ヒロイック・シンドローム

怪咲 幻

第一章 ハチミツ瓶の底みたいな、おわりの都市で

プロローグ


 これは勝者のいない物語。


 一九九八年十一月十五日。長く厳しい冬が始まろうとしていた。ハッと息を吹いてみて、しかし白くならない。悪夢の前兆のような、もどかしい寒さだ。

 深倫敦ニュー・ロンドン通り・ストリート。ひらりひらり。黄ばんだ白が舞う。まだ雪が降るには少し早い。それは大量印刷された古紙だった。誰でも読めるよう、でかでかと文字が記されている。


「悪徳を積むことなかれ。けれど徳を積み過ぎることなかれ」


 今月の標語。プロパガンダというやつだ。

 トラックが疾走する。裂けた腹から内臓をブチ撒けるみたいに、荷台からビラを振りまいた。



 都市の一画、小さな喫茶店がある。のっぽな建物に囲まれて、油断すれば踏み潰されたマッチ箱みたいになってしまいそう。

 名を【PAWN】という。素敵なお菓子と少しばかり問題のあるコーヒーを提供してくれる。

 静かな店だった。錆びたラジオから安っぽいジャズが流れる。ガサついた音色が寂しげな夕刻を彩った。

 【PAWN】は来るもの拒まず。去る者追わず。どんな客も選ばない。イギリスの曇り空みたいな人間がわらわら集う。

 後ろめたい約束には便利な店だった。違法薬物、人身売買、武器密売の裏取引、etcエトセトラ……が盛んだ。

 「くれぐれも店に迷惑をかけないように」店長、ハーベスト・オセロが口を酸っぱくしていう。それだけが重要なのだ。店は平凡で穏やかなセカイであるべきだ。彼は店を守るためなら、なんでもする。そのために深倫敦ニュー・ロンドンじゅうの市民を皆殺しにしたってかまわない。

 がらんがらん。ドアベルが鳴った。

 慌ただしく入店した者がいた。まだ青臭い、鋳造されたばかりの銀貨みたいな男だ。

 彼は無様な格好をしていた。乱れた背広、よれよれのネクタイ。泥だらけの革靴。見開いた眼は焦点が合っていない。滝のように汗を流して、荒く肩を上下させている。まるで槍の雨から逃れてきたみたいだ。しかも彼は血まみれだった。 

 店主は目が良い。すぐに彼自身が出血していないと分かった。男は他人の返り血を浴びている。ギャング同士の抗争に巻き込まれたかもしれない。

 深倫敦ニュー・ロンドンでは、ありふれた光景だ。

 争いが絶えない街なのだ。悪意が風に吹かれさ迷っている。皆が誰かのケツを蹴飛ばしてやろうと企んでいる。

 世界は変わってしまった。十年前の大厄災だいやくさいのせいで……。

 店主ハーベストは店に入ってすぐのカウンターに立っていた。

 男は入店したまま、どうしたものかと黙り込んでいた。

「棒みたいに突っ立ってないで、座っては?」ハーベストがカウンターテーブルを指す。

「私はゴトー・ゴルドマン」血まみれの男が座るなり告げた。

「名前なんて聞いていないですが?」

 背広の男は取り乱していた。ティータイムどころではないようだ。

「警察を呼んでください、はやく、はやく!」

「警察署に歩いて向かったほうが早いですが」

 ゴトーは首がねじ切れんばかりに店内を見回す。

「誰か電話を貸してくれ!」

 探す、探す、探す! だが電話が見当たらない。パソコンもない。文明的な通信手段がさっぱりない店らしい。

 店内に五、六人の客がいた。けれど誰もが無関心だ。彼らは慌てふためくゴトーを眺めるばかり。

「誰かッ!」

「善意は求めるだけ無駄ですよ」ハーベストが肩をすくめる。

 ゴトーはうめくようにカウンターへ突っ伏した。それから店主を改めて見つめた。ゴクリ。緊張に喉を鳴らす。身長一九〇センチはある巨漢だ。巨人が身体を屈めて、どうにか喫茶店に収まっているかのよう。エプロンにダークコート羽織った奇怪な衣装。分厚い布地の下に筋骨隆々を秘めている。一歩踏み出せば、プレッシャーに店がぐしゃりと潰れてしまいそうだ。

 巨人の暗い瞳にあてられて、ゴトーは腰が抜けそうだった。

(お、お、落ち着け!)

