怪人である。

 ハーベストは部屋にノックもせず入る。

「おかえり、ハーちゃん」

 即座に声が飛んできた。待ち構えていたみたいにタイミングがいい。それどころかハーベストが入室する直前に女は言葉を放っていた。彼の行動全てが筒抜けということだ。

 どこにでもいそうで、どこにでもいない美女がいた。

 ジーンズジャケットにロングスカート。カジュアルな衣装の上から、黒の長髪をたなびかせている。スラリと伸びた四肢に、豊かな胸がシャツの布地を押し上げている。今まで街で遊んでいたのに、うっかり迷い込んでしまったかのよう。荘厳な倫敦塔には場違いな女性だ。

 小さな頭に不釣り合いな大きなヘッドフォンをつけている。その重みで首がへし折れてしまいそうだ。無線でなにやら聴いているらしいが、音楽かどうかは不明だ。少なくともハーベストは彼女がどんな音楽を好むのか知らない。

 ミルク瓶の底みたいなメガネで彼女がなにを視ているのか、誰にも解からない。

 両腕に本が大切そうに抱えられている。まるで赤子を抱いているかのようで、清楚な文学少女を思わせる。ただし本は裏で流されている非合法ポルノ雑誌だが……。

「おかえり、ハーちゃん」

「二度も言わないでください」

「だって返事ないし。喉が潰れてしまったのかと」

「淑女らしい物言いをしてください」

「十分すぎるくらい超淑女よ」

「……」

「さぁさぁ、座って」

 石造りの一室にはテーブルと椅子二つ。ティーカップ一式があり、カップには熱々の紅茶が注がれていた。ティータイムの途中らしい。

 部屋にはカーテンがあった。だけどめくってみれば窓が無い。冷たい石壁があるだけだ。もっともらしい装飾をしているが、完全な密室空間だということ。ハーベストは試しに壁を拳で叩いてみる。ゴンゴン、ゴンゴン。さっぱり音が響かない。

(厚さが十メートル以上ある……。地下かもしれないですね)

「ハーちゃんは相変わらず用心深い」

「ユーリには、いくら用心をしたって足りない」

 ハーベストは耳を澄ませた。

「どこか別の部屋から音が聞こえます」

「秘密の部屋なんていくらでもある。気にしないことよ」

 ポッピーがハーベストの脇腹をド突く。痛い。

「ユーリ様の前だぞ。礼儀をわきまえろ!」

 無視。

「おまえっ!」

「いいのよ、私の愛らしいポッピー・ノワール」

ユーリはポッピーを抱きしめた。

「ユーリ様っ!」

「ふふっ、子供って暖炉のように熱いわね」

 ポッピーは感極まって硬直してしまった。ユーリはそっと頭を撫でながら、少女の活躍をたずねる。

「よく案内してくれたね」

「はい、言いつけ通りに」

 ポッピーが胸を張る。春の日差しに抱擁されたみたいに嬉しげだ。ユーリは他の子供達を呼んでくるよう命じた。ポッピーは礼儀正しく会釈すると、ハーベストの靴を踏みつけた。痛い。

