「ぼく」の魅力

 猫目孔雀さんの作品に出てくる「ぼく」は、「ぼく」という感じがすごくする。
「俺」でも、ビジネス仕様の「わたし」でもない、「ぼく」。
 十代の素朴さを残して大人になったような、見栄も卑屈も無理もない、安定した精神をもった男の子。もとい男性だ。

 その「ぼく」は、たいてい、ちょっと跳ねっかえりの少し困ったところのある女の子を好きになる。そして本編の「ぼく」のように、主夫業がものすごく似合うのだ。主夫といってもしゃかりきにやっている風ではない。好きな女の子に尽くし過ぎることもない。過剰も不足もなく、自然体でただそこにいる。

 「ぼく」は、女の子の乱雑な部屋を見た時にも引かない。いや引いているのだが、それで嫌いになるということはない。「か、片づけてあげたい……」とひそかに想ってしまうのだろう。誰かに知られたら恥ずかしいと想う女の子の気持ちもよく分かり、もちろん誰にも汚部屋であることを洩らしたりはしない。

 ヒロインの方も、隣りにいる飾らない人柄の「ぼく」を好きになる。跳びはねているような女の子は、たとえ見かけは頼りなさそうでも、常に穏やかで気分の浮き沈みのないお地蔵さんのような男性のことを好きになるものなのだ。

 猫目孔雀作品に出てくる「ぼく」は五段階評価でオール3のような人だ。1から5までが乱雑に通知表に入り混じっている個性的な女の子を連れて、いつも素直に物語の中を進んでいく。
 女の子はふと気づく。オール3が4になってない? そしてわたしにとっては、この人がオール5だわ。

 考えてみて欲しい。オール3の男性の得がたさを。
 「ぼく」のような人はいるようでいない。女の子に向かって怒声を上げることも号泣することもない。常に中庸で、その安定感でしっかり周囲の人たちを支えてくれるのだ。なんともふしぎな存在ではないだろうか。
 
『僕はこの夏、少女漫画家、翡翠ルビィ先生の家へアシスタントに行く事になった。』こちらの作品の「ぼく」も、相変わらず「ぼく」だった。鉱物の名がいたずら心で仕込まれたキャラクターの中にあって、「ぼく」はやはり没個性のまま抜群の安定感を放っている。

 もしこんな主役を書こうとしても、書ける人はいないだろう。
 読者は全員一致で賛同してくれるだろうが、「ぼく」に猫目孔雀さんの人柄が反映されていることは云うまでもない。