 そわりそわり。襟元を正そうとしてスーツを撫でまわす。高級スーツを着込んで、カシミヤの光沢を纏っていると落ち着く。サラサラな生地を味わうと、心臓の高鳴りが治まる。そうでもしないとゴトー自身がパニックで爆発してしまいそうだった。

「へーい、兄チャン」

 カビ臭いボロを着た小男が寄ってきた。無精ひげをさすって、濁った視線を投げかけてくる。見るからに弱弱しいゴトーをカモにして、悪巧みを考えているのだろう。

「オレっちが相談にのってやろうか?」

 小男の額に銃口がキスした。

 店主が銃を突きつけたのだ。リボルバー式拳銃【コルト・シングル・アクション・アーミー】なんの変哲もない、ごくありふれた人殺しの道具だ。少女が野花に接する気軽さで、命を摘み取れる。

「君はいつも面倒を起こす」

「勘違いすんな。ちょっと茶でも飲んで、お喋りをしようと……」

「黙ってください。床を君の脳漿で汚したくない」

「わーった。わーった……」

 小男は消え入るように引っ込んだ。彼の丸い背にハーベストが呼び掛ける。

「今日はお仲間がいないんですね」

「ショットヘッド、デイモンド、ニッグホーン……」

「よく覚えてんな」

「客の顔と名前は覚えています」

「うろ覚えだろ? 気にすんな」

「ひとり残らず、間違いなく覚えています。あなた方が、つるんでいることも」

 小男がぐっと顎を引いた。言葉を吐くべきか、飲み込むべきか迷っている。ひとしきり悩んで、ようやく口を開く。

「あいつら、死んだよ」

「だから荒れているんですか? 腹いせに手ごろな客をそそのかそうと?」

「そんなじゃねぇ。アイツらは、つまらんミスをしただけだ」

「病人に出くわしたとか? それとも感染したとか?」

「知らん。俺っちに関係ない」小男が首を振った。

 ゴトーは息を呑んで、二人のやりとりを見守っていた。

 ハーベストはゴトーをちらと見て、

「いろいろ言いたいことはあるでしょう。ですが、まずは腹を満たすべきです」

 ハーベストは拳銃をコート内に収めた。

「お菓子を齧りましょう。コーヒーもありますよ」

「コーヒーだけはやめておけ」他の客がヤジを飛ばす。

 ハーベストが再び拳銃を突きつけ、ヤジを黙らせた。

「さぁ、オーダーを」

「でも、そんな場合じゃ……」

「オーダーを」

 

 

 店内には無数のカラスがいた。落ちたクッキーの欠片をつまんだり、ハーベストから豚ガラを貰おうと期待している。彼等は今、ゴトーに出されたスコーンを狙っている。少しでも席を離れたら皿ごと食べかねない。

 たむろするカラス。劣悪な常連客。凶悪な風貌の店主。まっとうな店とは言えない。

 ゴトーが尋ねてみたところ、店でアルコールは売っていないという。今やイギリスじゅうに密造酒が溢れかえっている。鉛交じりでエタノール臭い毒酒ばかりだ。良質な酒は手に入れるだけで大仕事になってしまう。

 代わりに暗黒の液体がカップに注がれた。

「コーヒーで我慢してください」

「うっ」一口飲んで、思わず舌を突き出した。

 ありったけの邪悪をすり潰してドリップしたのか? コップの縁をつたう鉄の匂いが、神経を逆なでする。常連客ならこうアドバイスするだろう。「ここのコーヒーは熱いうちに飲み干せ。冷めるまで待つと後悔するぞ」

 ゴトーはすっかり青ざめた。

「まさか……私に毒を盛ったのか!」

「失礼な。ごく普通の珈琲ですよ」

「……はやくスコーンもください」

 あまりにショッキングな味に、ゴトーはようやく平静になった。

「私の話を聞いてくれるか」

「興味ありませんが」

「私はね、銀行員なんだ」

「お喋りが好きですね」

 ハーベストの嫌味も無視して、男は話し続けた。

 

 ──私は中央街の大銀行に勤務している。失礼な話だが、こんな脇道にある店とは無縁の人生でね。車がねる泥水すら知らない暮らしぶりだった。

 毎日忙しい。山盛りの業務が濁流となって襲い掛かる。激務に忙殺されて、いつも頭がクラクラだ。だけど辛くないよ。勤労が過ぎると、むしろ夢見心地なんだ。これだけ世に尽くしているのだから、世に尽くされて然るべきだ。出張先のアメリカでそう学んできた。

 今日もランチタイムにキューカンバーとシーチキンのサンドイッチだけ胃に詰めて職場に戻った。

 だが職場は一変していた。銀行強盗だ。私は気づけば銃を突きつけられていた。今も覚えている。頬に触れる銃口の感触、冷たい、恐怖、焦り、怒り。

 ひりひり、ひりひり。あれから火傷したみたいに身体が熱い。頭蓋に熱湯を注がれたみたいに、心が沸騰している……。


 ハーベストがじっとゴトーを見据える。

 本当に彼は強盗から逃げてきたのか? ゴトーに飛び散った血は惨劇の証拠だ。中央銀行は数ブロック先だから、ハーベストには直接確かめられない。

 外からパトカーの警報音が聞こえる。絞め殺されたアヒルみたいな、かん高いサイレンをがなり立てている。警察はもう事件解決に向けて動き出しているのだ。

 ゴトーは然るべき場所で保護してもらうべきだ。彼は語るうちに昂り始めていた。不味いコーヒーのせいで舌がよく回る。まるで熱にうなされる病人みたいだ。青白い顔がヒビ割れて砕けてしまう気がした。

