第三章 出来損ないのクッキーは何度焼かれても変わらない
1
カフェテリア【PAWN】の土曜日は退屈だ。
昼飯時を過ぎた頃合い。店内はがらがら。ワトスン警部はカウンターでハーベストと向き合っていた。
「いつにも増して客がいねーな」
「カラスなら大勢います」
「鳥畜生は嫌いだ」
ハーベストが鶏ガラを放ってやる。ばたばた、ばたばた。カラスが我先にと群がる。
「店内で餌付けするな。衛生管理的に問題だろ?」
「ノー・プロブレム。私が法ですよ」
「わかった。お前は甘い物だけ考えてろ」
信じがたいことに、この警官は甘い物が大嫌い。【PAWN】ではブラックコーヒーしか頼まない。警官といえば、でっぷり膨らんだ腹にドーナッツを詰めるのが仕事だというのに。
ハーベストがコーヒーを出すと、ワトスンが神妙な面持ちですする。
「留置所のコーヒーだって、もっとマシだろうな」
酷評。
ハーベストの菓子作りは一流だ。けれど普通の料理やコーヒーはまるで駄目だ。苦味、酸味、コク等を軽視して、甘さだけを頑なに信仰している。
ハーベストは英雄狩りとしては一流だが、料理人としては三流以下なのだ
「麻薬入りのコーヒーでも淹れたら満足ですか?」
「やめろよ【ザ・チューブ】じゃあるまいし」
ワトスンは名探偵さながらに推理する。カフェテリアが火の車なのは、お菓子ばかりの偏ったメニューだからだ。店主が子供舌だからだ、と。
「こんな店、ガキにしか好かれねぇよ」
「十分です」
ハーベストは空き時間を利用して、新作の焼き菓子を作っていた。ワトスンは好きでもないくせに「くれよくれよ」とうるさい。
「俺は不味さに耐性があるんだ」
「例えば?」
「おふくろのメシとか」
「僕に親はいませんが、かなり失礼では?」
「お前さんも、あの脂ギトギトのフィッシュ&チップスを食えばわかる」
「そんなに嫌なら、ジャパン製の冷凍食品を勧めたらいい。食に困りませんよ」
「違いねぇ」
ふとワトスンは周囲を伺う。今は他に客が数人いるだけだ。
彼は前のめりになって、そっと話を持ちかけた。
この男は、いつだって厄介事を持ち込む。そしてハーベスト自身、厄介ごとに相性が良過ぎる。クッキーがミルクに溶け込むような自然さで、トラブルと出会ってしまう。
ワトスンは複数枚の写真をテーブルへ滑らせた。どれも警察官の惨殺死体の写真だ。五日前からの連続殺人事件で三人の警官が殉職したという。
彼等は汚職の最中に殺された。模範的市民ならば喜びこそすれ、悲しむことはない。
ひとりはマフィアに取り入り、酒をたらふく飲んだ帰りだった。
ひとりはドラッグ輸送にパトカーを乗り回していた。
ひとりは囚人の脱獄を手引きしていた。
だが汚職警官であろうと、警官は警官だ。ワトスンは警官殺しの捜査班に投げ込まれて、四苦八苦しているという。
「市民を助けるならともかく。身内の恥を探らねばならんとはなぁ」
「お悔やみを申し上げます」
「思ってもねーことを口にすんな」
「ソレはソレとして写真、片づけますね」
「あ、バカヤロ! 破くな! 捨てるな」
「ここは食事を置くテーブルですよ。ゴミはいらない」
「捜査資料なんだよ! ゴミじゃねーって!」
ワトスンは咳払いして、シワだらけの写真を取り上げる。
「で、写真見て何かわかるか?」
「ロクに見てもいません」
「嘘つけ。お前は目が良い。知ってんだぜ」
「……」
「頼むぜ。コーヒーおかわりするからよう」
ハーベストは写真を思い起こす。
凄惨な光景だった。彼等は体を限界まで捻じ曲げて、転がっている。絞り切った雑巾みたいだ。目を剥いて、舌を突き出した苦悶の顏。喉奥から泥でも吐き出そうとしているみたいだ。そして肌は黄色に
ワトスンは一番気になることを尋ねた。
「病人共の仕業か?」
「十中八九そうです」
「“倫敦塔の鴉”が言うんなら間違いねぇ」
「不甲斐ない警察ですね」
ワトスンはシャツをまくって、備え付けのホルスターを見せつける。
「こんな重たいもの、持ち歩きたくもねぇのさ」
「君は銃がヘタクソ過ぎる」