「いいか。礼儀正しく、だぞ」

 釘を刺すやポッピーは飛び出した。まさに弾丸だ。小さな背中を目で追いつつ、ユーリは尋ねた。

「店は繁盛しているの?」

「さっぱり」

「ぼちぼち、くらいには言いなさい」

「事実です」

「ポジティブになさい。どんな酷い店でも。甘さだけが取り柄の、不味いコーヒーを出す店であっても……」

「失礼な女ですね」

 邪悪な魂を持つ小動物。あるいは天使にモノマネする悪魔。それがユーリ・ノワールだ。彼女はハーベストの心をカリカリひっかいて遊んでいる。

 ユーリがポルノ雑誌をヒラヒラ振った。

「これ、読む?」

「……読むと思います?」

「私は一片の可能性に賭けるタイプなのよ」 

 ハーベストは無視して椅子に座りこんだ。

「あれれ、趣味じゃないのかしら」

「そんな感じの……子供をいたぶる趣味はありません」

「なるほどね」

「あと孤児院で読むもんじゃない」

「マズいかしら?」

「当然です。今すぐ絶交したい」

「もう、絶交する理由ばっかり探して……」

 ユーリは失恋した少女のように凹んだ。よよよ、と泣いて見せる。三流女優みたいな大げさな仕草だ。

「私だって興味ないわ。ただハー君の気を引きたくて……」

 ユーリが強く頷く。

「来週はもっと刺激的なモノを用意するわ、うん。馬とヤルやつとか」

「勘弁してください」

「ハー君は純粋だから、遊びがいがあるのよ」

 談笑もそこそこに、彼女はハーベストのキャリーケースに目をつける。触れようとして、叱られる。

「ユーリに、じゃない」

「見るだけよ」

「ダメです」

「一応、あなたの上司なのに……」

「上司じゃなくて雇い主です。今、さらりと上下関係を造ろうとしましたね?」

 ハーベストは強情な男だ。ユーリはすんなり諦める。

「でも子供達は喜ぶと思うわ」

「どうだろう」

 ハーベストが言葉を濁した。言葉に迷っている。

くすり。ユーリが内心で笑った。

(ハー君は肝心なことから、いつも逃げる)

 彼はいつも迷っている。言うと怒るから言わないけれど。



 ハーベストは毎週金曜日に倫敦塔へ訪れる。理由は幾つかある。ひとまずはアルバイトのためだ。喫茶店を経営する傍ら、副業で都市を救っている。ジャパンの言葉で例えるなら「二足のわらじ」の状況だ。

 英雄病ヒロイック・シンドローム以後のこと。警察や軍はすっかり腐敗してしまい、役立たずの代名詞となった。犯人逮捕するよりも「どうやって密造酒を手に入れるか?」ばかり考えている。正義感ある者は皆、病気に罹ってしまった。

 未曾有の病害を防ぐ人間が必要だ。“守銭怒”ゴトー・ゴルドマンのような病人を仕留められるプロが必要となる。

 都市政府は機能不全だ。ハーベストのような半端者を必要とするほどに……。

「“守銭怒”を入院させてくれて感謝するわ」

「全く感謝の気持ちが籠ってない。話す時くらいポルノ読むの、やめてください」

「まー。ハー君が勝つのは分かり切っていたし」

 ユーリが雑誌を畳んだ。

「あんなもの、ハー君の敵じゃない」

 取るに足らない相手だと、女は満足げに語る。

「でも、これで終わると思わないことね」

「なぜ?」

「ヒーローは絶対に諦めないから」

 ユーリは確信していた。

 ハーベストは肩をすくめる。もう終わった事件だ。無関係でありたい。そもそも彼は通り魔的に巻き込まれただけだ。

「この都市はユーリの思うがまま。好きにしたらいい」

「ひとつ言っておくけれど」

「言わなくていい」

「ハー君はやるべきことをやった。何も気にしなくていい」

 ハーベスト・オセロはヒーローを倒した。ゴトーを野放しにすれば、何をしでかしただろう? 金に汚い人間は一掃されて、金銭的に平等な世界が誕生したかもしれない……。

 貧富のない世界。それがゴトーの目指す世界だった。ご立派過ぎてツバを吐き捨てたくなる。

「この世界は腐ってる。僕が出張らなきゃいけないくらいに」

「『あいつがムカついたらブチのめした』それでいいじゃない」

 これはハーベストの利己心が解決しただけの話だ。だがユーリは彼の利己心をこそ評価している。

「私もハー君くらい純粋で、強かったらいいのだけれど」

「皮肉ですか?」

「まさか。羨んでいるのよ」

 どこまで本当なのだろう? 確かめようとするだけ無駄だろう。

「私は世界に適応できない」

「独裁者の台詞じゃないですから、それ」

 ユーリは紙袋を机に放った。アルバイト料を、さぁ拾えと言わんばかりだ。

「お金を雑に扱っちゃいけない」

「これくらいで怒る奴なんていないわ」

「いたとしたら、それは病人ですね」

 ハーベストは憮然として受け取る。輪ゴムで止められた札束が入っていた。

 倫敦塔への目的は済んだ。報酬を受け取って帰る。それだけだ。

「確認しなくていいの?」

「いつも通りの厚みと重さです」

「本業より良い稼ぎでしょ?」



 ハーベストが病院送りにしたゴトーについて、聞いてもないのにユーリは教えてくれた。調べの結果、ゴトーは旅行先のアメリカで感染したらしい。世界最初に英雄病が発生した大陸だ。今やヒーローだらけの地獄である。その経済規模、イギリスとの距離ゆえに、完全に国交断絶できないのが辛いところだ。