 狂犬病の感染者は怒りに支配される。脳の一部、感情を司る部位が病魔に侵されるからだ。病は心を砕く。ゴトー・ゴルドマンもそういった症状によく似ていた。もしくは別の病気の可能性もある。ハーベストはむしろ〝別の病気〟を疑っていた。

「銀行強盗があまりに恐ろしくて」ゴトーが語る。

「……」

 こぽりこぽり。キッチンで火をかけていたサイフォンが沸騰を訴えた。

「私は頑張ったんだ」「頑張ったんだから、許される」「そもそも連中……金を、奪うなんて、金はなによりも大事なのに」ゴトーがぶつぶつ呟いた。

 男は貧乏ゆすりしていた。床をガンガン踵で叩く。恨みがましく蹴りつけるかのようだ。

 ダッダッ、ダッダッ。ステップを踏んで踊りたがっているのかもしれない。しだいに足踏みが大きくなっていく。他の客も、なんだなんだと興味を向け始めた。

 ハーベストも眉をひそめる。ゴトーは異様だ。だが外の状況も奇妙だ。こうしている今も警察のサイレン音が鳴り止まない。むしろ音が大きくなっている。つまり警察が店側に向かっているということだ。

 客達も慌ただしくなる。「サツが近くにいるから」と帰り支度を始める。彼等には彼等なりの事情があるのだ。

 私も仕事に戻らなければ、とゴトーも急ぐ。注文したスコーンを頬張る。

「とても甘くて、ウマいね」

「当たり前です」

「同僚にも食べさせてやりたい」

「そのまえに警察に保護してもらったら?」

「えーっと、なんで」ゴトーはきょとんとした。

 ゴトーは銀行強盗について、すっかり忘れているようだ。先ほどの混乱状態が嘘のようだ。だけど正気を取り戻したわけじゃないだろう。ぼんやりと焦点が定まらない目をしている。薄氷の上で理性が立ち尽くしているにすぎない。

「ごちそうさま」ゴトーが会計を済ませようと立ち上がる。提示された値段を見て、目をパチクリさせた。意外なほど安い。コーヒーは代金を取るのも法外だが、スコーンは絶品だった。客入りが良いわけでもないだろうに、どうやって収支を賄うのだろうか? 疑問を抱いたまま五〇ポンド札を支払った。血まみれのままで帰ろうとして──

「あ」間抜けな声をあげた。ゴトーは財布をうっかり取り落としてしまった。つやつやの皮財布が、鉛を詰めているみたいな音を立てた。勢い余って札束をブチ撒けてしまう。硬貨も雪崩のように、ざっと散らばる。ざっと一万ポンドを超える大金に、店内の誰もがぎょっとした。いち銀行員が持ち歩くにしては多すぎる。

 これに注目した客がわっと吸い寄せられた。蟻が砂糖に群がるようだった。だが今となっては、ありきたりな光景だ。

「やめてください。みっともない」ハーベストが注意する。

 客達は金に夢中だった。なにも聞こえやしない。だが彼等は金の持ち主を、よく知っておくべきだった。慎重に、本当に慎重であるべきだった。

 落ちた大小無数のポンド硬貨、ペンス硬貨がひる返り、弾丸となって飛んだ。硬貨ひとつひとつが殺意をもって襲いかかる!

 ぎゃっ、と悲鳴が上がる。一番ゴトーの近くにいた男は喉を貫かれた。続けざま全身に硬貨が撃ち込まれる。スイスチーズみたいに穴だらけ。身体中から血飛沫をあげて倒れる。男は自らの血に溺れた。