おかわりのコーヒーに、ワトスンが塩を振った。
「無粋な真似を……」
「うるせぇ。不味すぎるんだよ。お前の珈琲はぁ」
「毒は盛っていませんが」
「いーや毒入りだね。心を蝕むタイプの……」
ハーベストは「毒入り」という言葉を舌の上で転がす。写真について何か思い当たったのか、口をへの字に曲げる。ひどく苦い物を舐めたみたいな表情だ。
警察官たちの惨殺死体……昔、似た症例を見たことがある。ヒーロー狩りの経験はそのままヒーローパワーの知識に繋がる。
写真を思い起こす。犯人は海外からの病人だろうか? ゴトーがそうであったように、病人共は
「最大で……三体の死骸に、四種の血液型……」
「なんだよ、それ」
「現場に残る血を全て調べてください」
「説明くらいしろよな」
「数が合わない、ということです。のんびりしていたら、次の死人が出る」
「待てよ。コーヒーでも飲みつつ、じっくり」
「ほら、おかわりです」
「はやっ!」
ワトスンは追い出されるように、席を後にした。
「カップは、また返しにくる」
「結構です。家宝にしてください」
「サンキュー。ゴミの日に出しとく」
お互いに中指を立てて見送る。
調べろとは言ったが、鑑識結果が出るまで時間がかかるだろう。
いまどき殺人事件など珍しくもない。ティータイム中に誰かしらがブッ飛ぶ。だから鑑識官は年中無休の大忙しだ。一日四〇時間勤務するために、特製ハーブをこしらえているという噂だ。ワトスン曰く、「鑑識ほどハッピーな職場はない」だ。
2
ワトスンが喫茶店を出ていく。りんりん、りんりん。ドア鈴の余韻をたっぷり味わってから、ハーベストは店奥を睨んだ。
ワトスン以外に二人の客がいた。男女のカップル。弾けるようなティーンエイジャーだ。どちらも日本の学生服を着ている。
なにやら熱く語る少年に、聞いているのか聞いていないのか、少女が適当に頷いている。
少女はチョコレートソースのようなマニキュアを塗ることに夢中だ。
少女は車椅子に座っていた。だけど足をばたつかせているから、まったく歩けないわけじゃないだろう。虚弱なだけかもしれない。けれどミニスカートで、スパッツもせず生足を晒している。もうじき冬を迎えるのに、ひどく寒そうだ。
床に放り出された新聞紙が目につく。【ザ・ニューロンドン・タイムズ】にプロパガンダがデカデカと掲載されている。
【子供であることは弱さじゃない。むしろ正義感を燃やす薪となる。
若さは一万丁の
カップルがカウンターバーに移動してきた。やぁやぁご機嫌よう、といった具合だ。
「お兄さんのケーキ。すっごく美味しかったよ」
「まっとうな舌です。大切にしてください」
少年が少女を押しのけて、
「お前は黙ってろよ」
「だってダーリン、おいしースイーツこそ世界を救うのよ」
「もう一度言うぜ。まず俺に話をさせてくれ」
少年は自らを指さし、
「俺は
それから少女を指す。
「こいつは
「そうですか」
「すんげー興味なさそうだな! お前も名乗るんだよ!」
厄介ごとに絡まれた、とハーベストは辟易した。
「あんた、日本語いけるクチか?」
「……仕事上、日本人を相手にすることも多いですから」
カフェテリアの店主としてではなく、英雄病の狩人としてだが……。
鬼太郎は学ランの下、Tシャツを着ていた。「V」の文字がでかでかとプリントされていた。ハーベストの視線に気づいてか、鬼太郎は親指で胸を指し示す。
「随分と自慢げですね」
「おうよ」
「vulgar(下品)のVなのかと」
「あ? 喧嘩売ってんのか? もっとイカしてるヤツに決まってんだろ」
「vampire(吸血鬼)とか?」
「吸血鬼は悪党だから、その『V』は認めないぜ」
「なんでもいいです。クイズごっこは趣味ではないので」
「ヒントをやるぜ。『V』から始まるワードはカッコいいんだぜ」
一方的な少年だ。知能の差はあれど、ユーリ・ノワールと似ている。
日本人に英語の何たるかを説かれて、ハーベストはうんざりした。そもそも鬼太郎の台詞は、受け売り臭い。