「ニューヨークにでも行ったのですか?」

「最東端、メイン州よ。あそこは辛うじて機能している」

「それでも……感染したってことは」

「そうね。世界のオワリもすぐそこかも」

 くっくっく。忍び笑うユーリに、ハーベストは呆れた。

「君は誰の味方なんですか……」

「もちろん、私の味方よ」

 為政者なら嘘でも「都市市民の味方だ」と言うべきだろう。

 ハーベスト達は廊下に出た。


【コインの裏表を言い当てるよりも、どちらも表と言い張ることが重要だ】


 壁に貼られたスローガン紙を通り過ぎた辺りで、ぞろぞろ現われた子供達に囲まれた。先頭にはポッピーがいた。まるで騎兵隊長のように誇らしげだ。隊長、隊長、と年少の子供たちに親しまれている。これからドラゴン退治にでも出発しそうだ。

 ハーベストの背後に立つユーリがそっとささやく。

「ポッピーは新入りなの」

「知ってます。先週までいなかった」

「自尊心の強い子よ」

「それで?」

「純粋なの。うまく頼ってあげてちょうだい」

「僕がですか?」

「会うたびに喧嘩したくないでしょう?」

「む……」

 ハーベストはキャリーケースの封を解いた。バチンバチン。爆ぜるように金具が外れていく。中にはたっぷりの焼き菓子が詰め込まれていた。クッキー、クランチ、バターケーキ……。

 子供達に焼いたのだ。わっと群がる少年少女達。人数分あるから焦るな、となだめる。子供というのは厄介だ。ブレーキが壊れたスポーツカーと同じ。イケイケで月の裏側まですっ飛んでいける。

「おかえりお兄ちゃん」「いつもお菓子ありがとう」「それは俺のだからな」「ちょっと待ちなさいよ! アタシが先に予約したの!」「予約? 隊長はそんなズルは許さないぞ」

 子供たちは好き勝手に喚く。

 ハーベストはポッピーにケースを預けた。

「甘い物は好きですか?」

「もちろんだ」

「ならば十分。手伝ってください」

 ポッピーは任せろと言わんばかりに胸を張る。渡されたお菓子を他の子達に手渡していく。

「コレがジェニファーのぶんです」「うん」「コレはヘムズワースのぶん」「うん」「イドリス」「マカボイ」「マコノヒー」「アニヤ」

 ハーベストは子供達全員の名前と顔を覚えている。好みのお菓子も味つけも知っている。だから迷わない。テキパキ配っていく。

 ハーベストは子供達にお菓子が行きわたるのを見て、最後にポッピーへ渡す。

「黄金モンブラン……栗は好きですか?」

「大好きだ!」

 待ち切れないのか、廊下で食べはじめる子供たちを背に、ハーベストは早々に帰って行く。代金はユーリ持ちだ。



 ポッピーがハーベストを追いかけようとすると、ユーリに遮られる。

「ユーリ様」

「行かせてあげなさい」

「しかし……」

 ポッピーは「ありがとう」と伝えたいだけだ。だけど、どうして彼は逃げるように去ってしまうのか? 

「今回は逃がしてあげるのよ」

 ユーリがそっと教えてくれた。彼女はハーベストをよく知っている。彼はいつも肝心なことから逃げてしまう。子供の純真無垢な感情は、どんな刃よりも鋭い。あの男はまっすぐな感情が苦手だ。まともに向き合えない。

(ハー君は肝心なことから、いつも逃げる)

 やれやれ、とユーリが首を傾げた。

「わかりました」

ポッピーは決意の表情で頷いた。

「今回は見逃す」

「いい子ね。私のポッピー」

 ユーリは少女の頭を撫でてあげる。だけど、とポッピーは続けた。

「逃がしてあげるのは今回だけ。来週は逃がさない」、

「頑固な隊長さんね。彼と似てるわ」

 二人して、ハーベストの大きな背を見送った。

 


 倫敦塔は独裁者の住処にして孤児院でもある。親を失くした子供たちの寄り添う場所だ。

 小さな楽園でありながら、主は正真正銘の王である。

 ハーベストは孤児院を去るとき、決して振り返らない。未練を抱くと弱みになる。ユーリ・ノワールはそれを決して見逃さない。

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