 前代未聞の超常現象。金を盗もうとして、金に殺されたのだ。

「うわ」「あああ……」「きゃああああッ!」

 店内はパニックだ。嵐に呑まれたかのように騒然として、我先にと客が席を立った。混乱のあまり壁を突き破ってでも逃げるだろう。

「お前ら、黙れ」

 ハーベストが叫ぶ。大聖堂の鐘みたいな一喝だ。それだけで騒ぎが止んだ。凪のように店内が静まる。

「騒ぐようなことじゃありません。座ってください」

「全くその通り。品位と資産価値を落とす行為だ」ゴトーが応じた。

 ハーベストがゴトーへと振り向いた。灰色の瞳がゴトーを捉えて逃がさない。

 ゴトーはしたり顔だ。うんうん、と頷いてみせる。彼は冷静だった。だが理性は既に消滅しているだろう。

「代金を支払わずに逃げられたら困る。そうだろう?」

 ゴトーが一〇ポンド紙幣をカウンターに置いた。

「私は勿論、支払うよ」

 更にもう一枚、一〇ポンド紙幣を重ねる。 

「多めに受け取ってもらいたい。いやはや気にしないでくれ。立派なスコーンだった。ここで飲んで、食って、なんだか、もう、どうでもよくなった」

「お前が殺したのか?」

「私の金に勝手に触れようとしたんだ。即座に死ぬべきだ」

 ゴトーの表情に曇りひとつない。にんまり笑う唇が今にも裂けてしまいそう。今しがた穴だらけにした死体など見向きもしない。

 対してハーベストは陰鬱だった。クソッタレな世界を呪う。

 ハーベストがカウンターを越えてゴトーと対峙する。頭ひとつぶん背丈が違う。はためくダークコートの裏には、底なしの不吉が隠れている。

「店のルール、知ってますか?」

「いいえ」

 とぼけた銀行員のドテっ腹に蹴りを叩き込む!

「騒ぎを起こせばブチ殺す、ですよ」

 雄牛ですら悲鳴を上げる蹴りを受け、ゴトーは吹っ飛ばされた。店外へと強制退去だ。

 蹴飛ばされたゴトーは椅子やテーブルを散らし、ドアを叩き割った。路上で擦り潰れるほど転がった。

 喫茶店から五メートルも離れた場所で、ようやくゴトーは仰向けになっていた。



 ブチ抜いた扉から風が吹き込む。

 ハーベストは獣じみて敏捷びんしょうだった。誰もが彼を恐れるのは、暴力に迷いがないからだ。

 店主は蝋で固められたような客達に宣言する。

「迷惑かけましたね。珈琲のおかわりを保証します」

「「「いらねぇ!」」」全員が口を揃えた。

「今しばらく、店にいてください。一五分もすればオレンジパイが焼き上がる……。おごりますよ」

 ブーイングを投げつける客達に親指を立てる。この絶品を食べずして帰るなど許されない。

 店外を見る。まだゴトーが倒れていた。彼は空に向かって、首を傾げている。ハーベストに蹴飛ばされたことを不思議がっていた。見るからに健康だ。

「……アバラ骨を何本も砕いたつもりでしたが」ハーベストが眉をひそめる。

 サクサクのパイ生地を砕くように蹴り込んだのだ。けれどゴトーはピンピンしている。どっこいしょ、とのんびり立ち上がった。

 銀行員と喫茶店主が再び対峙する。

 ハーベストは蹴りつけた足裏を地面にこすりつける。悪寒がした。踏みつけてしまったガムを引きはがそうとするみたいだ。

 ゴトーを蹴飛ばしたとき違和感があった。肉を潰したり、骨を砕いたりといったものじゃない。もっと柔らかで分厚いものを蹴りつけた感触だ。

「なんにせよ……」

 ハーベストが指さす。

「君の分のオレンジパイはなしです」

「私も客なのに?」

「もう違います」

「きっちり金を払ったじゃないか」

 ゴトーは金のやりとりしか興味がない。金さえ払えば、何をしても許されると思っているのだろうか? 客を穴だらけにしたって構わないのか?

「金は全てを許す、と?」

「イエス。金こそが正義!」

 ゴトーは両手を広げて笑んだ。こんなに意気揚々と喋る男だっただろうか? 店に入ってきた時とは別人にみえる。

「金こそが全て!」

「違います。店の秩序こそが全てです」

 初冬の風が吹く。ハーベストのコートがはためいた。翼みたいに広がって、ハーベストをより巨きく見せる。純白のエプロンが鎧のように胴を締めつけていた。

「【PAWN】では僕こそが神です」

「傲慢な」

「客は自分で選ぶ」

「貴方の考えは、正義にもとる」

「僕が悪だと?」

「その通り! 私が正義で! 君が悪だッ!」

「君は深刻ですよ」

 ゴトーは絶頂している。高揚感に震えていた。心が身体を追い抜いている。茹で上がる思考は1か0だけ。心はポップコーンみたいに弾けんばかりだ。

「さっさと病院にいくことです」

「わわわ私は、病人じゃないッ!」

 ゴトーは激怒した。手にある硬貨を飛ばす。

 ハーベストは道角に逃げて、硬貨から逃れた。

 続けざま硬貨を指で弾く。弾く。弾く! 