文字に意義なんてない。意思を伝える記号であって、信号に過ぎない。たまたまイギリス人は二六文字のアルファベットを組み合わせて喋っているだけだ。
ハーベストは創作物を信じない。小説、漫画、映画、音楽……そういったものに近寄ろうとも思わない。音楽は空気の振動に過ぎず、色彩は光の反射に過ぎない。感動は脳神経のシナプス反応でしかない。芸術や創作物とは脳味噌の戯れだ。だけど、世界はそうじゃない。文字や絵や音に意味があるからこそ、世界は英雄病に襲われている。
ここは夢想が現実を凌駕した世界。
ハーベストの主張は淡白なようで、ただの願望に過ぎない。
台所で食器を洗う。ばしゃりばしゃり。水飛沫きの音が、遠くなった気がした。水滴が粘るように落ちる。
ひゆう。鬼太郎が口笛を鳴らす。挑発的な少年だ。周囲の鴉が目障りそうに睨む。ハーベストが彼等の正体を暴いてやる。
「君たちは病んでいる」
「へぇ、なぜ分かった?」
「ハッタリです。自分で答えていては世話がない」
「あ?」
鬼太郎は理解できず、押し黙った。
ただカマを掛けただけだ。まっとうな人間ならば気づく嘘。しかしヒーロー気取りには、あっさり通用してしまう。彼等の心は硬すぎて脆すぎる。まるでダイヤモンドだ。
嘘=悪とする感染者も多い。自分に正直なのは、病人なりの美徳だ。転じて他人の嘘への耐性もない。
だがハーベストも、まるっきり堪で尋ねていない。【PAWN】は常連客ばかりだし、そもそも客が少ない。彼は店に来た客の顔を一人残らず覚えている。見知らぬ客が来たときは、いつも尋ねている。「病んでいるのか?」と。単純な習慣だ。だけど何も知らない外国人には効果てきめんだ。ゴトーが来た時はそんな余裕もなかった。だけど今回は幸運にも尋ねることができた。
そしてハーベストのハッタリは不幸にも的中してしまった。
鬼太郎と芽有が顔を見合わせる。
カマをかけられたと気づいて、少女が少年の背をひっぱたく。本当は頭を叩いてやりたかったが、車椅子の身では無理だ。
「バッカじゃないの!」
「痛ッてぇ!」
あまりに勢い良くビンタしたものだから、叩いた側の芽有が勢い余って倒れそうになる。
「あぶねぇなぁ」
車椅子から落ちる寸前で、鬼太郎が救い上げた。
「気をつけろよ。お前だけの体じゃないんだぜ」
「う、うん……」
鬼太郎が芽有の頬にそっとキスをする。野花を愛でるような、柔らかな仕草だ。
芽有は何も言えなかった。うっとりと頬が熱を持ち、小さく震えた。まるで映画のワンシーンだ。あまりの惚気に、ハーベストの方が卒倒したくなる。
「話を戻しても?」
「あと五分待て。今イイところなんだぜ」
「君たちが英雄病だなんて、分かり切っています」
「待てって言ったろうが……。無粋なんだぜ」
彼等と話していて、ハーベストは嫌な予感に襲われていた。
(病人にしては理性があり過ぎる……)
ただ会話をしていたわけじゃない。ハーベストは“測っていた”のだ。
頭が回る英雄病感染者だ。能力の扱いに慣れている証拠でもある。ゴトー・ゴルドマンは明らかに自分の能力に溺れていた。
(このカップル、危険極まる)
ハーベストは確信した。ワトスンを逃がしておいて正解だった。これは警官ひとりで解決できる問題じゃない。ハーベストの経験がそう告げている。
ワトスンは警官のくせに察しが悪い。そんなだから都市随一の名探偵と喧嘩ばかりするのだ。むしろ察しの悪さのおかげで惨事に巻き込まれず、生きてこられたのだろう。ダメ警官にはダメ警官なりの才能があるのだ。
ハーベストはふと思う。我ながら、なぜワトスンを助けてやったのだろうか、と。
答えが見つからない。彼とは特別親しくもない。崖に落ちそうな人間につい手を伸ばしてしまう感覚だ。それで奈落の底まで引きずり降ろされる可能性があるというだけ……。
(僕は善人じゃない筈ですが……)
無性にワトソンへ苛立つ。次のコーヒーはうんと苦くしてやろうと決める。
店のカラス達はカップルに近づかない。彼等は危機察知能力に優れている。がぁがぁ、がぁがぁ。店のドアを突いて外に出たがるカラスばかり。だから窓を開けて逃がしてやる。