 がりんがりん。店のレンガ壁を、【PAWN】の看板を、石床の路上を、鉄製の街灯を削っていく。

 ゴトーの硬貨は、弾丸というより砲弾だ。破壊力、速度、殺意、申し分なし。

 通りすがりの婦人に流れ弾が命中。太ももをコインが貫く。勢い余って脚ごと吹き飛ばした。鮮血の悲鳴に深倫敦ニュー・ロンドンがざわついた。

 パトカーのサイレン音がとうとう、すぐ傍まで来た。喫茶店の惨劇を聞きつけたのだ。警官隊が駆けつける。

(邪魔な連中が次から次へと……)

 ハーベストの唇が「へ」の字に曲がった。国家権力と関わりたくなかった。無神論者だが天を仰ぎたくなる。彼のセカイが侵犯される。あの“女”の影がちらついて胃がキリキリ絞めつけられた。

 警官隊がゴトーを取り囲む。パトカー越しに銃を向けた。ピストルどころかライフルやショットガン。果てはマシンガンまで持ちだしている。素手の人間への扱いじゃない。これからドラゴンでも狩りにいく気概だった。

「手を挙げろ!」迅速。

「うつ伏せになれ!」迷いなし。

「五秒以内だ!」無慈悲。

「五、四、三------」カウントダウン。

 三秒目で発砲した。流れ弾などしったことか。周囲の市民やハーベストなど構いなしに乱射した。

【不意打たれた弱者しか、「卑怯」なる言葉を知らない】風に吹かれてスローガン紙が飛んでいく。

 銃弾を胸にくらってゴトーが仰け反る。ポン、とポップコーンが弾けたみたいな音がした。けれど倒れない。スーツの隙間から潰れた弾丸がこぼれる。

 はらりはらり。破れたポンド紙幣が何十枚もスーツ奥から吐き出される。よく見れば弾丸も紙幣に包まれていた。

【全てに動じぬ強者を警戒しなさい。ソレは十中八九、病人なのだから】スローガン紙がひるがえって、はるか彼方に飛んでいく。

 続けざまの銃撃。ゴトーは撃たれる度に小突かれて揺れる。

 ポン、ポン、ポン! 潰れた弾丸と紙幣がセットで排出される。ゴトーの周囲に大量の紙幣が舞う。

 ただの紙幣では銃弾は止められない。大量の紙幣が折り重なり、弾丸を絡めとっているのだ。弾丸は紙幣でキャンデーみたいに包まれ、殺傷能力を奪われてしまう。

 しかし当然ながらスーツは穴だらけ。

「金も稼げない公僕共がァ!」ゴトーは激怒した。

「北イタリアの純ウールだぞ! いいいいくらしたと思っているッッ!」

 意味不明な叫びに、警官たちもたじろぐ。

「最初から血まみれのクセに、なにをいまさら……」

 道角で隠れていたハーベストが毒づく。

 今ならゴトーへの返り血も理解できる。銀行強盗を返り討ちにした結果なのだろう。

 ゴトーが腕を振る。袖下から硬貨や札束が次々と放たれる。

「ゴールドラッシュだ。あああ阿呆共がッ」

 硬貨の嵐を受け、パトカーが次々と吹き飛ぶ。

 ゴトーが両腕を広げた。幾億万枚もの紙幣が織られ、背中に接続される。彼は長大なマントを仕立て上げ全身を覆った。硬貨がバッチやボタンとなって、ゴトーのコスチュームを縫い留めていく。

「変身!」

 ヒーロースーツを纏った異常者が爆誕する。

「これより! 税金泥棒を成敗する!」



 轟、と街が揺れる。巨人が力いっぱい吠えたような音がした。大当たりを叩き出したスロットマシーンみたいに、ゴトー・ゴルドマンが大量の硬貨を発射する。金属と金属が衝突。かん高い擦過さっか音が響く。スーツのどこにそれだけ金を貯め込めるというのか? 物理的不可能な質量の貨幣をゴトーは放ち続ける。

「ぎゃああ!」「やめてくれ、死にたくない」「イタイイタイ……」

「おい!死ぬな!」「心臓マッサージはやくしろ!」「起きろ!起きろ!」「…………」阿鼻叫喚の死屍累々。

 ハーベストが警官隊を注視する。パトカー裏に見知った警官をみつけた。迷わず警官目がけて走った。

 ハーベストは警官をひとり捕まえてパトカーのドアに叩きつけた。片腕で首根っこを掴み上げる。

 二十代半ばの男だ。小麦色の短髪。刈り上げた横髪から冷汗を流している。このご時世、まっとうに職務をこなそうとする種類の人間だ。絶滅指定危惧種に認定されるべきだ。

「ご機嫌よう、ワトスン警部殿」

「ぐええ、首絞めるのやめろ怪力バカ野郎!」

「ここ、どこだか分かりますか?」

「戦場だが」

「僕の店先です」

「わーったから! 善良な市民様っ! 警官を絞め殺すな!」

 ハーベストが力を緩めると、ワトスンは地面にへたりこんんだ。無精ヒゲをさすりながら、にやりと見上げてくる。

「元気そうじゃねーの」

「おかげさまで」

「病人共に加えて、お前さんの相手だなんて、やっていられない」

「今のうちに労災申請しておくといいです」

「労災で済むか?」

「殉職二階級特進も夢じゃない」

「ふざけんな。軍隊じゃねーんだよ」

 ワトスンは立ち上がって、パトカー越しに覗き込む。警官たちの悲鳴をバックコーラスにゴトーが暴れている。彼は強く足踏みして、手足をめまぐるしく振り回している。世界の最果てで踊るかのよう。

「あああぁ! とんでもない防衛費だよ! これはっ!」ゴトーが吠える。

 ゴトーを囲って、紙幣が衛星みたいに周回する。撃ち込まれた大量の銃弾は紙幣に弾かれて快音を鳴らしている。

「そこのお前!」 

 コインを弾く。警官の頭蓋を撃ち抜き、脳味噌をぶちまける。

「バカスカ撃ち過ぎだぞ! 弾薬が勿体ないだろう! 税金はもっと大切に使え!」ゴトーが喚き散らす。

「金があればもっと世界を善くできる。恵まれないクソガキも哀れな老いぼれも救える。金は大事しなければならない。金を愛する俺こそが世界を救えるヒーローなんだ!」



「話にならない。もう“デキあがって”ます」ハーベストが溜息を吐く。

「はやく“ハッピーエンダー”を打ち込まねぇとな」ワトスンが鬱々と語った。

 ワトスンはゴトーについて教えてくれた。そもそも警官隊は銀行強盗じゃなく、ゴトーを追っていたのだ。彼が銀行強盗に襲われたのは事実だ。だが哀れな銀行強盗は返り討ちにあった。彼等はゴトーに虐殺されたのだ。

 ゴトーに正当防衛は適用されない。なぜなら男は特殊な病気だからだ。


英雄病ヒロイック・シンドローム


 しがない銀行員は最悪の病に罹っていた。三〇年前より広がった災厄のなれ果てである。

 


現代兵器の効かないゴトー相手に、警官隊は焦っていた。

ハーベストがワトスンから警官の経験を尋ねる。聞けば人を撃ち殺したこともない純潔ばかりだという。

「まっとう過ぎです」

「同感だが、人手不足なんだ」ワトスンは自嘲した。「こうも処女童貞ばかりだと、救世主サマが勃起しちまう」

「口が悪い……」

「ついでに俺も銃は得意じゃねぇ」

「警官なのに?」

「関係あるか? 銃なんて誰でも持てる。ティーセットより簡単に揃えられる」

「俺より上手い奴が、銃を撃てばいい」ワトスンはハーベストを指さした。

 ハーベストがイライラと足を鳴らす。

「僕がゴトーをやれと?」

「それが一番手っ取り早い」

 面倒な話だ。だがそうする他ない。ハーベストにしても時間が惜しい。店を空けたままだ。オーブンに放ったままのオレンジパイが心配でならない。

 つらりつらり。冷や汗が背中を伝う。全てを放りだしてオレンジパイを助け出したい。だけど店前にゴトーがいる。どうしたって倒す必要がある。

「あの小金持ちを黙らせます」

「 “倫敦ロンドン塔のカラス”が味方してくれるとは頼もしい」ワトスンが笑った。「ヒーローに効く必殺技とかあるんだろ?」

「そんな都合のイイものはない。コイツで十分です」

 ハーベストはコート裏から拳銃を取り出した。

「人は殺せば死しにます」

「ヒーローでも?」

「アレは、ただの病人です」

ハーベストに特殊能力なんてない。羨ましいと思ったことなんて一度もない。

「ゴトーを仕留めるには“隠し味”が必要です」

 ワトスンに作戦を伝えると渋面を返される。

「部下は嫌がるだろうな」

「汚職警官ばかりのクセに」

「そう言うなよ」

「今日くらい真面目に生きてください」

 ワトスンが周囲の警官達に協力をあおぐ。彼らは親指を逆さにしてブーイングを返した。頼もしいかぎりだ。

 ゴトーは理性が蒸発している。熱にうなされたように発狂し続けている。突如として発現した異能力に振り回されているのだ。もしも奴が異能力を自在に扱えるようになったら? ハーベストは想像もしたくない。

 大事なのはオレンジパイだけだ。状況は刻一刻を争う。



 ゴトーは両手を広げて周囲を眺めた。一掃してやった警官達の、なんと脆いことか!