羽ばたいて去るカラスを眺めながら、カップルをどうしてやろうか考える。
なんにせよ争わずに済むのなら、それがベストだ。店を鉄火場に変えたくない。
カップルの片割れ、芽有の異常にも気付いていたから尋ねる。
「車椅子の君……具合が悪そうだ。救急車でも呼びますか?」
芽有は貧血を起こしたみたいに顔面蒼白だった。眼の焦点が定まっていない。カタカタと顎が踊り出している。
「……大丈夫よ。水をちょうだい」
鬼太郎はなにか言いたげに芽有を見るが、彼女はそれを無視した。
ハーベストは水をくれてやる。ついでに焼き上げた【ラ・フランスのマフィン】をふるまう。昨日、フランス北部の洋梨を仕入れたのだ。透き通るような甘みに魅了されることだろう。
「新作です。食べてみてください」
「毒を盛ったんじゃねーだろうな?」
「あり得ない。次言ったら殺しますよ」
芽有は迷わず飛びついた。
「ヤッタ!」
「味の分かる
「さっすが、紳士の国ね!」
二人にマフィンが与えられた。少女は吸い寄せられるように、少年は渋々と食べ始める。
「何をしにここへ?」
カップルは揃って答える。
「スイーツよ」
「報復だぜ。決まってんだろ」
二人は互いに指差し、
「バッカヤロウ!お前は何も分かってないぜ!」「バカはダーリンよ! ていうかヤロウじゃない!」「うるせぇ、芽有はいっつもそうだ」「旅は楽しむものなの」「これは旅じゃねぇ!戦いだ!」「ダーリンはそんなんだからダーリンなのよ」「理屈で話せ!」
惚気たり喧嘩したり忙しい連中だ。ハーベストが口を挟む隙も無い。
「ああ!もう! 面倒くせぇ!」
鬼太郎が机を叩いて、ハーベストを睨みつける。
「俺はゴトー・ゴルドマンの復讐に来てやったんだぜ!」
「復讐されるいわれはありませんが?」
「奴を病院送りにした。改造しただろうがっ」
「 “改造”ではなく“治療”です」
「詭弁だぜ」
治療にしたってハーベストの知ったことではない。入ってきた病人を始末しただけだ。
カップルはゴトーの仲間らしい。ハーベストは彼らをじっと観察した。
日本とイギリスの間に国交はない。だからゴトーと共にアメリカから来たのだろう。
アメリカと日本。二大英雄病発生地であり、世にも迷惑なヒーロー輸出国だ。日本人がアメリカ経由でイギリスに来ることも珍しくない。
「単刀直入に言うぜ。最高指導者を呼べ。そうしたら助けてやる」
「チンピラですね」
「俺は本気だぜ」
少年は生クリームをつけた口でハーベストを脅す。
彼の求める最高指導者とは【帝国元帥兼終身独裁官ユーリ・ノワール】を指している。
王族は政治から離れて久しい。パンデミック以後、
鬼太郎はちらと喫茶店を見回す。
「この店はカラスが多い」
「餌を与えてたら、勝手に増えたんですよ」
「そりゃそうだぜ。『九朗』もそう思うよな? 窮屈だよな?」
少年はバケツにあった鶏ガラを放ってやる。
「アイツが一番小さくて、守ってやりたくなるんだぜ」
芽有がクスリと笑った。
「『九朗』と『苦労人』を掛けてるんでしょ。アタシ知ってる」
「俺は弱者の味方なんだぜ」
ハーベストは呆れた。
「勝手に名前をつけないでください」
「なんだよ。元から名前があるのか?」
「名前なんていりません。無名で生きられたら、そんな幸せなことはない」
それに、とハーベストは付け加える。
「九朗(crow)はカラスを意味します。カラスにカラスと名付ける馬鹿がいますか」
「誰が馬鹿だッ!」
「うっさい! 耳元で大声出すなバカ!」
また芽有に鬼太郎がぶたれる。
少女はじっとハーベストを品定めするみたいに見てから、そっと呟いた。
「でもさ。お兄さん、強そうね」
「よせよ。俺のほうが強いぜ」
すかさず鬼太郎が口をはさむ。負けず嫌いらしい。
「強い弱いだとか、勝った負けたとか、ヒーローはそんなことばかり気にしますね」
もっと大事なことがある筈だ、と珈琲を出してやる。カップルは目もくれない。まだまだ子供舌なのだろうか? あるいは本能的にハーベストの淹れる珈琲を警戒しているのか?