 あとはもう、ひょっこり出てきたハーベストを残すだけだ。彼も銀行強盗と同じように金に不誠実だ。つまり悪党に決まっている。

「すぐズタズタにしてやる!」

 ゴトーは確信していた。金を上手く扱える者しか、金を手にすべきじゃない。正しく集め、正しく分配するべきだ。

 両手を見下ろす。じゃらじゃら。掌から止めどなく溢れる硬貨が誇らしくてたまらない。

 金のために、金のために、金のために。

 銀行は金を貸すところだ。毎朝毎晩、金を借りに来る人間ばかり相手にしたせいで、ゴトーの世界は金しかない。

 世界中の人間が金のために苦しんでいる。だから世界中の金の流れを掌握しなければならない。誰も貧しくない、誰もが富める世界を創れる。まずは手始めに一攫千金だ。この街のあらゆる金を手に入れる!

「私こそがヒーローだ! やってみせる!」

 ゴトーは吠える。こめかみが熱い。釘を打ちつけられたみたいだ。

「ヒーローはハッピーエンドになると決まっている!」

「妄言も大概にしてください」ハーベストが言った。

 ふとゴトーの周囲で煙が昇る。火薬の煙ではない。警官達がポンド札を燃やして掲げているのだ。ちろちろ燃える紙幣にゴトーがぎょっとした。

「何を燃やしているのか分かっているのか!? まさか自費なのか!?」

 ちょうど陽が沈んだ頃合い。夜景がオレンジ色に染まった。ポンド札の灯がゴトーを取り囲む。彼はオーブンでジリジリ焦がされるプディングのようだった。

「かかか金を粗末にするなッッ!」

 貨幣を武器に代える矛盾などおかまいなしに怒った。

 


 英雄病ヒロイック・シンドロームはウイルス性ではなく、脳の病気だとされている。侵された者は倒錯し、自分の感情を正義感とすり替える。

 病人は脳内でエンドルフィン等の報酬系物質を過剰に生産する。体内で覚せい剤をガンガン合成しているようなものだ。無限の高揚感に溶かされて、身体能力や反射神経が劇的に向上する。

 ペラペラおしゃべりになるのも病状のひとつだ。英雄ヒロイック細胞の急増によって天変地異のような異能力を手に入れる。

 時代が違えば彼らは本当の英雄や聖人として称えられていたかもしれない。だが今は、許されない病人として扱われるだけの話だ。



 ヒーローを相手にするコツは肉体でなく、心を砕いてやることだ。

 ゴトーが激怒している間に、ハーベストが拳銃を構える。六発の弾丸が弾倉へねじ込まれている。

 ありふれていて、なんの変哲もない凶器だ。だがグリップを握る心は一切迷いがない。ゴトーが邪魔で邪魔で仕方ない。さっさと撃ち倒して店に戻るのだ。オレンジパイを救い出さなければならない。

「十二分の憎悪を装填……」

「何をしている! 貴様ァ!」

 ゴトーの硬貨が発射される。ハーベストの額を掠めて血が吹き出すが、気にしない。ハーベストの殺意にゴトーの表情が引きつる。銅貨より固い正義感が揺らいだ。

 ハーベストが燃えた紙幣を左手に、右手の拳銃で照準を定める。

「私の前で金を粗末するなと──」

 ハーベストが弾丸を放つ。

 ゴトーは右太ももを撃ち抜かれた。唖然として膝をつく。動揺と怒りの隙間を不意撃たれた。これでもう動けない。避けられない。逃げられない。

「卑怯な!」

 ゴトーの激情に沿って、羽織っている紙幣マントが拡大した。波打つ天使の翼そっくりだが、見栄が良くなっただけだ。

「ヒーローはいつだって無意味です」

「まだ言うか!」

 口先はゴトーを侮蔑するために使う。そして一切、油断なくトリガーを引いた。

 弾丸がゴトーの胸に命中する! だが貫通しない。弾丸は防弾着じみた紙幣の鎧に絡めとられてしまう。そう何度も食らってはくれない。

「覚えておけ! 私は【守銭怒・ゴトー・ゴルドマン】!」

「名なんて訊いていませんが」

「あらゆる金を支配する男!」

 ゴトーが両掌をかざす。無から有を生むがごとく、硬貨の濁流を発射する。それは金属の津波。圧倒的質量による絶対的破壊!

「一億£超資本主義砲ゴールド・ラッシュ・アワー!」

 英雄病ヒロイック・シンドローム患者は必殺技を叫ぶ。敵は無言のまま、さっさと撃ち殺すべきだ。ハーベストは速やかに発砲した。

 常勝無敗の必殺技とちっぽけな一一・五ミリ弾が衝突する。暴風雨にタンポポの種を飛ばすように無謀な対決。

 ハーベストに勝ち目はない。弾丸もろとも彼を硬質な大波濤はとうで圧し潰す!

 雪崩のような一面制圧! しかしハーベストは跳躍して回避した。ダークコートがひるがえり、影が目まぐるしく踊った。ハッとしてゴトーが男を見上げる。

「デカい図体で、すばしっこいな!」

「大きいからこそ迅いんです」

 ゴトーは焦っている。ゆえに力む。攻撃は大振りで直情的になる。ヒーローは喧嘩慣れしていないのだ。

 だからハーベストは先手を打ち続ける。左手に握ったソレを投げつける。燃える紙幣に照らされてキラキラ光る幾つもの黄金のカケラだった。

「金貨か?」ゴトーが反応した。

 十数枚もの金貨を投げつけて、また動揺を誘おうというのか?

「ああああ甘い、甘すぎるぞぉ!」

「よく言われます」

 ゴトーの病状は金を生み出すことだけじゃない。通貨を自在に操作することもできる。金貨もまた通貨のひとつ。例外ではない。

 金貨ならば、逆に操って投げ返すこともできる。この金貨でハーベストの額に風穴を穿ってやる。

 しかしゴトーの思惑とは裏腹に、金貨は操作できなかった。

 ゴトーが面食らって硬直してしまう。金貨を浴びるように受けて、ひるむ。

「バカな!」

 ハーベストは隙を見逃さない。すぐに二発目を撃ち込む。ゴトーのどてっ腹に穴が開く。致命的だ。散らばる硬貨。舞い散る紙幣。粘つくような血飛沫。

 ハーベストがすぐ前に立っていた。

「ヒーローなんてチョコにも敵わない」

 ハーベストが金貨を齧ってみせた。パキリ。子気味良い音が響く。金ぴかの包装ごとソレを食い破ってみせる。柔らかいブラウンの断面が覗いた。ゴトーが言ったとおり、ソレは甘い。チョコレート金貨は喫茶店でも使う小細工だ。

 夕暮れ時で見えにくかった? あるいは金に目が眩んでしまった? なんにせよ子馬鹿にしている。

 ゴトーは脚と腹を撃ち抜かれて、それでも仁王立ちのままだ。まるで神話の英雄。敗北を知らぬとでも言いたげだ。

 ハーベストは吐き気がした。うんざりするほど見慣れた光景だ。無意味に誇らしげ。連中はどこまでもヒーローらしい。

 さらりさらり。ゴトーの長大なマントが崩壊する。大量のポンド硬貨が泣き出したみたいに散らばった。能力の消失。それは病状を抑え込めたということだ。

 ハーベストが拳銃を胸のホルスターに収める。ポケットへ手を突っ込むと、取り出した紙幣と小銭をゴトーの顔面に叩きつけた。

「釣り銭です。そんなに金が大事なら、しっかり受け取ってください」

 ゴトーをノックアウトして、彼は小走りで店に戻って行った。

「おい、コイツどうすんだよ!」ワトスンが呼んだ。

「僕の知ったことじゃありません」

 警部がなにやら叫んでいるが、どうでもいい。オレンジパイが助けを待っている。



「待っていろ、と言いつけた筈ですが」

 ハーベストが帰ると、店はもぬけの殻だった。客はケツをまくって逃げていた。テーブル上に代金だけが置かれている。残っているのはカラスだけ……。

 オレンジパイは丁度よく焼き上がっていた。この逸品を放っておくのは許されない。ハーベストが独りで上出来のパイを食べるほかない。

 痺れるような柑橘かんきつの香りと、ふんわりクリームが手を取り合って踊っている。リズムを刻むようにサクサク生地を前歯で割る。

 童話の世界に手を引かれていく気がした。赤毛の少女が、愛らしいリスや兎と一緒にお菓子を食べる。オレンジパイはその立役者にぴったりだ。

 だけど現実は違う。火薬臭い大男がひとりオレンジパイを齧るだけ。

 がぁがぁ。鴉達がエモノをねだった。

 床には死体が転がっている。ゴトーの置き土産だ。さっさと片付けなければ鴉に食い散らかされるだろう。

「トーマス・アーチャー」

 殺された者の名を呟く。客の顔と名前は皆覚えている。

 過去三〇年で世界は変貌した。深倫敦ニュー・ロンドンは救いようがない。カビの生えたコーヒーのような街だ。海の向こうは正義を叫ぶ病人ばかり。

 だけどハーベストには関係ない。彼は自分の世界を守るだけだ。

 カラスが鳴きわめく。「こっちを向け。死体は不味い。そのオレンジパイを寄越せ」と言っている。

 カラスにオレンジパイをひと切れくれてやる。

「物分かりの良い畜生ですよ」ハーベストは独りごちた。

 


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