「もう一度言うぜ。ユーリ・ノワールを出せ」
「随分とアレにご執心ですね」
「独裁官は卑怯者だ」
鬼太郎は拳を握る。
「ヒーローをとっ捕まえて“ハッピーエンダー”を打ち込んで、それで終いだ。正義の屠殺。それが独裁官のやっていることだぜ」
少年は糾弾を続ける。
「奴は孤児院に、あえて住むことで身の安全を図っている。子供を盾にしながらヒーローを迫害してんだよ」
「なるほど。子供は巻き込めないんですね」
「俺の正義に反するぜ」
「馬鹿のくせに正義を語るんですか?」
「馬鹿でも嘘は吐かないぜ」
鬼太郎が顎を突き出す。
「俺は嘘が嫌いだ。特に----」
「はいはい。わかったわよ正直バカ」
うんざり、と芽有が話を遮る。
鬼太郎にとっては嘘=悪なのだろう。コミック主人公のような正義漢だ。
「そもそも」
ハーベストは溜息交じりに続けた。
「僕にユーリを動かす権限はないし、能力もないです」
「連絡は取れるだろうが。信用されてんだろ? 知ってんだぜ」
「そんなもの、信用の証にはならない」
ここまで言っても鬼太郎は納得しない。
「ふん。粘るじゃねーの。卑怯者に手を貸す卑怯者ってか?」
「なんとでも、どうぞ」
交渉決裂。
「そんじゃ。こっちにも考えがあるぜ」
鬼太郎が本を取り出した、一冊のコミック……。ハーベストの背に怖気が走る。咄嗟に銃を抜こうとして……迷った。
「【ライアー・スレイヤー】。俺の愛読書だぜ」
ハーベストは目を背け、咄嗟にコミックを払いのけた。大きな隙だ。一瞬にして絶望的な隙だ。ハーベストの額に指が突き付けられた。人差し指と親指を立てて、銃に見立てている。
「これがヒーローの強さってやつだぜ」
鬼太郎は余裕の笑み。既に鬼太郎の能力の範囲内に入ってしまったのだろう。
「バキューン」
キスするみたいに唇を突き出して、芽有が言った。
(迂闊ですね……)
自らの油断を恥じる。けれどハーベストはどれだけ肉薄されても、銃を抜いて相手の眉間に撃ち込む自信があった。だけど抜かない。
ハーベストにとって、この店が全てだ。病人をこの店で暴れさせたくない。このカップルは厄介だ。ゴトーのように簡単にはいかないだろう。たとえ勝ったとしても、店そのものが吹き飛んでしまいかねない。
深刻な英雄病患者とは、人のカタチをした時限爆弾のようなもの。慎重に扱わなければならない。
何の抵抗も示さないハーベストに、鬼太郎は肩透かしを食らった気分になる。
「俺は血液を自在に操るヒーロー! お前なんてイチコロだぜ」
「深刻ですね。病院に行った方が良いですよ」
「ベルトの銃は飾りか?」
「銃は抜きません」
「なんだよそれ」
「君達はいつも店を汚す。僕まで一緒になって汚したくない」
「その傲慢さが。命取りになるぜ」
ハーベストと鬼太郎がじっと睨みあう。
異変が起きた。
数秒と経たないうちに眩暈に襲われる。ハーベストは立っていられなくなった。体中が震えて、まともに喋られない。がくんと膝が落ちた。反転した視界に地面に迫る。
どしゃり。泥人形が崩れるように、ハーベストは倒れていた。自分より背の低い少年を見上げている。視界が真っ赤に染まる。自分の血じゃない。鬼太郎の血が人差し指から滴り落ちて、ハーベストの顔面を覆っていた。
これが鬼太郎の病状。
「壊血式・大紅蓮逆流血葬」
ハーベストは気を失って倒れた。意識が鉛となって深海に沈む。
ひどく寒い。吹雪のなか、全裸で転がされているみたいだ。
全身の筋肉と内臓がひきつけを起こした。脳みそはミキサーで滅茶苦茶にかき混ぜられた気分だ。
ハーベストは意識の淵で考える。この暗黒はいつ終わるのだろう? もう楽にしてくれ。生き返ったところで、世界がどこまでも暗黒なことに変わりないだろう?
「ねぇダーリン、このお兄さんまで殺すの? 独裁者に私たちの存在を知らしめないと……」
「お前は優しい奴だぜ」
「今……だけは……あげよーよ」
カップルが会話している。近いけれど遠い。ブ厚いガラス越しの出来事のようだ。
鴉がハーベストの周囲にたむろしている。死んだら、ついばんでやろう、とでも考えているのか。
ハーベストはいつも試されている気分だった。誰かに観察されているような、あるいは品定めされているような……。そんな気がしていた。
ここは悪が住まう最後の都市。焦げついたカラメルと酸っぱく濁ったミルクセーキのセカイ。まっとうに死ねると思うな。
僕の最後なんてこんなものだ。
鳥に葬られるのも悪くない。
そうハーベストは納得した。
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